4 古代の不可触民 チャンダーラ
古代インドの諸文献には、「不可触民」という言葉は見られない。
古代では、賎民は必ずしも不可触民ではなかった。
文献にチャンダーラが出てくるのは、後期ヴェーダ時代(BC1000頃~BC600年頃)の末期である。
ウパニシャッド文献(BC800年頃~BC500年頃)に、チャンダーラ、ニシャーダ、パウルサカなど賎民集団の名称が見られ、多くは先住民の部族名に由来するとされる。
これらの未開先住民はアーリア人から蔑視されているが、必ずしも不可触な存在とされてはいなかったようである。
賎民層を一括して「第5のヴァルナ」として捉える考え方は、古代のインドにおいて萌芽的には生まれていたが、明確な賎民身分概念の形を取るには至らなかった。
不可触民制は紀元前800年頃~前500年頃にかけて徐々に成立した。
この時代は、牧畜を主要な生活手段としていたアーリア人が、ガンジス川の上流域に進出して、農耕社会を完成させた時代である。
動物のやそれに関係した仕事を不浄とし、それを生業とする人間を不可触民とする思想は牧畜生活者の間からは生まれない。
不可触民制の成立と農耕社会の完成との間には、密接な関係がある。
また、輪廻思想が一般化し、殺生や肉食を忌避する傾向も現れ始めている。
先住民の一部は定住農耕社会の最底辺に組み込まれ、死んだ家畜の解体、皮はぎや清掃、汚物処理の仕事をするようになった。
後期ヴェーダ時代は、バラモンが司祭職を独占し、ヴァルナ社会の最高位を確保した時代である。
バラモンによって原始的で素朴な浄・不浄思想が極度に発達させられ、自己の浄性・神聖性を強調するために利用された。
この浄性の強調は、社会の一方の端に不浄と見なされる集団を生んだ。
そしてここに、バラモンを最清浄、不可触民を最不浄とし、その中間にヴァルナ社会の構成員を浄・不浄の度合に従って配列した社会秩序が成立をみた。
賎民はチャンダーラを最下・不可触とし、可触に向かって不浄性の度合いを弱める複雑な一連の血縁集団から構成されていた。
この時代は、ガンジス河の上・中流域で領域国家が形成されつつあった。
これらの国の支配をしたクシャトリアも、バラモンが唱道するヴァルナ制度を受け入れることを得策と考え、政治の面から不可触民制の形成に一役を買った。
不可触民の存在はヴァルナ社会の生産階級であるヴァイシャ・シュードラ層の不満をそらせ、ヴァルナ社会の安定的維持を約束するものであった。
不可触民、あるいはそれに準ずる賎民とされたのは、アーリア農耕社会の森林地帯で狩猟採取生活をおくる部族民だった。
彼らの中には農耕文化を採用し、4ヴァルナのいずれかに編入された者も多かったが、そうした道に進むことのできなかった者たちが、差別を受けながらアーリア社会にとって不可欠な役割を果たす集団となった。
厳しいシュードラ差別が現実のものではなかったのに対し、賎民層の最下層にあるチャンダーラへの差別は実際に行われていた。
チャンダーラは一般の住民からは区別され、都市や村落の外側に一段となって住んでいた。
仏典の中で、チャンダーラの仕事は死刑の執行、動物の屍体処理、暗殺者として描かれている。
村や町の清掃、土木作業、不浄物の清掃、皮革加工などに従事する者もいた。
死者の衣を着衣とし、再生族が地上に置いて与えた食べ物を壊れた容器を使って食べ、特別に定められた標識を身につけて歩いていた。
チャンダーラに触れたり、言葉を交わしたり、見たときには穢れを受けるので、浄化儀礼をしなければならないとされた。
ジャータカには、釈尊の前生でチャンダーラの家に生まれて、さまざまな差別を受けたという話がある。
法顕(5世紀初め)は「チャンダーラは悪人と名づけられ、一般の人びととは離れたところに住み、彼らが城市に入るときには、自分で木を撃って異常を知らせる。住民はただちにそれを知り、チャンダーラを避けるので、互いに突き当たることはない」と記している。
5 中世の不可触民
「不可触民」という言葉の初出は『ヴィシュヌ法典』(100年頃~300年頃)であり、『カーティヤーヤナ法典』(5~6世紀)になると不可触民規定がさらに明確となる。
この頃、4ヴァルナと不可触民という身分概念が成立し、5ヴァルナ体制が成立したと考えられる。
アル=ビールーニー(11世紀)は、シュードラの下に8つのカースト的集団があり、その下にはチャンダーラを含む4つの集団が存在していると書いている。
古代の不可触民制と、近現代の不可触民制との相違点。
1 近現代では不可触民カーストの数や人口が多いのに対し、古代では不可触視される者はチャンダーラなど賎民の一部にすぎず、人口比も少なかった。
2 古代ではチャンダーラを含む各種賎民が部族組織を保ちながら、まとまった集団として農耕社会の周縁部に居住していたのに対し、近現代においては各村落の周縁部にいくつかの不可触民カーストに属する者たちが、それぞれまとまって居住している。
3 近現代の不可触民の多くが、伝統的な職業に従事するほか、農繁期の農業労働提供者となっているのに対し、古代ではチャンダーラなどが村落の生産活動に直接参加することはなかった。
山崎元一「古代インドの差別と中世への展開」(『インドの不可触民』)に、古代の不可触民制(チャンダーラ差別が中心)から、中世の不可触民制(村落に分散定住した多数の不可触民カーストに対する差別)への展開として捉えていいだろうとあります。
1 農耕社会の拡大によって、狩猟採取の場を失った部族民の中で、農耕民化できなかった者たちが、農耕社会の周辺で、農耕社会に必要な補助的労働(不浄視される労働)を提供しつつ生活することを余儀なくされた。
2 地方分権的な封建的支配体制が成立し、都市の商業が衰えて地方的経済単位が形成された6~7世紀以後に、村落の再編成が進み、自給自足性の強い村落が徐々に形成された。その過程で、カースト的職人集団が分裂し、村落に分散定住した。不可触民・賎民諸集団も村落再編成の進行にともない、部族組織をカースト組織に変えて、各村落に分散定住した。
3 バラモンによって、浄・不浄思想がいっそう発達させられ、多数のカーストからなる村落に上下関係の秩序がもたらされた。従来、必ずしも不可触視されていなかった階層の賎民や職人を不可触視する傾向が見られるようになった。されに、不可触民カースト相互の排他性も強まった。
4 不可触民の存在は、村落内部の不平等に起因する緊張関係をゆるめ、村落に一定の安定をもたらした。不可触民制の発達は、支配者や土地所有者の期待に応えるものだった。