京都光華女子大学のセミナーの趣旨を編者である太田清史氏は『生老病死の教育観』で次のように言っている。
心理学やカウンセリングによって真宗を解釈するのではなく、真宗の立場から心理学やカウンセリングを考えるということだと思うが、阿満利麿氏以外はどうもおかしい話が多い。
このセミナーでは老松克博というユング派の先生の講義も行われている。
オカルトや神秘主義に親近性の強いユングに対して、真宗の立場から批判的であっていいのではないかと思うのだが、老松克博氏の講義は仮説ばかりである。
たとえば、スーザン・バッハ『生命はその生涯を描く』を紹介し、魂は自分の命があとどれくらいかを知っており、その人の絵には自分の死期を表していると話している。
興味深い話ではあるが、病気の子供が死んだあとになってから、その子が描いた絵を見て、あれこれ解釈するわけだから、全くの結果論、どうとでも言える。
「仏教的真理の視点から検証を加える」というのなら、カウンセリングと宗教とはどう違うのか、唯識(アラヤ識・マナ識)と深層心理の違い、こころ・魂を仏教ではどう考えるか、といったことを取り上げてもいいのではないかと思う。
そして、臨床療法士の太田清史氏はこんな話をしている。
ところが、仏教の世界はそこが違います。私たちは死んでも死なない。死は人生の中の一つの出来事なのだという教示をしてくれるわけです。親鸞は「念仏往生」、「往生浄土」と言います。臨終の時、一瞬の隔ても置かずに、すぐに生まれる。パラダイスなのか、ヘブンなのか、これについては議論のあるところで、キリスト教の世界とは、かなり価値観の違いがあります。少なくとも死んで私たちは終わるのではない。生は死後の世界においても全うされていきます。個体としての肉体は人生七十年、八十年で費えてしまいますが、私という存在の本質はなくなりません。
「死んだらおしまいです。死は無です。こんな恐ろしいことはありません。死のことを考えるだけで頭がおかしくなります」と訴える人に会ったことはない。
そりゃ、ガンになったり、脳卒中になったりした時、すごく落ち込んだと多くの人が言う。
死ぬのが怖いのは当たり前の話である。
かといって、死後往生を確信しているから死が怖くないという人がいたら、かえって不気味である。
最近つくづく思うのが、亡くなっていく人はえらいなということである。
肉体的、精神的にすごくしんどいだろうと思う。
私は胆嚢摘出手術の翌日は丸一日寝ていたが、マンガを読む気もしなかった。
身体が動かせず、うつらうつらしながら天井を見ているだけ。
この状態がずっと続くんならたまらんなと思った。
しかし、家族を亡くされた方にお聞きすると、亡くなった方が自分の病気について家族に問いつめたり、取り乱したり、わがままを言ったりということはあまりないらしい。
ご主人をガンで亡くされた方がこういうことを言っておられた。
このご主人は「死んだらおしまい。無になる」と若い時から言っていた。
病名を告知され、治療についての説明も受け、ご自身も本を調べたりしていたが、取り乱したりすることはなく、いつも淡々とされていたそうだ。
奥さんは、夫は死の直前まで自分の死ということについて現実感がなかったのではないか、自分の死をちゃんと受け止めていたのかどうかわからない、まわりから見てどんなに絶望的な状況であっても、病人自身は自分の死が近いとは考えないのではないか、と話された。
死の問題が解決しないかぎり宗教はなくならないと、どこかで読んだが、現実には死の問題は解決しているのかもしれない。
それと太田清史氏は「少なくとも死んで私たちは終わるのではない。生は死後の世界においても全うされていきます。個体としての肉体は人生七十年、八十年で費えてしまいますが、私という存在の本質はなくなりません」と言っているが、「私という存在の本質」を我として否定した(無我)のが仏教ではないか。
死んでも死なないと信じ込んで死を受け入れるのは仏教ではない。