三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

校正の鬼

2015年04月26日 | 

点訳の校正をしています。
私は人のあらを探すのが好きだから、間違いを見つけるのは得意のはずですが、雑な性格のほうがまさっているようで、間違いを見落とすことがたくさんあります。
もっとも校正ミスをするのは私ばかりではないらしく、以前、点訳の3校をしてもらって、それでも訂正個所がかなりあったものです。
それだけ間違いだらけの点訳をした私が悪いわけですが。

小川洋子『ミーナの行進』だったと思いますが、本を読んでは誤字脱字を見つけ、それを出版社に手紙を書いて知らせるのが趣味という人物が出てきます。
私も本を読んでいて、誤字脱字を時々見つけることがあります。
プロの校正者だって見落とすんだ、ふふふという気持ちになります。

倉阪鬼一郎『活字狂想曲』は、印刷会社で校正の仕事をしていた怪奇小説家のエッセイです。

校正というのは誤字、脱字だけをチェックすればいいものではないことを知りました。
倉阪鬼一郎氏の仕事は広告の校正が多く、色やデザインが企画書どおりかをきちんと確認しなくてはいけない。
ところが、その企画書が印刷をよく知らない者が作っていると、もうお手上げ。
そういう愚痴話が楽しい本でした。

校正で思うのは、新聞です。

あれだけの量を毎日校正するのはただひたすらすごい。
新聞社は東京の本社だけでなく、大阪、北海道、西部などの支社によって記事が違い、同じ支社の中でも地域によって内容が異なり、同じ地域でも何刷りも発行するそうです。
それら何種類もある新聞の校正刷りをいちいち確認するとなると、その労力たるや想像を絶するじゃないですか。
おまけに、誤字、脱字だけではなく、不適切な表現も当然見落としてはならず、それは校正者の一存では決められないこともあるだろうし、そういう時は一体どうなるものやら。

図書館で借りた丸谷才一『青い雨傘』を見たら、驚いたことに目次のページが間違っていました。

「マエストロ! 48」からがなぜか間違っていて、すべて3ページほど少ない数字になっています。
それは私が発見したわけではなく、誰かが一つ一つ直しているんですね。

以前、少年向けシャーロック・ホームズ・シリーズのある作品を点訳していて、章の題と内容が一致しないことに気づき、たしか3章と5章だったかの題が入れ替わっていたことに気づいたことがあります。
そういうことでもないかぎり、目次なんて見ないし、ましてページ数を確かめることなんて普通しません。
校正の鬼が隠れたところにいるということに感動してしまいました。

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平生往生

2015年04月20日 | 仏教

これもずっと以前に書いたものにちょっと手を加えました。

飲みの席で、ある人が「平生往生じゃダメだ」と言っていて、どういう意味で使ってたかというと、「普段いい加減にしていたら、いざという時に困る」、もしくは「普段からきちんとしていたら何かの時に助かる」というふうな話なので、「平生往生とはそういうことじゃないですよ」と言ったら、「じゃあ、どういう意味なのか」と聞かれ、私は酔ってたもので(いいわけ)、うまく説明できませんでした。

「平生業成」の「業成(ごうじょう)」と「往生(おうじょう)」とは発音が似ているから、「平生業成」を間違えて「平生往生」と言うようになったのかと思っていたら違ってました。
どうも、親鸞は「平生業成」という言葉は使っていないようです。
「平生」すらも。
「平生業成」は存覚『浄土真要抄』に初めて使われたらしく、『浄土真要抄』には「平生往生」という言葉も出てきます。
いや恥ずかしい。

辞書を調べると「平生往生」という言葉は出てこないようです。

ビジネスマガジン(現在廃刊)というメルマガには「信頼というものは“チリも積もれば山となる”という諺のように、平生の努力の積み重ねが築き上げるのです。つまり、平生の真面目な生き様が、極楽往生につながるという仏教の教え通りです」とあります。
こういう意味で使う人がほとんどなのでしょう。

ヤフーで「平生往生」を検索すると、驚いたことに多くは広島、山口、島根、大分のHP(なぜか岐阜も少々)だということで、真宗門徒の多い地域で「平生往生」が間違った意味で使われています。


平成6年6月1日の衆議院商工委員会で、通商産業大臣畑英次郎君が国会答弁で「日本のお互いの生活の中で、平生往生という言葉がございますが」と言っていますが、畑大臣は大分選出。

国会議員の多くは理解できなかったのではないかと思います。
中原好治広島県会議員は「選挙は平生往生」という格言を紹介しているし、西川学名古屋市会議員の好きな言葉は「平生往生」だし、岩屋毅国会議員(大分3区選出)も選挙は「平生往生だ」と自分に言い聞かせるそうです。
政治家は間違った意味での「平生往生」という言葉がお好きなようです。

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植木雅俊『仏教、本当の教え』

2015年04月15日 | 仏教

植木雅俊『仏教、本当の教え』は教えられることが多々あります。
インドの言葉を漢字で音写する際には普段使わない字を借用した。
たとえば「仏陀」「釈迦」「涅槃」「菩薩」など。
仏典の漢訳のために、中国で漢字が造られた。
「魔」「獅子」「袈裟」「塔」など。
これは知りませんでした。

袈裟は糞掃衣と漢訳されている。
墓地に捨てられた死体をくるんでいた布を拾い集め、洗ってつなぎ合わせて衣にしたもので、死体の体液の染みで汚れて、黄赤色になっていた。
中村元氏の袈裟について書かれた文章が引用されています。

仏教では意識的に最下の階級であるチャンダーラと同じ境地に身を置いたらしい。仏教の修行僧は袈裟をまとっていたが、袈裟をまとうことは、古代インドではチャンダーラの習俗であったからである。


仏教用語が茶化されたり低俗化されたり、ふざけに使われたりしているとして、植木雅俊氏はこんな例を挙げています。
「右繞三匝」右回りに三べん回って合掌して敬礼するインドの挨拶の仕方。
仏塔は必ず右回りするし、ギリシャ正教にも取り入れられている。
しかし、日本では「三べん回ってワン」
「お釈迦になる」というと「台無しになる」「使い物にならなくなる」
たとえば「孔子になる」「毛沢東になる」という言葉が「壊れる」というような意味になることは考えられない。
「道楽」は「どうぎょう」と読めば「道(覚り)を求めようとする願い」、「どうらく」で「仏法の覚りの楽しみ」という意味。
しかし「道楽息子」というように、「酒色や博打にふけって身をもちくずした者」「怠け者」というふうに使われる。

仏教語は、「お釈迦」だけでなく、「お陀仏」「縁起が悪い」「立ち往生した」というようにいい意味としては使われないものが多いのですが、それは仏教=死と連想されたからでしょう。
それはわかるとして、「分別」「言語道断」「我慢」などのように、本来の意味とは全く逆の使われ方をしている仏教語が少なくないのはなぜでしょう。
森章司編『国語のなかの仏教語辞典』を見ると、「言語道断」は平安時代より、あまりにもすばらしくて言葉では表現し難いという意味と、あまりにもひどくて言葉では表現し難いという意味の両方に用いられたとあります。
「我慢」が忍耐という意味に使われるようになったのは近世後期とのこと。
キリスト教やイスラム教でも専門語が違った意味で使われることがあるのか、興味のあるところです。

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江田島中国人実習生8人殺傷事件

2015年04月10日 | 死刑

2013年、江田島市で中国人実習生による殺傷事件が起き、2人が死亡しました。
陳双喜被告は死刑になるだろうと思っていましたが、検察は無期懲役を求刑しました。
不思議に思ってたら、土屋信三「江田島事件の裁判員裁判始まる」に、この殺傷事件を外国人技能実習生制度と切り離して扱うことは大きな誤りを犯すことになると書かれていて、こういうことかと納得しました。

技能実習生制度は「現代の奴隷制度」であり、「人身売買」に他ならない。
低賃銀労働力として外国人技能実習生が利用されている。
月に手取額は7~8万円、残業代は時給300~400円。
しかも、給料や残業代がきちんと支払われないことがある。
有給休暇を認めない職場もある。

就労の自由、転居の自由を奪われた実習生たちは、どんなにひどい労働条件や住環境にあっても、非人間的な扱いをする事業主に雇われても、3年間は逃げ出すこともできずに我慢しなければいけない。
ある中国人女性実習生が事業主から1年以上にわたって執拗なセクハラを受け、警察に被害届を出したら、寮を叩き出され、解雇された。

裁判では被告側証人の鳥井一平氏が、前借金を抱えた実習生たちにとって解雇や強制帰国がどれほどの脅威なのか、異国で生活するうえでの不安や言葉の問題、孤立と孤独、現実に行われている違法、脱法行為を証言した。
裁判後、被害者や被害者遺族は「裁判を通じて技能実習生制度のずさんさも感じました。私たち遺族と母は、陳被告と制度の問題に見て見ぬふりをしてきた国や関係者の犠牲になった」とコメントしている。

また、陳被告は知的障害があり、一度にたくさんのことを処理できないため、仕事が遅く、仕事の段取りが悪かったことで馬鹿にされた。

2015年3月に出された判決は無期懲役だったが、技能実習生制度との関連をまったく認めなかった。

一人の人格を持った外国人労働者として対応すべきである。労働条件にしても日本人と同等の待遇にすべきであろう。このことは制度の中にも、建前として謳われていることである。就労の自由や移動の自由を認めれば、崩壊するような制度自体がすでにおかしいのである。

このように土屋信三氏は書いています。

罪を許すべきだというわけではもちろんありません。

われわれは、陳双喜被告が犯した犯罪行為を免罪せよと主張しているのではない。しかしながら、建前だけは立派なことを言いながら、その実、最低賃金で、しかも差別的扱いを強要するような実態を無視して、問題を扱うことはおかしいと主張しているのである。

ネットで技能実習生制度を調べたら、日弁連は実習制度の廃止を求める意見書を政府に出しているし、国連も批判していることを知りました。
労働環境がもっといいものだったらこういう事件は起きなかったかもしれないと思いました。

陳双喜さんを死刑にして終わりという問題ではない。「現代の奴隷制度」「人身売買」と批判されている、この技能実習生制度をなくすことをもって、今回の悲劇的事件を総括していく必要がある。そうでなければ、また同じ悲劇が、形を変え、姿を変え繰り返されることとなるだろう。
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因果関係について

2015年04月05日 | 日記

ベン・ゴールドエイカー『デタラメ健康科学』の「なぜ賢い人がばかなことを信じるのか」に、思考の錯覚が6つあげられています。
その1 規則性のないところに規則性を見出す
その2 何もないところに因果関係を見出す
その3 仮説に合う情報を重視する
その4 すでにもっている信念に影響される
その5 思いだしやすい情報を重視する
その6 集団に影響される

スロットマシーンで当たりが出ると、にぎやかな音楽とともにコインがはじき出され店内の誰もがふり返るが、だが外れたときにはひっそりとしている、という例をベン・ゴールドエイカーはあげています。

思考の錯覚はなぜ迷信を信じるかということにも当てはまります。

風が吹いたら木の葉が揺れるのであって、木の葉が揺れることで風が吹くのではない。
同じように、ニワトリが鳴くから太陽が昇るのではないし、友引に葬式をすることで人が死ぬのではない。
ところが、そこに規則があり、因果関係があるように思い込んでしまう。

後知恵バイアスといって、「だからそう言ったでしょ」とか、「あの時に株を売っておくべきだった」「もっと慎重に運転していれば」というように後からいい知恵を思いつくバカの後知恵、下種の後知恵は、因と果を最初から知っていたという思い込みだそうです。


ある出来事に規則性があるのか、因果関係があるのか、そこらの判断は難しいようです。

筋肉バカという言葉があるように、筋肉の量と脳みその重さは反比例するという俗説があります。

池谷裕二『脳には妙なクセがある』に引用されているイリノイ大学のヒルマン博士ら研究では、それは間違いのようです。

公立小学校の三年生と五年生について運動能力と学力の関係を調べたところ、運動が得意な生徒ほど、勉強の成績もよいことがわかった。
逆に、肥満気味の生徒は学業の成績が低い傾向がある。

ここで池谷裕二氏は「デブはアホ」と短絡的に解釈してはいけないと注意します。

「肥満と学業は反比例」するという統計学的傾向(有意な相関)があるが、統計学的傾向は因果関係を示すものではない。
関係はあっても、因果関係があるかどうかは別です。

薬指より人差し指が短い人のほうが株取引で儲け上手だと、池谷裕二氏は書いています。(私も人差し指が短い)

指の長さは胎生期に浴びたテストステロン(男性ホルモンの一つ)の量を反映している。
誕生前にテストステロンに多く曝されると、自信に満ちたタイプになり、危険を好み、ねばり強く調査し、注意深くなり、反応や動作が速くなる傾向がある。
指の長さと性格は関係があるとなると、手相も科学的根拠があるのでしょうか。

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