三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

国民主権を否定する人たち

2016年06月30日 | 日記

先日、雨の中を自民党の国会議員さんが我が家を訪れて「○○をよろしくお願いします」と言って、自民党の政策パンフレットを置いていかれました。
パンフレットに「政治は国民のもの」とあります。
国民主権ということでしょう。

ところが、自民党の国会議員のなかには国民主権を否定している人がいます。
「創生「日本」東京研修会 第3回」(平成24年5月10日)での長勢甚遠元法務大臣の発言です。(14分58秒ぐらいから)

 

 

自民党の憲法草案というものが発表されました。私はあれを見て、正直言って不満なんです。自民党も戦後レジームの定着に(不明)はたしてきたんだなということを自ら言っているようなもんだと思っています。
なぜ反対かと言うと、一番最初にどう言っているかというと、自民党はですね、国民主権、基本的人権、平和主義、これは堅持するって言ってるんですよ。みなさん、この三つはマッカーサーが日本に押しつけた戦後レジームそのものじゃないですか。この三つを無くさなければですね、ほんとの自主憲法にはならないんですよ。ですから私は自民党員ですけども、この草案にはですね、反対なんですよ。(拍手で聞き取れず)
我々自身、戦後レジームの一員になっているんですよ。たとえば人権がどうだとか言われたりすると、平和がどうだとか言われたりすると、おじけつくじゃないですか。我々が小学校からずっと教えこまれてきたからです。これを建て直すのはなかなか大変な作業です。みんなで力を合わせて頑張りましょう。


西田昌司参議院議員は、「週刊西田一問一答」の「ネット騒動になった天賦人権論について」(平成24年12月25日)でこんな意見を述べています。(1分48秒ぐらいから)


憲法議論を「朝まで生テレビ」でしたんです。7月の、オリンピックが始まる直前です。その時にはっきり私は、いわゆる国民主権そのもの自体をですね、よく考えなきゃならないと、それはおかしいんだということを言っています。
しかし、なぜそういうことを言っているかというとですよ、そもそも私は戦後の憲法ができたときの経緯も、書いてある価値観も含めてですね、まったくおかしいところがたくさんあると。だからこれは否定する立場なんですよね。
それと、まったく違う憲法を出してきた人がいて、その中で議論する中で出てきたんですが、「国民主権というのは当たり前じゃないですか」ということを田原総一郎さんが言ったんですよね。
しかし、そこの当たり前だと思っていることを、なぜ国民主権というのがあるのかということを、もっと考えなきゃならないと、こういうことですよ。つまり、日本人が日本の国で主権者だと。つまり、韓国人じゃなくて日本人が主権者。アメリカ人じゃなくて日本人が主権者。これ、当たり前のようだけど、変じゃないですか。
つまり、人間だから同じなんだから、日本人だろうが、韓国人だろうが、アメリカ人だろうが、もっと言えばですよ、北朝鮮の人であろうがですよ、同じ人間として、日本でも外国人も日本人と同じだけの権利が当然保障されてもいいんじゃないかと。
ところが、日本人しか主権、つまり国政の、要するに法律を決めたり、国会議員を選んだりですね、そういう権限ですよね、それはないんですよ。じゃ、なんでということを考えてくださいよ。
そうすると、人権がですよ、天から賦与されていると、人権は生まれながらにしてですね、人の権利は、人権というのは、侵しがたい、絶対的なものだという論法からするとですよ、主権が日本人にあるというのが説明できないですよ。日本人だからあるわけですからね。だから、それは人権と言いながら、人の権利じゃないんです。国民の権利なんですよ。
では、国民の権利とは何かと言うと、国民というのが他の人と違うのは何かと。日本人が国籍を持っている意味は何なのかというとですね、たしかに国籍法で日本国籍を持っているということになるんですが、一番の原則は、どこまでいっても日本人の子供というのが日本国籍を持つことの一番の意味なんです。
じゃ、なんで日本人の子供が主権があるのかと言うと、この日本人の、我々の子供ということは、つまり我々の先代の日本人、そのまた先代の日本人をはじめですね、我々の先人がこの国を作って、築いて、守ってですね、こんにちまで伝えてきた。その努力とね、義務を果たしてきた正統な後継者、相続人なんですよと。だから、親の権利が、義務が、我々にも相続されて、権利として主権がある。義務としてさまざまなものがまたあると、こういうことですよ。だから、相続権なんです。日本人としての相続権を我々は主権と呼んでいるわけなんですね。
そう考えると、それぞれの国、地域によって当然、北朝鮮なら北朝鮮、アメリカならアメリカの相続人としての権利があるわけです。それがそれぞれの国の国民の主権なんです。
だから、人民の、天から与えられたということじゃなくて、人民主権というね、そういう考え方じゃなくて、その国、その国の歴史に基づいた権利というのがですね、その国の主権者の一番の理由でしょうと、こういうことなんですよ。
だから、国民主権と。国民主権でいいんですけど、要するに、その意味は何かと考えてみると、私が偉いんじゃないんですよ。国民が偉いんじゃなくて、我々の先人の相続人としての権利だと。もう少し、一歩ね、謙虚な姿勢で我々の権利行使を考えなきゃならない。
当然ながら、権利行使の裏には義務があるわけですよね。この国を守っていくという、またこの国の伝統を伝えていくという義務がある。その義務とセットになっている権利なんですよね。そのことがわかっていない人が多すぎるんですよね。だから、国民主権と言った瞬間、日本人はね、国民が一番上なんだと思っちゃうんですよ。
国民が一番上じゃないんだと。国民の上に先人がいるんですよ。先人の権利を我々が継承していると。そういう意味で、国民主権というのはおかしいんですと、そういう言い方をしているわけですよね。

反訳がありますが、話そのままを文字かしたものではありません。

西田昌司氏は国民主権と基本的人権をごっちゃにしているようだし、国民主権=相続権という考えです。
はたしてその意見は正しいかどうか、「主権」の意味をネットで調べました。

1 国民および領土を統治する国家の権力。統治権。
2 国家が他国からの干渉を受けずに独自の意思決定を行う権利。国家主権。
3 国家の政治を最終的に決定する権利。「国民―」

「主権在民」

主権は国民にある、という考え。君主主権説、天皇主権説に対する語。国民主権と同義。


国民主権を認めないということは、天皇に主権があるということになりますが、長勢甚遠氏や西田昌司氏はそのことには触れていません。

長谷部恭男氏は、近代以降の立憲主義は、さまざまな価値観・世界観を抱く人々の公平な共存をはかることを目的とすると説明しています。
多元的価値観・世界観を認めない創生「日本」の会員たちは、立憲主義の理念を否定しているわけです。

なぜ基本的人権を否定するかというと、マッカーサーの押しつけということよりも、自分たちの価値観に反する国民を認めたくないからだと思います。
自分たちが考える日本の伝統(=皇国史観)を守ること、そして私を捨て公に尽くすこと(=滅私奉公)が日本人としての正しい生き方だと考えているのでしょう。
そういう人たちが新しく作ろうとする「自主憲法」がどんなものか、推して知るべしです。


なお、自民党の政策パンフレットは憲法のことはまったく触れていません。

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長谷部恭男『憲法とは何か』(2)

2016年06月27日 | 

長谷部恭男『憲法とは何か』を読み、なるほどと思ったことの続きです。

憲法改正の是非についての世論調査では、「憲法改正は必要か」あるいは「憲法を改正すべきか」という質問項目がある。

しかし、具体的提案がわからなくても回答できるのであろうか。
どこを、どのように改正しようというのか、それがわからなければ質問には答えられない。

成熟した国家では、憲法典の改正はさほどの意味がなく、法律で同様の効果をもたらすことができる。

環境権やプライバシー権でも、法令の整備や判例法理の展開で十分である。

「国を守るために命を捧げた人に対して礼を尽くすのは当然」とか「国を守る責務」という言葉が使われ、憲法を改正して明記すべきだという意見がある。

「国を守る責務」を国民を何か義務づけたいのであれば、法律を作ってその義務に反したときは罰金を取るなり、監獄にいれるなりの制度を構築する必要がある。
法律ができていれば、憲法の条文は不要である。

そもそも、憲法が要求する「守るべき国」とは何を指しているか。

国土や人々の暮らしではなく、憲法によって構成された政治体としての国である。

第一次世界大戦後の各国の政治の基本的な枠組み、つまり憲法を決定するモデルとなったのが、リベラルな議会民主主義、ファシズム、共産主義の三者である。

どの国家形態が、国民全体の安全と福祉と文化的一体感の確保という国民国家の目標をよりよく達成しうるか、諸国が相争った。
ファシズムと共産主義は、公私の区別を否定し、思想、理解、世界観の多元性を否定し、国民の同質性・均質性の実現を目指す。

国とは、憲法の定める基本秩序であるから、戦争とは、敵対する国家の憲法に対する攻撃という形をとり、一方の陣営が自らの憲法を変更することで終結する。

第二次世界大戦でのドイツと日本、冷戦での東欧諸国がその例である。
東欧諸国はそれまでの共産主義にもとづく憲法を廃棄し、議会制民主主義を採用した。
太平洋戦争で日本人が守ろうとしたのは「国体」、つまり戦前の憲法の基本秩序である。

日本国憲法の場合の基本秩序は、リベラル・デモクラシーと平和主義である。

国際的なテロの脅威に対処するためには、平和主義を犠牲にしてでも、権威主義的な国家を打倒してリベラル・デモクラシーを輸出する英米とともに戦うべきだという議論がある。
しかし、リベラル・デモクラシーを輸出することは、短期的にはテロ対策にはならない。

問題は、伝統的なイスラム社会ではなく、そこで進む近代化・西欧化と国際化であり、さらには、リベラル・デモクラシーの理念に十分に忠実でない現在の欧米社会にある。


伝統的なイスラム社会で暮らす人々は、信仰にも、自らのアイデンティティーにも、疑問を持つことなく、当然のこととされている世の中の約束ごとに従って生きている。

ところが、イスラム教が社会生活を束ねる権威を失い、そのために、伝統的な紐帯を超えた「普遍的なイスラム原理主義」なるものが若者の心を捉え始めた。

リベラル・デモクラシーでありながら、多文化主義を名目として異分子を隔離し、移民を同等のメンバーとして遇しようとしないヨーロッパ社会の理想と現実の距離が、故郷を離れて暮らす少数民族のアイデンティティーを揺るがし、過激な思想へと誘っている。


価値観の多元化と伝統的な社会の紐帯の崩壊に直面したとき、過激な思想が現れ、価値観の対立が抜き差しならぬ状況をもたらすことは珍しいことではない。

たとえば、宗教改革によるキリスト教会の分裂時には、カトリックとプロテスタントとの争乱の中、人々はお互いを悪魔の手先とみなす価値観・世界観の対立する状況で生きていかざるをえなくなった。

日本がリベラル・デモクラシーの擁護に貢献できるとすれば、平和主義の下で培われた日本への信頼を裏切って戦争による民主主義の輸出に加担することでも、弱者切り捨ての経済政策を追求することでもなく、多様な価値観や文化を抱擁する公平で寛容な社会のモデルを創造することによってではなかろうか。


リベラル・デモクラシーの政治体制は大きく3つに分類される。

1 行政府の長と議会とを別々に有権者が選挙する大統領制。アメリカが典型。
2と3 議院内閣制。有権者が議会の議員を選挙し、議会が行政府の長を選任する。
2 議会や内閣府の権限に対する制約が、明示的には存在しない。イギリス型議院内閣制。
3 議会や行政府の権限がさまざまな形で憲法上、制約されている。ドイツや日本の議院内閣制。

ブルース・アッカーマンによると、最悪なのがアメリカ型の大統領制である。
大統領と議会とが別々に選出されるため、両者が異なる党派によって占められると、いずれも自らの政策を実施する手段を奪われ、国政は閉塞状況に陥る。
イギリス型議院内閣制は、議会と行政府が与えられた権限をほしいままに行使して、人々の基本的権利を侵害する危険がある。
アッカーマン氏が推奨するのは、ドイツや日本のような「制約された議院内閣制」である。
国政の閉塞状況が発生しないし、議会や行政府の権限を制約するための仕組みがさまざまな形で存在する。

日本の政治体制がそんなにいいものとは知りませんでした。
首相公選制の導入を訴える声が少なからずありますが、やめといたほうがいいんじゃないかと思いました。

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長谷部恭男『憲法とは何か』(1)

2016年06月22日 | 

長谷部恭男『憲法とは何か』は、私の頭では理解できない個所が多々ありましたが、それでもなるほどなと教えられたことがいくつかあります。
たとえば立憲主義と価値観・世界観の多元性について。

立憲主義は近代以前と近代以後では定義が異なる。
近代以前の立憲主義は、価値観・世界観の多元性を前提とせず、人として正しい生き方はただ一つ、教会の教えるそれに決まっているという前提をとっていた。
正しい価値観・世界観が決まっている以上、信仰の自由や思想の自由を認める必要もない。

近代以降の立憲主義は、価値観・世界観の多元性を前提とし、さまざまな価値観・世界観を抱く人々の公平な共存をはかることを目的とする。

人の生き方や世界の意味について、根底的に異なる価値観を抱いている人々がいることを認め、社会生活の便宜とコストを公平に分かち合う基本的な枠組を構築することで、個人の自由な生き方と、社会全体の利益に向けた理性的な審議と決定のプロセスとを実現することを目ざす。
そのための手立てとして、公と私の分離、硬性の憲法典、権力の分立、違憲審査、軍事力の限定など、さまざまな制度が用意される。

なぜ、立憲主義にこだわることが必要かといえば、価値観・世界観が一つで、何が真実で、何が正義かについて思い悩む必要のない世界を生きたくても、価値の多元化した近代世界はそうした生き方を許さないからである。

人々の価値観・世界観が、近代世界では、お互いに比較不能なほど異なっている。

異なる価値観・世界観を比較して優劣をつける共通の物差しは存在しないから、どちらがよりよい生き方かを比べる基準が欠けており、相互に比較できない。

たとえば自分の宗教は、自らの生きる意味、宇宙の存在する意味を与えてくれる、かけがえのないものである。

かけがえのないものを信奉する人々が対立すれば、人生の意味、宇宙の意味がかかっている以上、簡単に譲歩するわけにはいかず、深刻な争いとなる。

人間らしい生活を送るためには、各自が大切だと思う価値観・世界観の相違にもかかわらず、それでもお互いの存在を認め合い、社会生活の便宜とコストを公平に分かち合う、そうした枠組みが必要である。

立憲主義は、こうした社会生活の枠組みとして、近代のヨーロッパに生まれた。

公と私の分離とは、多様な考え方を抱く人々の公平な共存をはかるために、人々の生活領域を私的な領域と公的な領域に区分することである。

私的な生活領域では、各自がそれぞれの信奉する価値観・世界観に沿って生きる自由が保障される。
公的な領域では、考え方の違いにかかわらず、社会のすべてのメンバーに共通する利益を発見し、それを実現する方途を冷静に話し合い、決定することが必要となる。

戦前の日本では、公的領域と私的領域の切り分けは否定された。

すべての人のあらゆる活動領域は、天皇との近接関係によって位置づけられる。
この評価の尺度は、他の民族、国家にも押し及ぼされる。
すべての行動は天皇への奉仕として意味づけられ、説明される。
天皇自身も、皇祖皇宗という伝統的価値秩序から自由ではない。
自らが自由に選択し決断する領域は誰も持ち合わせておらず、したがって、自らの行動に責任をとる用意は誰一人としてない。

立憲主義は人間の本性に反している。

人は、もともと多元的な世界の中で個人的に苦悩などしたくない。
みんなが同じ価値を奉じ、同じ世界観を抱く分かりやすい世の中であれば、どんなにいいだろうと思いがちである。
誰が正義の味方で、誰が悪の手先か一目瞭然であってほしいと誰もが願っている。
そうした世の中では、一人一人が生き方を思い悩む必要もなく、正義や真実をめぐって深刻な選択に直面することもなく、後でその選択について責任を追及されることもない。
自分にとって大切な価値観・世界観であれば、自分や仲間だけではなく、社会全体にそれを押し及ぼそうと考えるのが、むしろ自然である。

しかし、それを認めると血みどろの紛争を再現することになる。

社会全体の利益を考えるときには、自分が本当に大事だと思う価値観・世界観は一応括弧にくくって、他の価値観・世界観を抱く人にも分かるような議論をし、そうした人でも納得できるような結論にもっていくよう努力しなければならない。

公と私の分離は、人々に無理を強いる枠組みである。

この近代世界に生きることに嫌気がさして、憲法を変えると何とかなるのではないか、人々が一つの価値観・世界観にもとづいて生きる分かりやすい世界が実現できるのではないか、との夢を抱く人がいても不思議ではない。
その世界では、いかなる価値を選択するかを日々思い悩む必要もないはずである。

日本の「歴史、伝統、文化」とか、日本人としてのDNAとか言い出す人が出てくるのは、そういう意味で自然なことである。

憲法改正論議を瞥見すると、個々人の良心に任されるべき領域に入り込んで、人々の考えようやものの見方をコントロールしようと企てているのではないかと思われる議論が少なくない。
平たくいえば、お前たちの心の持ちようは利己主義的でなっていない、それをただして、魂を入れ換えてやるために憲法改正案を用意してやったから承認しろ、という話である。

『憲法とは何か』を読み、占領軍が押しつけた憲法ではなく、皇室を中心に同じ民族としての一体感をいだいてきた日本の歴史、伝統にもとづいた、新しい時代にふさわしい憲法の制定をめざすという、日本会議の主張はこういうことなのかと、すごく納得できました。


長谷部恭男氏は、価値観・世界観の多元化した社会で、政治を通じて特定の価値を押し広めようとすれば、自分たちの価値をフェアに扱っていないと、相手はますます反発するのが自然な反応であると指摘していますが、これまたもっともなことです。

(追記)
知人から
自民党の本音「国民主権、基本的人権、平和主義、この三つを無くさなければ、真の自主憲法にならない!」」というブログの記事を教えてもらいました。
私の娘は「ええ~、こわ~い」と言ってました。
創世日本(会長:安倍晋三)の東京研修会の様子を撮ったYoutubeです。
この人たちの考えは滅私奉公、富国強兵のようです。
だったら、自分が血を流せ、と思いますよね。



ちなみに「国民主権、基本的人権、平和主義、これは堅持するって言ってるんですよ。この三つを無くさなければですね、ほんとの自主憲法にはならないんですよ」と語っているのは長勢甚遠元法務大臣で、ばっさばっさと死刑の執行をしています。
人権が嫌いだったんだなと思いました。

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田口真義「死刑について何を知った上で判断したのか」

2016年06月14日 | 死刑

「FORUM90」vol.146に、田口真義「死刑について何を知った上で判断したのか」という講義録が載っています。
2015年12月、裁判員裁判で判決を受けた死刑囚の中で初めて執行された津田寿美年さんの裁判をすべて傍聴した田口真義氏が一番印象に残っているのは、被害者ご遺族の存在だそうです。

とても苛烈な感情を露わにする。人定質問の時点から悲鳴のような叫び声、机を叩く、資料を投げる。津田さんが言葉を発するたびに、机を叩く、(机を)蹴る。そしてこれを裁判長も検察官も止めなかった。

裁判員3人の席からは見えているが、裁判長や他の裁判員には見えない状況だった。

被害者ご遺族の方々が感情を露わにするのにも波があって、約2週間の公判の中で泣く時もあれば、暴れるというのは言い過ぎかもしれませんが、そういう予兆みたいなものが何となく傍聴席にいても分かってくる。そういう空気が流れると、検察官がうつむきながら「したり顔」をする、ニヤリと笑うんです。

田口真義氏がショックだったのは、被害者遺族の意見陳述のとき、被害者のお孫さん(16歳の女子高生)が「犯人は消えてほしい」と言う横で、検察官はハンカチを目に当てながらニヤニヤしていること。

津田寿美年さんの裁判の裁判員経験者の話で、田口真義『裁判員のあたまの中 14人のはじめて物語』に載せていない言葉。

仮に被害者に処罰感情がなかったなら、無期になっていたと思う。死刑か無期かの境目は処罰感情なんだと思う。

田口真義氏はこう言います。

被害者が天涯孤独の、まったく無縁の方だった場合、その処罰感情はまったくないことになってしまう。そうすると、例えば同じ人数の被害者だったとしても、それが死刑かどうかの分かれ目になってしまう。


長谷川博一『殺人者はいかに誕生したか』に、裁判所は真実の解明が使命ではないとあります。
本来、法廷や裁判は、被害者のためではなく、被告人のためにあり、被告人が公正な裁判を受ける権利、つまりデュー・プロセス(適正手続き)は保障されなければいけない。
しかし、実際の裁判は真実をあきらかにする場ではなく、検察官と弁護人の闘い、駆け引きの場にすぎない。
真実を察していたとしても、検察官も弁護人も、ぞれぞれの立場から不利なことには触れない。

社会が抱く大きな誤解は、「刑事裁判によって事件の真相が明らかにされる」という思い込みだと、長谷川博一氏は言います。
量刑判断が刑事裁判の意味で、犯行心理が解明されないまま判決が下されて終わるケースが多くなる。
量刑を判断する上で専門家による調査(各種鑑定)がなされることがあるが、それは真実の究明を目的としているのではなく、判決を決める裁判の一プロセスに過ぎず、場合によって判断材料とすることがあるという程度のものだったそうです。
裁判員裁判は、儀式として一般市民が参加するだけなのかもしれません。

田口真義氏の話は興味深かったので、『裁判員のあたまの中』を読もうと探しました、図書館には納められていませんでした。
『裁判員のあたまの中』ですが、「裁判員制度はいらないインコのウェヴ大運動」というサイトによると、「本を読んだ感想を一言で言うなら「血まみれになってうれしがる人たち」」とのことです。

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永井哲『マンガの中の障害者たち』

2016年06月10日 | 

『マンガの中の障害者たち 表現と人権』の著者永井哲氏は小学校3年の時、耳が聞こえなくなります。
そのため、『マンガの中の障害者たち』で主に取り上げられているのは聴覚障害についてのマンガです。
マンガの中の差別的表現を指摘しているのかと思いましたが、それだけでなく、障害者がどういう状況に置かれているかとか、障害者が世間一般からどのように見られていたのかといった問題について書かれています。

就職ができない、障害者との恋愛に周りが反対するといった、差別や偏見。
たとえば、障害児の介護や教育が家族、特に母親だけの負担とされており、「こんな子を生んだのは、母親が悪い」と、家族の中でさえ、子どもも母親も否定されてしまうときもあるそうです。

まず、逮捕された仲間が警察にしゃべる前に声をつぶしてしまえば秘密は守られるという、1960年ごろに描かれたマンガがいくつか紹介されてます。
声が出なくても、筆談、あるいは手振り、身振りで相手に伝えることができます。
声の出ない障害者は周囲の人々とのやりとり話ができないという常識があったわけです。

次は読唇術。
唇の動きで話の内容を読み取ることができると思われていますが、どんなに読唇術のうまい人でも100%読み取るのは不可能。
一人一人のクセもあるし、動きが同じように見える単語が多いということもあって、実に難しいそうです。
しかしマンガの中では、どんなに不利な条件下でも、どんな難しい内容でも、すらすら読み取ってしまいます。

『マンガの中の障害者たち』が出版されたのは1997年、ろう学校では手話を否定する風潮がそのころにもあったそうです。
文部省がろう教育での手話の必要性を認めたのはその数年前で、口話(読唇術)、そして発声訓練に力を入れ、手話は禁止するというのがそれまでのろう教育でした。
今はどうなのでしょうか。

各都道府県にはろう学校が1つか2つあり、生徒たちは遠くから通うか、寄宿舎に入るしかない。
住んでいる地域の子ども集団から切り離されてしまい、聞こえる子は聞こえる子だけ、聞こえない子は聞こえない子だけで育っていくと、おたがいに対する理解がどうしても欠けてしまうことになる。

1996年、NHKの字幕放送は週に16時間58分、全放送時間の11.8%。
アメリカでは字幕放送番組などは全放送の70%。
阪神大震災の時、NHKは「地震関係のニュースだけでも字幕をつけてほしい」という訴えに対して、「今は健聴者にさえ十分情報を届けられない状況だから、まして、ろうあ者にまではとても無理……」と拒否したそうです。
崩れた家の下に閉じ込められていたろうあ者が3日後に救出だれたが、呼びかけもわからなかったそうで、その間の恐怖と不安はどれだけのものだったか。
こうしたこともどの程度改善されているのでしょうか。

吃音者をまじめに描こうとしたマンガには、必ずといっていいほど授業中の苦痛が出てくるそうです。
授業中、教師から指されたとき、教科書を読むとき、どうしてもどもりながらになる。
クラスメートの嘲笑、お荷物扱いされて教師から無視される。

普通校に通った永井哲氏自身もそうだったと書いています。
教師は教科書を読むよう指名するが、手間取ったり、進行が止まってしまうことがわかると、順番を飛ばすようになった。
永井哲氏は、次第に悔しさや恥ずかしさが薄れ、無視されたほうが楽とさえ思うようになったそうです。

以前は、障害児は「就学猶予・免除」ということで、「無理に学校に行かなくてもいい」という形になっていました。というよりも、学校へ行きたいという障害児を、学校側が「受け入れられない」と拒否するために「就学猶予・免除」というのはあったのです。


作者としては善意のつもりだろうども、無神経なマンガもあります。
あるマンガの主人公は、友だちが手話をしている人たちを見て、「オシの人ってなんとなくみじめに見えちゃうな」と言ったとき、「あの人たちだってなりたくてオシになったわけじゃないんだから」とたしなめます。

一見やさしそうですが、永井哲氏は、作者には「オシ=みじめ、劣ったもの、かわいそう」という思いがあるのではないか、だからこそ「オシのどこがみじめだと言うの?」「オシのどこが悪いの?」じゃなくて、「なりたくてなったわけじゃないんだから」という言葉にしかなっていないと指摘します。
自分自身の気づかない差別心ですね。

もう一つ、手塚治虫『どろろ』から、こういうエピソードを永井哲氏は紹介しています。
百鬼丸は、父親が生まれてくる自分の子どもの身体を48匹の妖怪に与える約束をしたために、目も耳も手も足も、身体の48か所の器官を持たずに生まれてきます。
妖怪を倒すと、奪われていた身体の部分を取り戻すことができます。

全盲の琵琶法師が百鬼丸にたずねます。

なあ 百鬼丸よ 人間のしあわせちゅうのは「いきがい」ってこった……
おめえさんが妖怪をたおす 手がはえ 足がはえ 目があいて いちにんまえの人間になれるときがくる……
それからあと おめえさんはどうする?
なにをもくひょうにくらす?


障害者から健全者になることが目的なのかと、永井哲氏は問うわけですが、この琵琶法師の問いは、さすが手塚治虫、深いです。


フィリップ・ドゥ・ショーヴロン『最高の花婿』は、ブルジョワ(かなりの豪邸)の4人の娘がユダヤ人、アラブ人、中国人と結婚し、期待した末娘はコートジボワール出身の男性と結婚するというお話です。
アフリカ系黒人が最悪だと見られているように感じました。


婿と舅、婿同士の差別的ジョークの数々に笑いながら、日本ではこういう題材を映画にするのは無理じゃないかと思います。
誰か『映画の中の差別』という本を書いてくれないものでしょうか。

(追記)
映画『聲の形』を見ました。
今年のキネ旬ベストテン候補です。
永井哲さんの感想を知りたいです。

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