半藤一利、御厨貴、原武史『卜部日記・富田メモで読む 人間・昭和天皇』が天皇フリークである私にはおもしろく、それで原武史『「昭和天皇実録」を読む』も読みました。
『「昭和天皇実録」を読む』によると、「実録」の最大の問題は、天皇には戦争責任がないというスタンスで一貫させようとしており、昭和天皇は退位について考えたことがなかったという点です。
『木戸幸一日記』下巻や木下道雄『側近日誌』では、退位についてより踏み込んだ発言を昭和天皇はしている。
「実録」では、そのあたりの史料が引用されつつも、しかしかなり改竄されている。
昭和天皇は立憲君主であると意識し、自分の意見を言うことはなかったとされますが、そんなことはありません。
裕仁は天皇になると、かなり露骨に政治に対する関心を表明しています。
田中義一首相に、小選挙区制が導入されることによって無産政党が議会に進出できないような体制になると、逆に直接の行動をとるなどかえって不安定になる、合法的に議会に進出させておくほうがかえって安心ではないかと問うています。
戦後も昭和天皇は自分の意見を述べています。
天皇は「人間宣言」の修正案に対して、「天皇を以て神の裔なりとし」と訂正されたことに不満を漏らしており、現人神であることは否定しても、神の子孫であることまでは否定していない。
大日本帝国憲法の改正にあたり、松本試案に対し、松本烝治に意見を述べている。
「万世一系」自体には信念を持っていた昭和天皇は、大日本帝国憲法を根本的に変える必要性を認めておらず、天皇の憲法認識は日本国憲法とはほど遠かった。
また天皇は、木下道雄に自らの信条(「物事を改革するに当たっては反動が起きないよう緩やかに改革すべきこと」「宮内府改革の一環である人員削減については緩やかに行う方が良い」)を片山哲首相に伝えるよう依頼をしている。
首相や閣僚が天皇に対して国政の報告を行う内奏は、戦後も続き、芦田均外相は、新憲法になり、天皇が政治に立ち入るような印象を与えるのはよくないと書いている。
警察官が射殺された白鳥事件に共産党が関与していると疑われた事件に対しては、国家地方警察本部長官に進講させている。
昭和天皇は革命を恐れていたのです。
半藤「昭和天皇という方は、お気の毒なくらい、自分の地位がおびやかされるんじゃないかと、いつも不安に思っておられました」
戦争責任を取って退位する可能性もありました。
昭和天皇が戦争を終わらせようとしたのはいつなのかはわかりません。
1944年6月、高松宮は軍令部の作戦会議の席上、次のようなと発言をしている。
既に絶対国防線たるニューギニアからサイパン、小笠原を結ぶ線が破れたる以上、従来の様な東亜共栄圏建設の理想を捨て、戦争目的を、極端に云つて、如何にしてよく敗けるか、と云ふ点に置くべきものだと思ふ。(『細川日記』)
ところが昭和天皇は1945年に入っても、米軍を叩いて有利な条件で戦争を終結させるという一撃講和論に固執し続け、4月には、米軍が沖縄本島に上陸する前に日本軍が先手を打って上陸し、迎え撃ってはどうかと提案しており、戦争を止めようとする気配は感じられないと、原武史氏は言います。
5月、空襲で宮殿がほぼ全焼、大宮御所も全焼する。
6月、東郷外相に戦争の早期終結を希望している。
ところが、貞明皇太后にとって戦争終結という選択肢はなく、あくまでも戦争を継続し、本土決戦をする意志を持っていた。
昭和天皇が戦争の早期終結を願う一方で、戦い抜くという選択を捨てていないことには皇太后の意向が反映している。
昭和天皇と母親である貞明皇后との関係はうまくいっていなかったそうです。
1945年5月25日の深夜、空襲で大宮御所が焼けた直後、高松宮は「大宮様(皇太后)ト御所トノ御仲ヨクスル絶好ノ機会」と、『高松宮日記』に書いている。
原「昭和天皇は、思い込んだら母親に対してだろうが、ずばずばストレートにものを言う。一方、秩父宮は如才なくて、母親に反発することはなく、むしろ母親が喜ぶことを言えるようなところがあって、母親との関係を見る限り、秩父宮のほうがはるかにいいということを1922年の段階で言っているんです。そんな秩父宮を貞明皇后が溺愛したのは有名な話です」
敗戦後、皇族が積極的に天皇の退位について発言をしているし、皇太后も退位すべきだと考えていた。
もしも退位したら皇太后が摂政になるかもしれないことに、昭和天皇は恐れを抱いた。
御厨「兄弟や皇族との関係も含めて、昭和天皇は何度もそういう修羅場をくぐってきた。しかもそのたびに勝ち残っているんだから、そのサバイバルな強さって、なまはんかはものではないですよ。なかなかの策士です」
終戦直後、昭和天皇はキリスト教、それもカトリックへの改宗を考えていたというのですから驚きです。
原「ローマ教皇庁のガスコイン駐日代表が天皇のカトリック改宗の可能性につき本国に報告しているとか、あるいは、次期のローマ教皇と目されていたスペルマン枢機卿が来日して、天皇に実際に会っている」
御厨「たしかに改宗計画はあったと思いますよ。この時期の天皇は、ある意味でのサバイバル戦略から、生き抜く可能性のあるものは何でも触ったと思う」
戦前から天皇、皇后とキリスト教(特にカトリック)の関わりがあったが、戦後は関わりが深まり、多くのキリスト教徒と会って話を聞いたり、聖書の講義を受けている。
皇太子の家庭教師としてヴァイニング夫人が来日したのは、天皇自身の決定によるものだった。
聖園テレジア(ドイツ出身の修道女で、1927年に日本に帰化している)は「日本が戦争に負けたのは、国民に信仰が足りなかったことに原因すると思います」と語り、天皇も
こういう戦争になったのは、宗教心が足りなかったからだ。(徳川義寛『侍従長の遺言』)
と言っていますが、責任逃れという感じを受けます。
我が国の国民性に付いて思うことは付和雷同性が多いことで、(略)将来この欠点を矯正するには、どうしても国民の教養を高め、又宗教心を培って確固不動の信念を養う必要があると思う。(木下道雄『側近日誌』)
神道には宗教としての資格がなかったということだと、原武司氏は言います。
原武史氏は、昭和天皇の退位問題とキリスト教への改宗問題はセットで考えられるべきものだと説明しています。
退位をしないでどのように責任をとるか、それを考えたとき、神道を個人的に捨てて改宗するという可能性が出てきた。
原「だけどここは僕の深読みですが、やっぱりここでもまた皇太后との確執があるように思えるんです。
大正天皇が死去する2年前あたりから、貞明皇后が急速に神がかっていき、筧克彦の講義を受け、筧が唱えた「神ながらの道」の熱心な信者となる。
天皇がカトリックに接近したのには思惑があった。
皇太后の呪縛から逃れることができず、最後の最後まで敵国撃破を祈ってしまった天皇は、神道を捨てることで深い反省の念を示して自らの戦争責任に決着をつけると同時に、ローマ法王庁を中心とするカトリックに身をゆだねることで、表向きはアメリカと協調しつつ、その実アメリカに対抗できる別のチャンネルを確保しておきたかったのではないでしょうか。
東京裁判が結審し、自らは免訴となる。
1950年まではカトリック教徒との密接な関係が続いているが、サンフランシスコ講和条約が締結された1951年以降は少なくなる。
日米安保保障条約が結ばれることで、ローマ法王へと接近し、別の枠組を模索する道も途絶えた。
昭和天皇と母親との確執を中心として、戦争終結、そして改宗問題を映画にしてら、すごくおもしろいものになりそうです。