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三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

『資料清沢満之』1

2010年04月30日 | 仏教

真宗の教義の変質は教団の維持、門徒の管理、統制のためということがまずあるだろう。
それと、幕藩体制を維持するために権力側が要請し、それに応じて本願寺は「支配イデオロギーを盛りこんだ世俗道徳」を門徒に教化したという両面がある。
勤勉、質素、倹約、忍耐、従順、遵法などなどは大切な徳目ではあるが、統治者にとっては都合いいことも事実である。
「教団は幕藩的支配イデオロギーの普及、庶民教化の担当者として新しい教義の創出・教化を図らねばならなかった」
と、有元正雄氏は『真宗の宗教社会史』で指摘する。
この図式は教団の戦争協力でも見られる。

近世真宗の教学は清沢満之らの近代教学によって終わりをつげたわけではないんだなと、『資料清沢満之』を読んで思った。
「刊行にあたって」に、こういう文章がある。
「周知のように、近世の教団教学は信仰を「後生」―死後の浄土往生に限定し、そのことを基軸としながら、他方では王法為本・仁義為先・世間通途の生き方をもとめる蓮如的信仰構造を踏襲するものであったが、近代の教学はその延長上でさらに踏みこみ、神権的天皇制下の支配秩序をこの世における真理とするまでに格上げした「真俗二諦」として展開され、ファシズム期になるとその極限形態たる戦時教学を生みだした」

清沢満之の提唱した精神主義は真俗二諦論をいかに克服したかというと、近世真宗の教学とさほど変わっていないらしい。
「彼(清沢満之)の発言のなかに、「宗教的信念を得た者が総ての世間のことに対する態度を、蓮如上人が『王法をもて本とし、仁義をもてさきとして、世間通途の儀に順じて、当流の安心をば内心にふかくたくはへて』と云われたのは、最もありがたい規矩である」といいきった一節を見いだし、それが例外的なものではないことを確認しうるところから、この社会的立場の表明は彼の宗教的立場ゆえのものにほかならないとしなければならないであろう」
「少なくとも蓮如的なそれが清沢満之のものであったことを認めざるをえないのではないか(ことのついでに、彼の立場を継承した高弟たちがこぞって、伝統的立場に立つ人びとにもまして戦時教学の推進者として活躍したことを想起しておいてよかろう)」

山田(佐々木)月樵「白河録」(『資料清沢満之』所収)を読むと、清沢満之や浩々洞の人たちは法主=生き仏体制を克服していないどころか、問題だとすら考えてもいなかったらしい。
東本願寺が再建された翌年の明治29年に清沢満之らの白川党改革運動が起こる。
その一部始終を記録したものが「白河録」である。


財政健全化(負債の償却)と本願寺再建という難問を本願寺執事の渥美契縁は実現した。
しかし、法主の遊興、財政問題、教学不振という現状、そして62万円余りの負債が残っており、門末は疲弊していた。
にもかかわらず、明治29年に教学資金の名目で360万円もの寄付集めをはじめた。
こうしたことが積み重なって、本山改革の火の手が上がり、白川党が生まれた。
当時の360万円がどれくらいの金額なのか、ネットで調べると、明治28年度の福井県予算額は329, 000余円だそうだ。

山田月樵は教学資金の募集が「末寺を困弊せしめ、門徒を枯渇せしめた」と書いている。
ところが、本山は無理矢理でも上納させようとした。
「門末中之を怒りて転派する者往々あるに至れり。本山は尚末寺に望むには、若し之を受けざれ住職免すとか、僧侶剥脱とかの鞭撻を以てし、少しも許す所なきを以てし、其の小寺の如きは、田圃を売り衣具を典し屋は漏れ壁は落つる顧みず、止むなく上納金はなさざるべからざるものあり」

お金のことはさておき、法主である。
こういう状況にありながら、法主は贅沢な暮らしをして、そのことが一般に流布していたらしい。
山田月樵は「法主に対し、世間の新聞雑誌をして無遠慮に嘲笑罵言を肆にせしむる」と書いている。
宮武外骨の「滑稽新聞」でも法主を何度か風刺している。
明治34年5月20日号では、某投書家が「(宗教実話)年中蓄妾」(粘華微笑のもじり)と題して投稿している。
「現世末法の堕落坊主は日を追ふて破戒の所業多く、殊に本願寺法主に至っては地方巡回中美人と見れば手当り次第に姦淫し或は連れ帰りて獣欲を恣にする等、実に腐敗の極度に達し居る事は吾れ人共に知了する所なるが」と前書きし、そして新門跡大谷光演が連れてきた石鹸商の娘を法主の大谷光瑩が息子に頼んで譲ってもらって云々と、見てきたような話である。
事実なのか、火のない所に煙を立てたのか、それはわからないが、法主が下ネタでからかわれる対象だったわけだ。

山田月樵自身も舞子にある本願寺別荘を見て、
「一段の嘔吐を催しぬ」という感想ももらし、「嗚呼、是れ民の膏血を絞り、信徒諸氏の懇志を投じたる者よりなりしか。世人の本願寺を攻撃するも此楼のあるありてなり。法主、此に日にうかれ、花に迷ひ」と悲憤慷慨している。
なのに「内事局員特に其局長の失態に出るものと認めざるを得ず」と、すべて渥美契縁のせいにしている。

こうした状況の中で、明治29年11月、新聞に渥美契縁の談話が載った。
そこでは、
「法主に対する世評に関しては或る一二の事ありしは素より、事実に相違なく、啻に彼等の憂慮する所たる而已ならず、全国門末信徒の一人の之を憂へざる者なく、斯く云ふ自分も亦大に此事を憂へ」とか、「書を呈して之を極諫し、更に責を引いて辞表を呈し、(略)然るに法主は余の辞職を容れられず、彼の世評に関しては自から其不徳を責め」というように、渥美契縁は世間の噂は本当だと認めている。
これに対して山田月樵たちは「其罪を法主に嫁して自から免れんとせり」と渥美契縁を攻撃し、
「父は子の為に隠し、子は父の為に隠す。縦令其事ありとするも、父子相互に隠すは人情の至誠」などと言う。
だけども、だらしないのは法主なのにと私は思うのだが。

前にも書いたが、王の無能力、放蕩などが原因となって国が乱れても、なぜか王は非難されず、大臣や取り巻きが悪者にされることがしばしばある。
法主の遊興問題へのこの態度は王権神授説(国王の支配権は神から授かったものであるから神聖不可侵であり、臣民は国王の命令には絶対に服従しなければならない)なのか、それとも天皇不謬説なのか。
それでも、
「(渥美)契縁を用ゆるに慈々として其擯斥に遅疑するの法主其人は如何なる人ぞ。諸君が大に改革を呼ばんとするの究極は遂に何人の不明に帰するぞ」(『日本宗教』第八号)という至極もっともな批判も「白河録」に引用されている。
山田月樵も腹の中では法主のふがいなさを情けなく思っていたのかもしれない。

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有元正雄『近世日本の宗教社会史』『真宗の宗教社会史』3

2010年04月27日 | 仏教

移民として海外に渡航した人の多くは広島県出身で、どうしてかというと広島県人は陽気で明るく行動的だからというのをどこかで読み、そうした性向がまったくない私としてはほんまかいなと思ったものだ。

有元正雄『真宗の宗教社会史』によると、ハワイ移民は広島、山口、福岡、熊本の四県という真宗篤信地帯の出身者でほとんどを占めていた。
その理由は「(イ)広島・山口両県出身移民が勤勉・節倹・理義・敏捷等によって雇主の苦情を受けないこと、(ロ)熊本・福岡県出身移民が上記二県に次ぎ、純粋の農夫出身でよく働き、博奕の件を除けば雇主の苦情を受けないこと((ハ)と(ニ)は略)」
とのことで、何だか誇らしくなりました。
そして、
「移民の中で怠惰放縦として嫌われる者は千葉・東京・神奈川等都会に近い所の出身者である」そうだ。

しかしながら、ハリスは1857年に神奈川を通った時のことを日記にこう書いている。
「彼らは皆よく肥え、身なりもよく、幸福そうである。一見したところ、富者も貧者もない。これが恐らく人民の本当の幸福の姿というものだろう。私は時として、日本を開国して外国の影響を受けさせることが、果たしてこの人々の普遍的な幸福を増進する所以であるか、どうか、疑わしくなる。私は、質素と正直の黄金時代を、いずれの他の国におけるよりも、より多く日本において見いだす。生命と財産の安全、一般の人々の質素と満足とは、現在の日本の顕著な姿であるように思われる」
(坂田精一『ハリス』)
「怠惰放縦」とされる神奈川でも「質素と正直」なのである。
ハリスに限らず、幕末から明治にかけて日本に来た西洋人の多くは、日本人の勤勉、実直さに感心しているのだが。

それはともかく、
「西日本門徒地帯がわが国移民の最多出地帯となった理由は、(イ)堕胎・間引きの忌諱による人口増加、(ロ)この相対的過剰人口を就労せしめる地域産業の欠如、(ハ)真宗門徒の信仰よりもたらされる禁欲的な倫理・エートス等が加わった結果といえよう」と有元正雄氏は言う。
ここで疑問。
(イ)と(ロ)はわかるとして、真宗は道徳や倫理を説かないはずなのに、どうして「真宗門徒の信仰よりもたらされる禁欲的な倫理・エートス」が生まれたのか、そして真宗篤信地帯ではどうして犯罪が少なく、博奕をあまりしないのか。

私なりに有元正雄氏の説明をまとめると、仏法と王法が一体化されることで、王法を守ることが救いの条件となったからだと思う。
本来、宗教(仏法)と倫理・道徳・法律(王法)とは別である。
ところが、王法を守ることが信心の証とされ、報恩行としての勤労が禁欲、倹約に結びついた。
「真宗門徒に特徴的な行動様式は真宗の教義と信仰の中に自力的要素があり、そこから禁欲が成立し、それによってもたらされるものである」

「真宗の教義と信仰の中に自力的要素」があるとはどういうことか。
親鸞の教えでは悪は往生の障りにはならない。
ところが、真宗における悪と救済(往生)との関係は変質する。
さまざまな掟が作られ、その中で「弥陀の本願にすがって信仰に入った限りは信仰の証しとして悪心はあってはならず、逆にいえば悪心のある限りは信仰は形ばかりで弥陀の救済に与るに値いしない」とされるようになった。
そして、悪(王法を守らないこと)が往生の障りになるとされたのである。

『歎異抄』に「善悪のふたつ総じてもって存知せざるなり」という親鸞の言葉がある。
しかい、徳川時代における真宗教団では悪とは何かがはっきりと定義された。
「ここ(幕藩体制)では王法上の悪を包摂、同化し、悪は人間の意志の制御下にある「ナヲサルベキ」範疇に属し、直さざれば一定地獄が宣言されたのである。そして幕藩支配者の教化的価値基準を尺度とする世俗的・道徳的悪に矮小化され、「何レカ悪事ヲ好ミ、善事ヲキラヒタマフ仏アランヤ」とし、人間の善悪を相対化する余地はなくなるのである」

では、いつごろから教義が転換したのか。
「真宗における教義上のかかる転換は、蓮如以来の「王法ヲサキトシ、仏法ヲバヲモテニハカクスベシ」という、いわゆる信心為本、王法為先の宗制によるところが大であることはいうまでもない。そして幕藩体制下に入るとさらに、体制が示す民衆教化に違背するような教義、またはそのように誤解される虞れのある教義(悪人正機、悪人正因など)は背後に退き、体制が示す教化内容を取り入れるに至るのである」
そうして、江戸時代には掟や禁制が数多く作られるようになった。

「かくして、親鸞においては悪人こそ救われるとし、「わざとこのみて悪をつくる」よこしまな心を禁じたに止まったのであるが、徳川期にいたると、「スコシモコヽロノユガミタルヒト」は救済の対象とはならないのみならず「一定地獄」が宣言されるに至ったのである」

勤勉、節倹、正直、忍耐といった徳目は儒教や心学などの諸思想でも説かれている。
しかし、通俗道徳は徹底して現世的だったのに対し、真宗は他力往生思想による報恩行とされた。
真俗二諦、つまり世間の事柄は王法や五常を守るようにと説かれ、守らなければ地獄に堕ちると脅された真宗門徒は己の分限を守り、禁欲的に生活し、職務に励んだ。
だから、真宗篤信地帯では犯罪が少なかったというわけである。
そうはいっても、悪を捨てるのは往生のためではなく、あくまでも報恩行だとしたところが、真宗としてのぎりぎりの妥協線なんだと思う。
法蔵菩薩の兆載永劫の修行や、親鸞聖人のご苦労(藤原家の出身にもかかわらず流罪になり、雪の中に石を枕にして寝るような生活)を思えば、我らのような悪凡夫がこれしきのことに耐えられないわけはない、というわけである。

しかし、これは自力だというのが有元正雄氏の意見である。
「近世真宗において五倫五常の実践等の王法遵守、あるいは掟の遵守とされるものは、世界の宗教現象の共通尺度ともいうべき宗教学や宗教社会学によれば立派な自力である」
「親鸞において絶対他力の宗教として成立した真宗が、歴史の中で安心=信と掟=倫理とをセットとした宗教に変化したのである。筆者はかつてこの点につき、近世真宗を「自力と他力の統合物」として捉えた」

有元正雄氏に従うなら、「自力と他力の統合物」である近世真宗は親鸞の教えとは別ということになる。

もう一つの問題は、真宗門徒の禁欲、勤勉、忍耐といった自己規制は堕地獄の恐怖から生まれたものだということ。
専修賢善、勧善懲悪、因果応報、廃悪修善といった、真宗では異義とされるようなことが当たり前のように説かれ、たとえば蚕を殺す養蚕はしないといった殺生忌諱、貧困者などの弱者を憐れむ仁慈を行なう積善余慶が勧められた。
このことも有元正雄氏によると、
「門徒にとっては、殺生の忌諱は仏教が説く生きとし生けるものへの普遍的な慈悲の心であるとともに、より直接的にはその業報による地獄への恐怖であり、両者はメダルの裏表であるが、地獄への恐怖のほうがその与える心理的影響においてはるかに大きくかつ現実的であったといえよう」ということになる。

「かくして、親鸞の示した弥陀による絶対救済は理念として背後に退き、具体的現実的には悪の代償としての地獄、善への報償としての極楽を提示し、他力と自力の相互補完の上に、近世真宗教義は再構築されたのである」
道徳を遵守し、禁欲的に生活し、そうして本山や寺院への布施や奉仕することは、信心と表裏一体の堕地獄の不安があればこそなのである。
「親鸞教は絶対他力宗教であって禁欲を要求しない。近世真宗においては他力に包摂された自力宗に転化することにより、つまり他力のもたらす弥陀救済への報謝の観念と、自力のもたらす禁欲との独自の結合によって、門徒に他の思想・宗教団体に見ることのできないほどの一際厳しい禁欲生活を要求し、そのエートスが真宗門徒の独自の社会的活動として出現するのである」
なるほど、こういうことなのかと納得。

有元正雄氏は次のようにまとめている。
「(イ)死後地獄に堕ちて苦しまねばならない悪人凡夫が弥陀の慈悲によって救われるとし、弥陀一仏への信仰を説く手段、および門徒統制の手段として地獄の恐怖が説かれるとき、人々は悪に対する深刻な反省と自己規制を生み、現世において悪業を排除し地獄への因を除こうと図る。(ロ)さらに後世の救済が絶対的に保証されるとするとき、現世の生活には救済に対する奉謝・敬愼の観念が充満する。かくして両者が結合し、門徒の生活はさながら禁欲者のそれに変わってゆく」
これじゃ奴隷の幸福とどう違うのかと思うし、そうはいっても、真面目に社会生活を送るんだったら、近世真宗が自力だとしても、それはそれでいいじゃないかとも思ったのでした。

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有元正雄『近世日本の宗教社会史』『真宗の宗教社会史』2

2010年04月24日 | 仏教

徳田秋声の短編『街の踊り場』は、秋声の姉(70歳)が死んだので葬儀のために金沢に帰るという話。
おかみそりの場面がある。
「人が多勢仏間に立つてゐた。
「湯棺だ。」
 私も人々の後ろへ寄つてみた。嫂や姉や、死んだ妹の二人の娘や、姪たちは、手にハンケチをもつて、涙をふいてゐた。
「なむあみだ、なむあみだ……。」
 歔欷くやうな合唱が、人々の口から口に呟かれた。
 湯棺がをはると、今度は剃髪が始まつた。法被を着た葬儀屋の男が、剃刀を手にして、頭の髪をそりはじめた。髪は危篤に陥る前に兄の命令で短く刈られてあつた。(略)
 葬儀社の男衆は前の方を剃りをはると、今度は首を引つくら返して、左の鬢をあたりはじめた。それから右と後ろ――かなり困難なその仕事は、なか/\手間取つた。鳥の綿毛をでもむしるやうに、丹念に剃られた。綿の詰つた口、薬物の反応らしい下縁の薄紫色に斑点つけられた目、ちやうどそれは土の人形か、胡粉を塗つた木彫の仏像としか思はれない首が、持ちかへる度に、がくり――とぐらついた。(略)
「もうそのくらゐで可からう。」
 兄がふつと言つたので、私は気がついてみると、姉のこちこちした頭髪は綺麗に丸坊主にされてしまつた。ぼんの窪のところが、少し黝い陰をもつてゐるだけであつた」

『街の踊り場』は昭和8年3月の作品。
そのころの金沢の真宗門徒は死んだ時に頭をつるつるに剃っていたのかと驚いた。
葬儀社の人が湯灌をしたりとか、『おくりびと』の納棺士は戦前にもいたわけです。
湯灌の時に頭を剃るという習慣は全国的なものなのか、それとも金沢周辺だけなのか、いつまで行われていたのか、などなど興味が尽きない。

もっとも、おかみそり(帰敬式)とは仏弟子になると誓う儀式であり、生きている時に行うのが本来である。
おかみそりといっても剃る真似をして、実際に剃ることはしない。
江戸時代、おかみそりでこんな出来事があったと、有元正雄氏は『真宗の宗教社会史』で紹介している。

文政6年、東本願寺法主達如が越後国三条に下向した際、参詣の門徒に御剃髪を執行した。(この場合は剃刀をあてるだけで、髪を剃るわけではない)
「柏崎代官所は布達し、この和製免罪符取得のために「一衣脱ぎ又は家財等までも売り払い替え布施致」す状態を戒めている。しかし「家内一同小児に至る迄も相願い候」という状態であった」
どうして家財を売り払ってでもおかみそりを受けようという騒ぎになったかというと、法主直々に剃頭してもらえば極楽往生が保証されると信じていたからである。

松岡譲『法城を護る人々』に、親鸞聖人650回忌御遠忌のあった明治44年ごろ、新潟の寺に法主が来ておかみそりを行う場面がある。
「法主を見ただけでもう極楽参りが出来ると思っているこの連中が、親しく御門跡の法衣の袖に触れ、剰え手づから御剃刀を下し置かれるのであるからすぐと此場で一身にどんな幸いな変化があるかも知れないと、嬉しいが、但しどうしていいやら分らないような妙な不安で、観念の目をつぶって、只管念仏を唱えて居るものもあれば、ただ/\此の印刷した釈の某或は釋の尼某を推し頂いて、極楽の蓮の台に乗った時、自分が此名で呼ばれるのかと、今更らしく随喜の涙を流しているものもあった」

爺さん婆さんの会話。
「おらあこっげな難有えことあねえ。長生きは業晒しだと思ったが、やっぱり長生きはするもんだ。御念仏を申せ、死んだら極楽参りは必定だぞよと、いつも/\御師匠様から聞かして貰っていたが、まさか生き仏様を此世で拝み申して、其上おてづから、此爺奴の頭を剃っておくれなさるなんちうことが、又とあろうことかのう。おらもう嬉しくて嬉しくて涙が出てならないかのし」
「ほんにそうだのし。おらもう二十年も先に上方まいりをした時に、御本山におまいりをして、前門様から御頭剃をして貰ったっけが、こっげなお難有いことが、諸式の高えこの比頃に五貫だの一両だのって、ほんに安いこったのし、おらもほんに嬉し涙がこぼれるて……」
「そうだとも/\。たった五貫や一両ばかしで、御浄土参りが出来るてがだんが、こっけな難有いことはないことしのし。おらあんまり難有いから、ありったけのしんがい銭を、御門跡様の御手元へ上げようと思うがのし」
「お前も上げらっしゃるか。おらも上げることにしようぜ。そいで極楽参りが出来て、あのおっかない地獄行きが免がれたら、こっげないいことはないことだこて。お前さん一緒にあこの御志しを上げるところへ行って来ようかい」
「みんながそうやって御手元金を上げらっしゃるのに、おらばっかし上げねえでいて、若しか地獄へ堕ちると大変だから、おらもこれから倅に小遣銭をもろうて来て上げなけりゃ」
「そうだとも、上げなけらならんこて。米一俵負て貰ったって礼をするがだがんに、此罪の深い凡夫の後生の一大事を引きうけて貰う生き神様に、お礼をしずにいちゃ罰が当たるともさ。たかが五貫や一両出して一人前の積もりであと知らん顔をしていれば、きっと目がつぶれるとか、孫が死ぬとか、米倉に鼠が入るとか、何か罰が当たるにきまっているって、御師匠様が此間言わしたで」

『法城を護る人々』は小説だが、松岡譲は真宗寺院の長男だし、実際の見聞をもとに書いていると思う。
達如におかみそりをしてもらおうとする人たちの気持ちもこんな感じだったのだろう。
生き仏の法主に剃髪をしてもらえば極楽往生は間違いなし、布施をしなければバチが当たって地獄落ちというこの会話から、法主=生き仏、おかみそりの呪術的効果、地獄の恐怖といった概念が門徒の頭にすり込まれていたことがうかがえる。

『真宗の宗教社会史』に戻って、この越後下向の際にこういうこともあった。
達如が出雲崎名主宅から出発したあと、座敷を拝見した群参の者は「落涙之余り水風呂之水を吞ミ両便所迄拝申候」、つまり人々は法主の入った風呂の残り湯を飲み、便所のクソを拝んだというのである。
この話は作り話かと思っていたが、実際にあったことなのかと納得。

佐藤信淵は文政6年の達如の越後下向について、
「境内の人民総て本願寺を帰依すること狂の如く、莫大の金銭を報謝して、家産の破るゝを顧みず」と書いている。
家を傾けてまでも本願寺に寄付していたのは門徒だけではなく、寺院も借金をしていたそうだ。
有元正雄氏はこんな例をあげている。

天明8年(1788年)の大火によって消失した東本願寺は再建のための借財が25万両に達し、借財返済のための募金をしている。
これはかなりの負担だったらしくて、たとえば福井の某寺は本山の上納金を納めるために文化末から文政初年にかけて5回借金をしている。
御絵伝4幅を質入れして100両、193両3分、302両と借りているが、保証人は門徒(18軒)だった。
そのころの1両が現在ではいくらかというと、米貨に換算すると3~5万円とか6~7万円と諸説ある。
大工の日当から換算したら1両=30万円、かけそばからは15万円だそうだ。
ということは、御絵伝をかたに少なくても何百万円、庶民の感覚からすると1億円ぐらいの金額を本願寺のために借りたということになる。
逆に言えば、それだけの大金を貸すことができる寺もあったわけだ。

さらには、某寺がある寺から借りた際の質物はなんと門徒だった。
返済が滞ったら、その門徒たちは金を借りた寺の門徒となるという条件なわけである。
嘘みたいな話で、門徒がよく承知したもんだと驚く。
それまでして再建された東本願寺は文政6年(1823年)にまた焼失した。
神慈秀明会では「借金してでも献金させて頂きなさい」と言って金集めをしたそうだが、それと同じことを本願寺はずっとやってきたわけだ。

で考えたのが、文政6年の東本願寺出火焼亡の際、
「本堂に火移りしとき、宗旨のども二百余馳集りて消防せしが、火勢盛んにして防留がたく、其辺往来も協がたく成ると、半の人数は門外へ逃出たりしに、残る百人計は本堂とともに灰燼と成て失ける、その後に生残りし又その間に合ざりし者等打こぞりて後悔し、本堂とともに焼死せし者は真に成仏して来世にを離れて平人に生れ出べしと、皆羨しとなり」という松浦静山『甲子夜話』の一文。
この出来事は問題の勉強会で聞いたことがあるが、しかし真宗門徒が家産を傾けてまで寄付したり、法主の入った風呂の残り湯を競って飲んだりしたことなどと並べて有元正雄『真宗の宗教社会史』に書かれているのを読むと、往生のために焼死するという行動は被差別特有とは言えないように思う。
本山のために尽くしたら死後にいいところに生まれると信じていたのは被差別民だけではなかったのだから。

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有元正雄『近世日本の宗教社会史』『真宗の宗教社会史』1

2010年04月21日 | 仏教

有元正雄氏の話を聞いて非常に面白かったので、『近世日本の宗教社会史』と『真宗の宗教社会史』を読む。
蒙を啓かれた思いがした。

『近世日本の宗教社会史』は、関東と周辺地帯(関八州、駿河、遠江、伊豆、甲斐、信濃)、近畿と周辺地帯(近畿諸国、若狭、因幡、伯耆、備前、備中、備後、美作)、真宗篤信地帯(越後から越前北陸諸国、飛騨、西美濃、西尾張、安芸、石見、周防、長門、筑前、筑後、西豊前、肥後)の三つの地帯に区分し、江戸時代中後期におけるそれぞれの地帯の文化的、精神的特徴を考察した本である。

関東と周辺地帯では堕胎、間引きが広く行われ人口が減少している。
近畿の中心部では堕胎が珍しくなかったが、「えた」は堕胎を行わないので人口が増加している。
というのも、近畿以西の被差別民はほとんどが真宗寺院に属しており、殺生忌避を忠実に実行していたのである。
真宗篤信地帯では堕胎、間引きをしないので、人口はおおむね増加している。
中村健之介『宣教師ニコライと明治日本』によると、ニコライの日記に1882年(明治15年)秋田では間引きが行われていたことが書いてあり、関東の農村でも堕胎と間引きが広く行われていると1892年(明治25年)の日記にある。
明治に入っても、地域によっては堕胎、間引きが行われていたのである。

また、関東と周辺地帯では治安がきわめて悪い(股旅物の舞台は関八州)のに、真宗篤信地帯では概して治安は確保されている。
近畿と周辺地帯はその中間ぐらい。
そして、関東と周辺地帯では呪術が民衆を支配していたが、真宗篤信地帯では民衆が呪術を克服して合理化され、そして倫理化、禁欲的な生活態度が形成されている。
だからといって、
「真宗における合理化の問題を過大に評価することも正しくない」と有元正雄氏は言う。

有元正雄氏が問題にしていることを二点あげると、
1,法主=生き仏体制の本願寺も呪術の一種だということ
2,倫理、道徳の強調によって親鸞の教義を改変していること

法主=生き仏体制について、有元正雄氏はこう書いている。
「すでに筆者は、真宗が輪廻転生の思想に立って、開祖親鸞を阿弥陀如来の化身とし「如来聖人」と称したこと、その血統と法脈を継承する歴代法主を「如来の御代官」と称し、巨大な権威をもった世襲カリスマ=生き仏の体系が成立したことをみた。そしてこのような法主の機能につき児玉誠は「旧来の呪術・雑信仰を克服するのに別の呪術=本願寺法主を生き神とする人神信仰をもってしたと考えられる」とし、「真宗について、民衆を呪術から解放した合理主義的宗教として過大評価するのは誤りで、その根底に本願寺法主の呪力のみは絶対肯定する異質の呪術のあったことを見落としてはならない」という。筆者もこの見解に賛成である。
真宗において御剃髪(おかみそり)と称し、法主が在家の者に真宗に帰依した証として剃髪の儀式を行ない、門徒は「家財等まで売り払い」その儀式を受けようとしたのである。しかし阿弥陀如来への信心以外に何ものも必要としない本来の真宗においてはそのような儀式は無用なものであり、それは法主の権威によって布施と引き換えに行なわれた呪術といえよう」

まず「如来聖人」について。
親鸞は「如来聖人」「如来ノ御代官」とされた。
「如来聖人」とは「如来と聖人」という意味ではなく、親鸞聖人は阿弥陀如来の化身だとされたから、「如来である聖人」ということなのである。
親鸞=弥陀の化身説は「門徒民衆の側からの作為ではなく教団側の作為」である。
そして、親鸞の血筋である本願寺法主も善知識=「如来の御代官」とされ、本願寺法主=生き仏体制が成立する。

蓮如は後生(浄土往生)の保証をするとされ、さらには「後生を請取ることが可能であるならば、その逆の後生を拒否し地獄に堕とすこともまた可能」ということになった。
法主が往生できるか、それとも往生できないかを決めることができるとされたのである。
「証如の法主時代以降に至ると、本願寺の御勘気を被ることは即無間地獄への堕在であるとして懼れられるにいたる」
破門されて地獄に堕ちるのは当人だけではない。
「本願寺法主の御勘気に合う、すなわち破門された門徒には、世間附合いが許されず、火種の貸借りや、日常の挨拶をした者までも無間地獄に堕ちるというのである」
本願寺法主が救済の授与権を行使するばかりでなく、法主の権威と統制に服さない者に対し、破門し、地獄堕在を宣言するようになったのである。
有元正雄氏は「浄土教義史上の一大転換をなすに至った」と断じるが、まさにそのとおり。

善知識(教主)である法主が往生の拒否権を持つわけだから、法主は救主でもある。
これは一尊教である。
そして、堕地獄の恐怖を強調すること。
「「如来聖人」や「如来の御代官」の御恩(師恩)が説かれるためには、地獄の恐怖を示し、それとの対比で極楽の楽園たるさまが讃嘆されることは不可欠であった」
堕地獄がたとえとして説かれているのならともかく、そうではない。
地獄の恐怖を植えつけ、なおかつ自分は地獄に堕ちる悪人だと教え込み、そして阿弥陀如来=法主の救済によってのみ救われると説くのではマッチポンプである。

教主が地獄の恐怖を説き、その教主が救主となって救うという構図はオウム真理教、エホバの証人、統一教会などと同じだと思う。
オウム真理教元信者の言葉。
「オウムでは、「上司の指示はグル麻原の指示」とされていました。指示に疑問を持つことは、グルに対する疑念を意味し、弟子として恥ずべきこととされていました。また、指示に従わなければ、オウムにいることはできなくなります。そのことは生活の基盤のすべてを失ってしまうだけでなく、修行ができなくなり地獄行きになってしまうと思い込んでいたのです」
(カナリヤの会編『オウムをやめた私たち』)
真光の信者の言葉。
「我々は疑ってはいけないのです。教え主様を疑うこと、手かざしを疑うこと、御み霊の力を疑うこと、これは神様を疑うことと同じで非常に悪いことであると教えられています。これらを疑うと神様からの霊線が切れてしまい、いろいろな不幸現象が起こることがあるとも言われます」
グルや教え主という言葉を法主に言い換えてもなんら不自然ではない。

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新学期の愛子さま、雅子さまと毎日通学

2010年04月18日 | 日記

新学期の愛子さま、雅子さまと毎日通学
 宮内庁の野村一成・東宮大夫は16日の定例記者会見で、皇太子ご夫妻の長女愛子さま(8)について、3年生の新学期の授業が始まった12日以降、学習院初等科(東京・新宿区)に毎日通学されていると発表した。
 すべての授業に出た日はまだないが、雅子さまに付き添われて登校し、新しいクラスで楽しく過ごされているという。
 愛子さまは、9日の始業式には出席せず、ホームルームから参加されていた。野村大夫は、12日以降について「先生方のご配慮をいただきながら、毎日通学されている。新しいクラスの友達にも温かく接していただいている」と説明した。ご夫妻も「うれしく思っておられるご様子だ」という。
 関係者によると、愛子さまは、始業時刻より遅い時間に雅子さまと共に車で登校。雅子さまが見守られる中、一部の授業に出席し、早退されているという。
読売新聞4月17日

こんな個人的な、あまり人に知ってもらいたくないようなことまでどうして報道するのかと思う。
不登校の子どもの動向をPTA通信とか学級新聞とかで父兄に伝える学校があれば、マスコミは大騒ぎして非難するだろう。
学校に行けない子どもの苦しみ、子どもが学校に行きたがらない親の心痛を想像するなら、無関係な第三者は黙って見守るべきだ。

ヤフーのコメントを読むと、母親が学校に付き添うことを批判するコメントが上位を占めている。
「これはちょっと過保護だね」
「溺愛の結果、精神的虚弱児になったのではないか」
「いつまで続くのかは知らないけれど、これが容認されたら雅子さまの公務は『学習院の授業参観』となるのかな?」
etc
私はアンチ皇室ファンなのだが、こういう内容の非難は許せない。
小学生が学校に行けないのはおかしい、不登校の子どもに親がついて行くのは過保護だ、公務よりも子どものことを優先するべきじゃないなどなど、よく言えたものだ。
自分の子どもがいじめられて学校に行きたがらなくなっても、やっぱりそんなことを言うのだろうか。

さらに驚くのがコメントに対する賛否である。
「園遊会は、他の皇族が出席されているので欠席してもかまわない。
母親にとって、子どもを育てるほうがはるかに大切である」

しごくもっともなコメントだと思うのだが、
私もそう思う130点 私はそう思わない416点
と、そうは思わない人のほうが多い。

このコメントに対する批判コメント。
「>母親にとって、子どもを育てるほうがはるかに大切である。
それは同感ですけど、授業参観までは過保護。
普通は心配でも学校まで送るだけだよ。
そういう特別扱い、他の生徒にも悪影響です」

私もそう思う158点私はそう思わない12点
と、
これには賛成する人が多い。

「>これまでの夫婦のありかたや言動の結果そのものが愛子さまの不登校ですよ。
子どもの不登校で悩んでおられる家族は全国にたくさんおられます。
そんな言い方は失礼だと思いますが・・・・」

これまたもっともな反論だが、
私もそう思う161点 私はそう思わない237点
ヤフーのコメント欄はだいたいこういう傾向でして、いくらネットとはいえ、何を考えているのかと思う人が多い。

公務と子育てのどちらを優先するかということ、これは組織と個人のどっちを重視するかという重要な問題だと思う。

たぶん右翼や保守派の人たちには独善的期待される皇室があり、それにはずれていると感じると遠慮なく批判する。
マスコミは理念などなく、ただ儲かればいい。
ネットの人間はおもしろがっている。
それが雅子さまバッシングである。

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寺の役割

2010年04月17日 | 日記

寺の役割は何かというと、まずは教えを伝えること。
そして、心情の安定ということがある。
死者への供養は真宗寺院ではしないというタテマエだが、しかし勤行することで家族が安心するなら、それはそれでいいのではないかと思う。
とはいっても、水子供養をほいほいとする気にはなれないけれども。
それと、情報の提供が大切だと最近感じている。

『「生きづらさ」について』で雨宮処凜氏は、
「「死ぬ」というメールがきたときに、精神論で相談にのっても何の解決にもならないことを痛感しました。もちろん、話を聞くだけで自殺願望が収まることもあるんでしょうが、手もちのお金がぜんぜんないとか、家がないとか、明日借金の返済日でどうしてもお金がないという状況のときには本当に意味がない。「もやい」のような、ここに電話したらとりあえず生きられるという場所を知っているだけでぜんぜん違います」

雨宮処凛氏の言っていること、その通りだと思う。
悩み事に対して、なるほど、そうですか、それはつらいですね、と受容的、共感的態度で聞くことは大切ではあるが、場合によってはそれだけではだめだと思う。
たとえばお金がなくて、二、三日何も食べていない人にはパンが必要である。
空腹(悪い状態)から満腹(いい状態)に状態が変わることが、その人の救いとなる。
しかし、どうすればパンを手に入れることができるか、どこに相談したらいいのかわからない人のほうが多いと思う。
また、私にしても他の人の状態を変える力はない。

ニートの自立支援に関わっていた人の話だと、どういうことをしてるかというと、まずは居場所作りと相談、そして生活指導、職業訓練、就職支援などなどである。
具体的には、たとえば就労だと、どのようにして仕事を探すのか、履歴書の書き方から面接の仕方を教えるし、企業への働きかけもする。

こうしたことを行うのは、とてもじゃないけど個人ではそこまではできない。
だけど、その人の状態を変えることはできなくても、こういうところがありますよ、相談されたらいかがですか、という程度の情報を提供するぐらいは私でも可能である。
以前、子どもが学校に行きたがらないという相談を受けたことがある。
知り合いに不登校の親の会に関わっている人がいたので、その人に尋ねたら、あれこれと教えてもらった。
そんなふうに、いろんなつながりを作ることで、いろんな情報を提供できるようにしたいと思う。
腰が痛いと言う人に、○○病院がいいそうですよといった雑談も大切なことである。
そうすることが宗教的救いへつながっていけばいいのだけども。

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死刑になった人たち 2

2010年04月14日 | 死刑

普通の人間ということでは、オウム真理教事件の死刑囚たちがそうらしい。
死刑囚の澤地和夫は『東京拘置所死刑囚物語』にこう書いている。
「死刑囚らの犯行はその結果からするなら、極悪人ときめつけられても二の口がありません。しかし、私を含めた殺人者たちが総じて元々からの極悪人であったわけではありません。私は、自分の体験からして、人はだれしも殺人者となり得る芽がその体内に密かに根づいている存在であると思っています。
私は、約8年くらい前から、オウムの林泰男、豊田亨、早川紀代秀、中川智正、遠藤誠一の5人と同じ舎房で暮らしていますが、彼らは5人ともきわめて、礼儀正しく真面目で、かつ、とても紳士に見えます。
しかし、実際に接したことのない世間の人たちは、オウムの犯人たちを端(はな)から冷酷で無慈悲な人間ときめつけているように思われます。ところが、実際の彼らはそうではないのです。あのいかさまとも思えるような宗教との出会いがなければ、この社会のリーダー的存在として応分の活躍をした人たちであろうと考えます。しかし、悲しいかな、いくら高学歴で教養の高い人間であっても、人は何かをきっかけとして、自分でもわけがわからないうちに犯罪者となってしまう存在なのです」
『歎異抄』の「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」ですね。

宅間守は裁判でも遺族に暴言を吐き、弁護人である戸谷弁護士への手紙にも自分勝手なことを書きつらねている。
だけど、宅間守も理解不能な人間というわけではないのかもしれない。
篠田博之氏は宅間守とつき合いはないが、『ドキュメント死刑囚』でこうではないかと書いている。
「無差別殺人という凶行を犯した自分を鼓舞し、正当化するためにはこう主張するしかない。自分のアイデンティティが崩壊するのを防ぐためには、こんなふうに最後まで虚勢を張るしかなかったのかもしれない。
そう考えると、少なくとも宅間守の精神は最後まで崩壊していなかったことがわかる。無茶苦茶な論理ではあるのだが、そうまでして自分を正当化しないと、自分のやったことがすべて無駄だったことになる。宅間守死刑囚が自ら早期執行を願い、死を望んだのは、自分の精神が崩壊しかねないことを恐れたからかもしれない」

死刑囚としていつ殺されるかわからない宙ぶらりんな状態が耐え難かったこと、そして何年も執行を待つ日々が続くうちに罪を悔いるようになったらかっこ悪いというのがあって、宅間守は早く執行するように何度も要求したのかもしれない。
もしもそうした人間的弱さを宅間守が持っていたとしたら、やっぱり人の子だと何となくほっとすることができる。

意外なことに、木曽川・長良川連続リンチ殺人事件で未成年ながら高裁で死刑判決を受けた3人の被告は、
「いずれも気が抜けるほどに「普通の青年」だった。いやむしろ、「普通の青年」より遙かに脆弱な印象を漂わせていたようにも思う」と青木理氏は『絞首刑』に書いている。
「少なくとも私には、3人の「元少年」を二審判決が言うような「凶悪」「残虐」「冷酷」といった言葉とイコールで結びつけることができなかった」
心理鑑定した大学教授はこう言っている。
「彼らは出会ったばかりで互いにホンネを言い合える間柄でもない。相手が強気の姿勢を見せているのに、自分だけが引くわけにはいかないという虚勢や見栄。これに集団心理が加わり、事態収拾の方途も見いだせないまま、場当たり的に暴力をエスカレートさせてしまったのでしょう」
事件そのものは残虐ではあるが、こうした普通さは何となく安心させる。

木曽川・長良川連続リンチ殺人事件の加害者の一人は謝罪の手紙を出していたが、今は手紙を書いていない。
どうしてかというと、
「裁判が続いているし、情状(酌量)を得るためと受け取られてしまうような謝罪はすべきじゃないと思っています」
手紙を出さなくなったのは、
「謝罪の手紙が、減刑のための情状を狙ったものだという風にマスコミに書かれてしまいましたから。そんな気持ちじゃなかったのに、ご遺族にも、そう思われてしまったようでしたから」
手紙を書かないことが反省のあらわれとも言えるわけだ。
被告の一人は一審判決後に洗礼を受けたそうだし、罪を悔いて反省したということでは、執行されているが、藤波芳夫
長谷川敏彦は洗礼を受け、熱心なクリスチャンになっている。
反省の気持ちをあらわす加害者には、やっぱり人間だったと思いホッとする。
もちろん、その反省がどういうものか、その内容が問題ではあるけれども。

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死刑になった人たち 1

2010年04月11日 | 死刑

篠田博之『ドキュメント死刑囚』青木理『絞首刑』小川善照『我思うゆえに我あり 死刑囚・山地悠紀夫の二度の殺人』を読む。
いずれも死刑囚についてのドキュメント。

私はこの手の本をつい読みたくなる。
どうしてなのか考えてみたのだが、怖いもの見たさというか、殺人犯はどんな人間なのだろうか、どうして殺したんだろうかといった好奇心からというのがまずある。
それと、安心したいという気持ち。
安心したいというのはどういう意味かというと、一つは殺人犯なんて自分とは縁のない無関係な存在だということになれば、自分や家族はそんな事件など起こさないことになり、安心できる。
たとえば、精神的、もしくは知的な障害があるとか、薬物や酒で正常な判断ができない状態だったとか、悲惨な生育環境の中で育ったとか、そういうことであれば、自分や家族はたぶん大丈夫だろうと、とりあえずは安心できる。
その一方で、矛盾しているかもしれないが、残忍凶悪無残な犯罪を犯しはしたが、実際にはごく普通のどこにでもいるような人間であって欲しいという気持ちもある。
激情に駆られてとか、切羽詰まった状況の中で金ほしさにとか、はずみが重なって思いがけずとか、私が理解できる範囲内のそれなりの理由があれば、何となく安心できる。
というのも、もしも普通の人間なら、罪を犯したけれども、それは一時の迷いであって、自分が犯した罪を深く悔い改めて更生するだろう。
それに対して、加害者がまったくどうしようもないクソ野郎で、人を殺してもケロッとしているようだったら、人間全般に対する不信感が生じてくる。

精神的な問題があったらしいということでは宮崎勤がそうだ。
宮崎勤と文通していた篠田博之氏によると、
「宮崎勤死刑囚の場合も、最期まで死刑判決の意味や、自分の置かれた状況をきちんと理解していたかどうか疑わしい」そうだ。
宮崎勤は精神病だったかどうか。
「私は詐病説には与せず、宮崎が何らかの精神的病気、特に事件当時はそうだった可能性は高いと思っているのだが(責任能力の有無は別として)、そのあたり真実はどうなのかについてはよくわからないところも多い」
とはいっても、
「私は彼の言動をすべて詐病だとする立場には立たないのだが、かといって善悪の判断がつかないほど彼の精神が崩壊していたとは思えない」と篠田博之氏は記しており、すっきりしない。

劣悪な環境で育ったということでは,
女児殺害事件の小林薫
篠田博之氏はこう書いている。
「恐らく彼は、家庭環境が違っていたら、あのような犯罪者にならないですんだ人間ではないかと思う」
小林薫の手紙によると、事件の真相はこうだったという。
「日ごろからのストレスで死にたいと思っていた私は「どうせ死ぬなら好きなことをして死のう」と思い、服を着、同僚から借りていた車に乗り、大阪府八尾市へと車で行き少女を探したのです(いたずらをするため)」
ところが、
「わいせつ行為をするために睡眠薬のハルシオンを大量に飲ませたところ、風呂につかったまま死んでしまった」という主張を小林薫はしている。
つまり、小林薫の主張を信じれば、事件は過失致死ということになる。
それで、死体をどうするかというので、自殺願望がある小林薫はぶっとんだことをする。
「考えたのが、「このまま何もせず死体を遺棄するよりも、死体を陵辱した様に見せかけてから遺棄した方が罪が重くなり、死刑の判決を受け死ぬことが出来る」と考え」
、そして実行した。
死刑になりたいというのはともかく、小林薫が遺体にしたことはそこまでやるかというような残虐なことなのである。

小川善照『我思うゆえに我あり』は、姉妹を殺して死刑になった山地悠紀夫のドキュメント・ノベル。
小5の時に死亡した父はアル中で暴力をふるうのだが、山地悠紀夫はそんな父を慕う一方で、母親を憎んでいた。
学校ではいじめられ、問題児として教師からは嫌われる。
中3の時にはまったく授業を受けなかった。
そして、16歳の時につき合っていた女性のことで母を殺す。
知人や近所の人たちから減刑嘆願書が出された。
ここまではいいとして、三年間ほど少年院にいたが、母を殺したことを反省せず、罪の意識を持たなかった。
こういうのは私としては困ってしまう。
では、なぜ姉妹を殺したのか。
山地悠紀夫は「母親を殺した時の快感が忘れられなかった」と供述している。
快楽殺人であることは検察も弁護側も一致していた。
こいつは頭が変だとして片づけることができればいいけど、友人だった男性は「言い訳しないのも、他人のせいにするのが嫌なんですよ。最後の最後まで、自分の責任で死にたいんですよ」と言っている。
山地悠紀夫は高裁への控訴を取り下げて一審で死刑が確定した。
死刑囚としての生活は判で押したような毎日で、ほとんどの時間、本を読んでいた。
運動の時間にも外には出ず、独房から出るのは入浴の時くらいだった。
手紙の着信拒否願いを提出し、外部との接触を断っていた。
何を考えてそんな生活を送っていたのだろうか。

人を殺しても反省せず、罪の意識を持たない受刑者は珍しくないらしい。
美達大和『人を殺すとはどういうことか』は、二人を殺して無期懲役になり、LB級刑務所にいる美達大和という人が書いたもの。
LB級とは懲役8年以上で犯罪傾向の進んだ人が入る刑務所である。
LB級刑務所では、罪の意識を持つ者や反省する者はほとんどいないそうで、それどころか被害者のせいで刑務所に入るはめになったと、被害者を責める者も珍しくないそうだ。
美達大和は、受刑者の多くは成功体験、努力経験がない、共感性に乏しい、自分中心で自分のことしか考えない、我慢、辛抱ができない、目先のことしか考えない、と言っている。
読んでいてため息が出てくる本である。
更生は絵に描いた餅なのだろうか。

殺人や死刑とは関係ないが、美達大和は『矯正統計年表』から、新入受刑者(年間約3万人)のIQを100以上は5~6%、69以下は約22%、70~89が約50%だと紹介している。
知的障害者は犯罪を犯しやすいということではなく、刑務所しか行き場のない人がたくさんいるのである。

コメント (17)
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中国:日本人に死刑執行

2010年04月08日 | 死刑

中国:日本人に死刑執行…国交正常化後初めて
中国遼寧省高級人民法院(高裁)は6日午前9時半(日本時間同10時半)、麻薬密輸罪で死刑判決が確定した赤野光信死刑囚(65)=大阪府出身=の刑を大連市看守所で執行した。中国で日本人の死刑が執行されたのは1972年の日中国交正常化以降初めて。日本外務省によると、戦後、海外で刑事犯として日本人の死刑が執行された記録はないとしている。
 死刑執行から5分後、同法院から在瀋陽日本総領事館大連出張駐在官事務所に連絡があった。新華社通信によると、中国最高人民法院(最高裁)は声明を発表し、「麻薬密輸について疑いのない証拠があり、法に基づいて死刑を宣告し、執行した」と説明、死刑執行の正当性を強調した。
 判決によると、赤野死刑囚は06年9月に大連の空港で、共犯の石田育敬受刑囚(同罪で懲役15年確定)と、約2.5キロの覚せい剤を日本に密輸しようとして警察に拘束され、1審判決を経て昨年4月に同法院で死刑が確定していた。
 同罪で死刑が確定した、名古屋市の武田輝夫(67)▽岐阜県の鵜飼博徳(48)▽福島県の森勝男(67)の3死刑囚についても、中国政府は8日にも刑を執行すると日本政府に通告している。
 日本政府はいずれの刑執行にも「刑が重すぎる」と懸念を表明しているが、中国政府は麻薬犯罪には厳罰で臨む姿勢をみせている。一方、赤野死刑囚と家族らの面会を執行前日に認め、執行を1日延期するなど配慮も示していた。
毎日新聞4月6日

日本には中国人死刑囚がいて、1人が執行されているわけだから、いくら懸念を表明しても相手にされるわけがない。
とはいっても、麻薬密輸罪での死刑執行であり、「人の命を奪っていない犯罪で死刑は厳しすぎる」という意見がある。

たまたま坂田精一『ハリス』を読んでいて、こういうことが書かれてあった。
1858年に調印された日米修好通商条約は、アメリカ代表のハリスが治外法権を強要した不平等条約だということが通説になっているが、それは誤りだと坂田精一氏は言う。
治外法権、すなわち「外国人が日本の国法を犯した場合に、日本の法律と裁判によらないで相手国の法律と責任者によって処罰するという規定」は、日本の主権を犯すものである。
しかし、徳川時代には外国人が日本で法を犯すことがあれば、日本の法律ではなく、外国の法律で罰することが、徳川家康以来の祖法だったそうだ。
だから、ハリス来朝以前の日英、日露、日蘭の和親条約もそうなっており、ハリスが強要したわけではない。
そして、坂田精一氏はこう言う。

当時の日本の刑法は苛酷きわまるものだった。
「十両以上の盗みは引き回しの上、打ち首。手形の不渡りも、十両以上は同罪。大名の行列を横切った場合は、その場で斬り捨て、というように、当時の先進諸国の法律とは到底比較にならない乱暴なものだったのである」
「このような事情があるので、諸外国は日本と国交を開くにあたり、日本に在住する自国民をこうした法律から保護するために、「領事裁判」を希望したのである」

もし日本もアメリカでの治外法権を主張したらどうなるか。
「たとえば、アメリカに在留する日本人があやまって大統領に無礼を働いたとする。大統領はアメリカの元首で、日本の将軍に匹敵するものであるから、日本の法律によれば文句なしに死刑に値する。日本の商人がアメリカにおいて十両の不渡り手形を出したとする。これも死刑である。しかし、アメリカの法律によれば、罰金、あるいは若干の有期刑ですむであろう。とすれば、当の本人はそれを希望するだろうし、日本政府としても強いて日本の法律を行使するような馬鹿なことはしないだろう」
「そこに思い至れば、平等も不平等もないのである。あるものは、両国の国情の相異だけである」

中国では死刑にできる罪名は69もあり、殺人や麻薬密輸以外にも経済犯、収賄や横領なども死刑の対象となるそうだ。
「比較にならない乱暴なもの」のように感じる。
日本人が中国で麻薬密輸で死刑になるのは、江戸時代の日本で十両の不渡りを出したアメリカ人が打ち首になるのと同じである。
だったら、日本政府は中国に強く抗議してもいいように思う。

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女はたくましいか

2010年04月06日 | 日記

東本願寺の女性室広報誌「あいあう」22号が送られてきた。
「あいあう」は金の無駄遣いだとかねがね思っていて、これは私の本心がマチズモ信奉者ということもあるが、ちょっとなあと感じる文章が散見するということがある。
田中美津「女と男は、助け合うから美しい」というエッセイもそう。

森まゆみ氏が山田風太郎氏にインタビューした本の中で、こういうやりとりがあると田中美津氏は紹介している。
「あの歳で瀬戸内寂聴さんの仕事ぶりが凄いということが話題になっていて、「男で僕より現役の作家なんてまずいなんだから」と山田サンは言う。そして「どうして男の方が弱いんでしょう」と聞かれて、「男は傷つくけど女は忘れるからね。男は奥さんに死なれて三年経つと死んじゃうけど、旦那が死んだ奥さんというのはげんきでますます(笑)」、「うん、女はエラい。鹿鳴館時代からずっと女の方がエラい」と」

こういうことはよく耳にする。
男は妻が死んだら急に弱るけど、女は夫が死ぬと元気になる、女は強いと。
だけど、夫を亡くした女性にちょっとでも話を聞けば、こんなことは全くの誤解だということがわかるはずだ。

死別の悲嘆の深さをまるっきりわかっていない人が多いと思う。
たとえば、差別問題に敏感な男性でも「女はたくましい。夫が死んでもけろっとしている」と言っていたし、あるところで死別の悲しみについて話したら、「男は妻に依存しているから妻の死がショックだが、女は夫から自立しているので夫が死んでもそんなに落ち込まない」という感想をもらした女性がいた。

田中美津氏のエッセイは死別についてのものではないけど、それでも死別の悲しみにあまりにも無頓着というか、無神経である。
「あいあう」編集部はそうは思わなかったのだろうけど。
昨日の毎日新聞に、母親が自死した人がグリーフケアの起業をしているという記事があった。
本山もグリーフケア(カタカナは嫌いだ)にお金を使ってほしいと思う。

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