不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

リー・ダニエルズ『大統領の執事の涙』

2014年03月30日 | 映画

リー・ダニエルズ『大統領の執事の涙』は7人のアメリカ大統領に仕えた黒人執事の実話をもとにして、アメリカ現代史、特に黒人の公民権運動を描いた映画。
ジョン・F・ケネディがアメリカ人にとって特別な存在だということがわかる。
それに比べてジョンソンのかわいそうなこと。
ウンコをしながら部下に指示を与えるような粗野で下卑な男として描かれている。

しかし、J・K・ガルブレイス『ガルブレイス わが人生を語る』を読むと、ジョンソンは決して無能ではない。
ガルブレイスはジョンソン大統領とは、ケネディ暗殺の翌日に呼ばれて、議会演説でしゃべるスピーチの内容についてアドバイスを求められる仲だった。
ジョンソンは「ルーズベルト大統領の時代から受け継いだリベラリズムと人権重視の考えを強調したい」と言ったそうだ。

ジョンソン大統領は、やろうとした仕事は是が非でもやりとげるという強い意志を持つ人物だった。社会保障を拡充した「偉大な社会」政策はもちろん、人種差別の改善も彼の大きな功績の一つだ。黒人を初めて重要な公職につけたこと、黒人の投票を促進するための法律を制定したことなどである。

ところが、『大統領の執事の涙』はジョンソンの人種差別の改善という功績についてまったく触れていない。

それに対して、ウィキペディアの「ジャクリーヌ・ケネディ」の項を見ると、

結婚しても変わらないケネディの女癖の悪さに傷ついていたジャクリーンに、死産のニュースを聞いても地中海でのクルーズから戻らなかった夫への不信感がとどめを刺し、彼女は離婚を真剣に考えるようになった。
ホワイトハウス入りしても夫の浮気癖は変わらず、ジャクリーンは夫とホワイトハウス内で激しく口論することもあった。

とあるが、『大統領の執事の涙』ではもちろん夫婦ゲンカなんか触れてもいない。
誰からも愛される若きリーダーであるケネディと、がさつな田舎ものとして描かれるジョンソンとの落差に、ケネディが生きていたらと観客に思わせる。

ジョンソン大統領はガルブレイスとはベトナム戦争について最後の最後まで意見が合わなかったという。
ベトナム反戦運動に関わっていたガルブレイスも、ケネディが暗殺されずに大統領を二期務めたら、ベトナム戦争は泥沼化せず、世界はもう少しましになっていたのにと思っていた気がする。

リーヴ・シュレイバー演じるジョンソン大統領。似てない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

企業のヒモ付き教育

2014年03月25日 | 日記

原発が3基ある福井県美浜町は小中一貫で原発教育推進していると聞き、ネットで調べてみましたら、「美浜町菅沼小学校エネエコ新聞」(2009年2月25日)を発見しました。

 

 「エコネコ新聞」にはどういうことか書かれているのでしょうか。

美浜町は、原子力発電所の立地地域という特色を活かした町づくりを進めています。「原子力と共生する町」を掲げ、エネルギー環境教育の推進を重点施策の一つとしています。
そこで美浜町では教育委員会が事務局となり、町内の各小・中学校から1名以上の推進委員を招集し、平成18年度に「美浜町エネルギー環境教育推進委員会」(以下推進委員会)を立ち上げました。推進委員会は、基本的認識として「自然と人間の共生する社会を構築し、みんなの住みよい地球にしていくために、児童・生徒一人ひとりが世界的な課題を自己の問題として考え、判断し、行動していくことが求められています。そのために町内の小中学校が一貫した系統性のもとに、環境教育の中核を担うエネルギー教育を展開し、そのことを通して、エネルギーと環境への『知的好奇心』及び『認識』を高め、実践的態度を培うこと」を掲げ、文部科学省からの支援も受けながら活動を展開することにしました。

3ページに「大切な原子力発電 5・6年生の学習成果から」とあり、4人の子供が書いています。


 

 6年生の作文から。

もしも原子力発電所に事故が起こったら不安です。でも、今の時代には電気はかかせません。また、電気をつくるエネルギーとして原子力発電は日本の電力の3分の1をまかなっているのでとても重要です。
これからは、原子力発電所で使い終わった燃料をリサイクルして、再び原子力発電所の燃料として使用できるように高速増殖炉で研究しているそうです。いつまでも安全で地球に優しいエネルギーであってほしいです。

この「美浜町菅沼小学校エネエコ新聞」は2009年発行なので、福島原発事故の起きる前です。
現在はどうなのか、福井新聞にこんな記事がありました。

美浜町、エネルギー環境教育[6]将来への行動力養う(福井新聞2011年10月19日)
夏休みの美浜中に、町内の小中学校教員約70人が集まっていた。壇上に立った美浜町の大同保教育長は「東日本大震災はエネルギー環境教育を再考するきっかけを与えてくれた」とあいさつした。(略)
「原発立地地域の住民として、原子力についてきちんと知る必要がある」と山口治太郎町長。2005年に定めた町総合振興計画で、「原子力との共生」を目指した人材育成を掲げた。
この理念の下、翌年度から小中一貫のエネルギー環境教育が始まった。9年間で火力や水力、原子力などさまざまなエネルギーの仕組みや特徴、資源の埋蔵量、地球温暖化などの環境問題を、体験を交えて学ぶ。
「原子力を知る」という思いが始まりだったが、「『原子力を推進する』教育ではない」と山口町長は言う。目的は、美浜町や日本、地球の将来を考え、行動する力を養うことだ。(略)。

「『原子力を推進する』教育ではない」そうですが、はたしてどうなのでしょうか。

「美浜町菅沼小学校エネエコ新聞」の最終ページの下段にはこのように書かれてあります。

  なんなんだ、これは!と思いましたね。
「エコネコ新聞」は菅沼小学校が作ったのかと思ってたら、なんと電力会社のヒモ付きで、全国各地の学校で作られています。

エネルギー環境教育推進委員会のメンバーは各小中学校の教員や町教委、そしてサポート委員として関西電力と日本原子力研究開発機構などが参加しているそうです。
おまけに、関西電力から講師派遣を受けたり、原発を見学したりしている。
一種の洗脳みたいなものですが、マイケル・サンデル『それをお金で買いますか』によると、公立学校では企業がスポンサーとなって、その企業に都合のよいことを教えているそうです。

1990年代に入り、企業が学校にかかわる度合いは劇的に増した。企業は無料のビデオ、ポスター、「学習キット」を山のように教師に提供した。こうした提供品は、企業イメージを向上させ、子供たちの心に商標名を刻み込もうとの意図でつくられていた。企業はそれらを「協賛教材」と称した。生徒はハーシーチョコレートやマクドナルドが提供する教材で栄養について学んだり、エクソンが制作したビデオでアラスカの石油流出の影響について勉強したりした。プロクター・アンド・ギャンブル(P&G)が提供した環境学習カリキュラムでは、紙おむつがなぜ地球にやさしいかが説明された。

 

2009年には、世界最大の児童書出版社であるスコラスティックが、エネルギー産業に関する無料教材を、小学四年生を教える6万6000人の教師に配布した。「エネルギー合衆国」と題されたこのカリキュラムに出資したのはアメリカ石炭財団だった。業界をスポンサーとするこの授業プランでは、石炭の利点が強調される一方で、炭鉱事故、有毒廃棄物、温室効果ガスをはじめとする環境への影響については触れられていない。

美浜町のエネルギー環境教育推進委員会は、省エネと地球温暖化を強調しているようですが、石炭財団が金を出していたら、違った教育をしていたことでしょう。

児玉真美『死の自己決定権のゆくえ 尊厳死・「無益な治療」論・臓器移植』によると、脳死を人の死と認める法律ができてから、厚労省の関連予算を使った普及啓発の一環で、子どもたちに向けた「いのちの教育」が広がっています。
「いのちの贈りもの あなたの意思で救える命」というパンフレットが全国の中学生に配られ、「道徳教育や総合的な学習の時間などで臓器移植を題材とした授業が行われるよう」、教職員を対象に「いのちの教育セミナー」が3回開催されています。
「いのちの教育」を受けた子供たちはドナーカードに喜んで署名するようになるのかもしれません。
教育が金で買われている現状をこそ憂慮すべきだと思います。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

光市事件の死刑判決は異例

2014年03月21日 | 死刑

光市事件では一審、二審が無期懲役の判決だったのに、最高裁は差し戻しをして、高裁で死刑判決が出た。
永田憲史『わかりやすい刑罰のはなし』に、最高裁の差し戻し判決は異例と言わざるを得ないとある。
どういうことか、私なりにまとめてみました。

同じような事件には同じような重さの刑罰を言い渡さないと公平とは言えない。
同じような事件で、懲役15年の判決のときがあれば、懲役5年のときもあるのは不公平になり、裁判への信頼が揺らいでしまう。
公平でないと、判決が「籤引き化」したり「ギャンブル化」してしまう。

公平であるためには、判決を下すときにはよく似た過去の事件の例を参考にするしかない。
しかし、刑の重さの慣例はずっと守らなければいけないわけではなく、社会や人々の感覚が変化すれば、刑の重さも変化する。
しかし、その変化があまりに急激だと、刑の重さが裁判ごとにばらばらになってしまう。

死刑を言い渡す規準は1983年の永山規準である。
最高裁は永山規準で「これくらいのことをすれば、死刑にしていいですよ」というハードルを決めた。

裁判所は死刑にするかどうかを決める際、被告人が反省していることや、更生の可能性があることは重視しない。
被告人がした犯罪の行為や結果を重視して、死刑が適切かどうかを決めている。

裁判所が死刑にするかどうかを決める際に重視してきた事柄

1,犯行が何を目当てにしていたか
身代金目当ての殺人事件や保険金目当ての殺人事件は死刑になりやすい。
2,殺人の前科がある
3,一度に二人を殺すよりも、別の機会に一人ずつ計二人を殺すほうが悪質
4,二人以上で犯罪をした場合の主犯格
5,計画性

「人を殺したことは同じなのだから、計画性があろうがなかろうが関係ない」と言う人がいる。

しかし法律は、多くの交通事故のようにうっかりミスで死なせてしまった場合と、殺すつもりで殺した場合とでは犯罪を区別するし、刑罰の重さも区別する。
犯人の内心の悪質さが違うから、事件の悪質さも違ってくる。

光市事件の最高裁の判決はなぜ異例の判決なのか。
1,死刑を言い渡す規準を変える手続きを踏まなかった
光市事件では被害者は2名で、強姦目的だったが、計画性は低く、殺害の計画性はなかった。
永山規準からすれば無期懲役になるはずだと考えられていたにもかかわらず、最高裁は高裁に差し戻した。
多くの法律家は最高裁は死刑の規準を変えたのかと思った。
最高裁が規準を変えるのであれば、最高裁の判事15人全員で規準を変えることを決めないといけない。
ところが、光市事件では裁判官が5人の小法廷で判決を下した。

2,光市事件の判決を、最高裁が編集する専門の雑誌に載せなかった
最高裁は重要だと考える判断については、最高裁が編集する専門の雑誌に載せる。
今まで最高裁は、無期判決や死刑判決の差し戻しをしたときはその雑誌に載せていた。
ところが、光市事件の判決を載せなかった。
これは最高裁自身が「光市事件の最高裁判所の判決は重要ではないし、みんなが参考にするようなものではない」と認めたことになる。
多くの法律家は「最高裁の編集する専門の雑誌に載せないということは、最高裁は死刑を言い渡す規準を変えていないということだ」と理解した。

高等裁判所の判決を読むと、高等裁判所の裁判官は困ったのだろうということがよく分かります。
なぜ、高等裁判所の裁判官は困ったのでしょうか。
最高裁判所の判決が、「今まで通りの永山規準を使って死刑にしなさい」と高等裁判所に指示したのと同じことだったからです。


そこで高裁の裁判官は、被告人の反省が足りないということで悪質さを押し上げようとした。

被告人が反省していないことを判決文で非常に強調しています。反省しているかどうかを長く説明する判決は珍しいのです。(略)
判決文を読むと、「犯罪自体では死刑にできなかったけれど、死刑にするための材料をかき集めてなんとか死刑にした」ということがよく分かります。

しかし、被告人が反省していないことを裁判所が取り上げるのは禁じ手である。
被告人が反省していないから死刑にするのであれば、反省しているから死刑にしないということもしなければいけない。

光市事件の最高裁の判決で死刑の規準が変わったのかというと、変わっていない。
2009年、最高裁は検察官から死刑を求めて上告された二つの事件で上告を棄却し、高裁の無期懲役の判決が確定した。
一つ目の事件は、家族二人を殺した保険金目当ての事件。
二つ目の事件は、お金目当ての強盗事件で、大阪と大分で一人ずつ命を奪った。
二つの事件とも光市事件よりも悪質で、従来の規準であっても死刑になりそうな事件である。
光市事件の被告人だけが例外的に厳罰を受けたことになる。

なぜ最高裁は光市事件の被告人だけ厳しく処罰しようとしたのか。
永田憲史氏は「よく分かりません」と言うが、このようにも書いている。

最高裁判所は、「光市事件の被告人の少年を死刑にせよ」という世間の声に応えようとしたのでしょう。

いくらなんでもそんな裁判はないでしょうという話で、差し戻し判決を出した最高裁の5人の判事、ちょっとひどいんじゃないかと思う。
それと、反省していない証拠とされた「友人」からの手紙をこしらえた警察とマスコミ、そして異例の判決だということを報道しないマスコミも、やはりひどい。

(追記)

一歳八カ月の三女を虐待死させたとして傷害致死の罪に問われ、裁判員裁判で検察側求刑の一・五倍となる懲役十五年の判決を受けた両親の上告審判決で、最高裁第一小法廷(白木勇裁判長)は二十四日、「甚だしく不当な量刑だ」として一審判決とこれを支持した二審判決を破棄し、父親の岸本憲被告(31)に懲役十年、母親の美杏被告(32)に懲役八年を言い渡した。(東京新聞7月25日)

量刑には相場があり、他の判決との公平性を保たなければいけないと、最高裁が判断したわけです。
永田憲史氏の主張と同じですね。

コメント (32)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ベン・ゴールドエイカー『デタラメ健康科学』(2)

2014年03月18日 | 問題のある考え

ベン・ゴールドエイカー『デタラメ健康科学』は製薬会社やメディアを批判している。
たとえば化粧品。

化粧品産業は宝くじと同じで人々の夢につけ込んでいる。

化粧品には、いかにも効能がありそうな、しかし実は意味のない成分が何種類も添加されている。

やり方はインチキ健康商品と変わらない。
なのに高級化粧品が売れるのはなぜか。

こういう商品はぜいたく品であり、その人の地位を示す品物であり、ありとあらゆる興味深い理由で買われるものなのだ。


たしかにブランドは品質がいいからというよりも、見栄で買うような気がするわけで、我々にも問題はあるのですが。

アメリカ最大手の製薬会社数社は、売り上げ2000億ドルのうち14%しか研究開発に回しておらず、販促費と管理費に31%もふり向けている。

マイケル・サンデル『それをお金で買いますか』によると、パトカーの車体を利用した広告や、刑務所で逮捕直後の被告に向けたテレビ広告(保釈金を貸す業者や弁護士の)があるし、高校の名称の命名権を売り出したりされているというすさまじい状況にいつの間にかなっている。

額に入れ墨で広告を入れる人がいるそうだが、ブランドのロゴ入りの服を着るのも、歩く広告塔という意味では同じかもしれない。
企業とメディアとの関わりという問題もあるわけです。

ベン・ゴールドエイカーはメディア批判に多くのページを割いている。

いかにメディアが科学に対する誤解を広めているかだ。メディアは重要でもなんでもない話を熱心に追いかけ、統計や根拠の意味を根本からとり違えている。


その中からイギリスでの新三種混合ワクチン(MMR)をめぐる騒ぎをご紹介しましょう。

1998年、新三種混合ワクチンの接種と自閉症は因果関係があるという論文が発表され、予防接種反対運動が起き、製薬会社を相手取って訴訟を起こした自閉症患者もいる。
新三種混合ワクチンの接種率は1996年までは92%だったのに、73%に下がった。
ロンドンのウェストミンスター地区では5歳までに二度の接種を終えた子供は38%だった。
接種率が下がったため麻疹とおたふく風邪が増えている。

この責任は論文を発表した学者だけでなく、メディアが足並みをそろえ、科学的な根拠に対抗してヒステリックな感情論をぶつけることで、MMR反対運動を成功させたことが大きい。

責められるべきは大勢の記者やコラムニスト、編集者やメディアの幹部である。(略)ひとつの研究をもとに想像をふくらませ、ばかげた話をつくり上げた。その間、ワクチンの安全性を再確認するデータも危険性を否定する研究結果もいろいろあったのに、ぜんぶことさら無視をして、科学的な内容を説明するかわりに「専門家」の言葉を引いて振りかざし、過去の事例から学ばず、無能な記者に記事を書かせ、「怒れる親」対「冷淡な学者」という図式をこしらえて研究者を叩く。何より呆れるのは、ところどころで話をでっちあげていることだ。


テレンス・ハインズ『「超科学」をきるPartⅡ』もマスコミ報道の問題を取り上げていて、アメリカ政府がUFOの隠蔽工作をしているという陰謀論者の説をマスコミはニュースにするが、冷静で否定的な見解はニュース価値がないとみなしていると批判している。

UFOや擬似科学あるいは超常現象の話題になると、ほかの点では申し分のない新聞やテレビ番組でさえ、扇情的な低いレベルに陥ってしまうようだ。

メディアは受けるかどうかが問題で、世間の不安をあおる内容なら大げさに報じる。

私はこうしたマスメディアの問題を読むたびに、弁護団への異様なバッシングが起き、弁護団を擁護するブログも炎上し、逆に弁護団を懲戒請求するよう煽った橋下徹氏が人気政治家にのし上がってしまった光市事件をいつも思い出す。

医師たちが説明しようとしても、その声が怒号にかき消されることもままあった。(略)
医師たちの発言を情報価値のないものにおとしめ、親たちの叫びと対立させる図式をつくって読者の感情をあおった。

これは新三種混合ワクチン(MMR)の接種と自閉症とは関係がないと説明する医師へのメディアの反応だが、「医師」を「弁護人」に置き換えたら光市事件での状況になる。

メディアは物事を見抜く力がないし、責任を取ろうともしないからきっとまた同じ過ちをくり返す。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ベン・ゴールドエイカー『デタラメ健康科学』(1)

2014年03月14日 | 問題のある考え

私の知り合いに、病気になってもなるべく医者にはかからず、食事療法によって治すという人がいる。
その食事療法というのが代替療法というか、疑似科学っぽくて、そのことを言ったら、「疑似科学という言葉で何でも否定するのは間違いだ。現代科学が全てを解明しているわけではない」という返事。

たしかにそのとおりで、どんな馬鹿げたこと、たとえば宇宙人に誘拐され、宇宙人と性交して妊娠したといった話にしたって、100%あり得ないとは言えない。
実は私も疑似科学が好きなので気になってしまう。
だもんで、はまってしまいそうだから、私は批判的な本しか読まない。

ベン・ゴールドエイカー『デタラメ健康科学』は副題が「代替療法・製薬産業・メディアのウソ」とあるように、デトックス、ホメオパシー、サプリメント、コラーゲンなどのあやしさ、製薬会社、メディアの実態を暴いている。

代替療法には漢方、鍼灸、指圧といった東洋医学から、カイロプラクティック、ホメオパシー、気功など有効性が実証されていないものまで含まれる。
『デタラメ健康科学』によると、腰痛のための鍼治療は統計的に有意ではないし、漢方医学の研究論文を調べたところ、ただのひとつも否定的な結果は公表されていないそうだ。

なぜ代替療法みたいな怪しい医療法が私たちを惹きつけるのか。
医療への不信、代替療法は自然で身体にいいという誤解、知的な感じの専門用語で飾りたてたわかりやすい説明(正しいわけではないが)、手っ取り早くてお手軽、といったことがあると思う。
代替療法を提供する側がウソをついているかというと、ベン・ゴールドエイカーによれば、ウソつき呼ばわりされるほどの悪意もなければ知力もない。

デトックス(体内毒素)を排出するというインチキ商品がある。
病気を治すには体内の毒素を排出しないといけないと昔から信じられていて、ヨーロッパでは瀉血が唯一の治療法と言っていいぐらいだったし、断食や沐浴も体の浄化が目的である。
現代でも、体内の毒素を排出して健康になりますというデトックス商品が各種販売されている。
では毒素とは何かとなると、説明できないし、科学的根拠があるわけではない。

ベン・ゴールドエイカーによると、デトックスが好きな人は日常生活で儀式を行なうのが好きな人である。

浄化と贖罪のテーマが儀式にくり返し現れるのは、人間がいろいろな事情のせいで悪いことをしてしまうからだ。そういう事情が新たに増えるたびに新しい儀式が考えだされる。(略)
先進国の人間は極端なまでに物欲にふけっているため、その罪を清めて購いたいと思っている。薬物や酒、体に悪い食べ物や、いろいろなぜいたく品を私たちは口に詰めこむ。いけないことだとはわかっているので、そのつけが回ってこないように何かの儀式で逃れさせてほしい。


病気になるのは悪いことをしたからであり、悪業によって作られた毒素を排出することで健康になるという考えは、苦行によるカルマの浄化と同じ理屈だと思う。
酢を飲んだら花粉症が治ったと聞き、私も一年間、酢を飲んだことがある。
酢は飲みやすくはないが、でもこんなに苦しい思いをするんだから効果があるかもと思って、我慢して酢を飲み込んだものです。(花粉症は相変わらずです)

ホメオパシーのレメディという薬(砂糖と水を混ぜたもの)を作るために水でただ薄めるだけでなく、容器を強く振り、台に叩きつける。
これも儀式の一種で、こんなことで治療効果が生じるはずはないが、何となくありがたく感じるものである。

では、なぜ代替療法で治るか?
「プラセボ効果」か「平均への回帰」だというのがベン・ゴールドエイカーの説明。
「プラセボ効果」とは偽薬効果で、水なのに「薬だ」と言って飲ませたら病気が治るということ。
医者が何を言い、患者が何を信じるかが治療に影響するし、医者が何らかの診断を与えるだけで(たとえウソの診断であっても)患者の状態が良くなることがあるそうだ。
信仰することでご利益(健康、仕事、人間関係などの改善)があるとしたら、これもプラセボ効果なのかもしれない。

「プラセボ効果」には患者へのメリットがありそうだ。ただし裏目に出る場合もあるので注意が必要である。何かといえば、自信と信頼感にあふれる説明で人に病人の役割を与えてしまい、その人の考えかたや行動に悪影響を及ぼすおそれがある。

下手にご利益があると「考えかたや行動に悪影響を及ぼす」のは宗教でも言えることです。

もちろん代替療法の信奉者はプラセボ効果だとは認めない。

患者との信頼関係や儀式ではなく、具体的なメカニズムによって測定可能な作用が現れて患者は治るのだと主張する。
でも、本当に測定されているのだったら、代替療法とは言わない。

「平均への回帰」とは、病気にはよい状態の時があれば悪い状態もあり、治ったら、最悪のときに試したあれのおかげだと考えること。
ホメオパシーにしても症状が最悪のときに試みるから、放っておいてもいずれ元気になるが、よくなったのはホメオパシーのおかげだと信じこむ。
悪くなれば「好転反応」という都合のよい理論がある。

ホメオパス(レメディーを処方する人)は「適切なレメディを摂取すると、体内の毒素が排出されて、症状が一時的に悪化することがある」と説明し、デトックスを勧める人も「毒素が出ているあいだはかえって気分が悪くなるかもしれない」と答える。

病気というのはよくなるか悪くなるかのどちらかで、時間が経てば自然に治ることもある。
「好転反応」というヘリクツ、政治家が「今の苦難は」と言うのもそうですね。

(追記)
ホメオパシーについては以前にも書いています。
「いのち」と「場の力」(2)
『ホメオパシー セルフケアBOOK』

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大田俊寛『グノーシス主義の思想』2

2014年03月11日 | 日記

大田俊寛『グノーシス主義の思想』の副題である「〈父〉というフィクション」とは。
古代ローマにおいては乳幼児死亡率がきわめて高く、子供が5歳になるまでにほぼ半数が死亡していたと推定されるそうだ。

ちなみに、ウェンディ・ムーア『解剖医ジョン・ハンターの数奇な生涯』によると、18世紀半ばのイングランドの平均寿命は37歳。
子供の死亡率がもっとも高かったロンドンでは、1750年から1769年の間に生まれた赤ん坊の約半分が2歳の誕生日前に死んで、古代ローマよりも乳児の死亡率が高いことになる。

それはともかく、1人の女性が5人以上の子供を産まなければ、その年の人口は減少に転じるので、ある家族から別の家族に子供を移す養子制度の必要性は、古代ローマでは現代よりもはるかに高かった。
このような状況では、親子関係が生物学的事実に縛られていては、持続的な共同体を形成できない。
そのために案出されたのが、母よりも父を重視するという古代的な家族宗教の制度だったと、大田俊寛氏は言う。

それでは「父」とは、一体何だろうか。端的に言えばそれは、フィクションを創設することによって、人間社会を統御する者である。父と子の関係は、「お前は私の息子(娘)である」という儀礼的宣誓、すなわち、パフォーマティブな言語行為によって創設される。

ちょっとおもしろいでしょ。

プラトン主義とグノーシス主義の体系は、その大枠において非常に似通ったものである。
ソクラテスの刑死はプラトンの世界観に大きな影響を与えた。

古代における従来の観念であれば、愛国者ソクラテスは、まさに「父の土地=祖国」であるアテネに埋葬され、彼の魂はその墓に眠るということになるはずである。しかし、誰よりもアテネを愛して行動しながら、それゆえにこそアテネの民衆によって殺害されたというソクラテス刑死の矛盾は、プラトンにソクラテスの魂が向かう場所、「魂の真の故郷」を探究させることになる。

プラトンは造物主を「万有の造り主であり父である存在」と呼んでいる。
造物主は普遍的で超越的な「新しい父」である。
プラトンのこの理論はユダヤ教哲学者や、キリスト教教父、グノーシス主義に深い影響を与えたそうです。

キリスト教以前からグノーシス主義はあったのか、それともキリスト教以後なのか。
つまり、グノーシス主義はキリスト教にとって異教なのか、異端なのか。
前キリスト教グノーシス(グノーシス主義はキリスト教に対して時代的に先行する宗教思想)という説と、非キリスト教グノーシス(グノーシス主義はキリスト教とは無関係な環境でも発生し、独自の活動を展開)という説があるが、大田俊寛氏はどちらもとらない。

グノーシス主義がその思想的輪郭を取り始めたのは、二世紀の前半から半ば頃であり、しかもそのような初期の段階においては、大半の資料を何らかの仕方で自らを「キリスト教」として位置づけている。(略)グノーシス主義は、キリスト教ときわめて密接した思想運動として成立したのである。
その後にグノーシス主義は、キリスト教の枠内においては、主流派の地位をめぐる抗争に敗れて徐々にマイノリティ化し、「異端」として扱われるようになる一方で、その他の宗教思想のなかへと広く拡散してゆく。


もう一つ大田俊寛氏の考えを紹介すると、グノーシス主義に対するアプローチはユング的なものではなく、精神分析こそ有効だということです。
どうしてかという説明は私にはちんぷんかんぷんでした。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大田俊寛『グノーシス主義の思想』1

2014年03月07日 | 

グノーシス主義とは、キリスト教の神であるエホバは本当の神ではなく、この世界は本当の世界ではない、本当の神、本当の世界は別にある、という考えだと思っていた。
ところが、さまざまな書物、雑誌、インターネット上で語られる「グノーシス(主義)」は、歴史的に実在したグノーシス主義とはほとんど何の関係もないと、大田俊寛『グノーシス主義の思想 〈父〉というフィクション』は言う。

人々は、キリスト教正統信仰以外のさまざまな宗教のなかに「エキゾチックなもの」を見出し、これに好奇心を寄せ、しばしば近代社会のもたらす疎外感によって荒廃した自らの心の「癒し」に用いるようになった。

このような思想的傾向を大田俊寛氏は「ロマン主義」と称する。

ごく簡単に要約するなら、ロマン主義とは、近代思想の主流の位置を占める「啓蒙主義」に対抗するものとして存在する思想的潮流である。啓蒙主義においては、万人にはその共通の「良識」として「理性の光」が与えられており、理性的な自我の働きによって世界の姿を隈無く照らし出すことができると考えられている。しかしロマン主義は、啓蒙主義の唱える「光」の思想に対して、強く異を唱える。ロマン主義は、光によっては照らし出すことのできない領域が、理性の外部に残り続けることを主張するのである。その領域は、「宇宙」や「無限」、あるいは「闇」や「悪」と呼ばれる。そして人間の理性的「自我」は、これらの外部的存在を内部に取り込むことによって、本来的な「自己」へと成長することができるとされるのである。


グノーシス主義とロマン主義の違いは?

真実の自己のあり方を模索することや、善悪二元論的な世界観において、古代思想であるグノーシス主義と近代思想であるロマン主義は、一見したところ著しい共通性を示している。しかしグノーシス主義においては、悪の実在性に対する肯定的な見解や、それらの存在を内部に取り込んで成長する「自己」という概念が存在するわけではないため、彼らのグノーシス理解は常に的を外したものになってしまう。

多くの人が「グノーシス主義」と思っていることは、「ロマン主義者」たちによって著された手軽な宗教論だと、大田俊寛氏は断じる。
その代表が中沢新一氏である。

現在、かく言う私自身も、初めてグノーシス主義の名前を目にし、その思想に興味を覚えたのは、現代日本の代表的なロマン主義者の一人と見なされうる、中沢新一の著作においてであった。(略)
ロマン主義者たちによる宗教論とは、ポピュラリティーを獲得することを目的に作り上げられた口当たりの良いファンタジーにすぎず、まともな思想研究や宗教研究の名に値するものではない。中沢のグノーシス論もその例に漏れず、グノーシス主義に関して実際には氏がほとんど無知であり、いくつかの入門書や事典の記述から得た浅薄な知識をもとに、そこから自分勝手な連想を繰り広げたものにすぎない。

ロマン主義の典型的なケースがユング。

その内容はあえて言うならば「でたらめ」の一語に尽きる。

ユングがグノーシス主義をどのように考えていたかは知らないが、秋山さと子『ユングとオカルト』にはこうある。

人間は、これらの下級の霊が作った仮の衣である肉体だけしかないいわゆる肉体人間、ものごとを感じとる心はあるが星の影響下で苦しむ心魂人間、そして、この肉体と心魂の中に閉じこめられて脱出を求める神性を持った霊的人間の三種に分けられる。
グノーシスの知恵は、眠れる自己の本質の、神性に対する覚醒と解放の呼びかけなのである。
グノーシス主義による人間の救済は、自分がこの拘束的な宇宙とは無縁であることを知り、人間の本質はより全一的で充足した世界に属していて、そこには知られざる神が実在するという隠された知識を得ることである。

たぶん、こういう解釈はでたらめだということだろう。
大田俊寛氏はこのように続ける。

ユング的な視点から、グノーシス主義を含むキリスト教史について論じた書物としては、「霊性的知識人」とも呼ばれた湯浅泰雄による『ユングとキリスト教』という著作が広く知られている。(略)ほとんど各頁ごとにと言って良いほどの誤解や誤謬に満ちており、まともな学問的著作であるとは到底言いがたい。

難しいことは私にはわからないが、実名をあげてニューエイジ知識人たちを一刀両断にするのは気持ちがいいです。

グノーシス主義について語っているように見せかけながら、実のところは自らの内的妄想を開陳しているにすぎない。

 

ロマン主義者たちは、自らの思考の論理を盲目的に対象に押しつけては、甘美で空疎な連想を繰り広げるばかりであり、概して彼らは、対象の内在論理を冷静に考察するために必要な姿勢を欠いているのである。

ここまで言われた中沢新一氏たちはどのように反論するのでしょうか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小武正教「水平社から浄土真宗が問われてきたもの 本願寺教団の二つのタブーを問う」

2014年03月02日 | 仏教

浄土真宗本願寺派(西本願寺)が2011年に宗法を改定し、本願寺と本願寺派が分離、宗会の権限を縮小、少人数による執政機関の設置など、門主独裁体制になった。
何人かの本願寺派の人にこのことについて尋ねると、みな批判的で、「昔に返ってしまった」と慨嘆した。

かつての真宗大谷派(東本願寺)の二の舞になるかもしれない本願寺派の宗法改正、どこがどのように問題なのか。
某氏からいただいた小武正教「から浄土真宗が問われてきたもの 本願寺教団の二つのタブーを問う」(『解放ひろしま』第93号)を読み、すこしわかったように思う。
ネットを調べたら、小武正教「現在の「宗制」「宗法」の改定から見えてくるもの」(『解放ひろしま』88号・89号)を発見。www.geocities.jp/shuhonbunnri/odake.pdf

小武正教氏の意見をご紹介します。
現在進められている西本願寺・本願寺派の改革の目的

現在推し進められようとしている「宗制」「宗法」の改定の目指すところを一言でいえば、「門主の権限をたかめて、側近政治を行い、迅速な決定を行って、この事態を切り開いていくしか方法がない」ということになろうか。

本願寺派が1886年(明治19年)に制定した寺法では、本願寺の住職が宗派唯一の善知識「法主」であり、教団の行政権も持ち、議会の議決への優先権も保有するという、絶対権力者としての位置づけだった。
戦後、宗法が改正されたが、現在でも西本願寺では、門主のみが安心の正否を判断できる「安心裁断権」と、門主のみが総長候補を指名できる「総長指名権」が門主(本願寺住職)にある。
今も門主は絶対権力者なのである。

「宗法」改定の理由。
*現在の宗門全体の意志を尊重し、宗務に反映させる議会制度等は、宗門になじまない。
*本願寺が回金した懇志を費用対効果からすると、宗派は適正に執行出来ていない。
*宗派と本願寺が現行制度では一体であるため、宗派が本願寺独自の活動を行えなくしている。
*寺院や僧侶に見られる、本山・善知識(門主)の下にある宗門組織の一員の自覚の欠如

「宗法」改定で目指されている教団像
①「門主・本願寺」を頂点にした、上意下達式の方法で少数者の評議による迅速な意思決定によって本願寺・宗派の運営を行う。
②そのためには、本願寺と宗派を分離し、本願寺が宗門(宗派を牽引する。
但し、本願寺と宗派の関係のあるべき姿は、「本願寺を中心とした一体化」であるとの考え。
③本願寺の独自の活動がしやすいように、東京教区(1 都3県-東京都・神奈川県・千葉県・埼玉県)を特区とし、築地別院は宗派に縛られず自由に活動できることにする。
④宗派においても、行政・立法・司法の三権分立は廃止し、門主に権限を集中する

教団には覚如によって成立した段階から、「法主制(門主制)」という親鸞からの「血脈」が、「法脈」という教えの正統性も受け継ぐという問題を抱え込んでいる。「御同朋」という平等理念と「法主制」いう身分制は同じ場では両立しえるものか。それを両立することとして論理の整合をはかられてきた。

仏教では師資相承といって、師から弟子へと教えが伝えられる。(法脈)
ところが、本願寺では親鸞の血統が唯一の正統性の保持者とされる。(血脈)
本来は法脈と血脈は同一ではない。

2012年に改定された「宗法」の答申書から。

「宗門組織機構のあり方」
イ・宗門には、本願寺を本山と仰ぐ個人・団体を組織化し、宗制に定める理念を実現するため共通した目的の設定、及びその目的達成を可能とする門主を中心とした組織機構、運営機能の構築が求められる。
ハ・宗門において門徒は、一般寺院に所属して教義を聞信し、僧侶を通して教化育成を受けるが、親鸞聖人を敬慕する中で、本願寺に安置されるご真影を仰ぎ、また法灯を伝承された本願寺の歴代宗主(門主)を善知識と仰ぐ御同朋であるから、宗祖の門徒、本願寺の門徒である。僧侶は、本山本願寺において次第相承の善知識である門主の教化を受けて、一般寺院その他で宗祖の教えの弘通に努めるとともに、門徒の教化育成にあたるので、一般寺院は宗祖の門徒、本願寺の門徒をお預かりしていると言われる。

次第相承とは親鸞の血を引く者によって仏法が伝えられること。
善知識とは教えを伝える善い友。
門主だけが善知識だから、門主以外の人からは教えが伝わらないことになる。
西本願寺では門主がいまだに生き仏なのである。

本願寺教団の信仰理解はいつも「親鸞聖人の教えを聞く」と言いつつも、常に「次第相承の善知識・門主の教化によってはじめて僧侶となり門徒となる」というパイプを通してしか語られて来なかった。


2012年の宗法改定当時の池田行信総務の文章。

立教において開宗されたわが宗門においては、立教という〈一宗の祖師〉と歴史上の宗門の〈法灯伝承〉は必要不可欠な条件です。ですから、権力機構としての国家なら国民が選挙で大統領を選ぶことも可能ですが、立教開宗に依拠した宗教団体であるわが宗門においては「親鸞聖人を宗祖と仰ぎ、門主を中心」とした宗教団体ですから、直接、僧侶や門徒が選挙で宗主を選ぶことは問題外のことです。(『現代真宗教団論』)

小武正教氏の論文を読み、「門主を中心とした組織機構、運営機能」が同朋教団だとは私には思えませんでした。

小武正教氏は「真宗大谷派宗憲改正-提案の趣旨」を引用している。

教法が血統によって伝承されるということは宗祖の教義に悖るばかりではなく、教法が今日まで無数の念仏者によって伝承せられてきた事実にも反し、殊に〈安心の正否の判定〉は、何人もこれを侵すことのできないものであって、これを師主としての法主に専属せしめるということは、〈弟子一人ももたず〉と仰せられた宗祖のご精神に反することともなり、伝統的には、蓮如上人の本願寺御影堂留守職のご精神に帰っていただくという、これらの理由から法主制を廃することとなったのであります。(『真宗』1981.7月号)

大谷派の現状がどうなのかはさておき、理念としては悪くないと思う。

小武正教氏は

誰が考えても「おかしい」ものが「おかしい」と教団内で言えない、もしそれを言えば「排除の論理」が働いてきた。

と書いているが、本願寺派の改革に反対する声はどんな動きになっているのだろうか。
西本願寺の状況は安倍首相の一人勝ちという現在の政治状況と似かよっているように思う。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする