三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

『生老病死の教育観』(2)

2005年10月31日 | 仏教

京都光華女子大学のセミナーの趣旨を編者である太田清史氏は『生老病死の教育観』で次のように言っている。

今日わが国を襲いつつある心理療法の波に対して、日本の精神風土の基底にある仏教的真理の視点から検証を加え、心理治療の授受のあり方に一考を促して、両者が本来持っている人間成就の働きを補完することを、本書が一つの目的としている。

心理学やカウンセリングによって真宗を解釈するのではなく、真宗の立場から心理学やカウンセリングを考えるということだと思うが、阿満利麿氏以外はどうもおかしい話が多い。

このセミナーでは老松克博というユング派の先生の講義も行われている。
オカルトや神秘主義に親近性の強いユングに対して、真宗の立場から批判的であっていいのではないかと思うのだが、老松克博氏の講義は仮説ばかりである。
たとえば、スーザン・バッハ『生命はその生涯を描く』を紹介し、魂は自分の命があとどれくらいかを知っており、その人の絵には自分の死期を表していると話している。
興味深い話ではあるが、病気の子供が死んだあとになってから、その子が描いた絵を見て、あれこれ解釈するわけだから、全くの結果論、どうとでも言える。
「仏教的真理の視点から検証を加える」というのなら、カウンセリングと宗教とはどう違うのか、唯識(アラヤ識・マナ識)と深層心理の違い、こころ・魂を仏教ではどう考えるか、といったことを取り上げてもいいのではないかと思う。

そして、臨床療法士の太田清史氏はこんな話をしている。

臨床心理士としてセラピーのケースを持っています。そこで現実の人間の死生観にたびたび直面します。その時に一番大きく返ってくる反応は、死は怖い。恐怖があります。「死んだらどうなりますか」と聞いてみると、ほとんど画一的に「死んだらおしまいです。死は無です。虚無です。こんな恐ろしいことはありません。死のことを考えるだけで頭がおかしくなります」と、ほとんど全員が答えられます。死に対してポジティブなイメージはありません。死はすべての人生の最期である。ひたすらそれから逃れるために、日夜不安を抱いて生きている。不安とか恐怖、恐ろしいという概念の背後には必ず死があります。死は人生すべての最期、虚無としての死でしかなく、死の中には肯定的な面はありません。
ところが、仏教の世界はそこが違います。私たちは死んでも死なない。死は人生の中の一つの出来事なのだという教示をしてくれるわけです。親鸞は「念仏往生」、「往生浄土」と言います。臨終の時、一瞬の隔ても置かずに、すぐに生まれる。パラダイスなのか、ヘブンなのか、これについては議論のあるところで、キリスト教の世界とは、かなり価値観の違いがあります。少なくとも死んで私たちは終わるのではない。生は死後の世界においても全うされていきます。個体としての肉体は人生七十年、八十年で費えてしまいますが、私という存在の本質はなくなりません。


「死んだらおしまいです。死は無です。こんな恐ろしいことはありません。死のことを考えるだけで頭がおかしくなります」と訴える人に会ったことはない。
そりゃ、ガンになったり、脳卒中になったりした時、すごく落ち込んだと多くの人が言う。
死ぬのが怖いのは当たり前の話である。
かといって、死後往生を確信しているから死が怖くないという人がいたら、かえって不気味である。

最近つくづく思うのが、亡くなっていく人はえらいなということである。
肉体的、精神的にすごくしんどいだろうと思う。
私は胆嚢摘出手術の翌日は丸一日寝ていたが、マンガを読む気もしなかった。
身体が動かせず、うつらうつらしながら天井を見ているだけ。
この状態がずっと続くんならたまらんなと思った。

しかし、家族を亡くされた方にお聞きすると、亡くなった方が自分の病気について家族に問いつめたり、取り乱したり、わがままを言ったりということはあまりないらしい。
ご主人をガンで亡くされた方がこういうことを言っておられた。
このご主人は「死んだらおしまい。無になる」と若い時から言っていた。
病名を告知され、治療についての説明も受け、ご自身も本を調べたりしていたが、取り乱したりすることはなく、いつも淡々とされていたそうだ。
奥さんは、夫は死の直前まで自分の死ということについて現実感がなかったのではないか、自分の死をちゃんと受け止めていたのかどうかわからない、まわりから見てどんなに絶望的な状況であっても、病人自身は自分の死が近いとは考えないのではないか、と話された。
死の問題が解決しないかぎり宗教はなくならないと、どこかで読んだが、現実には死の問題は解決しているのかもしれない。

それと太田清史氏は「少なくとも死んで私たちは終わるのではない。生は死後の世界においても全うされていきます。個体としての肉体は人生七十年、八十年で費えてしまいますが、私という存在の本質はなくなりません」と言っているが、「私という存在の本質」を我として否定した(無我)のが仏教ではないか。
死んでも死なないと信じ込んで死を受け入れるのは仏教ではない。

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『生老病死の教育観』(1)

2005年10月29日 | 問題のある考え

某氏より『生老病死の教育観』という本をいただく。
京都光華女子大学のセミナーの中から、6回分の講義録をまとめたもの。
そのうち二篇が阿満利麿氏のもので、いつもながら刺激的です。

こんなきついことを言っています。

心理学やカウンセリングの心理療法で死の問題は超えられません。

カウンセリングで救われるのなら宗教は不要だと私も思います。

現代という時代は、人間の悩み、不幸、苦しみ、不条理をカウンセリングが解決しようとします。有限の世界では手に負えない問題を、有限の世界の心の持ち方で解決しようとします。しかし、それはすぐに破綻することだと思います。

『生老病死の教育観』のサブタイトルが「仏教と心理療法」なのだが、それを知ってか、阿満利麿氏はカウンセリング批判をしているわけです。

「仏教の性愛観」という講義では、冒頭でこんなことを話している。
オウム真理教の裁判で、裁判官がある被告には無期懲役だったのに、別の被告には死刑の判決を下した。
被告の改悛の情が深いかどうかが基準だったそうだ。
阿満利麿氏はそれは道徳の立場だと言う。

人間には、改悛したくても改悛できないような人間もいる。宗教の立場は、改悛できない人の、できない理由を認めるのであり、したがって、宗教の立場からいえば、死刑制度はあり得ない。

宗教の立場からは死刑は認められないとはっきり断言しているわけで、心強く感じました。

そして講義の最後に、

狂ったからといって絶望することがないということを教えてくれる世界、それが宗教の世界であって、道徳は絶対に許さないわけです。これは、最初に申しあげました死刑囚と無期懲役囚との違いの問題です。

宗教と道徳は違うのなら、宗教では刑罰をどう考えるかと思った。

それともう一つ、日本人は出家や漂泊が好きだということを阿満利麿氏は言う。
出家や漂泊することで、煩悩から解放される生き方をよしとする傾向が、日本人にはあるそうだ。
山頭火や良寛さんみたいに自然と一体化する生き方に憧れますからね。
煩悩が浄化されてなくなるというより、煩悩がそのまま聖化するとでもいうか。
罪もこうした形で解放される場合もあるということだろう。

だが、法然、親鸞はそういう道を選ばなかった。

自然と一体感を得ることによって、さまざまな人生の危機や死の問題を超えていく道があるのではないかと申しましたが、それだけで超えていけるなら世の中の宗教は必要ではありません。

と阿満利麿氏は言う。
私が思うに、「自然との一体感」とは情であり、情では行き詰まる。
では、宗教ではどのように超えていくのか。

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エンゲイジド・ブッディズム

2005年10月27日 | 仏教

某氏よりいただいた『行動する仏教 エンゲイジド・ブッディズムの動き』というブックレットに、阿満利麿氏の講演録「社会をつくる仏教」が載っている。
阿満利麿氏の文章はいつもながら刺激的でした。
中でも、京極逸蔵(1887-1953)という西本願寺の開教使が紹介されていて、こんな人がいたのかと驚いた。

真宗では、すぐに「できない」とか「それは自力だ」とか言うわけだが、京極逸蔵師は真宗の信者は「他力の縄」に縛られすぎているのではないかと言われたそうだ。

なすべきことができない我が身を恥じて懺悔するというのが、念仏者の一番大事なことではないのか。

  

凡夫はなにごとにつけてもすぐ行き詰まってしまう。そこから真宗が始まるのだ。私たちの心のなかに、懺悔ということが生じてくる。その懺悔が不思議なことにふたたび仏道実践の勇気を奮い起こしてくれる。

仏法を聞いたら変わるか、あるいは変わらないか、このことについていろいろ意見があるが、真宗ではたいていの場合、「根性は変わらない」と言う。
変わらないのだったら仏法を聞いても意味がないじゃないかということになるわけで、そのあたりどうなのかと頭を悩ましていたが、そうか、懺悔かと少しわかった気になった。

もう一つ、読んでいて、なるほどと思ったことがある。
というのは、私は空回りばかりだ、ダメだとくじけることはしょっちゅうである。
しかし阿満利麿氏は言う。

人が無力であるということはわかりきっている。その無力で非力な人間が、平和を願い続ける。そういう願いに生きることができる力をもらっていることこそ、他力の信心を得ている証拠ではないのか。その行動は、いつでも挫折と懺悔と敗北を結果するでしょう。しかし、そうなったとしても、また本願力を仰ぎ、再び勇気を奮い起こして立ちあがる。それでも、また挫折を繰り返す。どこまでもどこまでも、そうした挫折と再起との繰り返しでありましょうが、しかしそれこそが、我々凡夫の、「願いの捨て石」となって生きるすがたにほかなりません。

少し元気が出た。
またすぐにくじけるだろうけど。

エンゲイジド・ブッディズムとは、「行動する仏教」「社会をつくる仏教」「社会をつくり変える仏教」というような意味だそうだ。
仏教の向かうべき方向を示しているのではないかと思う。
スピリチュアルのように心の世界に閉じこもり、本当の自己に目覚めたらその世界は愛と光に満ちている、すべてはつながっている、というような脳天気な話とはもう縁を切ってほしいものです。

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平野修『念仏の教え』

2005年10月25日 | 仏教

平野修先生の本は、「南無阿弥陀仏とはどういうことか」とか「念仏とは何なのか」というごく基本的な質問を出発点として話論が進んでいく。
普通は、そういう基本的なことはわかったこととして話していくわけだが、実は一番わかっていない。
本願とか浄土とかを説明しろと言われても、簡単にはいかないですからね。
そんなもんで、平野修先生の本を読みながら、そうそう、そこを聞きたかったんですと、いつも思う。

といっても、平野修先生の本を読んだからといって、すっきりと理解できたというわけにはいかない。
だが、こういうことかなという方向が、何となく見えてくる気がする。

またその一方で、ますますわからなくなることもある。

たとえば『念仏の教え』では、「すべてを如来にお任せします」ということを真宗ではよく言うのだが、これは、とやかくはからいをしないという形で、自分の心を無にしていくという考え方であり、浄土真宗でいうところの念仏とは違う、と言われる。
これはいささか困ったことでして、というのも私は、阿弥陀仏に任せることによって、自ずと執着を離れることになると思っていたからである。

なぜ「お任せする」ということが浄土真宗の念仏とは違うのか。

平野修先生によると、自分自身を消していく、無くしていくという方向にあり、自分自身が問題になっていないからである。
たしかに、如来に任せたら自分の問題がなくなるかというと、そうはいかない。
現実の自分は変わらないままである。
これをどう考えたらいいか、私の力ではいかんともしがたい。

だが、一つ思ったことは、平野修先生はこの時ガンにかかっていて、もう自分は長くないことを自覚していたのだろうと思う。

もうじき死ななければならない平野修先生にとって、「如来におまかせする」というのは救いとは違うと感じられたのかもしれない。
ギリギリのところで立ちあがる力、それが南無阿弥陀仏だと考えられたのではないかという気がする。
あるいは、「如来におまかせ」というのは単なる心の問題にすぎない、真宗の教えは心のもちようではないということだろうか。

そんなことをあれこれと考えてしまう。

というわけで、そこが平野修先生の本の刺激的なとこである。

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マイク・リー『ヴェラ・ドレイク』

2005年10月23日 | 映画


『ヴェラ・ドレイク』を見ながら、主人公であるヴェラは60歳ぐらいで、その娘は30代後半かいな、と思った。

ところが、ヴェラが「結婚以来27年間、いっぺんも指輪を外したことはない」と言うもんだから驚いた。
ええっ、だとすると娘は26歳か。

調べてみると、ヴェラ役のイメルダ・スタウントンは1956年生まれの48歳。
たぶん、ヴェラもそれくらいの年という設定だろう。
となると、夫は50ぐらい、夫の弟は40歳か。
娘が26歳となると、婚約者は30前後だろうが、オッサンに見える。
『ヴェラ・ドレイク』は老顔俳優の総出演という感じである。

私は30歳の時に「還暦ですか」と聞かれた経験があるので、老顔俳優は何かしら他人とは思えない気がする。

もっとも、『ヴェラ・ドレイク』は1950(昭和25年)が舞台だから、髪型や服装その他も老けて見える理由だとは思う。
サザエさんのお父さんが40代でも違和感のなかった時代ですからね。



で、イメルダ・スタウントンという女優さん、『ピーターズ・フレンズ』が映画初出演。
『ピーターズ・フレンズ』は、大学時代の友達が久しぶりに集まって、という一時はやった設定の映画で、イギリス風の味わいがあった。
イメルダ・スタウントンはこの映画ではCMソングの歌手という役で、お世辞にも美人とはいえないイメルダ・スタウントンが、すごくきれいな声で歌ったのには本当にびっくりした。
歌ったのはちょっとだけで、もっと聞きたいと思ったほどだ。
『ヴェラ・ドレイク』でも歌を披露してくれたらよかったのに。

北林谷栄という女優さんは老女役ばかりしているが、1911年生まれで、『キクとイサム』のおばあさん役の時が48歳、イメルダ・スタウントンと同い年だったんですねえ。
イメルダ・スタウントンも北林谷栄みたいな女優になってもらいたいものです。

(追記)
婚約者のエディ・マーサンは1968年生まれ、36歳でした。
 

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相馬公平『おとうさんの絵』

2005年10月21日 | 

娘が幼稚園の時、父の日のためにお父さんの絵を描きましょうというので描いた娘の絵は、私の髪の毛がふさふさだった。
娘なりにまずかったと思ったのだろう、「間違えて髪の毛を描いてしもうたんよ」と一生懸命言い訳を言ってた。
かわいそうだった。
ほかの子は髪の毛ふさふさのお父さんを描いているんだろうし。

娘たちと食事を行って、隣に座ったオバサンが「おじいちゃんと一緒でいいね」なんていらぬことを言い、どう答えていいかとまどう経験を何度かしたことのある娘としては、髪の毛ふさふさの父親に憧れるのはよくわかる。
こういう時、子どもに対して申し訳ないとと本当に思う。

相馬公平『おとうさんの絵』という絵本。
周平(小学校高学年か)は図工の時間に「一番好きな人の絵をかきましょう」というのでお父さんの絵を描いた。


しかし周平のお父さんははげている。
お父さんがはげていることをみんなに知られたくなかった周平は、髪の毛を描き加えた。
私の娘と同じである。
ところが、周平はお父さんに対して悪いと思った。
「ぼくのかいたおとうさんはぼくのおとうさんじゃない」

そして、お父さんと野球をしていて、周平は「おとうさんはかっこういいなあ、と心からおもった」
めでたし、めでたし。

この本は「同朋」で紹介されていたが、紹介した人はハゲではないと思う。
私のように運動神経が鈍いハゲのお父さんは救われません。


 

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宮本輝『春の夢』

2005年10月19日 | 問題のある考え

某氏が宮本輝『春の夢』を読んで親鸞に興味を持ったと言うので、読んでみた。
『春の夢』は宮本輝の自伝的小説である。
主人公の恋人がすごくいい感じで、こういう人と結婚したかった。

主人公の友達に『歎異抄』好きがいて、主人公は親鸞=『歎異抄』をけなすわけだが、まあ、それはいい。

『春の夢』を読んで、ゲゲゲと思ったのは、ある老婆の死についてである。
恋人の知り合いに京都に住む老婆がいる。
ものすごく豪壮な邸宅(建物は200坪以上、庭は2300坪)に住んでいるこの老婆、ある金持ちの妾だった女性である。
人生に達観している、そういう描写がされている。
若い二人の精神的指導者、そんな人かなと思った。

で、この老婆が急死する。

ところが、その死に顔たるや、鳥肌が立ち、主人公は思わず声をあげそうになるほどだった。
「肌の黒ずんだ、異様なほど苦悶に歪んだ、醜悪な死顔であった」
どうして宮本輝は老婆の死に顔をそんな醜いものにしたのだろうか。

で、恋人がですね、「私、ほんとは、沢村千代乃(老婆の名前)って人、嫌いやったの」と言うんですな。
どうしてか。
「ずっと前に、何かのフランス映画で、あいつは人殺し以外ならなんでもやって来た女だっていうセリフがあったのを覚えているの。沢村のお婆さまと初めて逢うたとき、私、そのセリフを思いだしたの。この人は、きっとそんなひとやろうなァって気がしたの」
さらにはこんなことまで言う。
「演技して、一所懸命善人ぶったり、物事を超越して生きてる振りをしてはるような気がしたわ」
もうボロクソ。

だったら、そんな老婆をどうして主人公(とドイツ人老夫婦)に紹介したのかと文句が言いたい。
なのに主人公は、死に顔のすさまじさはかぶっていたお面を全部外したからだ、という感想を持つわけですよ。
お前ら、いったい何様のつもりか、人を非難できるほどのご立派な人間か、とそれまで極めていい雰囲気だったから、余計に腹が立つ。
こんな女より老婆のほうがよっぽどましである。

で、ネットで調べてみると、宮本輝は創価学会の会員なんだそうですね。
老婆は生前に悪業をしていて、それが死ぬ時に顔に出たのだということ、これは創価学会の教義そのものなんだそうだ。
当然のことながら、いっぺんに宮本輝が嫌いになった。
で、某氏であるが、こんな主人公が非難するのだからと、親鸞=「歎異抄」に興味を持った気がする。

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『キリシタンが見た真宗』

2005年10月17日 | 仏教

真宗海外史料研究会『キリシタンが見た真宗』という本は、日本にキリスト教が伝来し、そして鎖国するまでの約100年間に、イエズス会の宣教師が書き送った報告や手紙の中から、一向宗に関する記事を調べたものである。

宣教師の見た真宗。

これらの人びと(一向宗の信者)は甚だ無知です。そして彼等のその無知と彼等が信じている誤謬のために、彼等を論破することは容易です。

本願寺住職の評価。

此の人(顕如)は公に多数の妻を有し、又他の罪悪を犯せども、之を罪と認めず。

禅宗の僧侶。

これらの人びと(禅僧)は偉大な瞑想家です。この理由により、当地方へ来る予定のパードレ達は彼等をその誤謬から解き放ち、また彼等を論破するために学識をそなえていることが必要です。

真宗の坊さんは普通の人と変わらないし、その信者はアホだ、しかし禅僧は優れていると報告しているのである。
門徒さんについてはともかく、こうした坊さんのイメージは今も昔も同じじゃなかろうか。

で、宣教師たちは、一向宗の信者なんてアホだ、すぐに改宗できる、と思っていた。
ところが、一向宗の信者は手強かった。
キリシタンの見た一向宗の門徒と現代真宗坊主との違いは、念仏の教えに対する自信だと思う。
現代真宗坊主は真宗に自信を失い、真宗を見失っているのかもしれない。
何かあると無力感に陥り、すぐにひよってしまい、カウンセリングやスピリチュアルとかに流れてしまう。

女子高生コンクリート詰め殺人事件の主犯格の両親が、事件発覚した後、四国八十八ヵ所をまわった、という話をどこかで読んだ。
この気持ちはわかる気がする。
私だって同じ状態になれば、自分の抱えている問題が何らかの行をすることで解決することを求め、写経したり、禅堂に入ったりようと思うだろう。

じゃ、真宗ではダメなのか。
真宗の救いは日常の救い、生活の中の救いであって、特別な場所、特別な時間における救いではない。
だから、真宗の教えこそ本当の救いになるはずなのだが。
それと、行を行うということは、世間の目に対し、こんなに反省、懺悔しているんですよという表現でもある。
念仏を称え、聞法し、ということでは世間は納得しないだろうな、という気持ちが私にもある。

宣教師の文書に次のようなことが書かれている。

いかに罪を犯そうとも、阿弥陀や釈迦の名を唱え、その功徳を確信しさえすれば、その罪はことごとく浄められる。したがってその他の贖罪(行為)等はなんらする必要がない。

いざという時に、真宗が生きる力となるかどうかだと思う。

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「いのち」と「場の力」(3)

2005年10月15日 | 問題のある考え

嵩海史「場の力」という文章は、帯津良一、田口ランディという両氏の怪しげな主張をまともに信じているように思える。

場の力は、私たちの生活に潤いをもたらし、それをいただかなければ、人の生は枯れてしまう。極めて日常生活に即していて、それでいて人間のはからいを超えたはたらきを言わんとしている。「真宗、仏教の言葉が生活から遊離しがちである」としばしば指摘されるが、どうすれば、それらが私たちの生活感覚に響いてくるようになるのか。その手がかりとして、「場の力」はどうだろう。学ぶ点の多い、極めて有益な概念なのではないか、と最近感じている。

どこが「有益」なのか、私としてはわからない。

嵩海史氏は、「場の力」は「うまくその意味を言語化できない言葉」だと言っている。
内科医の小内亨氏が「自己治癒力」について、

言葉の意味自体が曖昧なため、インチキなものを説明するにはもってこいの言葉です。この言葉を用いることによって、なんだか分かったような気にさせ、しかも、科学的な証明も必要とせず、はっきりと反証もできない状態にさせます。

と書いているが、「場の力」にも当てはまる説明である。

どういう意味にもとれる言葉で真宗や仏教を伝えようとすることは危険だと思う。
もっと困ったことは、真宗や仏教に関心のある人が親鸞仏教センターの講演を聴くなどして、真宗とはスピリテュアルなことに親近性があるんだなと勘違いするかもしれないということである。
浄土真宗の人がニューエイジやスピリチュアルの立場に立つ人の話を聞いて、どうしようというのだろうか。
批判的に聞くならともかく、ありがたがって聞いても、親鸞仏教解明の糸口にはならない。

親鸞仏教センターや真宗会館が、東京という宗教砂漠の地で親鸞の教えを伝えようとして、悪戦苦闘していることは理解できる。
仏教に関心のない人にも通じる言葉を模索していることもわかる。
今までのやり方では通用しなくなっている、だから新しい方法を求めること自体は誤りではない。
しかし、それは手法の問題であり、教えそのものを変えていいことにはならない。

スピリテュアルなことやニューエイジ的な考えが親鸞に通じると無批判に思い込み、そうした思潮にすり寄るのでは、真宗を捨て去ることになる。
親鸞仏教センターや真宗会館といった公の場所から、仏教や親鸞が否定している考えを発信することは、結局のところ害毒をたれ流し、真宗をダメにしてしまう。
そちらのほうに私は危機感を感じる。

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「いのち」と「場の力」(2)

2005年10月09日 | 問題のある考え

嵩海史「場の力」には帯津良一氏についてふれている。

帯津良一先生(帯津三敬病院名誉院長)は、(略)医療の現場から「場には力があり、それが弱まっているときには、患者さんたちの身体の状態がすぐれない」とおっしゃっている。


帯津良一氏の言う「場の力」とは何か、帯津三敬病院のHPを見ました。
すると、「ホリスティック」という言葉が出てきて、私としては一歩引いてしまった。
帯津三敬病院HPの「ホリスティックとは?」というページでは、次のような説明がされている。

①ホリスティック(全的)な健康観に立脚する
人間を「身体・心・気・霊性」等の有機的統合体ととらえ、社会・自然・宇宙との調和にもとずく包括的、全体的な健康観に立脚する。
②自然治癒力を癒しの原点におく
生命が本来自らのものとしてもっている「自然治癒力」を癒しの原点におき、この自然治癒力を高め、増強することを治療の基本とする。

「気」とか「宇宙との調和」なんて言葉はちょっと気になるが、まあいい。

「自然治癒力」という言葉、よく聞くので、私もなんの疑問も持っていなかったが、小内亨さんという内科医のHPの「怪しい言葉」を見ると、こんな説明がされている。

医学的にはこのような言葉は、一般的に用いられません。恐らく皆さんは、「人のもって生まれた病気を改善させる力」と解釈されるでしょうが、この力は免疫力や傷を治す力などかなり広範囲のものを指していることになります。突き詰めて考えてみるといよいよ分からなくなります。言葉の意味自体が曖昧なため、インチキなものを説明するにはもってこいの言葉です。この言葉を用いることによって、なんだか分かったような気にさせ、しかも、科学的な証明も必要とせず、はっきりと反証もできない状態にさせます。
このように漠然とした言葉を使って説明をすること自体が、その治療法の怪しさを示しているのです。

そうだったのか。
だが、これはまだまだ序の口。

帯津三敬病院ではさまざまな代替療法を行なっている。

東洋医学(漢方、鍼灸、気功など)全般、食養生、ホメオパシー、アロマテラピー、カイロプラティック、各種サプリメント、呼吸法、太極拳などの他、医療・療法としてはまだ認知されていない様々な療法が入ります。

代替療法の多くは効果が証明されおらず、疑似科学とされている。
その一つがホメオパシー

「もちろんこれらの考えを支える西洋医学的根拠はまだ充分ではありません。しかし現在医学のなかで、これほどホリスティック、つまり人間まるごとを見る医学はない。ホリスティック医学を目指す者にとって、ホメオパシーを避けて通ることは出来ません。
現在、日本にホリスティック医学を成就させるためには、ホメオパシーの普及が不可欠であり、そのホメオパシーを普及させるためには、まず医師の意識を高める考えから、2000年の1月に、幾人かの同士が集まって日本ホメオパシー医学会なる医師だけの会を発足されています。
その医学会の活動を通して、医師の質が向上するために、つまり日本の医療レベルがアップするためにはホメオパシーが必要であるとの認識が強まっています。


ホメオパシーとは何か、ウィキペディアの説明です。

ある症状を持つ患者に、もし健康な人間に与えたら、その症状と似た症状を起こす物質を薄めて、わずかだけ与えることによって、症状を軽減したり治したりしようとする療法のことである。


その物質を薄めれば薄めるほど治療効果は強くなると言うのだが、帯津三敬病院HPの理由の説明がすごい。

これが徹底しているのです。一兆倍以上に薄めて、薬剤の成分が一分子も含まれないような液にしてこれを用いるのです。一分子も含まれてないのでは、ただの水ではないか。それがどうして効くのかと、誰でも疑問に思います。ではホメオパシー側の言い分はどうなのでしょう。
ホメオパシー側ではこのことを、「徹底的に薄めることによって薬剤の物質性が排除されて、薬の霊魂だけが残ります。これが効くのです」と言うのが、ホリスティック側の言い分です。
これを額面通りに受け取ってしまうと、「それみたことか。霊魂なんて言って、私たちが求めているのは医学なんですよ、宗教ではないのですよ」と、西洋医学側からのホリスティック医学に否定的な陣営からの非難に、火に油を注ぐ結果になってしまいますが、霊魂といっても世間でいうような、おどろおどろしいものではありません。
霊魂とは「いのち」の場のエネルギーです。ホメオパシーで用いられる薬剤はレメディ(Remedy)と呼ばれ、わずかな例外を除いて、自然界にあるもの-植物も、動物も、鉱物も、そのまま使います。
そのレメディの持つ場のエネルギーが、与えられた者の「いのち」の場に働いて、このエネルギーを高めるのです。

私はこれを読んでのけぞってしまいました。
こんなことをまともに信じる人がいるのが本当に不思議です。
親鸞仏教センターの方たちがどう思っているのお聞きしたい。
もとの物質の分子が一つもないような水は、ただの水にすぎない。
メリケン粉を薬だと信じて飲むのと同じことで、仮に治ったとしても、プラシーボ(偽薬)効果によってである。
私は「日本の医療レベルがアップするためにはホメオパシーが必要であるとの認識」を持つ医者になんか診てもらいたくないです。

で、帯津三敬病院HPに「霊魂とは「いのち」の場のエネルギーです」と、「いのち」と「場のエネルギー」がちゃんと書かれている。
嵩海史氏はこれを読んで、「いのちの実感」やら「場の力」と書いたのかと心配になる。
おもしろいと思ったのは、帯津三敬病院HPによると、生物ではない物質にも「霊魂=霊性」があるとしていることである。
「いのち」や「場の力」とは、現代科学では測定できないが、必ず存在する未知のエネルギーだと、帯津良一氏は考えているのではないか。
他力とはまったく関係がない。

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