三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

奥泉光『雪の階』のルビ

2020年05月28日 | 

奥泉光『雪の階』は、20歳の華族令嬢をめぐるミステリー風味の小説。
舞台は1935年。
漢字にふりがながついてて、それが時代を感じさせて楽しい。

・見事(エレガント)だと思うもの
液汁 ジュース
旨汁 スープ
食後菓子 デザート
洋急須 ポット
油漬鮪 ツナ
仮膠 ニス
双子寝台部屋 ツインルーム(シングルルームやダブルベッドならどういう漢字を使ったか)

・どうかなと思うもの
上下衣 スーツ
つなぎ服 ワンピース
二輪車 リヤカー
内袋 ポケット
張出床 テラス
張り出し ベランダ・バルコニー
綴り切り ペーパーナイフ

・何気なく使っている外来語の意味を教えられる言葉
初登場 デビュー
二人組 コンビ
囲み欄 コラム
結婚申込 プロポーズ
無料 サービス
容積 サイズ
行動予定 スケジュール
素朴 シンプル
告知 アナウンス
運搬車両 トラック
荷台車 トラック
札貼り レッテル
曲線 カーブ
凸曲線 アーチ
弧状 アーチ
絵宣伝 ポスター
大衆伝達 マスコミュニケーション
良い時宜 ナイスタイミング(冗談?)

・「ふりがな文庫」にあるルビ(カッコ内はふりがな文庫にある他のルビ)
https://furigana.info/
装飾灯 シャンデリア
緞帳 カーテン
姿勢 ポーズ
洋筆 ペン
洋墨 インク
洋袴 ズボン
胴着 チョッキ
胴衣 ブラウス
茶碗 カップ
洋杯・洋盃 コップ
硝子盃 グラス(コップ)
前掛 エプロン(ジャケット・チョッキ)
襟巻 スカーフ(ショール、マフラー)
箱棚 ロッカー(ケース)

『雪の階』にはカタカナの言葉も使われています。
サラダ、バタ、ピアノ、サロン、ギター、マヨネーズ、パセリ、サンドイッチ、リズム、シャツ(袢となっていることもある)、スカート、ヘアピン、スエーターなど。
アイスクリームは氷菓子、ダンスホールは舞踏場、ミルクは牛乳、セーラー服は水兵服、バスケットは籠でいいと思うのですが。

ロックダウン、オーバーシュート、クラスター、ソーシャルディスタンシング、テレワークといった耳慣れないカタカナ語も、日本語のルビがあればいいのに。

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イスラーム(3)田原牧『ジャスミンの残り香』

2020年05月22日 | 

田原牧『ジャスミンの残り香』によると、イスラーム主流派とされるスンニ派は四大法学派に代表される伝統主義とサラフィーアに大別できます。

伝統主義というのは、著名なイスラム法学者による教義の解釈を権威あるものとして認め、それを伝承していく潮流。

サラフィーアは、そうした伝統主義が初期のイスラーム精神を歪曲させたとみなし、教団そのものといえるイスラーム共同体(ウンマ)が成立した当時の預言者ムハンマドと教友(サラフ)の純粋な精神の回復を目指している。

サラフィーアも3通りの傾向があり、その一つが民族や国境とは無縁だったウンマを早期に回復するためにイスラーム圏での近代国境を廃止し、共同体の歴史的な運営方法であるカリフ制を再興させようという勢力である。
サラフィー・ジハード主義者はこの集団で、ジハード、つまり武装闘争も辞さない。

イスラーム主義とはイスラーム法の完全な施行を志向する政治運動である。
もっとも、ムスリムが皆、イスラーム主義者というわけではなく、そこに身を投じる人は限られている。

イスラーム法にあるタクフィール(背教宣告)の濫用がなされるようになった。
イスラームでは背教は死罪である。

独裁者を打倒するため、タクフィールの論理を活用してきたジハード主義者は、タクフィールの対象を「不信仰な為政者を黙認している者」にまで広げ、さらには「自分たちに服従しないすべての者」にまで拡大解釈した。
つまり、一般信徒である民衆までをもタクフィールの対象にした。

民衆にも牙を向けていくこうした運動の過激化は、イスラーム主義に限った現象ではない。
カンボジアのクメール・ルージュ(ポル・ポト派)やペルーのセンデロ・ルミノソもよく似ている。

PFLP(パレスチナ解放人民戦線)に属する人が田原牧さんに、「同僚にハマスのメンバーたちがいるのだが、彼らとはまったく話にならない。自分たちに異論を唱える人間は背教徒だから、聞く耳を持たないという姿勢に徹している。彼らは身内しか信じない」と話しています。

スンニ派のサラフィー・ジハード主義者にとって、シーア派は教義からの逸脱者であり、その法学者や宣教者は処刑の対象になる。

シーア派はスンニ派に対して、そこまでの敵愾心は抱かない。
単に自分たちよりも劣る、敬虔ではないムスリムという捉え方しかしない。

シーア派がスンニ派のジハード主義者と戦闘をするのは、シーア派の崇める聖廟を偶像崇拝の象徴とみなし、破壊するからだ。

アラブ諸国の内戦は、世俗派とイスラム主義武闘派の抗争もある。
サラフィー・ジハード主義者に限らず、イスラーム主義者は自らの解放をアッラーフ(神)への完全な服従によって果たそうとする。
それにはイスラーム法によって秩序づけられた共同体で、その規範に従って生きることが前提になる。

ところが、そうした世界は地球上には現存していないから、そうした共同体の創出のために政治権力を握らなくてはならないと考える。
行き着くところは権力を奪取するという革命思想である。

ところが、革命青年たちが革命権力ですら必ず腐敗すると感じていた。
来るべき理想の社会はなくてもいい。
大切なことは、目の前にある支配権力に対する不服従である。
つまり、生き方の問題だった。

池内恵『シーア派とスンニ派』が指摘しているように、スンニ派とシーア派、親米と反米、サウジアラビアとイランといった単純な二分法は間違っていることがわかってきました。
たとえばイエメンでは、サウジアラビアが支援する暫定政権、アラブ首長国連邦の後押しを受ける南部暫定評議会、親イラン武装組織フーシ派との三つどもえの状態だそうです。
https://mainichi.jp/articles/20200516/k00/00m/030/166000c

田原牧さんがイスラーム教に改宗しない理由。
イスラームは神という絶対的な他への完全なる服従によって、我執からの解放、すなわち絶対的な自由を獲得しようとする思想である。
そのための環境として、イスラーム主義者は初期のウンマの復興を夢想する。
しかし、預言者やサラフがいない現在、平凡な人間たちの手に委ねられるしかない。
作業には信徒の集団が必要となる。
しかし他(神)への絶対服従は、集団内部に他(神)の啓示を解釈する権威を創り、他(神)に服従しない異物の排除、さらには啓示を解釈する権威ある人間からの承認願望を生み出す。
これは我執からの解放とは真逆な性格を帯びてしまう。

田原牧さんの指摘はイスラームだけの問題ではありません。

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イスラーム(2)池内恵『シーア派とスンニ派』

2020年05月16日 | 

池内恵『シーア派とスンニ派』によると、イスラム世界がシーア派とスンニ派とに単純に二分されているわけではありません。

全世界のイスラーム教徒の約1割か1割5分程度がシーア派と言われている。
中東だけに限れば、シーア派の割合はもっと高くなる。
シーア派の中にも複数の宗派があり、便宜的に「シーア派」と位置づけられているだけで、シーア派の異なる分派の間には宗教的なつながりが乏しく、関係が薄い宗派もある。

シリアのアサド政権の中枢はアラウィー派が多くを占める。
アラウィー派は便宜的にシーア派の一派と認定されているが、イランで支配的な十二イマーム派とは教義や制度はかけ離れている。
キリスト教やその他の宗教と混淆したアラウィー派を、形式上かろうじてイスラーム教の一部と認めるために、政治判断でシーア派と認めるようになった。
シリアの宗主国フランスと結びついて権力に近づいたアラウィー派は、教義の上で大きく異なる十二イマーム派のイランと政治・戦略的な利益で結びついている。

スンニ派だからといって結束するとも言えない。
サウジアラビアやUAEとカタールとの間で争いが繰り広げられている。
スンニ派が多数を占めるトルコはカタールと関係を深めるとともに、イランとも友好関係を保っている。

教義は紛争の原因とは言えず、シーア派とスンニ派で国際的な陣営画然と分けられているわけでもない。
宗派が異なる集団が常に紛争してきたわけではないし、同じ宗派だからといって、常に政治的にまとまっているということでもない。
宗派対立が不可避であるとは言えないし、歴史的に対立が永続してきたとも言えない。
宗派が同じであれば結束できるということではないし、宗派が異なっていても条件次第で共存は可能な場合もあった。

中東では、宗派が人々の社会関係を規定している面がかなりあり、政治が宗派の対立を演出し、宗派への帰属意識の絆を利用し、相互の敵対意識を煽ることがある。
そのゆえに、それを用いて有効に政治的な動員を行うことができるからである。

中東の社会を見れば、イスラーム教徒であれ、キリスト教徒であれ、それぞれの宗派が、それぞれの法と規範と慣習で結ばれたコミュニティ(宗派)の集団を形作っており、結合し結束を固めるコミュニティと別のコミュニティの間で、時に対立・紛争が持ち上がる。
「宗派コミュニティ」の対立が生じているのであり、対立の争点は政治的・戦略的なものであったり、経済的なものだったりする。
だから、政治経済あるいは戦略的環境の変化によって、宗派対立の敵味方はしばしば組み替えられ、連合も組み替えられる。

スンニ派とシーア派の違いを池内恵さんはこのように説明します。
後継者を選ぶ際の基準は「正統性」と「実効性」の2つである。

正統性とは、何らかの理由でその人が後継者になるにふさわしいと多くが認める属性、たとえば高貴な血統や秀でた能力を有していることである。
しかし、ムハンマドは最後の預言者であり、ムハンマドの後には預言者は遣わされないため、ムハンマドと同等の後継者は生まれにくい。

実力とは、教団を実際に支配する実権を掌握している者が後を継ぐという意味である。
血統は、実力を伴っていなくとも、創設者の血を引く人物に権力を継承する根拠があると認められることである。

政治的な主流派のスンニ派は、ムハンマドの死後に行われた実効支配の力を持つ有力者への権力継承を正統と認める。
権力継承の過程の大部分を否定する反主流派の政治的立場が元になっているシーア派は、ムハンマドの直系の血統への権力の継承の正統性を信じている。

シーア派はあるべきだった統治を思い描き、不当な現世の権力を呪い、自らの境遇を嘆く。
しかし、「虐げられた民」としての自己認識は優越感・正統意識に基づいており、「不義の現世の支配者によって不当に虐げられた民」という自己認識は、「神によって選ばれた無謬の指導者に従い来世によって褒賞を受ける民」という自信と確信に裏打ちされている。

イランのイスラーム革命の持つ意味を池内恵さんは3つあげており、3番目が「スンニ派優位の中東でシーア派が権力を掌握」ということです。

イラン革命の当初は、中東各地で肯定的に受け止められた。
しかし、権力から疎外された「弱者」「虐げられた民」としてのシーア派の信徒が、統治の実権を掌握し、自らの掲げる理念を実現する政治勢力となり、「強者」の側に転じることで、スンニ派優位が定着していたアラブ諸国を揺さぶることになる。

レバノンやイラクでスンニ派支配層の下で二等市民のような扱いを受けていたシーア派が、イラン革命に勇気づけられ、統治に参与する権利や権力を求めて活性化した。
サウジアラビアやバーレーンなどでもシーア派の権利意識が強まり、結束して政治的要求を支配者に突きつけていく。

アラブ諸国の政権にとって、イラン革命は反体制勢力に革命理念とモデルを与える脅威だけでなく、模倣する動きがアラブ諸国のシーア派の中に現れた時、イラン革命が及ぼす影響を各国の支配勢力が恐れるようになり、宗派間の対立の深まりにつながっていった。

イランが地域大国として台頭し、サウジアラビアとイランは、それぞれの政治的・戦略的な思惑から、中東の様々な国や勢力に介入し、配下に置き、同盟する。

サウジアラビアは、イランとの覇権競争を有利に導くために、シーア派とスンニ派の宗派対立をことさらに強調し、時には煽動した。
宗派のつながりが強調され、利用されることで、国内の分裂と国境を越えた結びつきの両方を引き起こし、内戦と地域紛争の核となった。
反体制運動と統治権力との紛争は宗派対立に転化し、その背後にいるとされるイランとの国際紛争として拡大していった。

もう一つ、中東に宗派対立を解き放ったのはイラク戦争だった。
イラン革命以来、イランがアメリカの中東における主要な敵国だったため、フセイン政権の打倒は棚上げされた。

ところが、湾岸戦争以来、アメリカはイランとイラクを敵にするという苦しい状況に追い込まれた。
アメリカがフセイン政権の打倒へと舵を切り、イラクにシーア派主導の政権の設立を許したことは、中東におけるアメリカの同盟国の目算を狂わせた。

イラクで多数を占めるシーア派がイラクの新体制の権力を握ることで、宗派対立が勃発し、イランの影響が強まった。
イラク政府はスンニ派主体の地域に不利な政策を行い、スンニ派主体の地域はそれへの反発から、反体制組織を養うようになる。
それを政府が弾圧し、住民が中央政府への憎しみを募らせていく。
こうして悪循環のサイクルが回り始めた。

アラブの春も各地で宗派対立に変質した。
人々を結びつけ、かつ分断させるために最も有効だったのが、スンニ派の規範適用を主張するイスラーム主義の組織であり、異なる宗派との対抗意識や脅威認識で結集するコミュニティだった。

アラブの春の影響を受けて反体制運動がペルシア湾岸にも広がると、バーレーンとサウジアラビアは問題を宗派主義化し、問題は民主化でも権利要求でもなく、シーア派の教説に基づく反体制運動であり、イランに内通しているという宣伝を行なった。

中東の紛争や問題について、地域大国や周辺大国、域外の超大国が譲れない問題に関する拒否権を持っているため、競って介入することで、中東の混乱を永続化させている。

サウジアラビアとイランが争うのは、スンニ派とシーア派の教義の違いから生じる対立かと思ってたら、そんな話ではないようです。

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イスラーム(1)井筒俊彦『イスラーム文化』

2020年05月09日 | 

サウジアラビヤとイラン、スンニ派とシーア派が争うのはなぜかと思い、何冊か本を読みました。
まず井筒俊彦『イスラーム文化』です。

『コーラン』は神の啓示を記録したものだが、全部が一挙に下されたのではなく、約20年の年月をかけて少しずつ断片的に下った。
この20年を2つに分け、前期10年をメッカ期、後期10年をメディナ期という。
前期と後期とではイスラームはがらりと性格を変えてしまう。

① メッカ期 自己否定的
最後の審判で罰を受けるという終末論的な怖れがある。
現世的秩序に独自性は認めず、来世に重みがかかっている。

神は全知全能、唯一、人格神であり、絶対に善だから、悪をなすことはあり得ない。
人間がたった独りで神の前に立ち、個人が神と一対一の契約を結ぶ。
神はあくまでも主、支配者であり、人間はその奴隷という関係にある。
義務を負うのは人間だけで、神は人間に対して義務を負わず、権利だけを主張する。

罰を下さずにはおかない怒りの神、正義の神。
人間が正義の道にはずれたことをすれば絶対に許さない。
人間は根強い悪の傾向性をもっており、神の前に立つなら、いかに罪深い存在であるかという自覚をもたざるをえない。
罪悪意識に基づく神への怖れがメッカ期のライトモチーフである。

② メディナ期 自己肯定的
終末論に基づいて、神の慈愛のしるしに満ちた場所としての現世を生きていく
人がムハンマドと契約を結び、ムハンマドとの契約を通して神との契約に入る。

ムハンマドを神の代理人として認めることにおいて、ムハンマドは人々の絶対的指導者となるから、神の命に従うのと同じようにムハンマドの命に従う。
ムハンマドと契約関係に入った人々が、お互い同士が同胞として、信仰共同体が神と契約を結ぶ。
神と人との個人的契約のタテの関係だったのが、人々との結びつき、ヨコの広がりを加えることになる。

個々の人が神にすべてをまかせ切って絶対服従を誓うという信仰ではなく、共同体的に組織された社会的宗教となり、制度化されていく。
開放的であって、排他的ではなく、誰でもその一員になることを許される。

血のつながりに代わる信仰のつながりを立て、共同体の宗教として確立されたイスラームは普遍性を持ち、世界宗教となった。

現世の悪は人間の力で直していけるから、現世を少しずつよいものに作り変えていこうとすることが正しい人間の生き方。
神は慈悲と慈愛、恵みの主で、善人には来世で天国の歓楽を与えることを約束する。
神にたいして人間のとるべき態度は感謝あるのみである。

イスラームは聖なる領域と俗なる領域とを区別しない。
世俗世界は存在せず、現世がそっくりそのまま神の国である。
宗教は人間の日常生活とは別の、何か特別な存在次元に関わる事柄ではなく、生活の全部が宗教であり、政治も法律も人間生活のあらゆる局面が宗教に関わってくる。

現世が神の世界としての正しい形で実現していないなら、神の意志に従ってこの世界を正しい形に建て直していかなければならない。
人間生活が悪と罪に汚れていても、人間の努力次第で正しい形に建て直していける。
地上に神の意志を実現していくことが、イスラーム共同体の任務、存在意義と考える。

多くの場合、アラブとイラン人は、世界観、人生観において、存在感覚において、思惟形態において、正反対の関係を示す。
アラブを代表するスンニー派(いわゆる正統派)的イスラームと、イラン人の代表するシーア派的イスラームとは、これが同じ一つのイスラームなかと言いたくなるほど根本的に違っている。

シーア派はムハンマドの死以来、イスラームの歴史が正義に反する、間違った歴史であり、自分たちは間違った世の中に生きているという感覚を持っている。

ムハンマドは最後の預言者だから、ムハンマドが死ねば、神の啓示は『コーラン』を最後にして途絶えてしまう。
しかし、シーア派では、それはコーランの表面に書いてあることで、イマーム(預言者と一体化した後継者)がいる限り、内的啓示は続いていくと信じている。

ムハンマドの死後、ムハンマドの娘ファーティマと従弟のアリーに政治権力と宗教権威が継承され、その後は特別な宗教的能力が備わっているアリーの血統に受け継がれて、イマームとしてイスラーム世界を宗教的にも政治的にも指導することが、あるべき歴史の展開だった。
ところが、9世紀に12代イマーム(869年生まれ)が4歳か5歳のときに姿を消し、存在の目に見えぬ次元に身を隠し、イマームは12人で終わったとされた。

誰も12代イマームの姿を見る人はないが、信仰深い人の夢や祈りでのエクスタシー的状態のときにイマームと会うことができる。
終末の日に先立って最後のイマームが救世主として再臨するまで、正しい支配者であるイマームの統治は行われない。

シーア派にとって、イマームは人間的存在を超え、宇宙的実在である。
イマームという神的人間の存在を認め、すべてのことの根底とするシーア派はキリスト教により近いと考えていい。

神の代理人がムハンマドだから、ムハンマドの言いつけに従うことは、そのまま神の言いつけに従うことであり、ムハンマドの言いつけに背くことは、すなわち神に背を向けることとされる。

コーランをどう読むかは各人の自由だが、それには許容範囲がある。
解釈が許容範囲を逸脱した場合、共同体の指導者たちが異端宣告をして、共同体から追い出してしまう。

意識的に解釈学的なシーア派は、『コーラン』をふつうのアラビア語の文章や語句として解釈するだけでなく、暗号で書かれた書物だと考える。
通常のアラビア語の知識ではとても考えることもできない秘密の意味を探ろうとする。

暗号解読をタアウィールという。
タアウィール以前に見ていた世界は俗なる世界であって、タアウィールのあとに現れてくる世界が聖なる世界だということになる。

現世は完全に俗なる世界であり、悪と闇の世界であるというゾロアスター教の善悪二元論がシーア派には認められる。
だから、人は存在の聖なる秩序を探り出さなければならない。

ところがスンニー派の見方では、現世がそのまま神の国であり、聖と俗の区別はない。
だから、罪と悪とは人間の決意と努力次第で正しい形に建て直していけるものであり、理想的な姿に向かって現世を構築していくことができる。

それに対し、聖と俗をはっきり区別するシーア派は、スンニー派の現世肯定的な態度を認めない。
この点において、シーア派はスンニー派と完全に対立する。

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NHKスペシャル取材班『戦慄の記憶インパール』

2020年05月01日 | 戦争

吉田裕『日本軍兵士』によると、第二次世界大戦での戦没者は軍人・軍属が230万人、民間人が80万人、合計310万人。
1944年1月以降の総戦死者は281万人と推測される。
戦争の終結が遅れたために、多くの人命が犠牲になった。
ちなみに、日露戦争の戦死者が約9万人。

近代の戦争では、戦病死者が戦死者をはるかに上まわったが、次第に戦病死者が減少し、日露戦争では日本陸軍の戦病死者の占める割合は26.3%に低下した。
ところが、日中戦争では、1941年の時点で戦病死者の占める割合は50.4%だった。

藤原彰さんによると、栄養失調による餓死者と、栄養失調に伴う体力の消耗の結果、マラリアなどに感染して病死した広義の餓死者の合計は140万人(全体の61%)。
秦郁彦さんは37%という推定餓死率を提示している。

海没者(艦船の沈没に伴う死者)は軍人・軍属が35万8千人。
船舶による軍隊輸送では、熱帯地では坪当たり2.5人が理想だが、5人になることがあった。
船倉に詰め込まれ、甲板の出入り口には古参兵がたむろしていたので、新兵は自由に甲板に出られなくて、熱射病などで多くの兵士が死亡した。

還送戦病患者(内地の病院に送還された患者)に占める精神疾患患者の割合は、1937年が0.93%、1940年が2.90%、1943年が10.14%、1944年が22.32%と、急激に増えている。

郵便検閲で摘発された兵士の手紙に、「戦地に三年三ヶ月もいれば故郷へ帰りたい気持ちばかりです」と書かれている。
そんな状態ですから、1940年の宜昌作戦では、第34師団歩兵第216連隊において38名の自殺者を出したのも当然なのかもしれません。

9万人のうち3万人が死亡したといわれているインパール作戦(1944年3月開始)のドキュメンタリーを書籍化したNHKスペシャル取材班『戦慄の記憶インパール』に、元少尉がこんなことを語っています。

牟田口廉也司令官が作戦会議で「どのくらいの損害があるか」と質問すると、ある参謀が「5千人殺せば陣地を取れると思います」と答えた。
敵を5千人殺すのではなく、味方の損害が5千人ということだった。
つまりは兵士はモノ扱いにし、部下の命よりも自分の手柄のことしか考えていなかったわけです。

インパールまでの距離は400km。
与えられた食糧は3週間分。
3週間で攻略するとすれば、武器、弾薬、食糧を40kg背負って、峻険な山道を1日19kmを進まなければいけない。

牟田口廉也司令官は「インパールは天長節(4月29日)までには必ず占領してご覧にいれます」と言っていた。
天長節までだったら6週間から7週間だから、3週間分の食糧では足りない。
食料や武器の補給は最初から考えていなかった。

兵站とは「軍隊の戦闘力を維持し、作戦を支援するために、戦闘部隊の後方にあって、人員・兵器・食料などの整備・補給・修理などにあたり、また後方連絡線の確保などにあたる機能」(『日本国語大辞典』)ということ。

日本軍は兵站を軽視していた。
インパール作戦が始まる1年前の1943年4月、小畑信良少将は、戦闘の支援が困難であり、部隊が孤立するとして、「実施せざるを可とする」と報告して更迭された。

戦後、牟田口廉也はこう語っている。

補給が至難なる作戦においては特に糧秣、弾薬、兵器等のいわゆる〝敵の糧による〟ということが絶対に必要である。放胆な作戦であればあるほど危険はつきものである。

「敵の糧による」とは、村から食糧を徴発し、イギリス軍から武器を奪うこと。

ジンギスカン作戦を牟田口廉也司令官は発案した。
村から徴発した牛や羊などを引き連れて行軍し、食料にあてるというものである。

食糧そのものが歩いてくれるものが欲しいと思いまして、私、各師団に一万頭ずつ羊と山羊と牛を携行させてやったのでございますが、それが実は途中でその動物が倒れまして、実際にはあまり役に立ちませんでありました。

牛や馬は川を船で渡るのを怖がって、川に落ちて流されたものが多かった。
牛に荷物を運ばせようとしても、背中がコブのように突き出ていて、乗せるのが難しく、悪路を進むのも嫌がった。
そのため、渡河から一週間で牛を放棄した部隊が多かった。

日本軍は糧秣・弾薬等の手配を軽視し、精神論に頼っていた。
それに対し、イギリス軍は万全の補給策を練っていた。
武器や食糧、医薬品など、一日250トンもの物資を前線に投下できる体制を整えており、連日100機もの輸送機を飛ばして、一日100トンを超える軍需品を空輸した。

『日本軍兵士』にこんなことが書かれています。
戦場では歯磨きをする余裕がなかったので、非常に多くの将兵が虫歯にかかっていた。ところが、歯科医が少ないために治療を受けることができなかった。
兵士の7~8割が虫歯や歯槽膿漏だったとされている。
行軍中は靴を履きっぱなしだから、水虫も蔓延した。
軍服や軍靴はぼろぼろで、裸足の兵士もいた。
軍装も不足し、小銃を持たない兵士もいた。

『日本軍兵士』には、他にも唖然とすることがたくさん書かれています。
こんな状態で戦争したものだと、ある意味、感心します。

インパール作戦についての感想。
目の前のことしか考えず、全体を見てない。
根拠のない楽観論を振りかざす。
人間をモノとしか考えない。
相手(イギリス軍)を軽視する。
現場の報告を無視する。
精神論で解決すると思っている。
上官の思いつきに部下の多くは反対しない。
反対した部下は左遷させられる。
責任の所在が曖昧。
現在の政治状況と似ている部分が少なくないと思いました。

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