グノーシス主義とは、キリスト教の神であるエホバは本当の神ではなく、この世界は本当の世界ではない、本当の神、本当の世界は別にある、という考えだと思っていた。
ところが、さまざまな書物、雑誌、インターネット上で語られる「グノーシス(主義)」は、歴史的に実在したグノーシス主義とはほとんど何の関係もないと、大田俊寛『グノーシス主義の思想 〈父〉というフィクション』は言う。
人々は、キリスト教正統信仰以外のさまざまな宗教のなかに「エキゾチックなもの」を見出し、これに好奇心を寄せ、しばしば近代社会のもたらす疎外感によって荒廃した自らの心の「癒し」に用いるようになった。
このような思想的傾向を大田俊寛氏は「ロマン主義」と称する。
ごく簡単に要約するなら、ロマン主義とは、近代思想の主流の位置を占める「啓蒙主義」に対抗するものとして存在する思想的潮流である。啓蒙主義においては、万人にはその共通の「良識」として「理性の光」が与えられており、理性的な自我の働きによって世界の姿を隈無く照らし出すことができると考えられている。しかしロマン主義は、啓蒙主義の唱える「光」の思想に対して、強く異を唱える。ロマン主義は、光によっては照らし出すことのできない領域が、理性の外部に残り続けることを主張するのである。その領域は、「宇宙」や「無限」、あるいは「闇」や「悪」と呼ばれる。そして人間の理性的「自我」は、これらの外部的存在を内部に取り込むことによって、本来的な「自己」へと成長することができるとされるのである。
グノーシス主義とロマン主義の違いは?
真実の自己のあり方を模索することや、善悪二元論的な世界観において、古代思想であるグノーシス主義と近代思想であるロマン主義は、一見したところ著しい共通性を示している。しかしグノーシス主義においては、悪の実在性に対する肯定的な見解や、それらの存在を内部に取り込んで成長する「自己」という概念が存在するわけではないため、彼らのグノーシス理解は常に的を外したものになってしまう。
多くの人が「グノーシス主義」と思っていることは、「ロマン主義者」たちによって著された手軽な宗教論だと、大田俊寛氏は断じる。
その代表が中沢新一氏である。
現在、かく言う私自身も、初めてグノーシス主義の名前を目にし、その思想に興味を覚えたのは、現代日本の代表的なロマン主義者の一人と見なされうる、中沢新一の著作においてであった。(略)
ロマン主義者たちによる宗教論とは、ポピュラリティーを獲得することを目的に作り上げられた口当たりの良いファンタジーにすぎず、まともな思想研究や宗教研究の名に値するものではない。中沢のグノーシス論もその例に漏れず、グノーシス主義に関して実際には氏がほとんど無知であり、いくつかの入門書や事典の記述から得た浅薄な知識をもとに、そこから自分勝手な連想を繰り広げたものにすぎない。
ロマン主義の典型的なケースがユング。
その内容はあえて言うならば「でたらめ」の一語に尽きる。
ユングがグノーシス主義をどのように考えていたかは知らないが、秋山さと子『ユングとオカルト』にはこうある。
人間は、これらの下級の霊が作った仮の衣である肉体だけしかないいわゆる肉体人間、ものごとを感じとる心はあるが星の影響下で苦しむ心魂人間、そして、この肉体と心魂の中に閉じこめられて脱出を求める神性を持った霊的人間の三種に分けられる。
グノーシスの知恵は、眠れる自己の本質の、神性に対する覚醒と解放の呼びかけなのである。
グノーシス主義による人間の救済は、自分がこの拘束的な宇宙とは無縁であることを知り、人間の本質はより全一的で充足した世界に属していて、そこには知られざる神が実在するという隠された知識を得ることである。
たぶん、こういう解釈はでたらめだということだろう。
大田俊寛氏はこのように続ける。
ユング的な視点から、グノーシス主義を含むキリスト教史について論じた書物としては、「霊性的知識人」とも呼ばれた湯浅泰雄による『ユングとキリスト教』という著作が広く知られている。(略)ほとんど各頁ごとにと言って良いほどの誤解や誤謬に満ちており、まともな学問的著作であるとは到底言いがたい。
難しいことは私にはわからないが、実名をあげてニューエイジ知識人たちを一刀両断にするのは気持ちがいいです。
グノーシス主義について語っているように見せかけながら、実のところは自らの内的妄想を開陳しているにすぎない。
ロマン主義者たちは、自らの思考の論理を盲目的に対象に押しつけては、甘美で空疎な連想を繰り広げるばかりであり、概して彼らは、対象の内在論理を冷静に考察するために必要な姿勢を欠いているのである。
ここまで言われた中沢新一氏たちはどのように反論するのでしょうか。