三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

法然と三昧発得(1)

2022年06月26日 | 仏教

法然の絵伝である『法然上人行状絵図』(『四十八巻伝』)には数々の奇瑞が書かれており、三昧発得にも触れられています。

三昧発得を『浄土宗大辞典』にこのように説明されています。

心を一点に集中させた深い静寂の状態(禅定)において正しい智慧が生じ仏などの勝れた境地を感見すること。浄土宗では、口称念仏によって散り乱れている心が安らかで深い静寂の状態(三昧)に達したときに、求めずして正しい智慧が生じて自ずから極楽の依正二報(浄土の様相と仏・菩薩・聖衆など)を目の当たりに感じ見ることを念仏三昧発得という。


三昧発得については、『三昧発得記』(『拾遺漢語灯録』所収、『西方指南抄』は「建久九年正月一日記」)に詳しく記されています。
http://www.yamadera.info/seiten/c4/hottokukiD.htm

建久9年(1198年)から元久3年(1206年)正月までの記録です。
建久9年は法然66歳、『選択本願念仏集』を著した年です。
少々長いので、簡潔な『法然上人行状絵図』から引用します。

上人、専修正行としをかさね、一心専念こうつもり給しかば、つゐに口称三昧を発し給き。生年六十六、建久九年正月七日の別時念仏のあひだ、はじめにはまづ明相あらはれ、次に水想影現し、のちに瑠璃の地すこしき現前す。同二月に宝地、宝池、宝楼を見たまふ。
それよりのち進々に勝相あり、或時は左の眼より光をいだす。眼に瑠璃あり、かたち瑠璃のつぼのごとい。つぼにあかき花あり、宝瓶のごとし。或時ははるかに西方を見やり給に、宝樹つらなりて、高下心にしたがひ、或時は座下宝地となり、或時は仏の面像現じ、あるときは三尊大身を現じ、或時は勢至来現し給。すなわち画工に命じて、これをうつしとゞめらる。或時は宝鳥、琴笛等の種々のこゑをきく。くはしきむね御自筆の三昧発得の記にみえたり。(『法然上人絵伝』)

『現代語訳 法然上人行状絵図』

法然上人は、ひたすら正行の念仏を称えて歳月を重ね、一心に念仏に専念して功徳を積まれたので、ついに口称念仏による三昧を起こされた。六十六歳の建久九年(1198)正月七日の別時念仏の最中、初めに光明が現れ、次に極楽の池水が現れ、後に極楽の瑠璃の大地が少しばかり目の前に現れた。同年二月には宝地・宝池・宝楼をご覧になった。
それから後は、次々にすぐれた様相が現れた。ある時は左眼から光明を放たれた。眼中に瑠璃があるように見え、形は壺のようであった。壺には赤い花があり、まるで宝瓶のようであった。ある時は遠く西方を眺められると、宝樹が連なり、心のままに高くなりあるいは低くなり、ある時は座っておられるところが宝地となり、ある時は仏のお顔が現れ、ある時は大きな阿弥陀三尊が現れ、ある時は勢至菩薩がお越しになった。上人はすぐに絵師に命じてこれらの有りさまを写し留められた。また、ある時は美しい鳥や琴笛などの種々の音声を聞かれた。詳しいことは、上人ご自筆の『三昧発得記』に書かれている。


『三昧発得記』には、なぜ浄土の荘厳を観ることができたかが書かれています。

総して水想・地想・宝樹・宝池・宝殿の五の観、始正月一日より、二月七日にいたるまて、三十七箇日のあひた、毎日七万念仏。不退にこれをつとめたまふ。 これによりて、これらの相を現すとのたまへり。

新井俊一『親鸞「西方指南抄」』

全体として水想観・地想観・宝樹観・宝池観・宝殿観の五つの観を、正月一日から二月七日に至る三十七日の間、毎日七万回の念仏を怠ることなく勤められた。そのためにこれらの姿が現れたのだ、と仰った。


中野正明「「三昧発得記」偽撰説を疑う」に、田村圓澄氏は『三昧発得記』が内容的に非法然的であるとして偽撰であると述べられたとあります。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/38/1/38_1_131/_pdf/-char/en

しかし、法然自らが筆をとって書いたようです。
神秘体験したのは念仏を数多く称えた功徳だと、法然が喜んでいたとはがっかりです。

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渡辺京二『エドという幻想』

2022年06月19日 | 

渡辺京二『逝きし世の面影』は幕末から明治初期に日本に訪れた欧米人の紀行などから、西洋人が見た日本の姿を描いた本です。
『エドという幻想』は江戸時代中期から幕末にかけて書かれた日本人の随筆などによって、当時の日本人やその生活が浮き上がってきます。

中野三敏は、18世紀後半、田沼意次時代を江戸時代がもっとも江戸時代らしかった時期、言い換えれば江戸文明の極盛期ととらえる。

伴蒿蹊『近世畸人伝』から何人かの言行が紹介されています。
医師の山村通庵(1672~1751)は伊勢の人。
知人の葬式にゆき、位牌の前で心ゆくまで平曲を語ったあと、遺族には一顧だにせず去った。
問われて、「死者を悲しめども、家人には一面の識なければ」と答えた。

医師の苗村介洞(1674~1748)は近江の人。
後妻の貞信尼は心に思うままを口にした。
客のもてなしはよかったが、相手が長居して物憂くなると、「われ酔てねぶたし、今ははや帰られよ、いざいざ」と催促した。

無邪気ではなく、人の思惑など屁とも思わない、感じたままに振る舞ってはばからない精神の発露。
世間のしきたりにこだわらないという横着にも通じる。
江戸時代の人たちはそうした横着さに面白みを感じた。
その種の横着を許容するだけでなく、江戸時代の人々は賞翫した。
心に浮かんだことをそのまま口にせずにはおれぬ横着さは、無邪気、正直の別名だった。

同調圧力は日本の伝統かと思ってましたが、そうではなかったのかもしれません。

古川古松軒(1726~1807)は備中の地理学者で、『東遊雑記』を記した。
1788年、幕府巡見使に同道して東北、蝦夷地を視察した。
下北半島の寒村について「言語はちんぷんかんにて、十にしてその二つ三つならでは解せず」と書き、南部藩の地には言語の通じにくいところがあるというので、盛岡城下から二人「通辞」がついていたのに、彼らですらわからず、大笑いになった。

ある年、平戸藩主の松浦静山は病気になり、参勤交代の時期が遅れた。
平戸から佐世保まで来ると、道ばたに男が2人いた。
年ごとの参勤の際に雇う江戸の籠かきだった。
どうして来たのかと尋ねると、9月の半ばころに出府されると噂を聞き、藩邸で平戸出発の日取りを知り、「さらばいそぎ御国にいたり従い申さんと、その明日に江戸を打ち立、夜を日に継ぎてはせ下りし」と語った。

渡辺京二さんは幕府に殉じて自死した川路聖謨(1801~1868)にかなりのページを割いています。

川路聖謨が奈良奉行を勤めたあと、大坂町奉行に転じたとき、町人数百人が見送った。
2年後、長崎へ向かう途中、草津宿で奈良の長吏(被差別民の長)たちが出迎え、道路に平伏していた。
奈良の人々は長崎からの帰りにも出てきた。

関わりの濃密さ。
恩義を忘れない。
時に赤児のような純真な感情を発露する。

江戸時代は建前と実際が乖離していた。
関所には、金を払う、頼み込むなどの抜け道があった。
離婚や死別しても、再婚は普通。

勝小吉は14歳で家出をし、伊勢まで行く。
浜松の宿で荷物をすべて盗まれた。
途方に暮れて泣いていると、宿の亭主が柄杓を一本くれた。
お伊勢参りをする人たちが柄杓に米麦や銭を入れてくれる。
巡礼に銭や食物を与える習慣があった。
多くの人が小吉に声をかけ、病気の時は食べ物や金を恵み、家に泊めてくれた。
喜捨に頼ることができたのである。

鈴木牧之『秋山紀行』は信濃の秋山郷の紀行です。
秋山郷を訪ね、壁も塗らない茅屋や、固くなった餅のような豆腐に辟易したが、「日々農を楽しみ、何一つ放埒もなく、天然を楽しむ」せいか、この里の人々が老いてもなお壮健で、長寿者が多く、盗み、飲酒、博奕、色事のない生活を送っているのに素直に感心した。
髪はざんばら、首筋は真黒という女たちにたじたじとなり、囲炉裏の前に立ちはだかって太股まであらわにして蚤かしらみをとっている若い女には、目のやり場に困った。
だが女の中に美人がいるのを見逃さなかった。
「容すぐれ、鼻はほどよく高く、目細う、蛾に似たる黛(まゆ)、顔はいささか日黒むと見ゆれども、鉄水つかぬ歯は雪よりも白く、若人は一目に春心も動かす風情」
細い目が美人の条件の一つだった。

『妙好人伝』にも、今なら何とか障害と言われそうな、ちょっとずれた聖なる愚者が登場します。
世事に疎い人が排除されることなく生活できたのです。

こうした人の中には、後に名を知られるような人がいます。
ということは、人に迷惑をかけっぱなしの無名人はもっといたわけです。
困った人間だが、どうしても憎めない、なぜかまわりを楽しませる、そんな人を社会が許容していたのでしょう。

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ぎなた読み

2022年06月11日 | 日記

ぎなた読みという言葉があります。
「弁慶が、なぎなたを持って」という文を、「弁慶がな、ぎなたを持って」と間違えて読むように、文章の区切りを間違えて読む、もしくは文章の区切りをわざと変えて読むことです。

本を読んでて、ぎなた読みをしてしまうことがあります。
以下、ぎなた読みをした文章です。

その後妻から
○その後、妻から
×その後妻(ごさい)から

この間彼から
○このかん、彼から
×このあいだ彼から

夢を語っておかずにはいられない
○夢を語っておかずには、いられない
×夢を語って、おかずに、はいられない

二三十年後
○20~30年後
×二百三十年後

女の死後は城に運んで積み薪で焼却した。
○女の死後は城に運んで積み、薪で焼却した。
×女の死後は城に運んで、積み薪で焼却した。

熱くそして丁寧に語ってくれた
○熱く、そして丁寧に語ってくれた
×熱クソして、丁寧に語ってくれた

この先先生になる
○この先、先生になる
×この先先、生になる

モーターの音響かせて
○モーターの音、響かせて
×モーターの音響、かせて

布にひびをよせてはかまのように
○布にひびをよせて、はかまのように
×布にひびをよせては、かまのように

毎日新聞を読む
○毎日、新聞を読む
×毎日新聞を読む

それに関したまに発生する
○それに関し、たまに発生する
×それに関した、まに発生する

かっこいいと事件のつながりがわからない
○かっこいいと事件とのつながりがわからない
×かっこいいと、事件のつながりがわからない

その前社長が
○その、前社長が
×その前、社長が

今度のむなくそ悪い事件
○今度の、むなくそ悪い事件
×今度のむな、くそ悪い事件

すぐにでも口をとじて
○すぐにでも、口をとじて
×すぐに、でも口をとじて

警備員を相手にはなれそうもない
○警備員の相手には、なれそうもない
×警備員の相手に、はなれそうもない

その裏にはある種の純真さが
○その裏には、ある種の純真さが
×その裏にはある、種の純真さが

危険なくその恐怖を
○危険なく、その恐怖を
×危険な、くその恐怖を

今日本人の告白に
○今日、本人の告白に
×今、日本人の告白に

漢字が続くと熟語かと思うし、平仮名が重なるとどこで区切るのか迷います。
福島政雄『宗敎的自覺と敎育』は昭和4年発行の本で、やたら漢字が多い。
軈て、併し、凡て、屹度、其儘、詰り、互って、筈がない、教へて呉れて居る、斯う云ふ訳、など。
なんのことかとまどうこともありました。

兎に角有難い
其処迄此方の
尚出来れば宜い
尤も苟も

親鸞は漢文の読み替えをしています。
たとえば『無量寿経』の十八願成就文です。
「諸有衆生 聞其名号 信心歓喜 乃至一念 至心回向 願生彼国 即得往生 住不退転」

浄土宗では「あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜して、乃至一念、至心に回向して、かの国に生ぜんと願ずれば、すなわち往生を得て、不退転に住す」と読みます。

しかし、親鸞は「あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと、乃至一念せん。心を至し回向したまえり。かの国に生まれんと願ずれば、すなわち往生を得て不退転に住す」としています。
誰が回向するのか、回向の主語を変えているわけです。
これは意図的なぎなた読みじゃないでしょうか。(×なぎなた読み)

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