今年最後に読んだ本が『哀しいアフリカ 国際女探偵、呪術の大陸を行く』。
著者のケリー・ジェームズという女性、国際的な私立探偵とのこと。
その国際女探偵がケニアとルアンダを舞台にした三つの事件をつづったノンフィクション。
いずれも実際にあった出来事とは思えない、ええっという話である。
貧困、暴力、病気といった過酷で悲惨な現実は非常に重たいが、それでもそうした状況を少しでも何とかしようと生きている女性たちにちょっとだけ希望が見えてくる気がする。
それぞれの話のエピローグには泣けます。
話は飛んで、67歳になる知人がカンボジアに3年ばかし行くと言う。
どうしてかというと、井戸を掘るのだそうだ。
知人は年金が年に約百万円あって、カンボジアの物価は日本の30分の1だから、3千万円の価値がある。
それで井戸掘り人夫を雇うそうだ。
コネがあるのかと聞いたら、カンボジアで井戸を掘っている人がいるというのを新聞で読み、その人に手紙を書き、電話でやりとりをしたという。
その行動力にはつい憧れてしまった。
この話を聞いて、私も60歳になったらと思ったが、いつものように口ばかりでしょうね。
佐藤純弥『男たちの大和』の語り手である神尾は、15歳で海軍特別年少兵に志願する。
少年兵である。
誘拐されて無理やり武器を持たされるアフリカの少年兵と同一に論じることはできないにしても、それでも少年兵には違いない。
前田有一氏の『男たちの大和』評に、「騙されたのでも、洗脳されたのでもなく、明確な国家防衛の意思を持って、自ら戦いに挑んだ若者たち」とある。
だけども、やはり洗脳じゃないだろうか。
昭和3年生まれの人が「早く戦争に行きたい、そして戦争で死ぬんだと思っていた」と話されていた。
そう思い込むようになったのは国の教育であるし、社会の雰囲気もある。
仏教界もそれいけどんどんと後押しをした。
「仏教も、軍隊も、倶に平和を目的とする。平和を目的とする為に戦争をする。」
「天皇陛下のために死ぬることが報恩の務めである」
「戦死は無我の行・菩薩の行」
「義勇奉公こそ仏恩報謝」
これらの言葉は西本願寺のものである。
東本願寺も滅茶苦茶なことを言っている。
少年兵といえば、今井正『海軍特別年少兵』。
左翼映画人の代表といえる今井正作品だから、国のために殉じた若き英霊たちがとかいうようなものではない。
しかしながら、『海軍特別年少兵』を見ると、国や愛する人を守るために身を投げ出して戦った少年たちに涙するかもしれない。
今井正は年少兵を美化するつもりは全くなかっただろうが。
で、『男たちの大和』でいささか驚いたのは、護衛の飛行機もないのにどうして出撃するのかという質問に、参謀は天皇が「海軍にはもう船はないのか」と言ったからだと答える。
つまり、この無謀な作戦は天皇の失言のせい(天皇にそういうつもりはなかったにして『男たちの大和』の脚本は監督の佐藤純弥。
佐藤純弥は政治的メッセージを発する監督ではないと思うが、どういう意図があったのだろうか。
「親鸞仏教センター通信」第16号にある、暉峻淑子氏の「心のノート」批判にはなるほどと思った。
不平不満を持たせず、今の境遇に満足させる。
これはアンチユートピアの中心施策である。
手かざし系宗教の信者にA・ハックスリー『すばらしい新世界』を読むように勧めたことがある。
その宗教では、「借金してでも献金させていただきなさい」と寄付を強要し、そのためサラ金などから600万円も借金して献金する人もいたそうだ。
さすがに批判が出た。
それでその信者は「新体制に変わったので問題ない」と言う。
それで、アンチユートピア小説の『すばらしい新世界』を勧めたわけです。
ところが、その信者は「つまらなかったので途中でやめた」と言う。
『すばらしい新世界』とはどういう世界か。
そこでは、社会階級や職業を前もって決めて人工受精がなされる。
ベルトコンベヤーに乗ったビンの中で成長する胎児は、出産までの間、条件反射教育を施される。誕生後も階級や職業に見合った睡眠教育などが繰り返される。
こうして、社会に順応し、自分の階級や職業が一番すばらしいと思って満足し、他人を羨むことがなく、自分の務めを果たす人間が生まれる。
こうした考えは優生思想に基づいており、A・ハックスリーもかなり影響を受けている筈である。
条件反射教育センターの所長の説明である。
どこやらで聞いたようなセリフである。
この言葉、もっともなように思うが、小欲知足とは違う。
国民すべてに「自分は幸せだ」と思わせたら、社会は安定する。
社会の安定のために、国民を考えさせないように満足した豚化するのがアンチユートピアである。
信者に幸せだと思わせたら、その教団は発展する。
『すばらしい新世界』のエピグラフはこういう文章である。
「心のノート」の使い方、アンチユートピア国家よりも上手だと思う。
露木まさひろ『占い師』によると、占いは人生相談であり、悩みを聞いてもらえ、アドバイスをしてもらえる。
つまり、占い師は街角のセラピスト、カウンセラーなんだそうだ。
もちろんすべての占い師が良心的に悩み事を聞いているとは限らない。
良心的な占い師にしたって、正直なところ、人助けと金儲けのどちらが第一かというと、やはり金儲けだろう。
それはともかく、菊池聡氏はそうした占いの心理療法的効果をまずは認めている。
『予言の心理学』を読むと、そもそも心理療法自体が占いや宗教と似ている。
ユング心理学の体系から見れば、様々な人間の営みから、東西の文明、さらに占いやオカルトまで、見事に一貫して解釈することができる。しかし、解釈できるということと、それが客観的な事実であることは残念ながらまったく別の話になる。ユング心理学は事実を尊重する科学的心理学とは言いがたい側面を持っているのである
つまり、神経症などの原因は無意識にあり、治療者が原因はこういうことだと解釈する
ところが、その解釈が正しいかどうかはわからない。
ということは、治療者と患者とが共同して物語を作る中で治癒していけば、それは正しい解釈だったということになるし、症状が変わらない、もしくは悪化すれば悪い物語だということになる。
結果から解釈が正しいかどうかが決まるわけで、いい物語だから治療効果があるというわけではなく、治ったからいい物語だ、ということになる。
まさに、当たるも八卦当たらぬも八卦である。
菊池聡氏は
という問いを出して、次のように答えている。
ユングにせよ、フロイトにせよ、主要な理論に対しても批判的検討が行われており、新しい科学的な研究的知見があれば積極的に取り入れる姿勢は保たれている。この点で教義を絶対のものとみなす宗教とは異なっているのだ。
では、占い心理療法の問題は何か?
相談者の抱えている問題の原因が心身の病気にあった場合は特に問題で、適切な治療をすれば治癒可能な病気に対して、占い師が心理療法家の真似をすることで病勢を悪化させるケースがあるそうだ。
よい物語か悪い物語か、ということだと思うのだが、占い師よりもダメな心理療法家だっているだろうし、はたしてどちらがましかはわからない気がする。
(追記)
子供のころに父親に虐待されたとか、父親が殺人をしたという偽りの記憶を植えつけるカウンセラーがいる。
E・F・ロフタス、K・ケッチャム『抑圧された記憶の神話』
道路に雪が積もっている中、ジャン=フランソワ・プリオ『大いなる休暇』を見に、バイクで映画館に向かった。
ここで転んで死んだら格好悪い、でも「映画に死す」だ!と思いつつ、無事に映画館に到着。
こんな天気じゃ私一人かと思ったら、2~30人ぐらいの人がいて、いささかびっくりした。
で、『大いなる休暇』である。
うふふと笑いつつ、いい気持ちで映画館から出て、外の冷気にふれると、あれこれと引っかかることが出てくる。
カナダの人口125人の離島、ほとんどの住民が8年前から生活保護を受けている。
そこで、なんとか工場を誘致しようと・・・という映画である。
しかし、税金を免除するなどの優遇措置をとったにしても、そんな人口の少ない離島に小さなプラスチック加工工場(タッパーを作っているらしい)を作っても、運送料などの経費がかかるばかりで、もうからないように思う。
そして、そういう過疎の島、日本だったら高齢者が半数以上で、20代はほとんどいないだろう。
ところが、子どもな結構いるし、働きたいという年代の人が大部分である。
カナダと日本の離島事情は違うのだろうか。
こういうどうでもいいことが気になる。
菊池聡『予言の心理学』を読み直した。
名著だと思う。
菊池聡氏は認知心理学者である。
予言はなぜ当たるのか、なぜ予言を信じるのか、そのことについて心理学の観点から具体的な事例をあげて説明している。
予言を信じる心理は、インチキ宗教・サギ商法・迷信などにはまってしまう心理と共通していると思う。
予言はなぜ当たるように思うのか。
1 はずれた予言は誰も覚えていないが、当たった予言は忘れない。
いい予言よりも悪い予言のほうが多いが、悪い予言がはずれて文句を言う人はいないから。
2 あいまいな言い方をする。
「悲惨な出来事が起こる」というように。
後づけで解釈すれば当たったように感じる。
この法則を応用して、たとえば芸能人が結婚した時に「いつか破局がおとずれる」と予言をすれば、はずれることはない。
破局が離婚か死別か、あるいは別の何かとは言わないし、日時を限定していない。
これは手かざしで病気が治ると信じるのと同じで、手かざしで治ったことは忘れず、誰彼となく吹聴する。
もっとも、手かざしで本当に治ったのかどうかはわからない。
治ったような気がしただけなのか、自然に治ったのか、別の原因で治ったのか。
治らなかったら、「信心が足りない」「神があなたに試練を与えた」などと言えばいい。
ということで、予言がはずれたから予言なんてあり得ない、とは言えない。
同じように、インチキ宗教をインチキだ、サギだと証明するのは難しい。
もうじき終末がおとずれ、ほとんどの人間は死んでしまう、しかし信者だけは終末を生き延びるという終末思想も予言の一つである。
終末が来て人類は滅亡するぞと脅す(ムチ)、そして信者だけは生き残る、もしくは天国に生まれると救いを与える(アメ)。
アメとムチの使い分けはインチキ宗教、悪徳商法の手である。
霊感商法も「先祖が迷っているからよくないことがある」(ムチ)と、「この壺を買えば先祖が成仏する」(アメ)という予言する。
「先祖が迷っている」というのはウソだし、ましてや「よくないことがある」こととは無関係だと、私は断言する。
しかし、証明することはたぶんできない。
高橋紳吾先生の話。
詐欺を仕掛けたほうが、これは本当に悪霊が憑いていると信じ切っている場合には詐欺にならないという、非常に複雑な問題がありまして、詐欺と認定されたのは足裏診断と満願寺の霊視商法だけなんです。
ということで、霊感商法をサギとして捕まえることはできないそうだ。
悩ましい問題である。
もっとも、アメとムチが短絡的に悪だと考えてはならないと菊池聡氏は言う。
たとえば、子供に「悪いことをすれば地獄に堕ちる」と恐怖心をあおり、「善行を積んで、神を信じれば天国に行ける」と安心と希望を与えることで、善い人になっていく。
あるいは、「しっかり勉強しないと、浪人するぞ」と言って、やる気を引き出すのも同じである。
ということで、脅して(ムチ)救いを与える(アメ)ことがいいか悪いかは単純には決められないそうだ。
ちょっとひっかかる。
「満足した豚であるより、不満足な人間であるほうがよく、満足した馬鹿であるより不満足なソクラテスであるほうがよい」とはJ・S・ミルの言葉である。
不満足な人間、不満足なソクラテス、満足した豚、満足した馬鹿、救いとはどのような存在になることなのか。
いつぞやご主人を亡くされた方が「主人は鳥になりました」と言われたのにはびっくりした。
ボケたのかと思った。
すると、その方は「毎朝、同じ鳥がやってくる。主人が私を心配して来てくれているんです」と続けられた。
死んだ人がいつまでも自分を見守っていてくれると信じることにより、身近な人の死を受け入れ、そして生きていく力が与えられる。
そして、自分が死んでも、家族や知人を見守り続けるんだと、自分の死をも受け入れる。
こういった感情は日本人にとってごく自然なものである。
柳田国男は「魂の行くえ」で、「死んでも死んでも同じ国土を離れず、しかも故郷の山の高みから、長く子孫の生業を見守り、その繁栄と勤勉とを顧念しているものと考え出したことは、いつの世の文化の所産であるかは知らず、限りもなくなつかしいことである」と言っている。
死を受け入れるための物語の一つである。
柳田国男は仏教、特に浄土真宗が大嫌いだが、こういう物語はどう思うだろうか。
娘さんを亡くされた方さんの話である。
「お浄土へ行ったきっと会えるんだから、それまでは精一杯生きていこう。いつかお浄土であの子に会うまでは、つらいけれども生きていかなければいけない」
柳田国男の物語と浄土の物語のどちらがいいとか悪いとかは言えない。
しかし、次の物語は私は悪いと思う。
ある方、お子さんがガンになり、あと三ヵ月と宣告された。
「それで祈祷師のところに行ったら、「治る」と言われた。「もう大丈夫。治る。心配するな」と。その言葉を聞いたとたんに楽になった。生きる望みを持った。治るんだ。しかし結局は医者の言うとおり、三ヵ月後に死んだ。
だが、嘘でもなんでも「治る」という言葉を聞かせてもらったから、二ヵ月間なんとか生活できた。そう思うと、祈祷師の嘘を責める気持ちにはなれない」
その「楽」は、言葉は悪いが「満足」しようとして目をつむってしまうたぐいのものではないかと思う。
もう一つ、また聞きの話です。
奥さんが真光に入り、毎晩集会に行く、毎月高山の神殿に行く等で、家の中はグチャグチャ、子どもは登校拒否、家庭崩壊寸前。
真光の上の人に相談したら、「自分もそうだったが、それを乗り越えた」と言われ、ますます張り切っているそうだ。
これは「信仰を試されているんだ。ここで頑張らねば」という物語で、「不満足なソクラテス」になりかけたけど、「満足した豚」にとどまらせている。
では、これはどうか。
「1986年、真理の友教会という宗教集団の信者である女性七人が、病気で亡くなった教祖の後を追うように集団で焼身自殺した。彼女たちの生活は教祖のそばに仕え、教祖の地上での仕事を助けるのが役割だとされていた。真理の友教会の教えによれば、人間のほんらいの住処は天国であり、この地上へはなんらかの役割を与えられてきているのである。死はその役割が終わったことを意味した」 芹沢俊介『オウム現象の解読』からの引用。
私は悪い物語だと思う。
だけど、ひょっとして私が「不満足な豚」なもんだから、満足している人に「お前は豚だ」とののしっているだけかもしれない。
いい物語か悪い物語か、その違いを考えることは、宗教とは何か、ということとも関係するのではないだろうか。
『マダガスカル』は動物たちがマダガスカル島に漂着するアニメ。
草食動物のキリンやシマウマはいいのだが、肉食獣のライオンは食べるものがない。
飢えに迫られたライオンは友達のシマウマを食べたくなってしまう。
食べなきゃ死んでしまう、しかし友達を食べるわけにはいかない。
しょうもないギャグに退屈していたのが、突然の大問題。
ライオンは葛藤する。
さあ、どうなるか。
と見ていたら、そこはハリウッドのアニメ、なんと魚を食べてハッピーエンド。
いくら何でも安易すぎて、力が抜けた。
手塚治虫『ジャングル大帝』では、動物が殺し合わないよう、人造肉を作る。
『マダガスカル』よりはいくらかマシな解決法である。
オオカミとヤギが友達になるという『あらしのよるに』でも、同じ問題が生じる。
オオカミはヤギを食べたいのを我慢して、友達でいる。
しかし、雪山で飢えにさいなまれている時は生きるか死ぬかである。
友達だからと言ってはおれない。
『ジャングル大帝』の最後がこれとまったく同じ状況である。
ヒゲオヤジはレオの肉を食べ、毛皮にくるまって暖をとり、助かる。
読み終わってしばらく呆然とした。
ショックではあったが、感動した。
『あらしのよるに』の作者きむらゆういちは、『ジャングル大帝』が念頭にあったのではないだろうか。
もっとも、その後の展開は『ジャングル大帝』とは全く違うが。
オオカミは友達のヤギは食べないが、当然のことながら他の動物を食べている。
宮沢賢治『よだかの星』は、他の命を食べなければ生きていけないということへの罪悪感がテーマである。
毎日新聞の『あらしのよるに』映画評に「近松門左衛門の心中物のような情感が漂う」とある。
川に飛び込むシーンはまさに心中を思わせた。
食べなければ死んでしまう、しかし食べたくない。
命を奪うのがイヤだったら死ぬしかない。
『あらしのよるに』も近松のような悲劇にすべきだったと思う。
アイゼンク『精神分析に別れを告げよう』は、フロイトおよび精神分析は似非科学であり、心理学や精神医学にはかりしれない害悪を及ぼしたと主張し、患者にとって有害だった、かなりのケースで患者たちは精神分析で悪化されられ、時間と多額の金の無駄づかいだとまで言っている。
さらにはフロイトの弟子だったユングやアドラーも厳しく批判している。
アイゼンクは行動療法家である。
行動療法とは症状(おねしょとか手を洗わずにはおれないとか)を治そうとし、症状の原因は何かには関心を持たない。
精神分析(フロイトに限らない)は、症状を直接治すよりもその原因を探ることで、根本的に治療しようとするものである。
つまり、くさい匂いはもとから断たなきゃダメというわけであり、素人としてはもっともな考えのように思う。
しかし、その原因は何かとなると、議論百出、百家争鳴、各学派ごとに違う。
そして、症状の原因(小さいころにあったこと)が実際にあったことか、想像の産物かどうかを、精神分析は問わないそうだ。
アイゼンクは精神分析家であるジャッド・マーマーの文章を引用している。
心理療法家の数だけ理論があるというが、心理療法というのは患者が治ったかどうか、理論が正しいかどうかは関係ない世界らしい。
私が考えるに、どうして自分はこういう人間なんだろう、何でこんな一生を送らないといけないのだろうと、現在の自分を受け入れることのできない人に、物語を与えることによって自分を受け入れさせるのが精神分析なのではないだろうか。
その物語とは、フロイトだと父親からペニスを切られるという恐怖や、母親とセックスしたいということである。
しかし、このフロイト説は、生まれる前に自分の人生を自分で選んだとか、宇宙人に誘拐されたといった物語とどう違うのだろうか。
どちらもアホらしさは同程度だし、本当か嘘かを証明することはできない。
アイゼンクは、フロイト流の精神分析は下火ではあっても、無意識が我々の思考や行動に大きな影響を与えているということは広く受け入れられていると言う。
この無意識ということを私たちは誤解しているのかもしれない。
意識できないから無意識なわけなのに、こういう無意識があると説明できるのなら、それは意識なのではないか。
たとえば、フロイトの夢判断に、恋人が妊娠したのではないかという不安、夫との結婚は失敗だったのではないかという後悔があるが、これは無意識なんかではない。
『精神分析に別れを告げよう』を読むと、精神分析では原因と結果(神経症)が安易な結びつけられているということになり、迷信と同じ構造だと思った。
一種の宗教ではなかろうか。
あれこれと知ったかぶりを書いたが、風野春樹という精神科医のHPにこんなことが書かれています。
藤山直樹という精神分析家は、精神分析とは「患者の話した内容や夢内容をなんらかの理論にもとづいて解釈する治療」だというのは根本的な誤解である、という。「幼児記憶の再構成による治療だ」というのもまったくの誤解だと。これらはフロイトが当初想定していたものだし、アイゼンクの批判も多くはそこに向けられているのだけど、今の精神分析はそこからはかなり離れたところまで来ているのである。
素人がえらそうなことを言って、恥ずかしい。
いささか長いが、もう少し無断引用します。
でも、共感とか温かさってのはすべての精神療法の、いやすべての人間関係の基本なのではなかろうか。結局、精神分析ならではの特異的な部分は、フロイト以来の百年で徐々に後退していき、残ったのは精神療法すべてに共通する部分のみ、ということのようだ。果たして、これは進歩なのだろうか、それとも後退なのだろうか。
こういう結果をみると、もしかしたら、精神分析ってのは、精神医学にとって百年の長い長い回り道だったんじゃないだろうか、とすら思えてくる。
結局は理論や方法論より、精神分析家や心理療法家個人の資質が大切ということになるわけだろうか。
今年もいよいよ師走。
街中にクリスマスツリーの明かりとジングルベルの軽快な音楽が流れ始めた。
今年は一体どんな年だったのだろう、と感傷にひたる間もなく、忙しさに追われて毎日を送っている。
雪がちらつく時期になんだが、日本人の好きな花は何といっても桜であろうか。
毎年のように「桜」という歌がヒットチャートに上がってくる。
年が明けて三学期の卒業式間近になると、哀愁をおびたメロディーとともに、別れを意識した歌詞が中高生の心をゆさぶる。
本来ならば、四月の入学シーズンを彩る桜だが、春爛漫の華やかさよりも散り際の潔さやはかなさのほうが、日本人の心をとらえるようである。
師走といえば忠臣蔵。
浅野内匠頭の辞世の句も「風さそう花よりもなお我はまた春のなごりをいかにとかせん」と、散る桜を自分に喩えた歌であった。
今年の師走も有終の美を飾るような話題は見当たらない。
巷をにぎわすクリスマスの軽快な音楽とは裏腹に、暗く横たわる現実の闇の深さに戸惑いを覚えるのは、私一人だろうか。