三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

吉田修一の小説

2013年10月28日 | 

一時期、あまり小説を読まなかったのだが、去年から日本の小説をまとめ読みしている。
吉田修一の小説も何冊か読んだ。
スラスラと読める。
その意味では山本周五郎賞も納得だが、登場人物は深い闇を抱えている点が芥川賞的でもある。

吉田修一の小説は18禁である。
『パークライフ』のように私小説的な日常の事柄が書かれ、特に事件が起きるわけでもない小説でも、なにやら不穏な雰囲気が漂っている。
だから、『パークライフ』に一緒に載っている『flowers』の、一瞬にして奔出する暴力は突然という感じがしない。

『ランドマーク』の貞操帯は暴力と性の象徴という気がする。

なぜ貞操帯をするのか、本人だってわからない動機を読者がわかるわけはない。
知らない女性を殴る『パレード』にしても、理由は説明されない。
そうした衝動を読者も抱えていると、ふっと気づかされる怖さ。

『ひなた』は、文京区のかなり広い一戸建てに住む兄弟と兄の妻、弟の恋人の4人の視点で書かれた小説。

弟の恋人は、フランスに本社があるので社長が来たときの会議はフランス語という、グッチとかシャネルのような、一着数十万円するジャケット、軽く十万円を超えるシャツを販売する会社の広報に就職している。
その恋人の家・家族の描写が圧巻である。


恋人の下の兄が結婚(二度目、一度目は19歳。相手も二度目)するので、相手の家族との顔合わせに、弟もついて行く。

家はゴミ屋敷で、両親はパジャマのような服を着て、テレビを見ながら寝転がっている。
挨拶をしても、寝転がったまま。
一緒に住む長兄の女は「私の倍くらいはある」
弟の恋人はこう言う。
「人間ってさ、楽に生活しようとすると、ああいう形になるんだと思うんだよね」
映画でこの雰囲気を表現するのは難しいのではないだろうか。

我が家でも寝っ転がってテレビを見るし、家の中は散らかっているが、それとは違うような気がする。
闡提とはこういうことかと思った。

宮城顗先生

一闡提というのは、愁悩を生じることなきものです。現世の快楽のみを追求して、愁悩することのない存在。それが信心ということからもっとも遠い存在です。信心などというものを、必要としない存在です。けろっとして生きていける存在です。
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「おもてなし」より「おかげさま」

2013年10月24日 | 青草民人のコラム

青草民人さんです。

最近見た光景で、いくつか気になることがあった。
電車に乗っていたとき、ある駅で駆け込み乗車をしてきた若い女性がいた。いきなり、いや無理だろうという隙間に飛び込んできたのだ。案の定、辛うじて身体は滑り込んだものの、バックはドアの外に。当然、電車は走り出したが、すぐに止まった。電車は一度走り出した後は、緊急停止したら、しばらくは安全確認のために動かない。結局、駅員が駆けつけてきて、ドアを開けて、挟まれた鞄を取り、やっとのことで発車。電車は四分の遅れ。
まあ、よくありがちなことではあるが、ビックリしたのは、その女性、自分が電車を遅らせたことなんてお構い無しで、ケータイをいじっている。ばつが悪いのはわかるが、なに食わぬ顔をしている様子には、あきれた。

最近、また同じような場面に遭遇した。同じように閉まりかけのドアに、これまた、若い女性が、バックを挟まれた。慌ててとなりにいた二人のサラリーマンが、ドアに手をかけ、鞄を外してあげた。しかし、その女性も、まったくの知らん顔。「ありがとうございました」の一言もなければ、「すみません」の一言もない。そして、ケータイでメール。唖然。

次は学校の話。仕事柄、職員室にいると電話がひっきりなしにかかってくる。最近多くなってきたのが、伝言電話。
「○年○組の誰々の保護者です。朝、伝えるのをわすれたので、子どもに学校から帰ったら、○○さんの家に行って待つように言ってください」とか、「私、外出してしまって、伝えられなかったのですが、今日は帰りが遅くなるので、ボップ(学童クラブ)に行くように言ってください」といったもの。非常識を通り越して、無常識である。
電話で、しかも学校に用事を頼む等ということは、私たちの世代では考えられない。どうしてもという緊急の場合、例えば自分の親が危篤でどうしても連絡しないといけないといった場合は別だが、何食わぬ顔で、私の都合を電話で済まそうとする母親が増えている。学校を託児所だと思っているのか、見下されている感じがして不愉快。でも、笑顔で対応。ストレスたまる。

若い教員にも同じようなことがある。研究会などの反省会で、職場の上司としては、ご苦労様の気持ちを込めて寸志を包むのがエチケットだが、私たちは先輩から、次の朝「昨日はご馳走様でした」の一言は必ず言うものだと厳しく教えられた。
でも、今の若い教員は、そういったことをしない。いや知らない。自分が言うと催促しているみたいで嫌なのだが、「社会人として教えてあげないと」と思って、敢えて耳の痛い話をするのだが、「すみません」とは言うが、嫌な顔されるか、落ち込むので、二度と言うかとなる。
今の若い教員は、返事はするが、人の話を聞いていない、と感じるのは年のせい。

ケータイ、スマホ世代なのか、自分の回りに人がいることが見えていない人が最近増えているように思う。「おかげさま」という言葉が死語になったのか、「おもてなし」なんていっている場合じゃない。

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「日常の中での死」と「尊厳死という名の下での死」

2013年10月20日 | 日記

某氏に、「「日常の中での死」と「尊厳死という名の下での死」~尊厳死法制化の動きが意図するもの~」という川口有美子氏へのインタビュー記事(「SOGI」№135)のコピーをもらった。

川口有美子氏はALS(筋萎縮性側索硬化症)に罹った母親を12年間介護した。
かつては安楽死の法整備が必要だと考えていた川口有美子氏だが、現在は尊厳死法制化に反対している。
なぜかというと、安楽死を望む人の多くが、病気の末期の人、貧しい人、障害を持っている人、高齢者、医療の受けられない人で、社会から見捨てられるということだとわかった途端に、「これを法律にしてはいけない」と思ったという。

私は、誰からの押しつけでもなく、自殺でもなく、治療を断ることができるという条件のもとでの本人の意思であれば、「医療を受けたくない」「ここでもういいから、活かせてほしい」という選択は、ありだと思います。
でも、尊厳死法制化はそうしたこととはまったく違う。これは経済の話であり、政治的に弱い人の口べらしをしようというものです。尊厳死を法制化することによって、長患いの人を少なくできます。長患いの人、障害者は、介護とか医療とかに長期にわたってお金がかかりますから、そういう人たちが早く亡くなれば、医療や年金の制度が助かる。
それと、長患いの人の家族に対して、扶養義務が強化される方向にあります。家族に負担させて、家族が「面倒を見きれません。本人は自ら死にたいと言っています」と言わせるようにしむけるのです。家族が「扶養できない」となったときでも、尊厳死できるように。
ALSが、かつて、ずっとそうでした。「家族が24時間介護するなら、呼吸器をつけてあげるよ」と言われて、「わかりました。家族が責任をもって面倒を見ます」と言ったとき、ようやく治療をしてもらえて、それで20年ぐらい生きるんです。でも、それでは家族はボロボロになってしまう。
それから、尊厳死の法制化により、家族が介護をギブアップしたとき、本人は、「もう生きていたくない」と言わざるを得ない状況におかれます。そうやって、「本人が治療をしないと、ここに書いているんだから」「自己決定だからいい」ということで、弱い人は責任を押しつけられ、治療をしてもらいないで、尊厳死させられてしまう恐れもある。

尊厳死とは、個人の尊厳に関わる問題だと思われがちだが、現実には経済問題なのである。

延命治療を望まないと言う人は少なくなく、私がその理由を尋ねると多くの人は「まわりに迷惑をかけたくないから」と答える。
人に迷惑をかけずに生きている人なんていないのに、迷惑をかけない生き方が倫理となってしまい、難病の人や障害者が生きづらくなっているわけです。

国会議員はどう考えているのか。

尊厳死の制度化も、「身体を管だらけにして苦しめずに、安らかに看取ることができる制度を整えること」といったよいイメージでとらえている人が多いと思います。でも、ケースバイケース。高齢者だって、個別性重視で必要な薬は飲ませなければならないんです。

与えられたイメージだけ尊厳死を人間らしい死に方だと誤解しているのは国会議員も同じなわけである。

法制化の意図(経済の論理での切り捨て)を自覚している国会議員もいるそうだ。

そういう人は優性思想の持ち主でしょう。「働けない人は早く死んでもらいましょう」と公言している国会議員もいます。今、人類は試されていると思いませんか。

私の父は認知症だが、損か得かの経済の論理で「早く死んでもらいましょう」ということになったら困る。
介護保険制度が見直されるそうだが、改悪はしないでほしいと、ほんと思います。


優性思想は人間の本能であり、同時にそれに対抗することも本能だと、川口有美子氏は言う。

たとえば、自分の命を捨てて他者を助けるような合理的には見えないようなことを人はするのですが、それは生物の本能ではなくて、人間がもっている本性だと思いますよ。重い障害をもった人を大事にしたり、食べられない人には食べさせてあげるということを人間はずっとしてきているんですね。そういう弱い人たちがいることによって、ギスギスしないやさしい社会になり、目には見えないがメリットがあることを人間は本能的にわかっている。
重度障害者が産まれないようにしたり、早く死ねるようにしたりして、優秀な人ばかりの社会になったらどういうことになるか。たぶんもっと早く人類は滅ぶのだろうと思います。でも、社会の半分ぐらいが障害者で彼らが生きやすい社会だったら、人類は生き残れるんじゃないかと。
私、考えたんです。どうして遺伝性の病気を引き起こす遺伝子が現代まで生き続けてきたのかなと。脈々と存在しているわけでしょ。それは病気をもっている人や働けない人も必要だからじゃないかなって。そういう弱い人は一定の安定を社会に与え、文明を育てて長続きさせ、繁栄させる一つのキーになっている。


政治家やマスコミの口車に乗って間違った認識を持ってしまうことはよくある。
原発問題や治安の悪化・厳罰化などがそうだが、尊厳死もその一つだと再認識しました。

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「宗教者の使命―自死をめぐって―」

2013年10月15日 | 日記

某氏から「宗教者の使命―自死をめぐって―」2012シンポジウム記録『預けられたいのちを大切に』という冊子をいただいた。
パネリストは神道、仏教(曹洞宗、浄土真宗)、カトリックの宗教者の方たち。

それぞれの宗教では、自死をどう考えているのか?
神道

神道では自殺・自死を「悪である」と考える。

浄土真宗

いろいろな仏教の経典とか浄土真宗の聖典にあたってみましたが、直接的に自殺を否定するような部分はあまり見つけることができませんでした。(略)仏教の場合は、これから「自殺はいけないのだ」ということをもっと強く言っていく必要があると思いました。

カトリック

本当の意味での自死とは罪なのだ、赦されないことなんですよ、これを明確に打ち出しています。(略)自死でなくなったかたの魂の救い、永遠のすくいはどうなるのだろうか、いいことではないことをした人は神様が約束してくださっている救いに与ることはできないのか。それに対して、自死者の永遠の救いについて決して絶望してはならない、希望を持ちなさい、――これが教会の姿勢です。(略)神はご自分だけが知っておられる方法によって、救いに必要な悔い改めの機会を与えることもできるからです。たとえば入水でも、あるいは首つりでも、実際に行為に移ってから、息を引き取るまで、何秒か、零点何秒か、という時間はあるはずです。その中で、神様のはからいの中で、悔い改めの機会が与えられることも考えられるだろう、神のいつくしみとはからいにわたしたちは希望を置きたい、ということです。

自死を防止するためには、自ら命を絶ってはいけないと、自死を否定すべきなのだろう。
だからといって、自死は「悪である」とか「罪なのだ」と説いていては、自死遺族にとって耐え難いのではないかと思う。
だから、「与えられることも考えられる」とか「希望」という言い方をしているわけだろうが、そんな曖昧な言い方ではなくて、許容というか、救いを明確に説くべきだと思う。

それともう一つ気になったこと。
神道

「死にたい」と言う人はたいてい自死することはなく、大丈夫でしたね。「死にたい」と言ってくれれば助かると思います。

浄土真宗

相談に来られたかたが実際に自死をされてしまうということはありません。やはり本当に自死するかたは言わずにされる場合が多い。

「死にたい」と言っている人は死なないものだ、というのは俗説だと思う。
太宰治にしても、何度も心中未遂をして、そうして命を絶っている。
未遂をくり返して亡くなる人は少なくない。

ウツ病の場合は波があるから、ちょっと元気が出たので相談したけれども、またウツになって死のうとする人もいると思う。
正直なところ、気の抜けた話し合いだというのが感想です。

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仏教的な「ほどこしの文化」

2013年10月11日 | 仏教

塩見鮮一郎『貧民の帝都』に、「仏教的なほどこしの文化」という言葉がある。
福田(ふくでん)という考えである。

福徳を生み出す田、幸福を育てる田地の意。人びとが功徳を植える場所。(略)布施し、信奉することによって幸福をもたらすとされる対象。(中村元『仏教語大辞典』)

福田には三つあり、その一つ悲田は「貧者・病者など、あわれむべきもの」である。
つまりは、情けは人のためならず、与える者に福があるということである。

松本清張『砂の器』に、ハンセン病の親子が全国を巡礼して歩くが、それができたのは施しをする人たちがいたからである。

穂積重遠(渋沢栄一の孫)

母親のお栄さんが実に天性の慈善家で、かわいそうな人を見ると、うっちゃって置けず乏しい人に逢うと、無性に物が恵みたいという、性分だつたそうです。

 

ある日、お栄が近所のおかみさんたちと入浴していると、例のハンセン病患者がやってきた。その女を見ると他の者はみな気味悪がって逃げだしたが、お栄だけはひとり残り、彼女の背中を流してやったという。栄一は晩年、癩予防協会の資金集めに尽力したが、その動機の一つに、幼い頃うけた母親の薫陶があったといわれている」(佐野眞一『渋沢家三代』)

「ハンセン病患者を見て気味悪がって逃げだした農民のなかにも、空腹の旅人におむすびのひとつもさしだすのにまよいはなかった」と、塩見鮮一郎氏は渋沢栄一の母親について記した後に書いている。

『福翁自伝』に福沢諭吉は母親についてこんなことを書いている。

母もまた随分妙なことを悦んで、世間並みには少し変わっていたようです。一体、下等社会の者に付き合うことが数寄(すき)で、出入りの百姓町人は勿論、えたでも乞食でも颯々(さっさ)と近づけて、軽蔑もしなければ忌(いや)がりもせず、言葉など至極丁寧でした。また宗教について、近所の老婦人たちのように普通の信心はないように見える。例えば家は真宗でありながら、説法も聞かず「私は寺に参詣して阿弥陀様を拝むことばかりは、可笑(おか)しくてキマリが悪くて出来ぬ」と常に私共に言いながら、(略)とにかくに、慈善心はあったに違いない。
ここに誠に汚い奇談があるから話しましょう。中津に一人の女乞食があって、馬鹿のような狂者(きちがい)のような至極の難渋者で、自分の名か、人の付けたのか、チエ、チエといって、毎日市中を貰ってまわる。ところが此奴が汚いとも臭いとも言いようのない女で、着物はボロ/\、髪はボウ/\、その髪に虱がウヤ/\しているのが見える。スルト母が毎度のことで天気の好い日などには、「おチエ此方に這入って来い」と言って、表の庭に呼び込んで土間の草の上に座らせて、自分は襷掛けに身構えをして乞食の虱狩を始めて、私は加勢に呼び出される。拾うように取れる虱を取っては庭石の上に置き、マサカ爪で潰すことは出来ぬから、私を側に置いて、「この石の上のを石で潰せ」と申して、私は小さい手ごろな石をもって構えている。母が一匹取って台石の上に置くと、私はコツリと打潰すという役目で、五十も百も、まずその時に取れるだけ取ってしまい、ソレカラ母も私も着物を払うて糠で手を洗うて、乞食には虱を取らせてくれた褒美に飯を遣るという極りで、これは母の楽しみでしたろうが、私は汚くて/\堪らぬ。今思い出しても胸が悪いようです。

塩見鮮一郎氏は「日本の社会にあったこのような精神、仏教的にして感傷的な同情心はいつごろまであって、いつ消えてしまったのか」と問う。
まだ消えていないと思いたい。

渋沢栄一

小児が井戸に陥ったのを見ていながら救わぬでも可(い)いものだろうか。
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塩見鮮一郎『貧民の帝都』

2013年10月08日 | 

オバマ大統領が推進している医療保険改革法の延期または予算打ち切りを狙って、アメリカの上院は暫定予算案を否決した。
医療保険制度改革案に反対する人がいるのはどうしてか、私はわからない。

町山智浩『教科書に載っていないUSA語録』に、保守派が国民皆医療保険制度に反対する理由が書いてある。
「政府が運営する保険は保険会社の自由競争を邪魔する。社会主義的なシステムだという。また、貧しい者の医療費を政府が払うということは、豊かな者が払った税金を回すことになり、これも社会主義的で許せない。
さらに独立戦争の頃から伝統的に、州の自治権と中央政府の権力は対立してきた。今回も、共和党が過半数を占める南部のいくつかの州議会は、オバマケアを、州の自治権を保証する憲法修正第10条違反だと裁判所に訴えた」
国民皆保険が社会主義なら、「ゆりかごから墓場まで」のイギリスはどうなんだと思う。

では、日本はどうか。
解雇特区、前向きに検討 官房長官「経済発展の観点で」
安倍政権が構想する国家戦略特区のうち、従業員を解雇しやすくしたり、労働時間の規制をなくしたりする特区の導入について、菅義偉官房長官は3日の記者会見で「何がこの国の経済発展のために必要か、という観点で考える。甘利明経済再生相と新藤義孝総務相、私を含めて3者で協力して、これから方針を打ち出したい」と前向きに検討する意向を示した。政権は15日召集の臨時国会に関連法案を出したい考えだ。
「解雇特区」とは
この特区では、働き手を守る労働契約法などに特例を認め、企業が従業員を解雇しやすくなる。安倍政権の産業競争力会議は1日、「成長戦略の当面の実行方針」をまとめたが、解雇規制の緩和をめぐっては積極的な民間議員と慎重な厚生労働省の間で意見の隔たりが大きく、盛り込まれなかった。野党はこの特区を「首切り特区」などと批判している。朝日新聞10月3日

頼みもしないのにツイッターがメールで送られてくるのだが、この朝日新聞の記事を批判するツイッターがその中にあった。

この特区は、解雇しやすいだけでなく、就職しやすいということ。こういう偏向報道をしてどうするのか。事実関係とバランスが無さ過ぎる。

人材の流動性が高まれば解雇をしやすくなる。そうなれば普通はクビにならないためにスキルを身につけて自分を高めるのでは? 問題なのは競争力が無くなっても生き残れる現状。

このツイートは大学教授や実業家、MBAを持っている人たちである。
この人たちのように能力があり、経歴がよければ、転職するたびに自分を高めることができるだろう。
しかし、そんな人間はほとんどいない。

多くの人は、景気がよければ就職しやすくなっても、景気が下り坂になると、とたんに解雇されててしまうことになるのではないか
いつ首を切られてお払い箱になるかわからないのだから、20年、30年ローンで家を買うのは無理だと思う。
求職中の知人にこの問題について尋ねると、苦労したことのない人が考えることだ、と言ってた。
私もそう思う。

塩見鮮一郎『貧民の帝都』は、明治5年に創設された、窮民、病者、障害者、孤児、老人たちの収容施設である東京養育院の変遷をたどりながら、貧民問題から浮かび上がる明治という時代を描いている。

ロシアの皇太子が来日するというので、明治5年10月15日に養育院ができる。
貧民のために作られたのではない。
「貧民救済でも慈善でも福祉でもなかった。目ざわりなゴミかなにかのように、こじきをかきあつめて、人目にふれない場所にほうりこんだだけである。執行者の頭にあるのは、外国の客人にきたない街を見せたくないという見栄だけであった」

明治5年10月26日、「乞食廃止令」が府知事の名で公布される。
「従来乞食等へ米銭を与ふるは、畢竟姑息の情より出候事にて、其実は一時飢餒を免れしむるのみ、却て其者を放逸に至らしむるに付、米銭を与へ候儀は一切不相成、尤右体の者去る十七日限り処分申付候については、向後徘徊候儀は無之筈に候得共、自然他より潜入し候者有之、夜中庇下へ差置又は米銭等差遣し候者有之候はば、見当り次第邏卒にて差押、施し候当人へ二銭づつ過料可申付候条、此旨兼て可相心得事。
但し、寄方無き廃疾不具の者は、会議所に於て夫々救助の筋可取立候間、愛憐の志により右費用に充度者は、寡多の別なく同所へ差出候儀自由たるへき事。
右之趣市在区々不洩様可相達事。
明治五年十月二十六日
       東京府知事 大久保一翁」

塩見鮮一郎氏の訳。
「これまで乞食に米やゼニをあたえていたのは、その場のがれの行為でしかなく、結果、いっときの飢餓感をのぞくにすぎず、かえって相手を怠惰にしたので、もう米やゼニをあたえてはならない。もっともこじきを十七日までに処分したので、今後は徘徊することはないはずだが、よそから潜入してくる者がいるだろう。かれらを自家のひさしの下に寝させてはならない。見つけしだいに警察に知らせてつかまえさせること。米やゼニをほどこした者には二銭の罰金をもうしつける。ただし、寄る辺のない病者、障害者は会議所において救済する。もし愛憐の気持ちから寄付をしたい者がいるなら、多寡の区別なく同所へさしだすのは自由である」

福祉依存という言葉があるが、それと同じ理屈である。
「あまやかすとだめになるから、こまっていても助けるな、軒下で雨宿りさせてもならない。「働かざる者食うべからず」という今日につづくイデオロギーが、府知事の言葉としては社会的に認知される」
今でも「自己責任」という都合のいい言葉によって路上生活者や生活保護者を苦しめている。

節税のために養育院を目のかたきにする人たちが出てくる。
田口卯吉は「東京経済雑誌」(明治14年7月発行の号)にこんな意見を述べている。
「租税をもって天下の貧民を救おうとすべきではない。現在500名を養育院で養いこれに対し二万円の地方税を費やしているが、貧民の十分の一も養うこともできない」
つまり、「公的機関が貧民救済にのりだしても救済できるのはわずかだから、社会の自律にまかせたほうがよいという意見だ」と塩見鮮一郎氏は説明する。

自己責任論は議会でも繰り返された。
「慈善事業は自然に懶怠の民を作る様になるから、寧ろ害あって益無きものである」
怠け者を作るだけの慈善事業は百害あって一利なし。

現在も似たり寄ったりの状況である。

「北朝鮮やアフリカの飢餓の悲惨はニュースになるし、自然災害のときは義捐金がすぐにあつまる。身近の貧民に対してだけ、見ぬふりですましている。そしてボランティアの人たちだけがなんとかしようと努力する。これがいまの日本の現実だ」
たしかにそうだと、私も思う。
アフリカの難民のために寄付はしますけどね。

東京養育院の院長を長く務めた渋沢栄一を例にあげ、塩見鮮一郎氏は「こういう政治的な危機に直面したときには指導者の力量が問われる」と指摘する。

安倍首相の力量や如何に。

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松家仁之『火山のふもとで』

2013年10月04日 | 

松家仁之『火山のふもとで』は、設計事務所に就職したばかりの「ぼく」の、浅間山の北麓にある「夏の家」でのひと夏の出来事が中心の物語。
最初の数ページで、小説の心地よいリズムに浸った。

ユートピア小説である。
ユートピアの特徴は、狭く、少人数の、選ばれた人の集まりである。
誰にでも開かれた世界ではない。
設計事務所の人たちは、画家になりたかった人とか、才能あふれる人たちばかり。
「ぼく」にしても芸大の美術学部で建築を学んでいるが、どの大学か想像できる。

ユートピアの内部では時間は流れない。
しかし、言うまでもなく現実は時間が過ぎていく。
だから、ユートピアは必ず崩壊する。
どういう結末かは想像できたが、やはり悲しい。

建築小説である。
読んでいて、辞典小説である『舟を編む』みたいだと思った。
建築設計競技というそうだが、コンペに参加するとなると、設計図だけでなく、模型も作ったり、とにかく大変。
採用されるかどうかわからないのに、これだけのことをしなければならないのかとはじめて知った。

成長小説である。
先生はぼくの人生の師である。
先生の手紙には泣けた。
私もこのように終わりたい。

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