三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、インチキ宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり、そしてそのことを日記にまとめてみたり。

体感治安の悪化

2006年12月30日 | 厳罰化

 

「体感治安の悪化」ということが言われている。
一般国民が肌で感じる治安が悪化しているということだが、実際には治安は悪くなっていないし、犯罪も増えていない。

体感治安の悪化にはマスメディアの責任が大きい。
平川宗信中京大教授がこういうことを言っている。
以前だったら新聞の第一面に事件報道が載ることはまずなかった。
一面トップは政治記事、その次は経済、そして犯罪報道は三面記事だった。
ところが、いつの間にか、第一面に犯罪事件が載り、場合によっては事件の捜査経過までがトップ記事となっている。
テレビのニュースもそうである。
以前はニュースのトップは政治、国際だったが、最近はそうではなくなっている。
「新聞を見ると一面トップに犯罪記事が出ている、テレビをつければニュースのトップに犯罪が出てくる。それが、自分たちの周りが非常に危険であるという意識を生み出します」

実際には治安は悪化していないのに、何かしら犯罪に対して不安や怖れを感じているということ、これは、小さいころ夜中に一人で便所に行くのが恐くて、何か出るんじゃないかと恐がったのと同じことである。
実際にはないもの(おばけ、治安の悪化)を自分で作り上げ、そして自分で作ったものに自分がおびえる。

弱い犬はよく吠えるように、怖れは他者に対して攻撃的な行動をとらせることがある。
体感治安の悪化は、治安の回復のためには凶悪な犯罪を防がないといけない、そのためにはより厳罰化しないと、という攻撃的なヒステリー状態を生む。

この困った風潮のためか、死刑判決が増えている。
昨日の毎日新聞によると、「今年、死刑を言い渡された被告は44人に上り、最高裁が集計をまとめた1980年以降、最も多い」そうだ。
「80年以降、死刑判決を受けた被告の数は年間5~23人で推移してきたが、01年に30人に達し」、年々増えてきている。
そして、「死刑判決が確定して拘置所に収容されている死刑囚94人も、年末の収容数としては戦後最多となった」。
死刑判決の増加は凶悪な事件が続発しているからではなく、「厳罰化の流れの反映」である。
以前なら有期刑か無期懲役だった人にも死刑の判決が下っているということである。

新聞の同じページに、飲酒事故件数とひき逃げ死傷事故の推移のグラフも載っている。
01年にも道交法改正で厳罰化が図られ、「その効果で、飲酒事故件数は00年の2万6280件が年々減少し、昨年は1万3875件と大幅に減った」。
厳罰の効果があったわけである。
「ところが、ひき逃げ事件は、目に見えた効果はなかった。00年の1万4050件から毎年増加を続け、昨年は1万9660件起きた」
どうしてなのか。
「ひき逃げで検挙した5469人に対する調査で、全体の22・8%が「飲酒運転の発覚を恐れた」と回答」している。
そして、「今年上半期は飲酒死亡事故に限ってみると、364件発生し、前年同期に比べ13件(3・7%)増加するなど、厳罰効果に陰りが見えてきた」とある。
厳罰化によってかえってひき逃げというマイナス効果を生んでいるわけである。
厳罰であればいいというわけではない。

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素朴な感情と政治

2006年12月28日 | 死刑

 

ある研修会での座談会で、「大谷派は死刑に反対しているのはなぜか。人を殺したんだから死刑になるのは当然ではないか」という意見が門徒さんからあり、この意見に賛成される方も多かった。
真宗の教えを長年聞いてこられた方でも、「殺した人は殺されても仕方ない」という考えを持たれているのか、といささか驚いた。
だけど私だって、光市の事件については「あれだけのことをしたんだから、死刑になっても仕方ない」と思っていたんだから、えらそうなことは言えない。

高橋哲哉氏のお話によると、カントも応報の論理に基づく死刑存置論者で「殺した者は殺されなければならない」というふうに書いているそうだし、ユダヤ人哲学者のハンナ・アーレントもアイヒマン裁判が絞首刑の判決を下したことを支持したそうだ。

悪いことをしたんだからその報いを受けなければならない、という気持ちになるのは素朴な感情である。
だから、死刑についてこの応報の論理に反論するのはやっかいである。

応報の論理を認めるとして、どうして殺人には死刑という報いになるのだろうか。
というのも、他の犯罪、たとえば人を殴るという傷害罪の加害者が、罰として殴られることはないし、交通事故で人をひき殺した場合、加害者を車でひくべきだと主張する人はいないと思う。
 殺人→殺人
 傷害→懲役
 強盗→懲役
殺人だけが罪の報いが死刑という殺人でないといけないのか。
他の犯罪のように懲役刑でも応報になるように思うのだが。

それと、応報とか被害者感情を言うのならば、刑の執行まで10年、20年とかかるのはどうしてだろうか。
先日、四人が処刑されたが、今年の執行がゼロになってはまずいという政治的な判断があったらしい。
フセイン元大統領の死刑確定もそうだ。
国民を虐殺した支配者はいくらでもいるが、失脚しても亡命すれば罪に問われることはあまりないように思う。
フセイン元大統領の死刑はあまりにも政治的茶番である。

死刑という制度、ひどいことをしたんだからその報いで死刑になるのは当然だという素朴な感情を政治的意図で利用しているように思う。
素朴な感情の政治的利用といえば、靖国神社も同じである。

話は変わるが、愛とか平和とかやさしさとか癒しとか、そういうことをニューエイジ・スピリチュアルは言っているんだから、死刑廃止運動をしてもいいのにと思う。
鯨やイルカのことは心配しても、人間には無関心なのだろうか。

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東野圭吾の復讐肯定論 4

2006年12月25日 | 厳罰化

 4,犯罪をなくすには
東野圭吾は「出所後犯罪歴のある者の氏名、住所、顔写真を公開する」べきだ、なんて無茶苦茶なことを平気で言う。
これは犯罪者だという目印を付けるために刺青をするようなものである。
軽犯罪は肩のあたりに小さな刺青、殺人だったら顔に、というふうに。
一度でも犯罪を犯した者は許さない、という東野圭吾は犯罪者の更生をまるっきり考えていないようだ。

「犯罪を防ぐ社会システムが不備だという印象を持っています。たとえば刑務所を法務省は「罰則のためだけではなく、更生される施設だ」と言っています。それはそれでいい。しかし「悪いことをしたら刑務所に入れられるよ」というのは戦前の日本はいざ知らず、今日では全く抑止力にはなり得ない。年末に金がない、家がないから悪いことをしようという者は、食事と寒さしのぎの寝所の確保のために罪を犯すかもしれない。バレなければ悪いことをしたほうが得だと思う人が多いことも事実ですから、そうした彼らが犯罪者になったとき、刑務所で本当に更生するかも疑問です。
また、少年犯罪が増えていますが、少年は多少悪くなると、少年院や鑑別所に少しぐらい入れられても反省どころか、かえって箔がつくぐらいに軽く考えています。もしそうした少年が軽く浅い考えで殺人でも犯したら、被害者の遺族はやりきれません。もちろん彼らだって傷つけた相手に痛みがあることはわかっています。しかし、どうわかっているのかが問題で、相手を傷つけることは自分が傷つくことだとは想像できないんです。」

東野圭吾は刑務官や保護司の仕事をどう考えているのだろうか。
そりゃ、「バレなければ悪いことをしたほうが得だと思う人が多い」のは事実で、政治家や企業のトップが更生するかどうか、私も疑問である。
だからといって、重罰を科せばいいというものではなく、少年院や刑務所での更生プログラムを充実させるべきであるし、出院、出所後のアフタケアを考える必要がある。

たしかに、「食事と寒さしのぎの寝所の確保のために罪を犯す」人もいるけれど、しかし金も家もない人はどうすればいいのか、公園で寝ろと言うのかということになる。
本人だけの問題ではなく、政治経済の問題でもある。

「「悪」がかっこよく見えるんです。何でかっこいいかというと「悪」であっても人権があるからです。人権を奪われた人間はかっこよくはなれません。その意味からも、犯罪者からは人権を奪わなくてはなりません。」

人権があるからかっこいいというのは意味不明。
どうしてそんなに人権が嫌いなのだろうか。
人権とは何かをきちんと教えることで、自分を大切にしなければいけない、「相手を傷つけることは自分が傷つくことだ」と想像させることができるようになると思うのだが。

で、犯罪をなくすために何をしなければならないか、東野圭吾の考えが、
「罪を犯したらどんな悲惨な人生になるかを、子どものうちから家庭や学校で徹底的に教え込む。」
ということで、つまりは犯罪を犯した者をずっと差別し、更生の道をふさぐことによって、悲惨な人生をおくらせる必要があるということになる。
しかし、罪を犯しても立派に更生する人もいる。
どんな人間も間違いをするのだから、立ち直った人がいることを教えることは、子供の教育のためには大切ではないかと思うのだが。

「人間は本来性悪なものをもって生まれてきているんじゃないでしょうか? 放っておいたら普通の人でも悪いことをしでかしかねない。
だから家庭や学校で「世の中は君たちが悪いことができないような仕組みになっているんだ」と教育すべきだと思います。子どもたちは放っておいたら必ずいたずらをします。「いたずらをするとみんなに迷惑がかかる。迷惑をかけたらお仕置きが待っているよ」と順序立てて教えていく。「悪いことをしてはいけない。すると君自身が大変な目にあってしまうよ」。大人たちはそういう社会を目指していることをきちんと説明していけば、子どもたちの社会を見る目も確実に変わると思います。」
これでインタビューは終わり。
ありきたりの教育論で世の中がよくなるというのは安易すぎます。

東野圭吾の悪口を長々と書いてきたが、正直なところ復讐したいという気持ちは私も強くあって、「この野郎、バチが当たれ!」とか「この怨み、晴らさいでおくものか」といった怒りで沸々と煮えたぎることはしょっちゅうである。
だからといって、復讐を認めるべきだとは思わない。
復讐が制限され、禁じられたというのが人間の歴史である。
感情論だけなら復讐を肯定したくなるが、理性によって復讐を否定した道を、被害者感情という錦の御旗を振りかざして復活させていいものだろうか。

犯罪が起こる可能性がない社会はアンチユートピアにしかあり得ない。
厳罰化を求め、犯罪者を抹殺しようとする人たちは、アンチユートピアのような完全に統制され、少しでもはみ出した者を排除する社会を望んでいるのだろうか。

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東野圭吾の復讐肯定論 3

2006年12月22日 | 厳罰化

 

 3,被害者の癒しと復讐
東野圭吾がインタビューで一番言いたかったことは以下のことだろう。
「この国の法律は犯罪者に有利にできているように思います。正義を守るはずの社会システムは正しく機能しているのか。どこかに大きな欠陥があるのではないか。被害者の痛みや怒りはいまの社会システムでは最後まで吸収されないんじゃないか。犯罪自体は悲しいことですが、被害者が癒されないのはもっと悲しいことです。」

犯罪被害者の痛み、悲しみをどうすればいいのかということは大切な問題である。
今まで犯罪被害者のことを社会が考えてこなかった罪は大きい。
では、どうすれば被害者が癒されるのかというと、それは復讐だと東野圭吾は言う。

「いまの社会には「家族を殺されて悔しい。復讐をしたい」という遺族の気持ちを救い取るシステムがない。近代以前の世界では、死刑と並んで被害者側の復讐が犯罪の抑止力でした。復讐されるのが恐ろしいから人殺しはしない、とか、そういう理解が社会に通底していました。」

では東野圭吾が考える復讐とは何か。
「人にとって生きていく上で大事なものは、まず命です。そのあとは順不同ですが、時間、お金、人権ではないかと思います。人一人が殺されて遺族が「復讐」するとは、相手の命を取ることです。一番大事なものを失ったんだから、被害者の無念、遺族の痛みのかわりにお前の一番大事なものをよこせ、ということです。これがいちばんわかりやすい。
刑務所に収監するというのは、犯罪者から時間をとることです。」
「たとえば、出獄したら働かせて、被害者の生涯賃金に相当する額の死亡弔慰金とか賠償金を遺族側に支払わせるのはどうでしょうか?」

大事なもの、命(死刑)・時間(刑務所)・お金(損害賠償)、そして人権を奪うことが復讐になると、東野圭吾は言う。
しかし、時間を奪ってもさほどのハンデにはならないし、お金を全額払うのは多くの場合は無理。
ならばどうしたらいいのか。
「時間を奪うだけでは不十分だ。しかもお金も奪えない。ならば人権を少し奪うことを考えてはどうかと思います。「少し」というのは意味があり、人権をすべて奪うこととは死刑にすることです。犯罪者は罰として少し人権を奪われる。アメリカのメーガン法は性犯罪者に対して適用する法律ですが、それを応用して、出所後犯罪歴のある者の氏名、住所、顔写真を公開する。「人権蹂躙」という声が当然出てくるでしょうが、そうした声には「そうなんだ、犯罪者の人権を奪うのだ」と言ってやる。犯罪者は社会から人権を奪われることで差別を受けなければならない。犯罪者はもちろん犯罪者の家族も差別される。差別されたくなければ犯罪に手を染めないことです。そうやって、人権が少し奪われるほど、犯罪はしてはいけないことなんだというルールを知らしめる。(略)ケースバイケースでもいい、罪を犯して情状酌量の余地のある場合とか執行猶予のある場合なら、奪われる人権の範囲にある程度柔軟性を持たせるとか、対応する方法はあると思います。そういう社会的制裁が科せられることで、犯罪者は社会に「復讐」されるようにするんです。「犯罪者は人権が奪われるんだ」ということを抑止力にしなければならないほど、この社会の犯罪は凶悪化し、毎日一万件も起きる犯罪に無感覚になっているのです。」

・被害者の癒しが第一だ
・被害者の復讐心を満足させることが癒しだ
・犯罪者の人権を奪うことで社会から復讐されることにより、被害者は癒され、犯罪抑止になる
こういう理屈である。

東野圭吾の意見は、被害者の復讐心を満足させることと犯罪を減らすことに強引に結びつけようとしているが、それは無理である。
正義=復讐という短絡的発想から生まれたもので、独善的正義感に自己陶酔しているように感じる。
しかしながら、復讐心を正当化し、社会的リンチを行うべきだという主張、論理は穴だらけだが、感情に訴えるだけに迫力はあり、支持する人も多いような気がする。
だから、恐い。

そりゃ、「家族を殺されて悔しい。復讐をしたい」と思う遺族は多いだろう。
しかし、そうは思わない遺族もいる。
復讐して相手を殺したらすっきりすると考えるのは第三者だからである。
そして、「手紙」の主人公のように、事件とは無関係な者まで復讐したいと思う遺族はほとんどいないと思う。

東野圭吾は「近代以前の世界では、死刑と並んで被害者側の復讐が犯罪の抑止力でした」なんて、誰から聞いたのだろうか。
平安時代には死刑は行われなかったのを知らないのか。
復讐が恐れて、マフィアやヤクザが抗争をやめるのだろうか。
彼らは仕返しをしないとメンツが立たないから復讐するのである。
東野圭吾が人殺しをしないのは「復讐されるのが恐ろしい」からなのだろうか。

人権を奪うということだが、東野圭吾の考えとしては「出所後犯罪歴のある者の氏名、住所、顔写真を公開する」ということらしい。
そうすることで、「犯罪者はもちろん犯罪者の家族も差別される」べきだということである。
人権を奪うのは殺人犯だけにかぎらない。
情状酌量の余地のある場合や執行猶予がついても、やはり人権を奪うべきだと言っているのだから。
万引き犯に復讐をしたいと考える人、さらし者にすべきだと言う人がいるだろうか。

はたして出所した人間、前科のある人間の氏名、住所、顔写真を公開することで犯罪が減るだろうか。
まず効果はないだろう。
それどころか、更生の意欲を失わせ、かえって再犯が増えるだろうと思う。
まして、犯罪者の家族までを差別することになると、新しい犯罪者を作ることになりかねない。
これじゃ犯罪を増やす提案をしているようなものである。
「地獄への道は善意で舗装されている」ということわざがあるが、もしも東野圭吾の意見が実現したら、「地獄への道は正義で舗装される」ことになる。

犯罪者の人権を奪わなくても、日本の犯罪は増えていないし、凶悪化もしていない。
「中央公論」はこういった不安を煽り、怒りを生み出すインタビューなど載せず、まずは事実をきちんと報道してほしいものである。

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東野圭吾の復讐肯定論 2

2006年12月20日 | 厳罰化

 

 2,人権とはどういう意味か
東野圭吾のインタビューでは、このあと人権について語られる。
「この国の「人権」尊重とは、犯罪者のそれでしかないのではないかと以前から疑問がありました。これは、被害者やその家族の痛みへの配慮が著しく欠けていた「人権」尊重なのではないか、もっといえば正義の守り方が不公平なのではないか、とも思います。たとえば殺人事件が起きて、犯人が逮捕される。逮捕された犯罪者は裁判を経て刑務所に収監されますが、そこでは「人権」は保護されます。殺人罪で裁判で無期刑の判決が下されても、だいたい10年、早ければ七、八年刑期を務めると仮出獄できるといわれています。その際には被害者やその遺族のことは忘れられています。被害者は人権を奪われたにもかかわらず、奪った加害者の人権がすべて守られるという前提はおかしいのではないか。」

よく使われているけれども、どういう意味なのか今ひとつはっきりしない言葉というものがあるが、人権もその一つ。
東野圭吾は人権をどういう意味で使っているのだろうか。
この文章だけを取り上げると、被害者とは殺人の被害者を指しているようだから、どうも人権と人命とがごっちゃになっているように感じる。

基本的人権ということでいえば、刑務所に入ると人権が制約される。
居住・移転の自由はないし、外部との通信は制限されるし、選挙権もない。
「加害者の人権がすべて守られる」わけではない。

「被害者の人権は奪われているのに、加害者の人権が守られているのはおかしい。だから加害者の人権も奪え」という意見をよく見かける。
被害者の人権がマイナスになったら、プラスに持っていくようにするべきなのに、被害者の人権を報道による二次被害などによって、さらにマイナスにしてどうするんだ、と感じることはしばしばある。
加害者の人権をマイナスにしたから満足でしょ、というのは第三者の勝手な意見である。

弟さんを殺された原田正治さんはこういうたとえを言われている。
「被害者は平穏な生活の中から、加害者やその家族と一緒に崖の下に突き落とされる。で、「助けてくれ」と、崖の上に向かって声をあげる。ところが、「死刑は当たり前なんだ。なくちゃいけない」と言う人たちは、誰一人として下にいる我々に手を差し伸べてくれない。手を差し伸べようとする感覚さえない。そして、加害者を死刑にして、これで終わったと思っている。我々は崖の下に放り出されたまま」
どんな人の人権も大切なんだ、という基本線だけは動かせない。

それと、刑法では「無期刑については十年を経過した後、行政官庁の処分によって仮に釈放することができる」とあるが、実際にはそんなに早くは出られない。
「犯罪件数は一年間で三百五十万件を超えているそうです」とか「早ければ七、八年刑期を務めると仮出獄できるといわれています」など、「そうです」「いわれています」という曖昧な言い方で間違ったことを書いてもらっては困る。
このいい加減さはインタビューを構成した中央公論の編集者に責任があるわけだが。

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東野圭吾の復讐肯定論 1

2006年12月17日 | 厳罰化

ときどき 

「中央公論」2005年5月号に、東野圭吾「わたしが現代版“仇討ち”を描いた理由」というインタビュー(をもとに編集部が構成したもの)が載っている。
「現代版“仇討ち”」というのは、「さまよう刃」という、娘を強姦されて殺された父親が犯人に復讐するという小説のことである(私は未読)

このインタビューで東野圭吾は「手紙」の社長と共通することを言っている。かなり偏見、誤解のある主張だし、東野圭吾と同じ意見の人も多いと思うので、ちまちま、しつこく、長々となるが、問題点を指摘してみたい。

1,どういう犯罪や犯罪者を東野圭吾は問題にしているのか
「日々、事件が起きています。犯罪件数は一年間で三百五十万件を超えているそうです。一日一万件の犯罪が起きている。」
というのが冒頭である。
一日に1万件も犯罪があるのか、と誰もがまず驚く。

ところが、ネットで調べてみると
「今年(2006年)11月までの認知件数は189万4677件(前年同期比9.9%減)で、年間では205万件程度と予測されるという。02年の285万3739件と比べると大幅の減少」
とある。
350万件というのはどこから持ってきた数字だろうか。
認知件数とは警視庁のHPによると、「被害の届出等を受理するなど警察がその事件の発生を確認した件数」なのだが、そのすべてが実際に犯罪だとはかぎらない。
浜井浩一「犯罪統計入門」によると、
「平成12年から刑法犯認知件数は激増したが、それは犯罪発生件数が増加したのではなく、警察の対応が変化したことに起因していると考えられる」
また、犯罪の多くは万引き、自転車盗、車上狙いといった軽微なものである。

インタビューの続きを読むと、そういう軽微な犯罪のことを問題にしているのではないように感じる。
「裏返せば、犯罪の数だけ被害者がいるということです。被害者やその家族が受ける悲しみや悔しさは非常に大きい。昨年十二月、どれほど効果があるのかわかりませんが、犯罪被害者等基本法が成立しました。少しずつこの種の法律はできてきているようですが、まだまだ不備で、実際は犯罪の陰で何百万人もの人が泣いているかわかりません。」

万引きや自転車盗の被害に遭った人も、そりゃ悔しい思いをしているだろうが、この記述はそういう軽犯罪の被害者ではなく、殺人とか強姦といった犯罪被害者のことを言っている印象を受ける。

というのも、その後に少年犯罪についてふれているのだが、
「(略)ずるがしこい子どもなら、仲間内の口コミで法の盲点を承知していて、殺人を犯しても死刑にならないことを知っています。しかも犯罪手口の巧妙さも大人さながらです。ならば犯罪者を年齢で線引きして裁いても意味はありません。それは、被害者やその家族の痛みは、犯罪者の年齢に比例して緩和されたり増大したりするものではないからです。」
とあり、読者としては一日に1万件の犯罪というのは殺人、強盗、強姦、放火といった凶悪犯罪をイメージしてしまう。
このあたり、ずるい。

万引きと殺人を同じように論じるべきではないと思うし、殺人にしても、「手紙」のように、早くに両親を亡くし、腰痛のために職を失い、それでも弟を大学に行かせるために窃盗をしたのだが、はずみで殺してしまった(映画「手紙」は明らかに傷害致死である)ような事件と、快楽殺人を同一に扱っていいものか。

それと、日本での犯罪のピークはずっと以前から15歳である。
犯罪を犯した少年をいかにして社会が受け入れ、再び罪を犯さないようにするかがが大切であり、そのために少年法では教育を重視している。
それなのに、大人と同じように扱うのでは、せっかくの教育の機会を奪うことになってしまう。
「犯罪者を年齢で線引きして裁」く意味はあるのに、東野圭吾はそれを知らないだけのことである。

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東野圭吾「手紙」2

2006年12月14日 | 厳罰化

 

○社長との二回目の会話
主人公は結婚して子供ができ、社宅に入ったが、ここでも兄のことがばれてしまい、3歳の娘は誰とも遊んでもらえなくなる。
社長と二度目に会った時、そのことを社長に話すと、社長は
「今の話を聞いていて、残念だと思う部分がある。それは、君はまだ完全には私のいったことをわかっていないようだということだ」
「君はまだ甘えている。君も、君の奥さんもね」
と、神経を疑うようなことを言う。

「逃げずに正直に生きていれば、差別されながらも道は拓けてくる―君たち夫婦はそう考えたんだろうね。若者らしい考え方だ。しかしそれは甘えだ。自分たちのすべてをさらけだして、その上で周りから受け入れてもらおうと思っているわけだろう?仮に、それで無事に人と人との付き合いが生じたとしよう。心理的に負担の大きいのはどちらだと思うかね。君たちのほうか、周りの人間か」
「正々堂々、というのが君たち夫婦のキーワードのようだから敢えていわせてもらうよ。その、いついかなる時も正々堂々としているというのは、君たちにとって本当に苦渋の選択だろうか。私にはそうは思えないな。わかりやすく、非常に選びやすい道を選んでいるとしか思えないが」

しかしながら、主人公は「自分たちのすべてをさらけだして」はいない。
兄のことをずっと隠しながら、しかし知られてしまって不利益を被ることをくり返しているのである。
だったらどうすればいいのか、主人公でなくても聞きたくなる。
そしたら社長は、
「答えなんかないよ。いってるだろう。これは、何をどう選択するか、なんだ。君が自分で選ばなくては意味がない」
と答える。

何なんだ、これは。
人を批判し、どうすればいいか質問されると、「自分の問題だ」と突き放すのだったら誰にでもできる。
たしかに差別をなくすことは不可能である。
しかし、誰も遊んでくれないという小さな女の子の痛みを想像できるなら、社長として、個人として、何かできることはないかと模索すべきだ。

ところが、社長は何もせず、お説教をたれるだけである。
「差別は当然だ」と言ったのは深い意味があるわけではなく、単に自分を正当化しているだけにすぎない。
自分のしていることに無自覚でありながら、えらそうなことを言う人間が、新たな差別を生み出すのである。

○社長との三回目の会話
主人公はその後、会社を辞め、兄へ絶縁の手紙を出す。
三度目の、そして最後の社長との会話。
「君は何も間違っていないよ。人間として正しくあろうとしただけだ。でも実際のところ、何が正しいかなんてことは、誰にもいえんのだよ。さっき君がいったようにね。ただ、これだけはいっておこう。君が選んだ道は、簡単な道ではないよ。ある意味では、これまでよりももっと辛いかもしれん。何しろ、正々堂々、といった旗印がない。すべての秘密を君が一人で抱え込み、仮に問題が生じた場合でも、一人で解決しなければならないんだ」
と、またまた馬鹿なことを言う。

主人公は今まで「すべての秘密を一人で抱え込み」、何か問題があれば「一人で解決しなければならない」道を歩んできたのである。
結局のところ、社長の言いたいのは、兄のことは誰にも知られないようにしてひっそりと暮らせ、ばれたら別の場所へ移れ、ということなのか。

作者は当然のことながら主人公の苦労を知っている。
しかし、社長は知らない。
人の苦労を知らない人間が勝手なことをほざいているのに、クソ馬鹿社長を徹底的に批判すべきなのに、主人公は社長の言うことをなるほどと聞くんですぜ。
小説として破綻しているように思う。

小説の登場人物が何を言おうと、それはまあいい。
しかし「手紙」では、社長は主人公を導く老賢者として描かれている。
だから、読者は社長の言葉が作者のメッセージだと思うだろう。
そして、実際に東野圭吾の意図は社長の言葉通りらしい
大いに問題があるように思う。

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東野圭吾「手紙」1

2006年12月12日 | 厳罰化

のち

東野圭吾「手紙」の主人公は、高3の時に兄が強盗殺人で捕まったため、音楽をあきらめ、恋人と別れ、そしてさまざまな苦労をしながら生活せざるをえなくなる。
主人公がバンドをやめるところまではいい小説だと思ったのだが、田園調布のお嬢様との恋愛あたりから、いかにも作り物という感じがし、そして社長の脳天気なお説教には腹が立った。

主人公は兄のことを隠して家電量販店に就職したものの、兄が刑務所にいることがばれて左遷させられる。

○量販店の社長との一回目の会話
社長は「差別はね、当然なんだよ」という言う。

 理由その1 犯罪の抑止効果
「だから、犯罪者はそのことも覚悟しなきゃならんのだよ。自分が刑務所に入れば済むという問題じゃない。罰を受けるのは自分だけではないということを認識しなきゃならんのだ」
「我々は君のことを差別しなきゃならないんだ。自分が罪を犯せば家族をも苦しめることになる―すべての犯罪者にそう思い知らせるためにもね」

犯罪を抑止するために、家族に対する差別は必要だというわけである。
だが、犯罪者に自らの罪を思い知せるために家族を差別しなければならないなんて、すごくえらそうな言い方である。

犯罪を犯す時、家族のことを考えてやめる人はまずいないと思う。
主人公の兄だって、家族のためを思って窃盗を計画したのであり、最初から人を殺そうと考えていたわけではない。
犯罪者の家族を差別することによる犯罪の抑止効果はあり得ない。
そもそも我々が犯罪者の家族を差別するのは、第三者としての悪しき正義感にすぎない。
その正義感が、時には家族を自殺に追いやるのである。

そして、犯罪者の家族を差別するのが当然なら、出所者を差別するのは論じるまでもないことになる。
せっかく更生しようとしている者の足を引っ張って犯罪を増やしてどうするんだ、と思う。

  理由その2 会社の利益
「君に対してどう接すればいいのか、皆が困ったのだよ。本当は関わり合いになりたくない。しかし露骨にそれを態度に示すのは道徳に反することだと思っている。だから必要以上に気を遣って接することになる。逆差別という言葉があるが、まさにそれだ」
「人事部の処置が間違っていないと言ったのは、そういう状況を踏まえてのことだよ。差別にしろ逆差別にしろ、他の従業員が仕事以外のことで神経を使わねばならないようでは、お客さんに対して正常なサービスなどできないからね。そして差別や逆差別といったものがなくならない以上、君を別の職場に移すしかない。そういったことによる悪影響がなるべく出ない職場にだ」

殺人犯の弟が職場にいては社員が動揺し、そのことで客に対するサービスが低下する、だから差別はやむを得ないというわけだ。
会社(公)の利益のためには社員(私)は犠牲になってもかまわない、という理屈である。

この二つの理由、人権無視なのだが、主人公は少しもわかっていない。
小説の登場人物の意見が作者と同じだと決めつけるべきではないが、どうやら社長の言っていることは、東野圭吾のファンサイトによると、作者自身の考えらしい。(なぜかファンサイトにリンクできない)

そうして社長はこういうことを言う。
「本当の死と違って、社会的な死からは生還できる。その方法は一つしかない。こつこつと少しずつ社会性を取り戻していくんだ。他の人間との繋がりの糸を、一本ずつ増やしていくしかない。君を中心とした蜘蛛の巣のような繋がりが出来れば、誰も君を無視できなくなる」

しかしですな、本当のつながりを作るためには、兄のことを知ってもらわないといけないし、兄がいることを知られたらみんな去っていく。
矛盾である。
社長が率先して主人公とのつながりを作ってくれればいいのだが、もちろんそんなことはしないんですからね。

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感情と想像力 2

2006年12月10日 | 厳罰化

 

毎日新聞の「中島岳志的アジア対談」で、森達也がこういうことを話している。
「今の表層的な右傾化の本質は、民族主義よりもむしろ危機管理意識です。オウムや9・11で発動した他者への恐怖や不安を整合化するために、疑似民族主義が消費される。戦争の始まりは、大義や主義じゃなく「やらないとやられる」という危機意識です」

「日本政府は北朝鮮に対する医薬品や米などの人道支援を凍結した。その結果、何千人、何万人もの子供や老人が死んでいるかもしれない。だとしたらこれは、9・11を理由にアフガンやイラクに侵攻して、より大勢の犠牲者を出したアメリカと同じです。こうした多面性への視点は、他者への想像力とも言えます。不安や恐怖を理由に、人はこの視点を忘れてしまう。不安や恐怖は「分からない」ことから発動する。ならばメディアが健全に機能すれば軽減できるはず。ところが機能しない。危機をあおった方が、部数は伸びるし視聴率も上がるから」

我々の多くは北朝鮮に対する制裁を当然のことと考えている。
しかし、制裁によって民衆が餓死するかもしれないとは想像もしない。
これは虐待する親が「しつけだ」と自己正当化するのと同じである。
彼らは「しつけは当然だ」と思っていても、その結果がどうなるかが想像できないらしい。
虐待死があるたびに不思議に思うのは、多くの親は死んだ子供を病院に連れて行くことである。
暴行する、食事を与えない、医者に診せない、それなのにこのままでは死ぬのではないかと考えないのだろうか。
イジメにしてもそうである。
これだけイジメによる自殺者がいるというのに、このままイジメを続けていたら自殺するかもしれないとは考えないのだろうか。
他者の痛みを想像する力が欠如しているとしか思えない。

こうした想像力の欠如、無神経さを東野圭吾「手紙」に感じた。
「手紙」は、犯罪加害者の家族が差別の中で生きているということ、加害者の家族も被害者なんだということを正面から描いた小説である。
強盗殺人で刑務所にいる兄を持つ主人公は、家電量販店に就職したものの、兄のことが知られて左遷させられる。
で、社長が「差別はね、当然なんだよ」という言うのである。

加害者の家族が差別されるのは当然だという理由。
1,犯罪の抑止効果
2,会社など共同体の秩序、安定の維持

「犯罪者」の家族は差別されて当然だ、ということ、「犯罪者」のかわりに「ハンセン病者」「精神病者」「障害者」「在日」といった言葉をあてはめてみたらどうだろうか。
やはり「差別は当然なんだよ」と東野圭吾は言うのだろうか。
あるいは「差別」を「格差」と言い換えてもいい。
小泉前首相なら「格差は当然」と言ったが、下にいる者の痛みがわかっての発言ではなく、ただ単に格差があるのは仕方ないという程度のことだろう。
統合失調症の方が言っていたが、友達に「自分は統合失調症だ」と言ったら、みんな去っていった、だから誰にも病気のことは言いたくない、と。
社長のように、「どうしようもない、としかいいようがないかな」とは言えなかった。

「手紙」は100万部以上売れているそうだし、ネットでの評価も高い。
読者は「差別は当然」論をどう感じているのか、気になる。

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感情と想像力 1

2006年12月07日 | 日記

11月23日の毎日新聞には、「中島岳志的アジア対談」があり、映画監督の森達也がゲストだった。
題は「戦前「右派」の可能性から」

森達也「今年、東京大空襲の慰霊祭に初めて行ったんです。追悼碑には「尊い犠牲の上に」とか「次の世代に語り継ぎ」などのフレーズが刻まれている。石原慎太郎知事も式典の最初に、「悲惨と脅威を語り継いでいきたい」というようなことを言って帰りました。「語り継ぐ」という言葉はあふれているけど、「何を」と「何のために」が、決定的に抜けている。簡略化が進行する過程で、本質が消えてしまうんですね」
中島岳志「小泉純一郎前首相は、特攻隊の史料館で素直に感動し、靖国に参拝した。でも特攻隊の感情は、もっといろいろだったはず。つまり、単純な涙はむしろ感情や想像力の欠如かもしれない」
二人のこうしたやりとりははなはだ興味深い。

あいまいな言い方、感情のレベルでの論理といえば「愛国心」である。
オリンピックで日本を応援することから、一朝国家に事ある時は命を捧げることまで、愛国心にもいろいろある。
国を愛することは当然だと言われても、その国とは何か、どのように愛するのかといった、5W1Hがはっきりしない。

で、何を、何のために語り継ぐか、である。
万田邦敏「ありがとう」は、阪神大震災によって商店街が全焼した人たちを描いた映画である。
映画の中で、「安らかにお眠りください」という言葉が何度か出てきて、広島の原爆慰霊碑に書かれてある「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」を思い起こした。
この慰霊碑の言葉についてはいろいろ批判もある。
しかし、実際に震災や原爆を経験し、多くの人の死を目の当たりにした人たちは、「安らかに眠ってくれ」と言わずにはおれないのだろうと思う。
しかし、そうした感情にとどまったままでは、その涙は何かに利用されるかもしれない。
「特攻隊の史料館で素直に感動」して、だから日本も核武装を、ということになりかねない。
慰霊碑には「過ちは繰返しませぬから」という言葉が続く。
「ありがとう」の主人公も、多くの人が亡くなったという過ちをくり返さないために「災害に強い町を作るんや」と行動する。
ただし、「ありがとう」はその後がつまらない。
前半は○、後半は×です。

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