三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、インチキ宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり、そしてそのことを日記にまとめてみたり。

更正と救い

2006年10月30日 | 厳罰化

岡山刑務所を見学した。
ここは、初犯で、懲役8年以上という長期の受刑者を収容している施設である。
殺人、強盗傷人、強盗強姦といった重罪を犯した人たちがほとんどとのこと。
ところが、再犯率がわずか5パーセントという説明には驚いた。
10年、20年と長期間在所してからシャバに出たら、浦島太郎状態である。
おまけに、帰る家、待っている人がない人が多いだろうし、仕事もそんな簡単には見つからないだろう、年金があるわけでもない。
それにもかかわらず、ほとんどの人が再び犯罪を犯すことなく生活しているということは、ほんとうにすごいと思う。

受刑者の中には、賞与金をためて被害者に送金する人もいるが、ほとんどは送り返されてくるそうだ。
お金を受け取ることで許したと思われたくない、事件を思い出したくない、加害者と関わりを持ちたくないなどなど、さまざまな気持ちなのだと思う。
被害者の傷は、時間がたったからといって簡単に癒えるものではないほど深いと、あらためて教えられた。

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宮城顗先生と児玉暁洋先生のお話

2006年10月26日 | 仏教

名古屋別院で毎月行われている信道講座の話をまとめた「信道 2005年度」に、宮城顗先生の「もとの阿弥陀のいのちへ帰せよ」というお話があった。
宮城顗先生は体調を崩されているから、ひょとしたら先生最後のお話かもしれない。
死と生について語られており、現在の宮城先生を思うと一つ一つの言葉が実に重たい。

お話の中で、筋萎縮即索硬化症になったある住職について語られている。
この病気は、筋肉を動かす神経がはたらかなくなって、だんだんと身体が動かせなくなり、自力呼吸することも難しくなる。

ご住職は人工呼吸器をつけ、お腹から人工栄養を流し込み、ただ寝ているだけである。
ご自宅で療養されているのだが、近所の小学生が見舞いに来てくれた時のこと。

一人の男の子が「おじちゃんはなんもできひんのやなあ」とこういったというのですね。そしたら何か書きたそうにするので奥さんが色紙を出したらそれに「耐えることは出来るよ」と書かれたそうです。

耐えることで何かが得られるとわかっていれば耐える力が出てくる。
死ぬのを待つだけのご住職は何を得ているのだろうか。

「信道 2005年度」には児玉暁洋先生の「地獄(戦争)と餓鬼(欠乏)と畜生(恐怖)の無い国に」というお話もある。
この題名はなんと日本国憲法の前文にある「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」からとられている。

四十八願の最初の願は無三悪趣願、すなわち地獄・餓鬼・畜生のない国をつくりたいという願いである。

畜生は恐怖だ、餓鬼は欠乏だ。畜生は恐怖だというのは、源信和尚の『往生要集』を読むと、畜生について「常に怖懼を懐けり」と書いてある。餓鬼が欠乏だということはわかる。そして一番最初の戦争。文字通り、人と人とが殺しあうという関係、それが地獄である。

なるほど、第一願と憲法の前文がぴたりと重なり合っている。
第九条ばかりが問題にされているが、前文もすぐれものである。
大切にしたい。

児玉先生は御遠忌テーマ「今、いのちがあなたを生きている」にも触れ、「ちょっとわかりにくい。しかし、これは、真宗大谷派に属する全ての人が、教えからの呼びかけとして、各自が応答すべき言葉です」と言われている。

児玉先生の応答の言葉。

南無阿弥陀仏を真実の自己として発見し、如来の本願を我がいのちとして生きかつ死す。

真宗の教えを端的に述べられていて、素晴らしい応答だと思う。
だが、児玉先生の言っていることは「本願をいのちとして生きる」ということだから、御遠忌テーマとは違っている。
やっぱりこの御遠忌テーマはおかしい。

御遠忌テーマは「真宗大谷派に属する」人だけのものではない。
だとしたら、まず第一印象として「わかりにくい」とか、「日本語として変だ」と思われるようなテーマはダメだと言わざるを得ない。

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「国家と対峙しつづけるために」

2006年10月22日 | 戦争

末木文美士『仏教vs.倫理』に、『法華経』の主題の一つは、「仏の滅後、死者としての仏とどう関わることができるか」という問題だとある。
釈尊在世中の仏弟子にとって、釈尊が死んだらどうしたらいいのかということは大きな問題だったはずだ。
となると、死者としての釈尊とどのように関わるべきか、という問いは、仏教徒にとって重要な課題である。

仏が亡くなり、過去の存在となったからといって、仏から離れることができるわけではない。仏はその不在をもって迫る。


その答えが『法華経』にあると末木文美士氏は言う。

強力な他者=死者の姿を如来寿量品の久遠実成の釈尊と解すべきである。


私たちは釈尊たちの死んだ後の世界を生きている。
死後の世界を生きるということは、死者としての釈尊と対話を続けることであり、そうすることが仏教徒のあり方だろうと思う。
どんな死者であろうと、死者との対話の中にその人の死後の世界を私が生きていくということがあるはずだ。
死んだらおしまいだと考えることが、死者を忘れることになり、そして死者の否定となってはいけない。

末木文美士氏は、死者との関わりということから葬式仏教の大切さを説く。

日本には、相当に形骸化してしまったとはいえ、まだ葬式仏教を基盤として死者との対話の可能性が残されている。

そして、死者との関わりという意味で、靖国神社をこのように認めている。

靖国神社は、過去の神社と性格を異にしている。その祭神は戦死者で、確かに戦争によって人為的に生命を絶たれたのであるから、怨みを持っていることもあるであろうし、政治的な意図で祀られたという点では、権力者を祀った神社と近いところがある。しかし、そうした要素はあるものの、基本的にはまったくふつうの国民であり、特別な御霊でもなく、権力者でもない。(略)
このように、戦死者という限定はあっても、まったく普通の死者を祀っているという点で、靖国神社は葬式仏教の果たしている役割を取り込んだものということができる。

 

仏教が戒名に金銭で差別をつけて平気でいるのに対して、神道ではみな平等であり、靖国神社においても、一兵卒も将軍もまったく同じように祀られている。その論理からすれば、A級戦犯であっても差別はされないのは当然である。小泉首相が「死ねばみな仏」と言ったのは、神と仏の言葉の上での混乱はあるものの、その限りでは正しいと言わなければならない。

靖国神社は葬式仏教的だというわけである。

神道では、死んだらすべての人がすぐに神になるわけではない。
普通の死に方をした人だと、死後33年が経って先祖霊と一体化し、さらにお祀りを続けることで氏神となる。
ところが、靖国神社では戦死したらただちに神として祀っている。
これは、死んだらホトケという感覚と近いことはたしかである。
死者がホトケになるとはどういうことがはっきりしないと、なんでもみんな一緒ということになってしまう。

「小森龍邦さんの対談を聞く会」というのに行ってきた。
対談の相手は高橋哲哉東京大学教授で、高橋哲哉氏の話は面白かった。
以下、高橋哲哉氏のお話をメモから。

戦後民主主義のメッキがはげてきて、日本人の地金が出てきた。
地金とは帝国の遺産で、ヤスクニ、日の丸・君が代、天皇制などである。
帝国の遺産がリサイクルされ、日本人のアイデンティティとされている。
「憲法を守れ」と言うと、なぜか反体制と見なされる。(ここで笑)
憲法の理念が地金となっていない。

考えてみると、憲法改正反対と声をあげると、この人は片寄っていると思われるのは不思議なことである。
まして国家公務員である高橋哲哉氏が憲法を守るべきだと言うことに何の問題もなく、賞賛されこそすれ、非難される筋合いはない。
しかしながら、高橋哲哉氏はネット上でボロクソに言われているそうで、どこかおかしいとしか言いようがない。

それと、哲学について言われたことのメモ。
哲学とは自分の頭で考えることである。
思考をストップさせない。
だから、考える自由を大切にしたい。

非難者は、自分は正しいという思考停止状態に陥りがちである。
あるいは、神も仏も結局は同じなんだという思考停止もある。
戦争で亡くなった人たちが私たちにどういう言葉を残しているのか、その言葉を聞かないといけない。。

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サギ商法にだまされるな

2006年10月20日 | 日記

新幹線の自由席に乗っていつも不思議に思うのは、座席に荷物を載せる人がいることである。
乗客が少なけりゃどういうこともないが、混んできてもやはり荷物を座席に置いたままにしている人がいる。
先日もそういう老婦人がいて、席を探している人が横を通っても気にもかけないようなのである。
おそらく、この席に座りたい人がいるなんてことを考えていないから、他の乗客が目に入らない、だから席を譲らなければとは思いもしない。

つまり、無知ということである。
気づけば、ああ、悪いことをしたな、と恥じるだろう。
では、こういう人たちはどうなのかと思う出来事があった。

我が家はネットはADSLである。
光電話にしたほうが安くなるというので、NTTに光インターネットに変えてもらうことにした。
ところが、電話機はNTTの代理店である某社のリースなので、我が家まではNTTが工事をしても、屋内はその会社に頼まないといけないと言われた。

某社の社員が「この件でお聞きしたいことがあるので」と先日、やって来た。
私は留守だったので、妻(パソコンやネット環境には全くの無知)が応対に出た。
光ファイバーだとウイルスがどうのこうので、監視カメラを玄関につけないといけない(妻はよくわかっていないので、どういうことかは不明)などと言って、「監視24」という53万4千円(月に9350円のリース料)の商品を妻に契約させてしまった。

帰ってからその話を聞き、不必要なものをだまして売りつけるサギ商法に腹が立つやら、そんな契約をする妻に怒鳴りつけるやら、それだけで疲れた。
それでも、やっとのことで契約を解除させることができた。

某社の社員には私も会ったが、いずれも愛想がよく、応対が丁寧で、好感の持てる人たちばかりである。
私としては文句を言いながらも、だんだんと自分のほうが理不尽な言いがかりをつけているような気になってくる。

ネットで調べると、会社の方針は「だましてでも契約をとれ」である。
もっとも某社にかぎらず、NTT代理店と称する会社はみな似たり寄ったりのサギ商法でもうけているようだ。

電話機リース詐欺というのがあると初めて知った。
うちの電話機にしても、高い機種にさせられてしまったと、おそまきながら知った。
この人たちは、自分がウソをついて高い商品や不要な商品を売りつけていることをどのように思っているのか。
ウソと自覚しているか、悪いことをしているという意識があるのか、聞いてみたいものだ。

(追記)
リースの期間が終わり、代理店ではダメだと思い、NTTに直接来てもらい、新しい電話を購入した。
そして、こちらがお安くなりますという言葉を信用したのだが、後で考えると、大して安くはないし、前のよりも不便である。
電話工事の人が「営業の人はとにかく売りつけようとするから」と言ってました。

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四衢亮「カルトと私たち」

2006年10月18日 | あやしい教え・考え

四衢先生から「カルトと私たち」という冊子をいただいた。
カルト問題についてわかりやすく話されていて、さすがだとあらためて感心した。
以下、私なりのまとめ。

・カルトの定義
被害を受けた人がたくさんいるということ
教義や考え方が著しく科学的根拠を欠いているということ
脱法的な行為をしてしまう教義を持っているということ

・カルトの特徴
最初からカルトがあるのではなく、途中から教義や宗教が暴走し、集団、あるいは教祖の利益や欲望を満たすための手段となる

・教義のパターン
世界が滅びる、死んだら地獄に堕ちるなどと、恐怖と絶望に陥れ、不安にさせる
と同時に、破滅から救う道があると言い、この宗教を宣伝し、献金しなさいと言う

・若い人への勧誘の仕方
大学などのサークルで誘い、研修会に参加させる
あなたは世を救うことができるとおだてて、信者の勧誘や金儲けをさせる

・年配の人への勧誘の仕方
月に1万円とか、一回の回向料が3万円とかから始める
マインドコントロールによって、自分から進んで行っていると思わせる

・脱会の困難さ
専門家に相談すること
しかし、脱会には時間とお金と労力がかかるし、脱会した後も問題を抱える

・真宗の眼
帰依三宝、仏(教えを説く人)と法(教え)と僧伽(法を聞く場や仲間)が明らかになることで間違いに気づくことができる
オウム真理教は法がなく、神秘主義は仏がない

私もカルトについて法話で話をしたことがあるが、まとまりのない話になり、自分でもわけがわからなくなってしまった。
何が問題なのか、それをきちんと整理しないと語れないということです。
本山もカルト問題に取り組もうというのなら、この冊子を出版してくれたらいいのに。

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ほえる犬は噛みつくか

2006年10月14日 | 戦争

 

弱い犬ほどよくほえるというが、ひょっとしてかみついてくることもあるのだろうか。

北朝鮮が核実験をした。
イラクには大量破壊兵器を持っているという疑いだけで国連(=アメリカ)は侵攻したのだが、北朝鮮には今後どういう対処するつもりなのだろうか。


イラクには石油があるが、北朝鮮には何もない。
ないどころか、逆にお金がかかる。
ドイツが統一されたが、旧東ドイツがお荷物になったため経済が傾いている。
朝鮮半島が統一国家になったら、ドイツどころではない。
道路やダムといったインフラ整備が大変である。
今までの行きがかり上、アメリカや日本は支援をせざるを得ないだろう。
その負担はかなりのものになるだろうから、アメリカや日本の首脳たち(ひょっとしたら韓国も)の本音としては、北朝鮮が今のままであることを望んでいるのではないかと思う。
で、アメリカとしては、北朝鮮が適当にやんちゃを言うぶんには目をつむっておくつもりじゃなかろうか。
しかし、今後、やんちゃだけですむかどうか、その見極めが難しい。

私の当てにならない予想としては、金正日が側近に暗殺され、北朝鮮は自然崩壊、何となく朝鮮半島が統一してしまい、日本とアメリカは仕方なく支援を重ね、日本はますます借金まみれ、です。

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浜井浩一「治安は悪化したの?」

2006年10月11日 | 厳罰化

 浜井浩一龍谷大学教授の講演「治安は悪化したの?」を聞く。
http://www.p.u-tokyo.ac.jp/kikou/20051001Hamai-ppt.pdf
『犯罪統計学入門』は犯罪統計の見方について書かれた固い本だったので、難しいことを話されるのかと思っていたら、親しみやすい口調のわかりやすいお話で、すこぶる面白かった。

犯罪は増えていない、治安は悪化していないということが結論。
以下、私のメモ書きである。

5歳から10歳未満の子供の死因は何が多いか。
死因の多いほうから、ガン、交通事故、溺死、肺炎、他殺、火災、インフルエンザ。
1年間に663人が死んでいるが、他殺は19人で、そのほとんどが虐待である。
子供が誰かに殺されるリスクは年々減少している。

殺人の9割は顔見知りの犯罪であり、5割は親族によるものである。
不審者という言葉がよく使われるが、どういう人が不審者なのかが曖昧。
見ただけで、この人は犯罪者だなんて誰にもわからない。

アンケートで、「日本では犯罪が増えていますか」と「あなたの住んでいる町で犯罪が増えていますか」を質問すると、「自分の町で犯罪が増えた」と答える人は3.6%、「日本で犯罪が増えている」と答える人は49.8%。
身近なところで犯罪が増えているとは実感していないのに、なんとなく犯罪が増えていると不安を感じている。
これを体感治安の悪化と言う。

なぜ治安が悪化しているという不安感を持つのか。
その理由として、情報量の増大がある。
テレビや新聞などの既存のメディアから報道が増えているし、インターネットやメールなどから入る情報も多く、どこにいてもすぐに情報が入るようになった。
おまけに人間の情報処理量よりもたくさんの情報が入ってくるから、きちんと情報を処理できない。

現在は治安がいいからといって、なんの心配もないわけではない。
犯罪の低年齢化が言われているが、それは間違いで、逆に高年齢化している。

刑務所に入る人は年々増えて、どの刑務所も定員オーバーなのに、刑務所で作業できる人が減り、担当の刑務官が困っている。
老人と障害者と外国人が増えているが、彼らは作業ができないから手が足りない。

家がなく、金がなく、行くところがない人が、公園で寝るか、刑務所に入るかということで、コンビニで弁当を万引きし、前科があるので実刑判決、懲役2年。
こういった人が刑務所には多く、前科10犯以上もごろごろしている。

シャバに出ても、金はないし、住むところはないし、仕事もない。
住民票がないから福祉も受けられない。
それで刑務所が老人ホーム化している。

外国人受刑者が増えているが、外国人による犯罪が増加しているわけではない。
アムネスティが出している「外国人=犯罪者ってホント?」というパンフがある。

それによると、刑法犯検挙人員における来日外国人の割合は、
1993年 2.4%
1998年 1.7%
2003年 2.3%
と、1.7%から2.4%の間で推移している。

検挙された外国人の人数はたしかに増加しているが、全体の検挙人員が増えており、外国人だけが増えているわけではない。

次に、不法滞在外国人が急増・凶悪化しているのか。
不法残留者は1993年の約30万人をピークに、年々減少し、2003年は約22万人いると言われている。

驚くことに、2000年、警視庁は「中国人かな、と思ったら110番」というチラシを配布し、神奈川県警は「中国系外国人」が「携帯電話で話をしている」などを見かけたら「直ぐ神奈川警察署に電話をお願いします」というチラシを配布したそうだ。
「中国人を見たら泥棒と思え」というわけだ。
中国大使館から抗議を受けて廃棄処分にしたというが、いやはやなんとも。

浜井先生の話に戻り、日本では少年犯罪のピークは15歳ぐらいで、20歳になるとほとんどの者が足を洗っていた。
だから、大人の犯罪が少なく、犯罪における成人比は諸外国と比べて異様に低い。
ところが、少年院を出ても、社会の受け皿(家族、地域、就職先など)が減っており、働きたいと思っても、仕事がない。

それと重罰化の問題。
刑罰を重くすれば犯罪は減るというのは間違い。
スケアード・ストレート・プログラムといって、不良少年を刑務所に連れて行き、受刑者が少年たちに、このままだったら刑務所行きだぞ、刑務所は恐いところだと脅すことによって矯正するという刑務所体験プログラムである。
ところがこの方法は効果がないどころが、かえって再犯する率が有意に高い。

力で抑えても、脅しても効果はない、即効性のある方法もない。
長時間にわたってサポートし、アフターケアをしないといけない。

思うに、問題は格差社会だと思う。
小泉元首相が「格差があるのは当然です」と平然で言ったのには唖然とした。
たまたま恵まれた環境に生まれ育った七光り議員がそんなことを言うべきではない。
格差をなくすのが政治の仕事のはずだ。
小泉にとって、下流になるのは自己責任だということなのか。

浜井先生の2時間半にわたる講演は知らないことばかりで勉強になった。
しかしながら、聴衆の少なさには驚いた。
主催者の関係者がほとんどだと思う。
新聞に浜井先生の講演があるという記事が載っていたのにどうしてなのだろうか。

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中村高寛『ヨコハマメリー』

2006年10月07日 | 映画


「ハマのメリー」という、顔を白く塗り、ドレスを着た年寄りの娼婦が横浜にいた。
1995年、74歳の時に姿を消した。

中村高寛『ヨコハマメリー』は、メリーについて、ゲイのシャンソン歌手・風俗ライター・写真家・舞踏家・芸者・クリーニング店の夫婦・化粧品店の女将・女優といった人たちが語るというドキュメンタリーである。

全財産のカバンを持って横浜の町を歩き、住む部屋がないのでビルの廊下で寝ていた。
メリーさんの存在は圧倒的である。
しかし、白塗りの異様な姿の老婆を買おうという人がいたのだろうか。

映画を見ていくうちに、白塗りの顔は仮面であり、仮面の下には何もないのではないか、だからメリーさんについていくら語っても、結局のところ自分自身を語っているのではないかという印象を受けた。

そして、猪瀬直樹『ミカドの肖像』を思い出した。
冒頭にロラン・バルトの言葉を引用している。

いかにもこの都市は中心をもっている。だが、その中心は空虚であると いう逆説を示してくれる。禁域であって、しかも同時にどうでもいい場所 。緑におおわれ、お濠によって防御されていて、文字どおり誰からも見られることのない皇帝の住む御所、そのまわりをこの都市の全体がめぐっている。

『ミカドの肖像』は、皇居(天皇)のまわりを論じてはいても、天皇については何もふれない。

メリーさんの白塗りの下には何があるのか。
映画の最後、なんともまあ驚いたことに、老人ホームにいるメリーさんをゲイのシャンソン歌手が訪れる。
メリーさんは若いころはさぞかし美人だったろうと思わせる上品そうな老婦人だった。
全く想像もしなかった素顔である。
笑顔の下に何があるのか、それは想像するしかない。

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フォ・ジェンチイ『故郷の香り』と莫言『白い犬とブランコ』

2006年10月05日 | 映画

フォ・ジェンチイ『故郷の香り』という映画は、10年ぶりに村に帰ってきた男が、昔つきあっていた女と再会する話である。
中国版『私が棄てた女』だが、男にとっては棄てたというより、次第に疎遠になったという気持ちでいる。
だが、それなり穏やかに暮らしていた女と唖の夫との生活に、男が現れたことで波風を立つ。
それなのに最後は、男の「いろいろあったが、今は幸せにやっているようだからよかった」という独白で終わり。
あまりにも勝手な言いぐさに、あれはないだろうと思った。

原作は莫言の『白い犬とブランコ』という短編。
莫言の小説ならあんな終わり方ではないはず、原作を読みたいと思いつつ、一年が経ってしまった。
で、『白い犬とブランコ』をようやく読んだ。

映画ではブランコの綱が切れて、女はビッコになるが、原作では目に枝が突き刺さって失明するところがまず違う。
男が女の家に遊びに行くと、夫は唖で(原作では夫とは初対面)、三つ子の男の子がいる(映画では女の子が一人)。
帰り道、女はつらい思いを味わってはおるまい、あれこれ心配していたのも杞憂だった、と男はのんきに考える。
ところが、女はコーリャン畑の中で待っていて、三つ子が生まれて、倒れそうになるくらいだった、一人ぐらいは口がきけて話し相手になってくれるよう祈ったが、三人とも唖だった、話ができる子がほしい、今はちょうどできる時だ、と女がくどくどせまる。
男は言葉が出ず、最後の行は「………」で終わる。

何とも言えない後味が残る。

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『蜘蛛の糸』と「一本のねぎ」

2006年10月01日 | 

あらためて言うまでもないが、芥川龍之介『蜘蛛の糸』は、蜘蛛の糸によって救われるはずだったカンダタが、自分だけが救われたいという欲を出したために、地獄に再び堕ちてしまうという話である。

地獄に堕ちたカンダタを見て御釈迦様は、「悲しそうな御顔をなさりながら、またぶらぶら御歩きになり始めました」。「御釈迦様の御目から見ると、浅間しく思召されたのでございましょう。しかし極楽の蓮池の蓮は、少しもそんな事には頓着致しません」

まあ、のんきというか薄情というか。
これじゃいくらなんでも、というので、このあと阿弥陀さんがカンダタに説法し、カンダタは無事、極楽往生する、というアニメを見たことがある。

芥川龍之介もあれじゃまずいと思ったのか、『杜子春』を書いている。
仙人になろうと、老人の言葉に従って、何があっても黙っていた杜子春は、畜生道に堕ち、馬になった父母が地獄の鬼から打たれるのを見、そして母が「心配をおしでない。私たちはどうなつても、お前さへ仕合せになれるのなら、それより結構なことはないのだからね。大王が何と仰つても、言ひたくないことは黙つて御出で」と言うのを聞いて、思わず「両手に半死の馬の頸を抱いて、はらはらと涙を落しながら、「お母さん。」と一声を叫びました」。

『蜘蛛の糸』のタネ本は、ドストエフスキイ『カラマゾフの兄弟』の中に出てくる「一本のねぎ」という話だという説があった。(本当のタネ本は鈴木大拙訳『因果の小車』)

グルーシェンカという女が「一本のねぎ」の話をする。
グルーシェンカはカラマゾフ父子を手玉にとる悪女だと思われているのだが、実は心のきれいな女性で、『罪と罰』のソーニャのような聖なる娼婦である。
グルーシェンカは「あたしいけない女だけれど、それでもねぎをあげたことがあるの」と言って、「一本のねぎの話」をする。

昔むかしあるところに、それはそれは意地の悪いひとりのお婆さんがいて死んだの。そのお婆さんは生きているうちにひとつもいいことをしなかったので、悪魔たちに捕まって、火の海へ投げ込まれたの。お婆さんの守護天使は、何か神様に申し上げるような良い行いが思い出せないものかと、じっと立って考えているうちに、ふと思い出して、そのお婆さんが野菜畑からねぎを一本抜いて乞食にやったことがあるのを神様に申し上げたの。すると神様はこうお答えになった。それではその一本のねぎを取って来て、火の海にいるお婆さんに差し伸べてやり、それにつかまらせてたぐり寄せるがいい。もし火の海から引きあげることができたら、天国に行かせよう。でも途中で千切れたら、お婆さんは今いる場所にとどまるのだと。天使はお婆さんのところに走って行ってねぎを差し伸べ、さあお婆さん、これにつかまってあがって来なさい、こう言って、そろそろと引きあげにかかったの。すると、もうひと息で引きあげられるという時に、火の海にいた他の罪人たちが、お婆さんが引きあげられているのを見て、一緒に引きあげてもらおうと、我も我もとお婆さんにつかまりだしたの。お婆さんはそれはそれは意地悪だったので、みんなを足で蹴散らしながら、《引きあげてもらっているのはあたしで、お前さんたちじゃないよ、あたしのねぎで、お前さんたちのねぎじゃないよ》と言ったの。お婆さんはこう言うやいなや、ねぎはぷつりと千切れてしまい、お婆さんは火の海に落ちて、今だにずっと燃えているの。天使は泣く泣く帰って行った。

そしてグルーシェンカは、「あたしそらで覚えているのよ。だってこのあたしはその意地悪婆さんなんですもの」と言う。

『蜘蛛の糸』と違って、ぐっとくる話である。
守護天使のような、自分のために泣いてくれる人がいるということが救いなのでないか。
そして、杜子春のように、人のために泣けるということが。

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