三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

台湾の死刑と消費税

2015年01月31日 | 日記

台湾は2006年から2009年まで死刑の執行がなかった。
どうして執行が再開されたのか、台湾の大学の先生からいきさつを聞きました。

2010年、ある国会議員が浮気をして、それがスキャンダルになった。
この国会議員はごまかすために、国会で「どうして法に従って死刑を執行しないのか」と法務大臣に質問したところ、法務大臣は「死刑には反対だ」と拒んだ。
世論の非難を浴びた法務大臣は退任。
次の法務大臣が死刑の執行を許可した。
しかし国民も、政治的スキャンダルを隠すために死刑の執行が行われていると知るようになり、死刑には批判的な目を向けるようになった。
なるほど、死刑は政治的なものものだと再確認しました。

「反貧困ネットワーク」の会報に、伊藤周平氏の講演要旨が載っていました。
消費税増税は派遣労働者を一気に増加させる。
企業が正社員を減らし、必要な労働力を派遣などに置き換えると、人材派遣料等経費が仕入れ税額の控除対象となる。
他方、正社員への給与は控除対象外のため、派遣労働の割合を増やすほど消費税の納税額が少なくなる。
企業にとって人件費の圧縮になり、節税にも通じる。
消費税率が5%に引き上げられた1997年以降、それに呼応するかように労働法制の規制緩和が進み、非正規や派遣労働者が激増した。

消費税率をあげることは、国の財政健全化というより企業のためなんですね。
何事も本当の狙いは何かを知らないといけないということです。

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島田裕巳『0葬 あっさり死ぬ』

2015年01月28日 | 仏教

島田裕巳『0葬』は副題が「あっさり死ぬ」なので、死に方について書かれているのかと思ったら、「遺体の処理」方法についての本でした。

人が死ぬと、葬儀を行い、火葬にして、遺骨は墓に納める。

しかし、費用がかかりすぎる、葬儀の簡略化の流れは時代の必然だと島田裕巳氏は言うわけです。

極端な言い方をすれば、もう人を葬り、弔う必要はなくなっている。
遺体を処理すればそれでいい。そんな時代が訪れている。
それは、自由だということである。
自由であるということは、拘束がないということであり、同時に寄る辺がないということである。
都会に生きる人間は、何よりも自由を最優先し、死者との関係を遠ざけることで、みずからも死後に消え去っていくという道を選んだ。
そして、死後に生者とともに生きないと決めた人間には、その人間にふさわしい死に方があり、弔われ方があり、死後の処理のされ方がある。

あらゆるものを消費の対象にする資本の論理は、人を葬ることを経済行為に結びつけて金を使うことを強いるし、都会の寺院は維持費が高いので、布施や戒名料は高くなった。
だから、葬儀をせず、火葬した後に遺骨を引き取らない0葬を島田裕巳氏は提唱する。

で、171ページになって、島田裕巳氏は「葬送の自由をすすめる会」の会長をしていると書いており、ああ、そうかと思いました。
自然葬は遺骨を細かく砕いて海や山、あるいは川などに撒くものです。
0葬とは自然葬の先にあるもので、火葬場に直行し、荼毘に付した後、遺骨を引き取らない。

遺体は適切に処理し、後に面倒がかからないようにする。
それこそが、死にゆく者にとっては自らの「死後の不安」を根本的に解消することにつながり、生きている者の負担を軽減する道なのである。


島田裕巳氏は金銭的理由から「遺体の処理」についてそういう主張をしているわけですが、そんなに負担なのかと思いますし、そうした負担もある意味大切だと私は考えます。
それに、残された者は「遺体の処理」と割り切って、儀礼的なものをすべて排除できるものではないでしょう。
なぜなら一人称の死と二人称の死、三人称の死とは違うからです。
このことは尊厳死にも言えることですが、知らない人(三人称の死)なら経済的な観点から適切に処理すればいいということになります。
しかし、自分自身(一人称の死)は延命治療を求めない人でも、家族(二人称の死)には生きていたいと思うものです。

上野顕太郎『さよならもいわないで』を某氏からいただきました。
上野顕太氏の奥さんが突然亡くなる前後のことを書いた漫画です。
夫婦とも特に宗教を信じていたわけではないので、坊さんにお経をあげてもらうことはせず、親しい人が集まるお別れ会をする。
来てもらうだけでいいと思っていたが、葬儀業者が「何か形があったほうが送り手は安心するものだ」と言うので、参列者に花か線香をあげてもらう。
お棺が火葬場の釜に入る時に合掌する。
そして日々の儀式は必要だと考え、燭台、香炉、キンを買って、毎朝、ロウソクに火を灯し、線香をたき、合掌する。
奥さんは「お墓はいらない、散骨してほしい」と言っていたが、お墓を建立し、墓参りに行く。
宗教を信じていないという上野顕太氏が合掌することに違和感を持つ人はいないと思います。

それと地域性です。
宗教や人間関係についての考え方は、同じ大都会ではあっても、東京と大阪では違うし、地方はもっと東京とは事情が違います。
東京の人に聞くと、直葬をするほとんどの人は地方から出てきて、菩提寺や墓のない人で、寺の境内に墓を持っている人は葬儀や法事はきちんとしているそうです。

島田裕巳氏は、大学4年生のときにヤマギシ会の運動に参加し、共同体で生活したことがあるそうです。
『0葬』には明らかな間違いが散見します。
浄土教信仰の起源は中国だ、インドの輪廻転生の考えからすれば、死後に極楽浄土に生まれ変わることを目指す浄土教信仰はあり得ないとか、末法思想は中国で生まれたといったことは、ちょっと調べたらわかる間違いです。
0葬の主張にどれだけ正しい根拠があるのかと思います。
だけども、ネットで調べると好意的な書評を見かけるし、島田裕巳氏の影響は大きいらしいそうです。
0葬や尊厳死を肯定的に考えている人は、実状ではなくイメージだけで判断しているように感じます。

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浅見雅男『皇族と帝国陸海軍』

2015年01月20日 | 

浅見雅男『皇族と帝国陸海軍』は皇族と軍隊について書かれています。

明治になり、皇族の男子は軍人になることが通例とされた。
明治6年、「皇族今より陸海軍に従事すべく仰せ出だされ候」という通達が出された。
皇族が軍人になる義務が明文化されたのは明治43年。
明治から昭和の敗戦までに、朝鮮王公族3名を含め、48人の皇族が軍人になっている。
そのうち、陸軍が28名、海軍が20名だった。
適齢に達しながら軍人にならなかった皇族は5名で、いずれも心身が病弱だった。
厳しい訓練で軍学校在校中や卒業して間もなく死去してしまう皇族もいた。
皇族もなかなか大変だったわけです。


一方、華族は明治5年に徴兵制が施行されても軍人になるものがあまりにも少なく、勅諭が下されたほどである。
それでも、華族で軍人になった者はごくわずか。
日清戦争でも戦死した華族は1人もいなかった。
日露戦争では爵位を持たないものも含めれば6名の旧大名、公家の華族が戦死している。

明治以前の天皇は「武」と無縁の存在だった。
それが、明治になってからは、天皇は逆賊をたいらげ、大和に攻め入った神武天皇の再来でなければならないことになったため、皇族が軍人となることが義務とされた。

徳川幕府から政権を奪った西南雄藩の武士や討幕派の公家らが、自分たちの武力による倒幕という行為を正当化し、権威づけるために「玉」としての天皇を露骨に利用した結果であることは疑いない。


それともう一つ、他に皇族にふさわしい職業がなかったこともあった。

しかし、ここでも問題は残る。いかに完璧な階級社会とはいえ、軍はその本質からして、能力主義が貫徹しなければならない組織である。政治や実業などの世界と同じく、能力がない者は脱落せざるを得ない。華族の多くが軍人になるのを嫌ったのもそのためだった。そこで何がおこなわれたか。それは皇族を軍内で徹底的に優遇し、その権威を傷つけないように配慮することだった。


軍人となった皇族へは配慮がなされた。
危険な任務からはなるべく遠ざけられ、軍政関係の職には置かれなかった。
皇族を政治の場から切り離しておこうとするためである。
皇族の背後には天皇の権威があるから、皇族に批判が浴びせられることがあってはならない。

松下芳男『日本軍事史叢話』に、海軍の皇族軍人が陸軍の皇族軍人にこんなことを言ったと記されています。

君の陸軍の方では、ヘマな命令を出しても、部下が適当に判断して、なんとかうまくやるだろうが、ぼくの海軍の方では、相手が機械なので、皇族でも遠慮しないで、正直に動くので困るよ。

陸軍では皇族は昇進面では優遇されたが、海軍では非皇族とほぼ同じように進級した。

ちなみに、皇族の軍人というと、無能だったり、おかざりにすぎなかったりといったイメージがあるけれども、優秀な人もいたそうです。

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浅見雅男『皇太子婚約解消事件』

2015年01月17日 | 

天皇ファンである私にとって浅見雅男氏の著作は興味深い事実を教えてくれて面白いです。
『皇太子婚約解消事件』は、明治26年に大正天皇の婚約者として伏見宮禎子(さちこ)が内定していたのに、明治32年に禎子の健康問題で解消された事件について書かれています。

皇族は天皇家の一族で、天皇になるかもしれない人たちだけども、いろいろあるんだなと思いました。
浅見雅男氏の他の本も参考にしながら、皇族についてご紹介します。

明治以前、皇族は宮家を継ぐものを除いてほとんどは出家し、門跡寺院と称される名門寺院で一生を送った。
それは皇族の数が増えることを防ぎ、ただでさえ乏しい皇室財政の負担が増えたり、皇族の権威が失墜するという事態も未然に阻止できるからである。
ところが慶応4年、新政府は皇族の出家を禁止した。
となると、皇族が増えることになる。
明治天皇と伊藤博文たちの葛藤が最もあからさまになったのは、永世皇族問題である。

伊藤博文は明治31年、皇室についての意見書を明治天皇に差し出した。

(臣籍降下の)制を立てられざるに於ては、帝位継承上に統属を増加し、随て非望の端も之より生ぜざることを保し難し。

皇族が増えてしまうと皇室財政の負担が大きくなるから、皇族の臣籍降下を制度化しようとしたのである。
お金の問題だけでなく、小松宮彰仁親王(「御品行不宜」)、北白川宮能久親王(外国での女性関係のトラブル)、閑院宮載仁親王(同じく女性問題)、久邇宮朝彦親王(厄介な存在)ら親王の不品行も関係している。
また、皇位継承権をもつ皇族が増加すれば、その中から皇位をうかがうものが出ないともかぎらない。

ところが、皇族の臣籍降下を皇室典範で定めようとした伊藤博文の主張を明治天皇は完全に無視し、その種の規定を典範に盛りこむことを断固として認めなかった。

伊藤博文は大正天皇の資質に不安を持っていたということがある。
『かざしの桜』(佐佐木高行の書いたもの)にある伊藤博文の皇太子評。

「皇太子殿下にも兎角御軽率の御天質にて」
「(父の天皇とは)大御反対なり」


久邇宮邦彦王の娘良子女王が皇太子妃に内定していたが、大正天皇の皇后、山県有朋、原敬たちが反対していた。
それに対し、邦彦王は山県たちが婚約を辞退するよう勧めるのに猛反発した。

皇后に自分の主張を述べたてた言上書を渡し、しかもそれを第三者に見せ、さらには民間の壮士をつかって怪文書をばらまかせさえした。まさに皇族としてありえない暴挙であった。しかし、結果的に王のゴリ押しは通ってしまった。

宮中某重大事件当時、大正天皇は心身不調に悩まされており、混乱の収拾にほとんど関与できなかった。

事件の背景には皇族をめぐるこんな問題が関係している。

明治の皇室の中心には強い求心力をもった天皇がおり、その周囲には伊藤博文に代表される、天皇に有益な助言ができる臣下がいた。天皇は彼らの意見もよく質し、皇室の問題についても思慮に富んだ決断をし、皇族たちもそれにしたがった。
ところが大正時代になると、状況は大きく変わる。それを最も明確にあらわしたのが大正九年五月に起きた「皇族降下に関する施行準則」制定のときの騒ぎであった。

伊藤博文たちは皇族がどんどん増加するのを防ごうとしたが、明治以降に誕生した皇族たちは既得権がうしなわれることを嫌い、反対の動きに出た。

そして年長の皇族と宮内省の巧妙な連携で準則制定が実現すると、皇太子も出席する天皇の賜餐をボイコットするという露骨な真似をする。言うまでもなく天皇をないがしろにした行動であり、これが山県有朋を激怒させ、半年後に起きる宮中某重大事件につながっていくのである。


宮中某重大事件は山県有朋による不当な干渉だと思っていましたが、こんな背景があったとは知りませんでした。

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宗教関係者への相談ということ

2015年01月12日 | 仏教

旧聞に属しますが、読売新聞(2012年6月28日)の記事です。

「死」怖くない だけど苦痛イヤ 経産省研究会が意識調査/宗教とのかかわり薄く
 自分が死ぬこと自体は深刻に考えていない。死後にどうなるかも悩んでいない。でも死ぬ時に苦しむのはいやだ――。経済産業省の研究会が実施した意識調査で、そんな傾向が浮かび上がった。
 調査は今年1月、経産省のライフエンディング・ステージに関する研究会(委員長、中村芳彦・法政大教授)がインターネットを利用して行い、30歳以上の男女4181人から回答を得た。
 死についてある程度考えている人は69%と比較的多いものの、考えても思い悩まない人が62%を占めた。死ぬのがとても怖いかと尋ねると、怖い人が47%に対し、怖くない人のほうが53%と多い。年齢が高くなるほど、死を恐れる人の割合は低かった。
 死後の世界で自分がどうなるか悩んでいる人は12%にすぎず、苦しんで死ぬのが怖いという人が79%と圧倒的に多い。
 最期の迎え方の希望を聞くと、「ある日突然、苦しまずに死にたい」が60%と多く、「病気で多少寝込んでもいいから少しずつ死に向かっていきたい」は24%、「認知症になって自分でわからないうちに死にたい」は3%だった。
 最期を迎える時の不安・心配(複数回答)は、「病気に伴う痛みや苦しみ」が45%、「家族や友人との別れ」が29%、「家族が経済的に困らないか」20%、「家族が精神的に立ち直れるか」18%、「家族がみとってくれるか」17%、「やりたいことができずじまいになる」15%の順。
 親と死別した時に家族以外で相談するだろう人(複数回答)は、葬祭業者24%、医療関係者10%、行政機関9%、法律家8%の順で、宗教関係者は6%にとどまった。
 日ごろの宗教的行動では、年1回以上墓参りする人が68%にのぼったのをはじめ、仏壇や神棚に花を供えたり手を合わせたりする、おふだなどを身の回りに置く、神社仏閣に参拝するといった習俗的な行為をしている人は少なくない。しかし礼拝・おつとめ・布教をする、聖書や教典を読むなど、本格的な宗教行為をしている人はわずかだった。
 研究会メンバーの戸松義晴・浄土宗総合研究所主任研究員(前全日本仏教会事務総長)は「死が怖くないのは、病院で亡くなるケースが増え、死のリアリティーが減ったためかもしれない。死別の際に宗教者を頼る人が少ないのは接点の少なさの表れで、宗教界は危機感を高めるべきだ。苦痛を取り除く緩和ケアの需要が高いので、そこで何ができるかも考える必要がある」と話している。

私も自分の死は怖いとは思わないが、痛いのはいやです。
大病などをして死の問題が眼の前に突きつけられたわけではないので、切実感がないだけということもあるけれども、自分が死ぬことよりも家族に先立たれるほうが私は怖い。

「親と死別した時に家族以外で相談するだろう人」として宗教関係者をあげる人が少ないということですが、「全仏」という全日本仏教会の機関誌に寄稿された塚嵜智志氏の文章にこんなことが書いてありました。

「宗教者への相談」という質問(新日本仏教団体連合会・1999年 データブック「現代日本人の宗教」石井研士著)では、「相談したことはない、わからない」で答えた人が87.4%と全体の大多数を占め、「占い師や霊能者」が4.8%、「神主さん」が2.3%、「牧師や神父さん」が1.2%、「新宗教の教祖や信者さん」が1.6%となっている。一方「お坊さん」と答えた方は4.2%と他の宗教者と同じく厳しい結果となっている。

都会と地方都市、農村部ではかなり違っているとは思いますが、親の死別だけではなく、宗教者に相談したことがない人が多いわけです。
坊さんに相談する人は占い師や霊能者への相談者と同じくらいですが、占い師や霊能者よりお坊さんのほうが多いだろうから、人数あたりの相談率は坊さんはかなり低い。
緩和ケアでの取り組みは大切ですが、それよりも日常的な関わりを作っていかないといけないんでしょうけど。

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インドの仏教はなぜ滅びたか

2015年01月05日 | 仏教

イスラム教徒が仏教寺院を破壊したからインドでは仏教が滅んだと学校で習った。
だが、なぜ仏教徒は抵抗しなかったのか、なぜ仏教は滅びたのにヒンズー教やジャイナ教は存続したのかということが疑問だった。

中村元氏はローマ帝国が亡んだことが遠因の一つだと、何かに書かれている。
ローマ帝国の東西分裂が395年、ヒンズー教を守護したグプタ朝の最盛期は4世紀。
仏教の信者は都市の商人たちだったが、ローマ帝国滅亡により東西の貿易が衰え、インドでは都市が衰退し、仏教も衰えていった。

仏教は一般民衆を相手にせず、僧院に閉じこもっていたため、イスラムの侵入に対して、民衆が仏教寺院を守るために戦わなかったというのを、どこかで読んだ。
それにしても、民衆と乖離していた仏教寺院が千年以上もどうして維持できたのかと思う。

保坂俊司『インド仏教はなぜ亡んだのか』は、まず7~8世紀の西インドでなぜ仏教が滅びたのかが論じられている。
ヒンズー教(正統、保守)対仏教(異民族、被支配層、辺境地域、知識人)という対立構造があり、イスラム教の侵入によって、ヒンズー教の対抗勢力が仏教からイスラム教へと移ったことにより、仏教の政治的役割が消滅し、仏教が西インドでは滅んだというのが保坂説の要旨である。
けど、イスラム教化しなかった中インドでも仏教が滅んだ理由は説明されていない。

仏教が滅びた最大の理由は「仏教がカーストを形成しなかったこと」に求められるのではないかと、鈴木隆泰『葬式仏教正当論』に説かれている。

カーストを形成しなかったことに起因するデメリット
1 通過儀礼を執行できないため、人々の願いに完全には応えられなかったこと。
インドの出家仏教者は除災招福の祈禱・祈願儀礼は行ってくれたが、在家仏教徒の葬式を含む通過儀礼には一貫してノータッチだった。
2 伝統を大切にする農村社会に定着しにくかったこと。
3 グプタ朝など、農村社会に立脚する王朝をパトロンにしにくかったこと。
4 仏教徒の再生産が困難であったこと。
イスラム勢力の攻撃では、ヒンズー教やジャイナ教はそれぞれカーストを形成していたため、親がいなくても、子や孫が役目を継ぐというように、構成員が再生産された。
カーストというインドの伝統的価値観を認めない仏教は、構成員が自動的に再生産されることがなかったので、存続のために外から新しい力を導き入れ続けなければいけない。
仏教はインド宗教界に生き残ろうと、様々な工夫をしたが、在家者の葬儀に携われなかったインドの仏教は、人々の願いに完全に応えることができないので、徐々にその力を失っていくことになる。

伝統的インド仏教は、生まれながらの浄・不浄の差別の観念に基づくカーストの受け入れを断固拒否したことで、根をインドにおろすことができず、いわば、「根無しの浮き蓮華」となりました。そしてイスラーム勢力の侵入という荒波の中で、ついてはインドから消え去る道を選ばざるを得なかったのです。


しかしである、カースト制を拒んだからこそ、仏教は世界宗教となった。

釈尊も、後続の弟子たちも、カーストの受け入れを拒否してくれたからこそ、かえって仏教はカースト文化のないアジア諸地域、そして日本に伝播し、そこで根付き、新たな宗教文化を形成することができました。

ヒンズー教の信者は約9億人と、仏教よりも多いが、世界宗教とは言えない。

『インド仏教はなぜ亡んだのか』に、西インドのある町ではイスラム教徒による攻撃の際に、僧侶が不殺生戒を守るため、戦うことを拒んで開城したというが紹介されている。
ガンジーの非暴力主義の先駆けで、ほほーと感心したのだが、しかし、その僧侶たちはイスラム教に改宗したとのことで、これはまたこれで???でした。

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