インド思想では、すべてのものには本質があると考える。
それが我(アートマン)である。
我は常住不変である。
なぜなら、もし私の中で一貫し続けるものが変化したり、なくなったりするんだったら、私が同じ人間であり続けているとは言えない。
ということで、肉体が死んでも常住不変である我は存続するわけで、我は再び肉体に宿る、すなわち輪廻する。
つまり、我は輪廻の主体であるから、霊魂と同じと言っていい。
もっとも生まれ変わるのは人間の肉体とは限らない。
六道輪廻、何に生まれ変わるかわからない、だからこそ輪廻は苦なのである。
この点が、人間から人間の生まれ変わりを説く神智学・ニューエイジとインド思想との違いである。
それに対して、仏教では無我を説く。
ところが無我には、非我説と無我説とがある。
非我説とは、「我ではない」ということである。
我々は身体・心・こころのはたらき(五蘊)を我だと思い、執着して苦しんでいる、しかし五蘊はいずれも我ではない。
我ではないものを我だと思い込んで執着しているということが、非我である。
非我説の立場だと、我の実在を認めるらしい。
私はずっと「仏教は我を否定している」とばかり思っていたので、非我説は我を肯定していると言われるとびっくりしてしまう。
無我説とは「我(アートマン)はない」ということである。
我の実在を否定する。
このことは水野広元氏によると、
ということで、我が実在するかどうかは無記、わからない。
非我説(我の実在を肯定)に立つならば、釈尊の教えは我の実在を説くインド思想の伝統の中にある。
つまり、ヒンズー教も仏教も同じことを言っているということになる。
無我説(我の否定)に立つならば、釈尊の教えはインド思想の異端ということになる。
桜部建『仏教とは何か』に、次のことが書かれている。
古いパーリ語の韻文の経には、しばしば「アッタン(サンスクリット語形のアートマン)」の語が現れ「無我」の語はかえって現れない。
松本史朗氏によると『スッタニパータ』には「アートマン(我)」という言葉がやたらと出てくるという。
たとえば「自灯明、法灯明」という言葉がある。
釈尊はこの言葉を遺言として残したということになっている。
「灯明」というのは実は誤訳で、本当は「川の中洲」という意味だが、いずれにせよ、「自らをよりどころにしなさい」とはどういう意味か、私にはわからなかった。
仏法はともかく、自分なんて全然頼りになりませんからね。
ところが、「自灯明」の「自」とはなんとアートマン(我)なんだそうで、ああそうかと納得。
我(アートマン)を否定すると、では何が輪廻するのかということになる。
無我説は輪廻の主体である我を否定するから、輪廻説とは矛盾する。
宮元啓一氏は『インド思想七つの難問』で、
と、極端なことを言っている。
無我をどう考えるべきなのか。
1,釈尊の教えはバラモン教やジャイナ教と同じく我の実在を説く
中村元氏は、非我説=我実在論=仏教インド思想伝統論、さらにいうと、すべての宗教は結局のところ同じことを説いているという考えなんだそうだ。
2,アートマンを説く「スッタニパータ」は非仏説である
これは松本史朗説。
3,アッタンとは自己だという説
桜部建説は以下の通り。
はてさて、どれが正しいのでしょう。