三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

増田俊也『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』

2019年06月14日 | 

増田俊也『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』は701ページ、2段組の分厚い本ですが、面白さにクイクイと読んでしまいました。
またまたお金について。(カッコは現在の金額)
https://westegg.com/inflation/

昭和26年、ハワイでの柔道大会で木村政彦に勝てば500ドル(4,889.07ドル)の賞金が与えられた。
入場料は1ドル(9.78ドル)席と2ドル席。
1ドルが3000円程度とすると、500ドルは200万円弱だと増田俊也氏は書いています。

木村政彦のサンフランシスコでのファイトマネーは1試合500ドルだった。
入場料は6ドル。
日本円だと18万円で、大卒初任給から換算すると、現在の300万円ぐらいと増田俊也氏は計算します。

昭和30年、勤労者世帯実収入(月)2万9000円、国家公務員初任給8700円、大卒初任給1万1000円、大工手間賃(1日)560円。
平成27年、勤労者世帯実収入(月)52万6000円、国家公務員初任給18万1200円、大卒初任給20万円、大工手間賃(1日)1万9000円。
http://sirakawa.b.la9.jp/Coin/J077.htm
だいたい現在の20倍。

9.78ドルは、1ドル100円として、約1000円。
しかし、当時は1ドル360円ですから、20倍すると1ドルが現在の7200円になります。
1試合500ドル×360円×20=360万円
円安のおかげで、日本は輸出で稼ぎ、日本人がアメリカに出稼ぎして家を建てることができたわけです。

木村政彦は結核になった妻のためにストレプトマイシンを買っては送っていた。
値段は1グラム入り10個で9ドル(88.00ドル)。
そのころ明治製菓が売り出した硫酸ストレプトマイシン明治の製品説明書には、通常成人1日1gを筋肉注射し、はじめの1~3ヵ月は毎日、その後週2日投与するとある。
200g必要だから、1800ドル。
1ドル360円なので、当時の金額は38万8800円。

昭和27年、力道山は手紙に、ホノルルでのプロレスの試合は、リングサイドが2ドル50セント、一般席が1ドル(9.57ドル)と書いている。
選手は1人が平均250ドルもらう。

力道山はハワイで稼いだ金でジャガーを5000ドル(47,838.26ドル)で購入した。
増田俊也氏は、現在の日本円に換算すると3000万円ぐらいと書いています。

それからアメリカ本土に渡るが、力道山のファイトマネーは1試合300ドル(2,870.30ドル)。
木村政彦の500ドルよりも少なかった。

昭和28年、力道山がプロレスの団体を立ち上げるために、興行師の永田貞雄は自分の持つ築地の料亭を1800万円で売り払って資金調達した。
現在なら数十億円相当とのこと。

木村政彦は、力道山とタッグを組んで全国を回ってほしいと頼まれ、1試合10万円のファイトマネーを要求した。
東富士の年収が113万円、千代の山が99万円。

昭和29年、力道山はシャープ兄弟と1人1試合7万円で話をつけた。
200ドルとして、現在の金額は10倍の2000ドル、日本円にして20万円強。

プロレスのテレビ放映権料は、日本テレビが17万円、NHKが25万円で契約した。
どちらもシリーズ放映権料で、1日の値段ではない。

木村政彦・力道山vsシャープ兄弟の試合では、二日目にはリングサイド券に1万円の闇値がついた。
そして、木村政彦と力道山の試合はリングサイドA席が2千円で、そのチケットをダフ屋は2万円でさばいた。

昭和30年、木村政彦と力道山が手打ちをすることになり、木村政彦の怪我の見舞金という名目の手打ち金が300万円。
手打ち式に力道山は手付けとして50万円を持ってきた。

その金額を20倍すると、木村対力道山戦の2万円は現在の40万円、手打ち金300万円は6000万円、50万円は1000万円ということになります。
ほんまかいなという大金です。
八百長試合をするという木村政彦との約束を破ったことを力道山が認めたからこそ、これほどの手打ち金を承知したわけでしょう。

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A・スコット・バーグ『名編集者パーキンズ』

2019年06月08日 | 

フィッツジェラルドやヘミングウェイを発掘したスクリブナー社のパーキンズの評伝。
フィッツジェラルドの原稿料や収入の金額が載っています。(カッコは2018年に換算した金額)
https://westegg.com/inflation/

1919年、何篇かの短編を1編40ドル(588.59ドル)で売った。
1ドル100円として換算すると約6万円です。

1920年、『楽園のこちら側』が出版された。
フィッツジェラルドの収入は、1919年の879ドル(12,934.33ドル)から1920年の1万8850ドル(239,528.92ドル)に急増した。
2千万円超ということになります。
ところが、妻のゼルダのために新しいコートを買いたいので1500ドル(19,060.66ドル)をパーキンズに都合してくれと頼んだ。
銀行から金を借りていたが、ほかにも6000ドル(76,242.63ドル)相当の請求書が未払いのままだった。
夫婦そろって金遣いが荒かったわけです。
1920年末までに、『楽園のこちら側』の印税として約5000ドル(63,535.52ドル)を受け取っていた。

1921年、ヨーロッパに行く船の切符を買うのに600ドル(8,537.81ドル)が必要だとパーキンズに告げる。

1923年には3万ドル(447,537.09ドル)の収入があり、前年より5000ドル(74,589.52ドル)多かった。
4千万円以上です。
しかし、スクリブナー社には数千ドルの借金があった。
銀行に650ドル(9,696.64ドル)振り込まないと、家具を質入れする羽目になると、パーキンズに頼んでいる。

1924年に出版された『偉大なるギャツビー』の定価は2ドル(29.78ドル)。

1927年、短編1作につき3500ドル(51,309.04ドル)の原稿料を受け取っていた。
500万円以上ということになります。

1928年、ヨーロッパから帰国するが、船の中で200ドル(2,970.56ドル)分のワインをあけていた。

1928年のパーキンズの年収は1万ドル(148,528.11ドル)。
パーキンズ家には料理人がいます。

1929年、短編で2万7000ドル(401,025.90ドル)を稼いだが、単行本では31ドル(460.44ドル)77セントしか収入がなかった。
次作の印税から前借りした金額はおよそ8000ドル(118,822.49ドル)。

1930年、コールドウェルがパーキンズから短編の原稿料を提示される。
パーキンズは2篇で350ドル(5,331.78ドル)を提示するが、コールドウェルは3ドル50セントだと勘違いした。
フィッツジェラルドは短編の原稿料が500万円というのは特別でしょうが、無名の新人の原稿料が25万円というのは高いのか、安いのか。

スクリブナー社の純益は、1929年は28万9309ドル(4,297,051.94ドル)だったが、1932年にはわずか4万661ドル(757,172.47ドル)に減った。
なのに、フィッツジェラルドに多額の前借りをさせているわけです。

1933年、フィッツジェラルドの年収は1万6000ドル(313,957.26ドル)足らずで、大恐慌の後の数年間に得た金額の半分。
それでも3千万円以上と、かなりの金額です。
『夜はやさし』を雑誌に4回に分けて連載する契約料が1万ドル(196,223.29ドル)という契約をした。
契約料のうち6000ドルはスクリブナー社に対する負債の清算にあてられた。
『夜はやさし』は1万5000部ほどしか売れなかった。
ハーヴィ・アレン『アントニー・アドヴァース』は1933年から1934年にかけて100万部以上売れた。

1934年、フィッツジェラルドの短編が雑誌に掲載され、3000ドル(56,931.32ドル)を受け取った。
この金がなければ、フィッツジェラルドはその年を切り抜けられなかっただろう。

1935年、年収は1万ドル(185,142.51ドル)。

1936年、スクリブナー社への借金は7500ドル(137,482.06 ドル)。
母が死に、26000ドル(476,604.48ドル)相当の現金と株券を相続する。
年間の生活費をどうしても1万8000ドル(329,956.95ドル)以下に切り詰めることができなかった。
母の遺産から借金を返してしまうと、数百ドルしか手元に残らなかった。
スクリブナー社やパーキンズ、エージェントにも借金をしていた。

1937年、エージェントがハリウッドのMGMから週給1000ドル(17,693.96ドル)の契約を取りつけた。
週に約200万円です。

1938年、ハリウッドに行き、借金の大部分を返済した。

1939年、短編の連作を『エスクワイア』に売りこみ、1篇について250ドル(4,573.19ドル)を受け取った。
かつて『ポスト』が支払った金額の10分の1以下である。
それでも約50万円。

1940年12月、死亡。
自分の生命保険を担保にして多額の借金をしていたが、それでも4万ドル(724,465.50ドル)が残る。
娘が父親の借金を清算したあと、大学で学ぶ費用をまかなえるはずだった。

晩年のフィッツジェラルドはお金に困っていたと思っていましたが、収入はかなりあったわけです。
それにしても、あまり本は売れていないのに、原稿料が高いし、収入も多いのは不思議です。

もっとも、『名編集者パーキンズ』には、「ユダヤ教徒金米会議(全米会議)」「判れを告げ(別れ)」などなど誤植が多いので、金額が正しいかどうか、ちょっと疑問ではあります。
ヘミングウェイの妻の名前がドイツ語読みのプファイファーとなってますし。

それとか、「パーキンズ」と「マックス」(「彼はパーキンズにフォークナーのことを持ちだしたが、マックスは気乗り薄だった。パーキンズはずっと以前からフォークナーを大家だと目していたが・・・」)、「フィッツジェラルド」と「スコット」、「ヘミングウェイ」と「アーネスト」「ヘム」などと表記されてるので、別人なのかと混乱します。
原本がそうなっていても、統一したほうがいいのに。
小説好きには面白い本なんですが。

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