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三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

再びトホホ

2009年09月23日 | 日記
またまたパソコンの調子が悪くなり、修理に出すことにしました。
いろんな文書やデータやらを保存するのが面倒だし、電気屋にパソコンを持って行くのも面倒。
やれやれ。
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『おくりびと』と『納棺夫日記』1

2009年09月21日 | 問題のある考え

私のあやしい人を見分けるリトマス試験紙は江原啓之氏である。
江原啓之氏をヨイショする人はあやしい。
田口ランディ氏や大谷派御遠忌テーマをほめるかどうかというリトマス試験紙は、ニューエイジ・スピリチュアルを知っているかどうかを判定する。
先日、A氏とB氏と話していて「田口ランディはニューエイジだ」「ロハスはニューエイジだ」という話になって、ついうれしくなった。
両氏ともニューエイジにはまったことがあるので、そこらがぴんと来るわけである。
もっともそれは感覚的なもので、どこらへんがニューエイジなのか、他人に理解してもらうためには言葉で説明しないといけないのだが、これが難しい。

「真宗教団連合40周年共同宣言」にこういう文章がある。
「死への不安
 しかも、経済的繁栄のただ中にいたときは、ひたすらこの世の繁栄に目を奪われ死を無視していましたが、昨今では、この世の繁栄だけでは解決されない「死すべき身」としての死に目が届くようになってきています。例えば、死んでも自分の生命は無に帰することなく、過去・現在・未来に生き続けているという輪廻転生にも似た生命の循環が美しく物語られたり、また、死者は姿を変え、形を変えて自分を見守っていてくれると、死者との連帯を持つことによって、愛する人の死への悲しみを癒そうとする詩などが人びとに感動を与えている時代となっています。しかし、このような物語や詩による癒しは、単なる一時的なものでしかありません。そこには、相変わらず死の闇が漂い、根源的な「いのち」のあり方への目覚めによる確かな救いはありません」
この文章はスピリチュアル批判だと言っていい。

あるいは、「真宗」7月号の「真の人間解放の道とは」という文章。
「「千の風になって」にしても、「おくりびと」にしても、浄土に生まれたいと願う者にとっては、違和感のある作品であることは承知しています。(略)今日の時代状況のなかで、人々がどのような心で生死を捉え、何を求めているかをうかがい知るうえで、こうした作品は重要であります。(略)
「千の風になって」は別れを受け入れたくない絶望感をやわらげ、不安感を解消する一つの手立てであるかもしれません。「おくりびと」によって見事に変身した死者でなければ、向き合えないかもしれません。しかし、ともに人間の願望が導き出した答えでしかないと思われます」

この文章もひょっとしたらニューエイジ・スピリチュアル批判かもしれない。
とはいうものの、私は『おくりびと』にスピリチュアル的なものは感じない。

だけど、問題はそのあと。
「親鸞聖人が求められ、明らかにされた「生死出ずべき道」こそ、真の人間解放の道でありながら、そのことを人々に伝え切れなかったという点を率直に認め、私たちにはあらためてそこからの出発が求められていることを痛感します」
では、「根源的な「いのち」のあり方への目覚め」とは何なのか、「真の人間解放の道」とはどんな道なのか。
定型句を並べることでわかったような気になり、そこらを曖昧なままにすると、ニューエイジ・スピリチュアルに取り込まれてしまう。

「真宗」7月号と一緒に送られてきた宗祖親鸞聖人750回御遠忌リーフレットには、『おくりびと』の原作者である青木新門氏の短いエッセイも載っている。
『おくりびと』に違和感はあっても、青木新門氏はまた別ということか。
青木新門氏の文章にこうある。
「彼(本木雅弘)はインド・ベナレスで「ここでは生と死があたり前のようにつながっている!」と実感したという」
どういう意味で本木雅弘氏は「つながっている」と実感したのだろうか。
青木新門氏はこの言葉をどのように受け取ったのだろうか。
私は青木新門氏の文章にスピリチュアル的なにおいを感じてしまうのでした。

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裁判員裁判で初の無期懲役判決 和歌山地裁

2009年09月18日 | 厳罰化

裁判員裁判で初の無期懲役判決 和歌山地裁
和歌山市六十谷の自宅隣に住む女性を殺害し貴金属を奪ったとして、裁判員裁判では初めて強盗殺人などの罪に問われた無職、赤松宗弘被告(55)の判決公判が16日、和歌山地裁で開かれた。成川洋司裁判長は「収入がないのに浪費したあげくの悪質な犯行」として求刑通り無期懲役を言い渡した。弁護側は酌量減刑したうえでの懲役25年が適正としていた。裁判員裁判で無期懲役の宣告は初めて。これまで最も重い判決は東京、青森両地裁の懲役15年だった。
裁判員6人と補充裁判員2人は閉廷後に全員が記者会見に出席。それぞれ「いい経験になった」「参加してよかった」などと充実感を口にした。
産経新聞9月16日

初犯だし、空き巣だったし、凶器も準備していない。
無期懲役は重いと思う。
裁判員制度に賛成する人は冤罪が減ることを期待しているが、実際は裁判員の存在を利用して重罰化に寄与していると思う。
それにしても裁判員の「いい経験になった」「参加してよかった」という感想はちょっとなあと思う。
これが市民感覚なんでしょう。

では、この事件の被告はどういう人間なのか。
元雇い主が証人としてこのような証言をしている。
弁護人「被告の性格は」
証人「まじめでおとなしくて温厚で、怒ったところを一度も見たことがない」

弁護人「被告が森永ヒ素ミルク事件の被害者だと聞いたことはあるか」
証人「被告の両親から聞いていた。他の子供と食らえると虚弱で、目が悪いのもそのせいだと」
弁護人「あなたからみてヒ素ミルク事件の影響と思えたことはあるか」
証人「何をするにもスローテンポで、ものの理解が人よりやや劣るところがあった」
弁護人「被告はどれぐらい、あなたのところで働いていたのか」
証人「30年ぐらい前から14~15年間」
弁護人「被告の仕事ぶりは」
証人「昔からスローテンポで覚えが悪いが、まじめにこつこつやるのでかわいがっていた」


被告の供述調書
検察官「私は7男の末っ子として生まれましたが、いまは兄弟は2人だけです。家や車などの資産はなく、貯金もありません。収入はいまはありませんが、以前は多いときは17万円ぐらい、少ないときは10万円ぐらいありました」

被告の証言
弁護人「3月末にもらった2月分の給料はいくらだったか」
被告「15万円ぐらい」
弁護人「5月1日にもらった最後の給料はいくらだったか」
被告「12万円」


同居していた男性の証言
弁護人「被告はどのような性格か」
証人「人当たりがよくて、頼まれたら嫌とよう言わん性格。けんかなんかもしたことがない」

弁護人「4月に仕事がなくなったのはなぜか」
証人「社長と親方がけんかしたから」
弁護人「けんかに被告は関係しているのか」
証人「いいえ」
弁護人「失業保険は」
証人「ない」
弁護人「勤務先は雇用保険を掛けていなかったのか」
証人「はい」
弁護人「被告の生活は派手ではなかったか」
証人「派手ではない」
弁護人「被告が仕事をさぼってパチンコをしたことは」
証人「それはない」

そうして、金がなくなり、隣家に空き巣に入り、家人が帰ってきたので殺してしまう。
弁護側が主張するように懲役25年になったとしても、55歳だから満期で出所したら80歳。
なんともはやとため息が出てしまう。

元の雇い主の証言。
弁護人「事件の原因は何だと思うか」
証人「人を雇用する人は、ある程度の生活を保障する義務がある。被告の雇い主がひと言、『もうじき仕事が出るからがんばれ』と言っていれば、事件は起きなかったかもしれない」

仮に被告が10年で刑務所から出てきたとして、65歳だから生活保護を受けることができる。
約12万円の金額があれば、被告はそれまでのように平穏な日々を過ごすのではないだろうか

そう考えると、ちょっとしたことでこの事件は起きなかったはずだ。
なんともやりきれなさを感じる。

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一家3人殺害の死刑囚、東京拘置所で病死

2009年09月16日 | 死刑

一家3人殺害の死刑囚、東京拘置所で病死
1971年に神奈川県三浦市で親子3人を刺殺し、死刑が確定した荒井政男死刑囚(82)が3日、東京拘置所で敗血症のため死亡した。
これにより、執行されていない死刑確定者は102人になった。
荒井死刑囚は71年12月、金策のため同市の知人男性方を訪れ、男性と妻、長女を次々と刃物で刺して殺害。
76年9月に横浜地裁横須賀支部で死刑判決を受け、90年10月に最高裁で上告が棄却されたが、91年1月に再審請求していた。
東京拘置所によると、荒井死刑囚は2003年頃から、高血圧や糖尿病などの治療を続けていたという。
読売新聞9月3日

神奈川・三浦市の一家3人殺害で死刑囚の男が拘置所で病死
東京拘置所は3日、神奈川県三浦市で昭和46年に一家3人を刺殺したとして殺人罪に問われ、死刑判決を受けた荒井政男死刑囚(82)が同日朝、収容されていた同拘置所で敗血症のため死亡したと発表した。荒井死刑囚は高血圧や糖尿病などを患っており、7月中旬から容態が悪化していたという。確定死刑囚は102人となった。
確定判決によると、荒井死刑囚は46年12月21日夜、三浦市三崎、食糧販売業、岸本繁さん=当時(53)=方を訪れ、借金を断られたことに腹を立て、持っていた刃物で岸本さんを刺殺。家の中にいた岸本さんの妻、喜代子さん=同(49)=と長女の昌子さん=同(17)=も刺して殺した。
荒井死刑囚は公判で無罪を主張していたが、最高裁は平成2年10月、死刑を言い渡した1審、2審判決を支持、上告を棄却して刑が確定した。
産経新聞9月3日

読売新聞や産経新聞の記事だけを見ると、どうしてこんな奴を20年近くも執行せずに生かしてきたのかと思うだろう。
ところが、荒井政男氏は冤罪間違いなしと言われていた死刑囚だったのである。

『死刑囚からあなたへ』という本に荒井政男氏の手記「わたしは冤罪死刑囚である」が載っている。
それによると、荒井政男氏の娘は家出をくり返し、そのたびに荒井政男氏は娘を捜し回っていた。
事件のあった日も娘が家出したので車に乗って探しに行き、たまたま被害者宅の近くに車を止め、食堂で食事をして飲み過ぎ、岸本商店の向かいで眠ってしまう。
2時間後、ふと目が覚めると男が岸本商店に入っていき、しばらくしてその男が走り去っていくのを見て、喧嘩かなと思い、岸本商店に行ってみると、店の出入り口に血痕靴跡がある。
店内に入ると血の海で、人が殺されていた。
外に出ると少年が「あの人つかまえて」と叫ぶので、まずいなと思って逃げた。

偶然そこに居合わせただけだ、なんてこと誰が信じるのか、という話なのである。
それなのに、どうして荒井政男氏は無罪だと主張するのか
1,被害者の息子は、犯人は「ものすごい勢い階段を駆け昇ってきた」と証言している。
しかし、荒井政男氏は交通事故で足が不自由になったので、階段を駈けのぼることはできない。
2,犯人の残した靴跡の大きさは25・5cm~26cmだが、荒井政男氏の靴の大きさは27cm。
3,荒井政男氏は事故のために右足が左足よりも短くなっているのでガニ股で歩く。ところが現場に残された足跡の鑑定結果は「現場の足跡痕はきわめて正常な歩行能力を持った人間のもので、被告人の歩き方とは一致しない」そうだ。
4,3人も刺殺したのだから返り血を浴びるはずだが、荒井政男氏の車内には米粒大の血痕があっただけ。
5,現場には荒井政男氏の指紋がない。
そして、荒井政男氏には動機がない。
荒井政男氏は信じられないくらい運の悪い人なのである。

澤地和夫『東京死刑囚物語』に、荒井政男氏のことがこう書いてある。
「05年12月30日現在の荒井は、入浴や面会等も車椅子なくては過ごせない状況の上に、目も見えなくなったたま、死刑確定者への特典でもある週3回のビデオ鑑賞もかなわず、閲覧の新聞(読売)も読めない状況にあります。ですから、朝7時に起きて夕方の5時以降までは、食事時以外は、ただただ独房の畳の上にうずくまるような格好で座り続けているだけです。見ていて、とても気の毒でなりません」
あまりにもひどいと思う。
荒井政男氏の再審を認めて無罪になったら、裁判所のメンツはつぶれるし、高額の賠償金を払わないといけないしで、再審が難しいのはわかる。
だったら、恩赦で外に出してもよかったのではないかと思う。
今さらどうしようもないけれども。

「横浜地裁横須賀支部に再審請求中で、支援団の青木孝弁護士は「娘が受け継ぎ、再審請求を続けたい」と話した」毎日新聞9月4日
家出した娘さんだろうか。

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アメリカの保守派と福音派と政治と

2009年09月13日 | キリスト教

オバマ大統領に抗議デモ=保険改革反対の保守派-米首都
オバマ米大統領が目指す医療保険改革に反対する保守派が12日、全米から首都ワシントンに集結し、抗議デモを行った。米メディアによると、参加者は1万人以上。連邦議会議事堂前は「大きな政府はいらない」と訴える人々で埋め尽くされた。
参加者は「わたしの保険に手を出すな」「オバマ大統領は社会主義者だ」などと書かれたプラカードや横断幕を掲げ、首都の目抜き通り「ペンシルベニア通り」を議事堂に向かって1時間以上にわたって行進した。
時事通信9月13日
うーん、このデモに参加している人たちは保険に入っているんだろうけど、マイケル・ムーア『シッコ』を見ていないんだろうか。

アメリカの保守派の多くはキリスト教福音派。
キリスト教福音派はアメリカ人の3分の1を占める。
キリスト教福音派はマイケル・ムーアの映画なんか見ないと思う。

町山智浩『アメリカ人の半分はニューヨークの場所を知らない』はアメリカ在住の著者が見聞したコラム集。
町山智浩氏によると、2006年に18歳~24歳のアメリカ人に対して行なった調査では、88%は世界地図を見てもアフガニスタンの位置がわからず、63%はイラクの場所を知らなかった。
パスポートを持っているアメリカ人は国民の2割。
外国のことだけではなく、アメリカ人はアメリカ国内のことすら無知である。
ナショナル・ジオグラフィックの調査によると、アメリカの地図をみてニューヨーク州の場所を示せない者が5割いる。
アメリカが日本に原爆を投下した事実を知っているアメリカ人は49%にすぎない。
アメリカの成人の2割は太陽が地球の周りを回っていると信じている。
テレビや新聞のニュースを見ない人が多く、18歳から34歳のアメリカ人で新聞を読むのは3割に満たない。
「主流メディアや知識人はブッシュ政権の過ちを批判し続けたが、まったく一般には届いてなかったのだ」
まして、ブッシュを批判したマイケル・ムーア『華氏911』がカンヌでパルムドールをとったなんてアメリカ人の多くは知らないと思う。

どうしてアメリカ人はそんなに無知なのだろうか。
「アメリカ人は単に無知なのではない。その根には「無知こそ善」とする思想、反知性主義があるのだ」
「歴史学者リチャード・ホフスタッターは、アメリカ人の知識に対する反感の原因のひとつにキリスト教福音主義を挙げている。福音主義とは、福音、つまり聖書を一字一句信じてその通りに生きんとする、いわゆるキリスト教原理主義のことで、自らを福音派とするアメリカ人は全人口の3割を占めている。彼らにとって余計な知識は聖書への疑いを増すだけであり、より無知なものほど聖書に純粋に身を捧げることができる」

まあ、それだけなら個人の考えと言いたいところだがそうはいかない。
「100万を超える自宅学習家庭のうち75%がキリスト教原理主義だ。高等教育を受けていない親が子どもを教え、それが下の世代に継承されていく。アメリカの一流大学の理系学生の半分以上がアジア系かアジアからの留学生になってしまった原因のひとつだ」
アメリカの大学で博士号を取得する者の4割が海外出身者で、2010年には7割を超えるそうだ。

いくらなんでもニューヨーク州の場所を知らない人が5割、天動説を信じている人が2割もいるなんてほんまかいなと思ったのだが、現実は以下の通りでした。
ダーウィン映画、米で上映見送り=根強い進化論への批判
進化論を確立した英博物学者チャールズ・ダーウィンを描いた映画「クリエーション」が、米国での上映を見送られる公算となった。複数の配給会社が、進化論への批判の強さを理由に配給を拒否したため。12日付の英紙フィナンシャル・タイムズが伝えた。
映画は、ダーウィンが著書「種の起源」を記すに当たり、キリスト教信仰と科学のはざまで苦悩する姿を描く内容。英国を皮切りに世界各国で上映される予定で、今年のトロント映画祭にも出品された。
しかし、米配給会社は「米国民にとって矛盾が多過ぎる」と配給を拒否した。米国人の多くが「神が人間を創造した」とするキリスト教の教義を固く信じている。ある調査では、米国で進化論を信じるのは39%にすぎず、ダーウィンにも「人種差別主義者」との批判があるという。
今年はダーウィン生誕200年で、「種の起源」出版150年の節目の年。英国では関連イベントが盛り上がっている。
時事通信9月13日
そういう状況なのである。

問題は、こうした聖書に書かれてあることは100%正しいと信じ込んでいて、世界のことに関心を持たない人たちがアメリカの政治を動かしているということだ。
「福音派は元来、俗事にすぎない政治には関心が薄かった。それが強力な票田になることに気づいたのは共和党だった」
福音派の78パーセントが投票に行く。
「1980年の大統領選挙で、共和党は伝統的モラルへの回帰を唱えて彼らを取り込み、以後、福音派は共和党の強力な支持基盤になった」

町山智浩氏は「アメリカに住んでみて、とにかく驚くのは右翼コメンテーターたちの口汚さである」と言う。
「人口の2割もいない黒人の権利なんか無視しろ」
「不法移民は機銃掃射で皆殺しにしろ」

福音派も負けていない。
「アメリカはイスラム教国に攻め込んで、指導者たちを皆殺しにし、国民をキリスト教に改宗させなくちゃ」
「地球温暖化はリベラルが作ったウソなのよ」
「進化論は悪魔の嘘」
「中絶は殺人」
「ゲイは地獄に行く」

そして、「オバマはイスラムのスパイだ」というデマ。
「キリスト教右翼の父」と呼ばれるフォルウェルという牧師は「政治と宗教の分離は悪魔の計略だ。アメリカの国政は我々キリスト教徒がコントロールすべきだ」と公言していたそうで、フォルウェル牧師の支持がないと共和党候補は大統領になれないわけで、アメリカも宗教国家なんだなと思う。
イスラム国家のことをあれこれ言えない。

「その他、アメリカ人の時事問題への無知の原因には、右派メディアの暴走や、教育の崩壊などいろいろな理由があるが、とにかく、ニュースを知らない人たち、外国に興味のない人たちによって大統領が決定され、その大統領が無茶な戦争を起こし、デタラメな政策で経済メルトダウンを起こして日本や世界を巻き込んでいるわけで、この不条理には、もはや笑うしかない」

そうは言っても、オバマを大統領にしたアメリカはやはり大したものである。
在日の人や被差別出身者が首相になる日はまだまだ先だと思う。
それに右翼の差別的発言は日本だって負けてはいないし、環境問題でも鳩山代表の「温室ガス25%削減」発言に、読売新聞や産経新聞は批判的というか、まるでブッシュである。
こういう点でアメリカに追随してどうするんかいなと思う。

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人名地名

2009年09月10日 | 日記

北川和彦「音訳・点訳奉仕員研修会テキスト―読み方調べのために―」という本を買う。
点訳に役立つかどうかはともかく、人名や地名、漢字の読み方の雑学としておもしろい。

漢字の読みに「慣用読み」というのがあって、堪能「かんのう」→「たんのう」、立案「りゅうあん」→「りつあん」、消耗「しょうこう」→「しょうもう」などがそうである。(本来の読み方は左のほう)
「百姓読み」というのがあるそうだ。「漢字の偏や旁の音にひかれるなどして誤って我流に読むこと」で、たとえば洗滌「せんでき」→「せんじょう」。
いやはや、間違った読み方をしてました。

人名、「ただし」の表記は62字、公・方・矢・典・義・忠・美・正・匡・雅・貞・肇・斉・鼎・疋など。。
「理」は、おさむ・さだむ・さとし・たかし・ただし・まこと・まさし・り・とし・みち・こずえなど。
「理子」は、さとこ・のりこ・みちこ・りこ・あやこ・としこ・まさこ・なおこ・よりこ・さとりこなど。

地名の読み方も千差万別。
「神戸」は、こうべ・ごうど・かんど・じんご・こうど・かんべ。
「とどろき」は、轟・轟木・驫木・等々力・二十六木・廿六木・動木。

難読地名は数限りなくある。
十六島・不入斗(ATOKではちゃんと変換できた)・一口(いもあらい)・愛(あたい)などなど。
去年、檜原村に行ったのだが、人里(へんぼり、5万分の1の地図を見ると「人」に「へんぼ」とふりがな)、笛吹(うずしき)、事貫(ことずら)というバス停があった。

秋永一枝早稲田大学名誉教授のコラム(東京新聞2008年3月12日)が紹介されている。
そこにこういうことが書かれている。
「つい三月ほど前、私は京都でバスに乗った。バスのアナウンスで「次はナナ条に止まります」というのを聞いて一瞬心臓が止まりそうになった。京都では古くはヒッチョ(-)である。それがヒチどころかシチを通り越してナナなどとは。京都人はなぜそれを許すのか」

同じような経験を私もしている。
私の出身校は観音(かんのん)高校である。
ところが、通学バスのアナウンスは「次はカンオン本町です」で、極めて不愉快だった。
ところが広島市HPを見ると、以前はちゃんと「かんのん」だったのに、なぜか現在は「かんおん」となっている。
なんでも観音高校も現在は「かんおん」だそうな。
どうしてそんな変な読み方にしたのか。

観音だけではない。
十日市は「とおかいち」と読むべきなのに、なぜか広島市の十日市町は「とうかいちまち」であり、これじゃ小学校の先生が生徒に教えるのに困るだろうと思う。
「十日」を「とうか」と読んだら×なのに、「十日市」は「とうかいち」と読まなきゃいけないわけだから。

ウィキペディアには「なお、観音の発音は「かんのん」ではなく「かんおん」である」と書かれている。
いつからカンオン高校になったのか……。
情けなや。

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大乗と小乗の違い

2009年09月07日 | 仏教

大乗と小乗はどう違うのかと某氏に聞かれ、返事に困ってしまった。
それからしばらくして『親鸞』を読んでいたら、竹橋太「本願」に、小乗は仏弟子になる教え、大乗は仏になる教えとあり、なるほど、こういうふうに説明すればよかったと思った。
これはどういうことかというと、釈尊が生きていた時の仏、入滅後の仏、大乗仏教の仏、それぞれ仏の定義が違っているということだと思う。

釈尊在世時には、仏になる(悟りを開く)ことはそんなわけのわからない難しいことではなかったらしい。
釈尊が菩提樹の下でさとりを開いた後、5人の修行者に説法する。
釈尊が中道・八正道・四諦を説き、話を聞き、質問をし、考え、交代で托鉢をし、そうしてまず「尊者コーンダンニャに、塵なく汚れなき真理を見る眼が生じた」、つまりコーンダンニャが悟った。
「世尊はこのような感歎のことばを発せられた。「ああ、コーンダンニャはさとったのだ!ああ、コーンダンニャはさとったのだ!」と」(『原始仏典』中村元訳)
そして他の四人も釈尊の教えを聞いて、「真理を見、真理を得、真理を知り、真理に没入し、疑いを超え、惑いを去り、確信を得た」、「五人の修行者は執着もなく、もろもろの煩悩から解放した」
悟りを得るまでにどれだけ日時がかかったかわからないが、5人は釈尊の教えを聞いて、そして悟っている。
注意すべきは、5人の修行者は教えのとおりに行を修し、そして悟ったのではないらしいこと。
『尼僧の告白』にこうある。
「尼さまが教えてくださったとおりの教えを聞いて、喜びと楽しみにひたって、七日間、わたしは、足を組み合わせた一つの姿勢で坐っていました。第八日に、わたしは、無明の暗黒のかたまりを破り砕いて、両足を伸ばして、[瞑想の座から立ち上がりました。]
 ウッタマー尼」
あるいは、心の平静を得ることができず、七年間、遍歴したシーハー尼は「強靱な吊り縄をつくって、樹の枝に縛りつけ、わたしはその縄を首のまわりに投げかけました。そのとき、わたしの心は解脱しました」

5人は阿羅漢になったのだが、阿羅漢とは仏の尊称の一つで、阿羅漢=仏である。
ところが、釈尊の死後、釈尊の悟りと弟子の悟りは違うんだとされ、釈尊は神格化、超人化、絶対化されるようになり、我々は阿羅漢にはなることができるが仏にはなれない、とされた。
在家では解脱することはできないし、出家して悟りを得たにしても、その悟りは仏の悟りとは違うことになった。
これが部派仏教(小乗仏教)の考えである。

それに対して、誰でも仏になれると主張するのが大乗仏教。
大乗仏教では自利利他を説き、利他が大乗の特徴である。
そして阿羅漢(小乗の聖者)は仏になろうとしないし、他者に関心を持たない、自己満足だとして批判する。
つまり自利と利他、どちらも不十分だから小乗だ、とさげすんで言うわけである。
しかし、唯識では仏になるのには三大阿僧祇劫かかると説かれており、三大阿僧祇劫とは永遠と言ってもいい時間だから、つまりは仏になるのは不可能、すなわち自利は無理と言っているようなものである。
利他とは他を利益する、すなわち衆生済度ということだが、日蓮宗では他者による救いを説かないと聞いたことがある。
救うとは、たとえば食べるものがなくて困っている人に食べ物を与えるといったことではなく、迷っている人、苦しんでいる人を仏にすることだと思う。
だったら実際に、自分は悟ったとか、救われて私は仏になりましたと言っている人がいるのかというと、そんな人は麻原彰晃や大川隆法ぐらいなものである。

また、大乗仏教は一枚岩かというと、国により、宗派によって教えなどかなり違っている。
たとえば、利他には利他する教えと、利他される教えとがある。
浄土教は利他される教えであり、救い=仏になること、それをたとえとして具体的に描写したのが阿弥陀の物語、浄土だと思う。
上山大峻「念仏」(『親鸞』)には、「「念仏」を称えることこそが、私たちができる他を救うはたらき(=利他行)であり、如来の恩に報いる(=仏恩報謝)道であるとするのである」とある。
念仏を私が称えて他の人が救われるとして、どういう状態になることが救われることなのか、などなど疑問が出てくる。

ということで、大乗と小乗との違いをうまく説明できない、というか、よくわかっていないわけです。
などと考えると、仏教を大乗と小乗に分けるのは大乗の立場からの仏教史的な意味しかないという気もしてくる。
やっぱりお答えできませんでした。

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幸福の科学の狙いは?

2009年09月04日 | 問題のある考え

衆議院選比例代表区での幸福実現党の得票は45万9387票だった。
では、幸福の科学の信者はいったい何人なのだろうか。
参考になるのが公明党で、05年の衆議院選比例代表区で898万7620票、今回は805万4007票である。
創価学会の信者数は公表されていないが、約542万人。
日蓮正宗と創価学会がケンカして、576,0000人だった日蓮正宗の信者が平成12年度文化庁統計では約338,000人に激減した。
そのことから創価学会の会員数は約542万人と推定されるそうだ。

公明党の得票数に創価学会員が占める割合は6割から7割である。
幸福実現党の得票数の6割は27万5632人、7割は32万1571人、8割は36万7501人。
だから、幸福の科学の信者はせいぜい30数万人と考えていいと思う。

ちなみに『宗教年鑑 平成19年度版』によると、
金光教 430,188人
念法眞教 453,315人
光明念佛身語聖宗 367,957人
真如苑 859,759人
日蓮正宗 396,000人
霊友会 1,577,086人
妙智会教団 957,099人
佛所護念会教団 1,459,938人
立正佼成会 4,288,466人
天理教 1,635,486人
円応教 462,357人
生長の家 767,606人
世界救世教 1,031,506人
パーフェクト リバティー教団 1,009,722人
天照皇大神神宮教 472,698人
阿含宗 340,862人
といったところだから、幸福の科学は中堅クラスである。

全宗教団体の総計は208,845,429人となっている。
日本の人口よりも多いわけだが、神社本庁の信者数96,294,884人を差し引けば日本の人口に近くなる。
それと、創価学会、幸福の科学、富士大石寺顕正会(130万人)、ほんぶしん(約90万人)、大山ねずの命神示教会(約85万人)、霊波之光教会(約76万人)、自然の泉(約75万人)、崇教真光(約56万人)、白光真宏会(50万人)、世界基督教統一神霊教会(47万人)などは『宗教年鑑』に信者数を公表していない。
それにしても、多くの人が知らない巨大新興宗教がかなりあることには驚きます。

親鸞会の会費は月に1万円(学生は5千円)と聞いたことがある。(実際はもっと多いらしい)
幸福の科学は会費がないそうだが、仮に30万人の信者が月に1万円の布施をするとして、年に360億円になる。
供託金11億8000万円ぐらい軽いものである。

それにしても、幸福の科学の本部は実質の信者数がどれくらいか把握しているはずである。
そして、比例代表区だと30万票前後は得票しないと当選できないということもわかっていたはずだから、幸福実現党は全員落選することははなから承知していたと思う。
創価学会が1956年に参議院に出馬して3人が当選した時の会員数は150万人。
信者が30万人前後なのに立候補するのは無茶である。

にもかかわらず大量出馬した幸福の科学の狙いはどこにあるのだろうか。
ひょっとしたら次か、次の次を視野に入れているのかもしれない。

前回「改革に賛成か、反対か」だけで自民党は296人が当選し、今回は民主党候補というだけで308議席。
それなのに小泉進次郎はなぜか楽々当選したわけでして。
「自民党をぶっつぶす」と言ったのは小泉元首相だが、実際にぶっつぶしたのは麻生首相だった。
もっとも次の選挙でどうなるかわからないけど。

たとえば、民主党は高速道路の無料化を公約したのだが、そう簡単にいくかどうか。
毎日新聞の「日本が変わる:高速道路無料化、民主案」という記事を読むと、いろんな問題があることがわかる。

渋滞による交通マヒ。
料金収受にあたっている社員、パートら1万6000人の雇用。
道路の維持・管理の費用捻出。
二酸化炭素排出量の増加。
フェリー業界、JR各社の輸送量減少、など。
「「国有化するなら、民営化の時の民営化委員会のように、有識者を集めた『国有化委員会』ができるんじゃないか。議論は何年もかかるだろう」と道路会社幹部の一人は予想する」とのことだが、公約を守らないというので民主党離れが起きるかもしれない。

ナチスすなわち国家社会主義ドイツ労働者党の結党は1918年。
1928年、ナチス党として初めての国政選挙に挑んで12人が当選した。
1930年の選挙では107議席を獲得して第二党に、1932年には全584議席中230議席を獲得して第一党になった。
ナチス党の得票数の変化 日時 得票数 得票率
1928年5月20日  810,000  2.6%
1930年9月14日 6,410,000 18.3%
1932年7月31日 13,750,000 37.3%
1932年11月6日 11,740,000 33.1%
1933年3月5日 17,280,000 43.9%
ひょっとして幸福の科学はホップステップジャンプを狙っているのかと考えもしたけど、いくら何でもそれはないか

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『親鸞』と梵天勧請2

2009年09月01日 | 仏教

梵天勧請については竹橋太「本願」(『親鸞』)でも論及されている。
「釈尊は成道後、説法を躊躇した。自分のさとった法、真理をことばで説いて、人に理解させることは困難である、と考えたのである」
ここまでは小川一乗師と同じ。

では、なぜ教えを伝えることは困難なのか。
「法は「釈尊が他の人間に伝えるもの」である。これは私たちには当たり前の考え方である。実はこれそこが法に出会った人間が陥る大きな落とし穴である。事実、法は伝えようとしても「伝えられない」のである。法は「伝わる」ものなのである。自分が伝えようとしたときには「法」ではなく「法という想」、分別つまり、自分の考える法において伝えることになる。そのことを知り、分別を離れるというのが般若波羅蜜・智慧である」
伝えようとすることは分別だから伝えられない、これは釈尊はヒューマニズムに絶望したという小川一乗説よりもうなずける。

私=仏がいて、法を伝えるべき人がいて、私が法を伝える、ということ、そしてそれは不可能であるということ、これが聖道門と浄土門との違いである。
「私がいて、何かをするという実践のあり方であって、それを「聖道門」と親鸞は表現する。同じすくわれないあり方であるが、すくわれないという事実を知らないあり方なのである。自己の延長にすくいや、さとりをおいていることに気付いていないあり方である。それ故、自分はすくわれないとは思っていないのである」

では、教えを聞くとはどういうことか。
「「仏と出会う」とは直接対面することを意味するのではなくて、「この方が仏である」と理解・感覚することである。相手が仏であるとわかることは、同時にこちらは迷っている者であり、そこから出ようとしている自分がいることを知る、あるいはすくわれたいと感じている自分を知るということでもある。仏と自らの迷いとが、同時に存在しなければならないのである。そこには喜びもある」
無知であり、迷っているからこそ救われる、すなわち煩悩即菩提、生死即涅槃である。
舎利弗は「もし仏がこの世に出現しなかったならば、私は無知なままで生涯を終わらねばならなかったろう」と語ったと『大毘婆娑論』にあるそうだが、教え(=仏)に出会うことで愚者という自覚が与えられる。
「真と偽、つまり仏と凡夫、本願と迷いとが同時にしか成り立たないということが「縁起」ということであり、「生死即涅槃」ということである。すくいという出来事が起きるとき、すくう者とすくわれる者は同時に存在する、生まれるのである」

縁起について竹橋太師はこう言う。
「我々自身が縁起したものである以上、実は何一つ自分のものなどないのである。与えられたものの集積が「私」である。縁が私になっているのであって、私が縁を受け取るのではない。そういう縁起した人間のあり方は「仮」と表現される」
「生きている人生こそが自分自身なのであって、自分がいて人生を生きているのではないということである。しかし、それは私たちには基本的には不可能なものの見方なのである。いつも外から自分自身を眺める構造は克服できない」

梵天に勧請された釈尊は法を説くことにする。
「すくいを求める心、仏になろうとする心に触れることによって、自らの願は、その菩薩個人がなしたものではないことに菩薩自らが、気付くということである。
それに気付くことができたときに説法の躊躇が克服され、菩薩は求道において「不退転」になるのである」

正直、よくわからないところが多々あるものの、何となく刺激を受けつつ納得したのでした。

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