三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

一殺多生(2)

2020年07月31日 | 仏教

広瀬健一『悔悟』にこんな説法が書かれてあります。

1989年4月7日午前零時過ぎ。富士山総本部道場第一サティアン三階における、麻原による出家者向け説法会――。
「じゃあ、広瀬いこうか」
麻原からの予期せぬ指名に、私はとまどいました。「数百人の商人を殺して財宝を奪おうとしている悪党がいた。釈迦牟尼の前生はどう対処したか」――この難問への回答を求められたのです。(略)
暴力は、信徒が最も恐れる地獄に転生する因になります。(略)
ためらいつつも私は口を開きました。
「何とかだまして捕えようとすると思います」
その後、同じような問答を数人と繰り返してから、麻原は説き始めました。
「例えば、ここに悪業をなしている人がいたとしよう。そうするとこの人は生き続けることによって、どうだ善業をなすと思うか、悪業をなすと思うか。そして、この人がもし悪業をなし続けるとしたら、この人の転生はいい転生をすると思うか悪い転生をすると思うか。だとしたらここで、彼の生命をトランスフォームさせてあげること、それによって彼はいったん苦しみの世界に生まれ変わるかもしれないけど、その苦しみの世界が彼にとってはプラスになるかマイナスになるか。プラスになるよね、当然。これがタントラの教えなんだよ。」
つまり釈迦牟尼の前生は、悪党を殺していたのです。その行為について麻原は、悪党がより厳しい苦界により長い期間にわたって転生するのを防ぐためだったと解釈しました。悪党は、悪業を犯し続けるのを放置されれば、地獄転生は必定です。地獄に転生する責め苦は、殺される苦痛の比ではない。これがオウムの教義であり、信徒の感覚でした。常識とは相反するこの見地に立脚すると、教団においては、殺人も救済になり得たのです。


同じ話をダライ・ラマ14世がしています。

殺すことは、それが人間だけではなく、いかなる生命であろうとも殺生として禁じられている。生命の破壊は罪である。
殺人が許容される唯一の場合というものもある。
仏陀みずからが語った話を聞いたことがあるだろう。599人の生命を救うため、一人を殺すような場合である。そんな場合、殺人はまったく例外的にではあっても不可避なものとなる。599人が殺されることを防げるなら、その命を救うため、599人を殺す者が積む悪しきカルマを避けるため、一人を殺すことが絶対に悪だとは言い切れない。(『ダライ・ラマ「死の謎」を説く』)

このたとえ話は『大宝積経』や『大方便仏報恩経』をもとにしたのでしょう。

辻村優英「苦しみという名の贈りもの - ダライ・ラマ14世における思いやりと普遍的責任」(2009年)で、ダライ・ラマ14世の説く非暴力について論じられています。
http://urx.red/5v14

ダライ・ラマは人々の行為は非暴力であるべきだと説くが、きわめて特殊な場合にかぎって思いやり(共苦)にもとづいた力の行使の可能性を認めている。残虐な行為をなす者と遭遇した場合についてダライ・ラマは以下のように説いている。
「菩薩のための4つの賢明な行動の様式というものがある。第一の様式は、なだめることである。言葉や理性、慰めによって状況を落ち着かせることである。もしこれがうまくいかなければ、第二の少々強い様式、何かを与えるということにまで推し進めるべきである。事態を落ち着かせる何かを与えるのである。知識や状況を調整し問題を解決するのに確実なものを与えることも考えられる。それもうまくいかなければ、支配や権力といった第三の様式に移る。相手が人であれ、国であれ、それらを抑え込むために大きな権力を行使する。それすらも効果がないという場合に、最後の様式は蛮行や憤怒)になる。そこでは暴力でさえも可能性のうちに含まれる。菩薩の46軽戒の一つに、利他的な動機にもとづいた力が必要とされる状況では力強い対応をすべきであるという誓約がある。怒りに満ちた思いやり(共苦)を伴っていれば、暴力もありうるのである。理論的には、思いやり(共苦)から生じる暴力は許されることになる」[Dalai Lama 2004(2003): 288]
菩薩が取ることのできる暴力の例として、ダライ・ラマは釈迦の前世の物語に言及している。釈迦は前世において「大悲のある船長」として生まれた。彼の船には 500 人の人々が乗っていた。その中の一人が、残りの 499 人を殺害し財産を奪おうと考えていた。そのような悪行をやめるよう船長は何度も説得しようとしたが無駄だった。船長は 499 人の命を救おうと思うと同時に、殺人を犯そうとしている者にも思いやり(共苦)の心を抱いた。499 人を殺すという悪いカルマをその者に積ませるくらいなら、自分が一人分の殺人のカルマを背負うことにしようと船長は考えた。そうして船長は殺人を犯そうとしている者を殺害した。[Dalai Lama 2005(1996): 175]
ダライ・ラマは理論上では、このような暴力の行使を認めはするが、しかし以下のように暴力の行使に対して慎重な姿勢を崩すことはない。
「しかし、実際にこれは非常に難しいことであって、傷つけようとする人間の態度を改めさせる方法が他に何一つない場合にかぎられる。一度暴力を行使してしまえば、状況は予測できないものとなり、さらなる暴力を生み出してしまう。多くの望まないことが生じることになる。じっと待ちながら状況を観察するほうがより安全である」[Dalai Lama 2004(2003): 288-289]。
ダライ・ラマがチベット問題解決に向けてあえて非暴力を貫いているのは、暴力を無批判に否定しているからではない。むしろ暴力をふるうの可能性を吟味した上での選択だったと考えられよう。力の行使を認めるか否かは、あくまでも「思いやり(共苦)」に従属する問題なのである。


ダライ・ラマ14世は菩薩の暴力を否定していません。
ダライ・ラマは観音菩薩の化身ですから、ダライ・ラマが行う暴力や殺人は許容されることになります。

釈迦国がコーサラ国によって滅ぼされることを止めなかった釈尊は、アヒンサー(不害)に徹しており、いかなる理由があろうとも、他者を傷つけることは認めていないと思います。

文献表を見ると、ダライ・ラマ14世の発言は『Destructive  Emotions、  How  can  we  overcome  them?』(破壊的な感情 いかに克服するか)からの引用だと思います。
『ダライ・ラマ「死の謎」を説く』は1994年刊に訂正加筆し、2008年に文庫化されたものです。
ダライ・ラマ14世や辻村優英さんはオウム真理教の事件やポアを知っていると思いますが、二人とも一言も触れていません。
どうしてなのかと思います。

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一殺多生(1)

2020年07月20日 | 仏教

一殺多生(いっせつたしょう)という言葉があります。
1人を殺すことで多くの人を生かす、大きな救済のためには小さな犠牲もやむを得ないということで、仏教の言葉です。
私は真宗大谷派機関誌『開導新聞』(明治16年)で初めて使われたんだと思っていました。

一殺多生ハ仏ノ遮スル所ニ非スシテ愛国ノ公義公徳ナリ 身ヲ殺シテ仁ヲナスハ教化ノ功績ト云フベシ。(一殺多生は仏の禁ずるところではなく、むしろ愛国の正義道徳である。身体を殺して仁とすることは教化の功績である)


ところが、森章司『国語のなかの仏教語辞典』の「一殺多生」の項に、『涅槃経』に悪婆羅門を殺す話、『瑜伽師地論』に大勢を殺そうとする人を殺害する話が説かれており、謡曲『鵜飼』にも一殺多生という言葉が使われているとあります。

ネットで調べると、三浦和浩「『立正安国論』における「釈迦の以前」と「能仁の以後」に関する一考察 : 仏典に見られる殺害肯定記事をめぐって」(2014年)という論文がありました。
http://u0u1.net/j0Wy
少々長くなりますが、ご紹介します。

『立正安国論』に、正法を誹謗する僧侶の存在、悪比丘すなわち「法然―選択集―浄土教」こそが災難の原因であるとし、第六問答から第十領解においては、その「悪」を誡める方法(=善)が示されている。

第六問答では、国家諫暁の是非について客と主人の対話がなされ、そこで『涅槃経』長寿品の文を引用して、悪侶を誡めることの意義が説かれている。
謗法者の存在を知った者は、謗法者を呵責し追放しなければ、それがたとえ善比丘と言われている者であっても、その者は仏教の怨敵となってしまうとされている。

第七問答では、客に災難を防止する具体策を尋ねられた主人が、経典を引用する形でそれに答えている。
①一闡提の定義と、それに対する布施の停止(涅槃経「如来性品」)
②仙予王による謗法者(婆羅門)殺害の故事(涅槃経「聖行品」)
③釈尊の前生(国王)における婆羅門殺害の事実(涅槃経「聖行品」)
④婆羅門(=一闡提)殺害が「殺の三種」に入らないこと(涅槃経「梵行品」)
⑤国王への正法付嘱の理由がその権威・権力にあること(仁王護国般若経「奉持品」)
⑥諸王・大臣・宰相・四部の衆による謗法呵責の勧奨(涅槃経「寿命品」)
⑦釈尊の金剛身獲得は正法護持によること。正法護持の為に武器を持つことは持戒であること(涅槃経「金剛身品」)
③武器を持って正法を護持する者は五戒を受けずとも持戒の者であること(涅槃経「金剛身品」)
⑨覚徳比丘を護る為に武器を持って悪比丘(=謗法者)と戦った有徳王の故事(涅槃経「金剛身品」)
⑩法華経を誹謗する者が阿鼻地獄に堕ちること(法華経「譬喩品」)
私には②~④は殺人の肯定、⑦~⑨は戦争の肯定のように思えます。

そして、三浦和浩さんは『大宝積経』「大乗方便会」の大悲導師に関する記述を次のように要約しています。

燃灯仏の在世時、五百人の商人があったが、この中の一人は悪人であった。この悪人が五百人の商人と同じ船にのった際に、商人達を殺して宝物を奪おうと考えた。さて、この船には、大悲という名の大導師があった。ある時、夢の中に海の鬼神が現れ、悪人が行おうとしていることを大悲導師に伝え、警告した。(中略)そこで、大悲導師は七日にわたって思惟したが、よい方法を見つけることができず、結局次のような考えにいたった。「自分がこの悪人を殺せば、百千劫にわたって地獄の苦痛を受けることになるが、私であればこの苦を忍ぶことができるであろう。また、そうすることで、この悪人は五百人の菩薩を害するという罪を背負うことがなくなる」と。実はこの大悲導師は釈尊の前生で、大悲導師はこの悪人を刺し殺したが、このことによって百千劫の生死の難を超越することを得、殺された悪人も命終の後に善道の天上に生じた。


『大方便仏報恩経』にも同様の事例が見られる。

一人の持戒の婆羅門が五百人の眷属とともに遠国へ行った帰りに、五百人の群賊の住む険しい道に入り込んでしまった。婆羅門のグループの五百人の中には群賊から送り込まれた密使が一人潜んでいた。時を見てその密使が婆羅門の眷属達を殺すという計画であった。一方、群賊達の中にその婆羅門と親しい人物がいた。婆羅門はその人からこの計画の存在を聞かされる。そこで婆羅門は考えた。「このことを仲間に知らせれば仲間がこの密使を殺し三悪道に堕ちることになる。もしこのまま黙っておけば仲間は皆殺され、それによって群賊の密使も三悪道の無量の苦を受けることになる。しかし、私がこの密使を殺してしまえば、私は三悪道の苦をうけることになるがそれは私の望むところである。それによって仲間達が安穏になるのであるから、私は刀を持って賊の命を断つ」と。(中略)釈尊は阿難に告げた。「この時の婆羅門こそ他ならぬ私(釈尊)であり、この因縁をもって私は九劫を超越し、疾く阿耨多羅三藐三菩提を成じたのである」と。

同じ話は『根本有部律・薬事』にもあるそうです。

これには驚きました。
麻原彰晃さんが同じ話をしているからです。

これは仏陀釈迦牟尼の前世の例でね。彼はある生で貿易商だった。その船は大変大きな船で貿易商人が200~300人乗っていた。荷物を積んでの帰り。その中の1人が大変悪い心を持っていて、全ての貿易商を殺して商品を自分のものにしようとした。仏陀釈迦牟尼はどうしたか?

https://www.circam.jp/reports/02/detail/id=3274
釈尊が過去世において人を殺したという話は麻原彰晃さんの創作だと思っていました。
まさか大乗経典に殺人を肯定することが説かれているとは思いもしませんでした。

(追記)
『大宝積経』「大乗方便会」についての論文がありました。
https://blog.goo.ne.jp/a1214/e/1187d9cb302406ee25d01777c8b43ffe

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ユダヤ教とイスラームの戒律(2)

2020年07月10日 | 映画

『ぼくたちが聖書について知りたかったこと』で秋吉輝雄さんは、ユダヤ教やイスラームだけでなく、キリスト教でもセブンズデー・アドベンチストやモルモン教、エホバの証人などの新宗教は旧約聖書の戒律に帰る傾向があると語っています。

ヤスミラ・ジュバニッチ『サラエボ、希望の街角』では、主人公の友だちが黒いチャドルで全身を覆うようになったこと、同棲している恋人が結婚していないからとセックスを拒んだことなど、イスラーム原理主義に関わるエピソードがありました。
戒律を厳格に守れば、自由が制約されますが、それでも原理主義に共感する人が増えています。



ダルデンヌ兄弟『その手に触れるまで』の主人公アメッドはベルギーに住む13歳。
イスラム教過激派の導師に影響されて、母親から「一か月前はゲーム三昧の普通の子だったのに、導師に洗脳されて部屋で祈ってばかり」と言われるまでに急進的な考えを持っています。

ダルデンヌ兄弟はインタビューでベルギーのムスリムについて説明しています。

ベルギーでは人口約1100万人中、50万人がムスリムで、イスラムは2番目に多い宗教です。雇用差別は今も少しはありますが、大半のムスリムは同化しています。ベルギーで暮らしているムスリムにはマグレブ系、モロッコから来た人たちが多いです。

https://www.nishinippon.co.jp/nsp/item/o/614447/

『その手に触れるまで』の公式HPによると、ブリュッセル西部に位置するモレンベークは、10万弱の人口のうちイスラム教徒が5割程度、地域によっては8割を占め、その多くがモロッコ系です。
http://bitters.co.jp/sonoteni/sp/intro.html
アメッドを演じたイディル・ベン・アディもモロッコからの移民3世。

戒律を重んじるアメッドは、ヘジャブをかぶらず、酒を飲む母親を「酔っ払い」と言います。
一日5回、メッカの方角に向かって行う礼拝の前に口をすすぎ、顔を洗うなどして丁寧に浄めます。
礼拝の時間を守ろうとするアメッドが少年院の教官と争うシーンがあります。
少年院には礼拝できる部屋があり、礼拝自体は特別なことではないようです。

アメッドは犬を恐れていて、犬のよだれは汚いからと言います。
ネットで調べると、イスラム教では豚と犬は不浄の存在だそうです。
犬の唾液は狂犬病の象徴で、犬を恐れる必要がなくなっても戒律を変えない。
同じように、豚肉を食べない戒律は衛生上の問題や餌や水が大量にいるといったことから生まれたそうですが、今も豚肉を食べないのは戒律の絶対性があるからでしょう。
https://seiwanishida.com/archives/7711

放課後クラスの先生(ヘジャブをかぶっていない)はアラブの歌謡曲を使って現代アラビア語を学ぶ講座を作ろうとします。
導師は「お前の先生は聖戦の標的だな」と言います。
保護者の集まりでは賛否両論。

「アラビア語はコーランで学べばいい」
「自分はコーランで学んだが、取扱説明書などが読めなくて苦労した」
「カイロでも歌でアラビア語を勉強している」
「エジプトはほとんどがムスリムだが、ベルギーでは少数派だ」
「アラビア語ができるほうが仕事の選択肢も増える」

ヘジャブをかぶっている女性でも、賛成する人がいれば、反対の人もいます。
アシッドが少年院でアラビア語の読み書きを教えるシーンがあるので、アラビア語が読めない人は少なくないようです。

映画の冒頭で、アシッドは放課後クラスの帰り際、先生と握手をしません。
先生に「帰る時は先生と握手して」と言われ、「大人のムスリムは女性に触らない」と答えます。

(イスラームは)とても禁欲的で保守的です。女性は外出する際には肌を見せてはならず、男女の婚前の恋愛は手を繋ぐことすら禁止、豚肉や酒類も口にすることはできません。

https://neco.cafe/n/ncb4f5c28030b

アシッドは白人の女の子が好きになり、キスをします。
異性と握手するだけでもいけないのにキスをし、しかも女の子は改宗を拒みます。
罪を犯したと考えたアシッドは精神的に追い込まれてしまいます。
『その手に触れるまで』という題名が大きな意味を持ってくるわけです。

ラジ・リ『レ・ミゼラブル』はパリ郊外の貧困地区が舞台。



ひげを伸ばした大人たちが子供たちに「親を敬い、礼儀をわきまえるように」と諭し、モスクに来るように誘う場面があります。
過激派を育成しているのかと思ったら、ケバブ屋の主人は、以前は悪さをしていたが、ムスリム同胞団によって更生したという人物です。
ムスリム同胞団によって地域の麻薬が激減したと警官も言っています。
信仰が彼らのアイデンティティーを支えているように思いました。
ただし、キリスト教徒やユダヤ教徒などの異教徒、無神論者には一線を引いているように感じました。

排他性は『ロニートとエスティ』にも感じます。
冒頭で、シナゴーグでロニートの父が説教をします。
神は天使と獣、そして人間を創造した。
天使は神に従い、善しかなさない。
獣は神に創られたとおりに本能のまま行動する。
天使と獣はどちらも創造主の命令に従う。
人間は選択の自由を与えられている。

自立して自由に行動しているように見えるロニートは獣、ラビとして律法に従うドヴィッドは天使、夫とロニートの間で選択に悩むエスティは人間の象徴かもしれません。
人間であるエスティがどういう選択をするか。

ロニートとの再会とほぼ同時に、エスティの妊娠がわかり、神の御心だとドヴィッドが言います。
ロニートが家を出てからドヴィッドとエスティが結婚したのだから、結婚して10年以上はたっています。
正しい人であるドヴィッドは迫害され苦難に満ちたユダヤ人の象徴であるなら、出産は神に従うユダヤ人へのごほうびじゃないかと思いました。

ラビの追悼式で、ドヴィッドは「自由を与える」と言ってシナゴーグから出ていきます。
そうして、エスティは自由意志によって律法に従うことを選択します。
そのあと、3人が抱き合います。
既婚者は異性に触れてはいけないわけですから、ドヴィッドは神の教えに背く行動を取ったことになります。
原題は「disobedience(不服従)」。
エスティの選択には何か意味があるのかもしれません。

ユダヤ人(=ユダヤ教徒)は原理主義、そして他民族の排除のために迫害されたが、そのことによって現在まで存続したのではないかと、フィンケルシュタイン、シルバーマン『発掘された聖書』を読んで思いました。
原理主義は信者をまとめる大きな力になっているように思いました。


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ユダヤ教とイスラームの戒律(1)

2020年07月01日 | 映画



セバスティアン・レリオ『ロニートとエスティ』は、ロンドンのユダヤ人コミュニティで著名なラビが亡くなり、ニューヨークに住む一人娘ロニートが帰ってくるところから始まります。

カツラや金曜日のセックスなど、何のことかわからない場面があり、ネットで調べました。

・超正統派ユダヤ教徒の大半はロンドン市内に住んでいる。ロンドン北部のハックニー特別区当局によると、同区内には超正統派の住民が約3万人いると推定される。

そんなに人口が多いのなら、ユダヤ教の私立学校を経営できるのも納得です。
https://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-36189568

結婚当初は夫がまだ神学生として律法を学んでいて、妻が家計の大半を担うケースも多い。家の外へ働きに出ることもあるが、働き方には細かい制限がある。
多くの女性は居住区内にある私立学校の教師や、秘書の仕事をしている。

ロニートの幼なじみエスティも私立学校で国語を教えています。

ゴールドファブ夫人は孫が37人いると、結婚していないロニートに話します。

1人の母親が6~9人の子供を連れているのを何度も見ました。「産めよ、増えよ」という神の命令に従い、超正統派のコミュニティでは、避妊が禁止されています。そのうえ、宗派によっては魚は豊穣のシンボルのため、魚を食べたらその夜は子作りしなくてはならないなど、彼らのコミュニティでは子供を増やすための決まり事もあるようです。

https://courrier.jp/expat/area/israel/jerusalem/61/7707/

・超正統派のシナゴーグ(ユダヤ教礼拝所)に所属する信者の数は過去20年間、着実に増え続けている。
・英シンクタンクのユダヤ人政策研究所(JPR)によると、5歳未満のユダヤ教の子どもたちのうち3分の1は超正統派を両親に持つ。
・超正統派は今世紀末までに、英国内のユダヤ教徒の過半数を占めると予想される。

ユダヤ教超正統派だけでなく、キリスト教福音派やイスラーム保守派も信者の自然増は多いのでしょう。

超正統派はもみあげを伸ばしていると思ってましたが、エスティの夫ドヴィットはラビなのにもみあげを伸ばしていません。

ユダヤ教超正統派の方々の服装は、慎み深くあることが基本。男性の格好は黒い帽子、黒いコート、黒いズボンと、その統一感に圧倒されます。現代社会に抗うように、彼らの服装は中世から変わっていないそうです。
私たちから見ると各々の違いはよくわかりませんが、彼らからすると帽子の種類や、帽子の傾け方、もみあげの長さや、服の着こなしで、どのラビ(先生のような存在)についているか、どこの宗派なのかわかるようです。


エスティは外出する時にカツラをかぶります。

身だしなみの決まりは特に厳しい。夫にとっては魅力的な妻でありながら、他の人に魅力的に見えてはいけないとされているからだ。
その加減は難しい。ひじから鎖骨、そしてひざまでは全て覆うのが決まりだ。もっと厳しく考える人もいて、スカートの丈は座った時にひざが隠れるよう、ふくらはぎの半ばまでくるべきだという。髪はいつも完全に覆っていなければならないし、人目を引いてはいけない。(略)
多くの女性は結婚式の翌朝、夫の母に髪をそってもらう。

https://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-36189568
結婚した女性はカツラ、帽子、スヌードなどで頭を常に何かで覆うそうです。

ユダヤ教では金曜の日没から土曜の日没までをシャバット(安息日)といい、労働が禁じられ、家事も車の運転もしてはいけません。
ウディ・アレン『ラジオ・デイズ』では、安息日に隣家(世俗派?)が食事をしているので文句を言いに行くシーンがあり、安息日は断食するのかと思ってました。
ところが、安息日にロニートたちは叔父に招待されて食事をします。
ネットで調べると、日没前に料理などの準備をしておくようです。
https://japan-israel-friendship.or.jp/essay/israeldays/388/

エスティは夫と金曜日にセックスをするのですが、ロニートに「お務め」と言います。

Orthdoxは金曜日の日が暮れてから晩餐、土曜日はシナゴーグへ。丸1.5日はShabbat(安息日)で労働は何もしない。あ、セックスを金曜日の夜にするのは奨励されている。

https://meltingpot.exblog.jp/180084/

池澤夏樹『ぼくたちが聖書について知りたかったこと』で、秋吉輝雄さんが安息日について説明しています。
面白いのが、戒律には抜け道があって、たとえば安息日にひげを剃ってはいけないから、剃刀を当てるのはダメだが、電気カミソリは律法に書いてないので、電気カミソリならかまわない。
このように律法の範囲内での抜け道は認められるが、新説を出すことはダメ。

それは、ヘブライ語には過去形がなく、歴史という言葉はないということがある。
「光があった」ではなく「光がある」。
「神は言われた」ではなく「神は言う」。
天地創造はいまだに終わってないし、アブラハムと子孫にカナンを与えるという神の約束は何千年も過去の出来事ではない。

事情が変わったからといって、律法を抹消することはできない。
ギリシャ語だと「神はそう言った」だから、豚を食べてはいけない律法は衛生状態がよくなって豚が浄になれば食べてもいいと考えることができる。
ところが、ユダヤ人は時代の進展を認めないから、神が豚を食べてはいけないと言うから、今も食べない。

戒律を厳格に守る姿勢はユダヤ教とイスラームは似ている。
イスラームでは、ムアッズィンが祈りの時間になると、塔の上から呼びかける。
ある時点からスピーカーを使ってもいいことになったが、携帯電話でお祈りの時間になったと伝えるサービスは否定された。

戒律の抜け道を認めないのが原理主義なのかと考えました。

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