なぜオウム真理教は事件を起こしたのか、信者はなぜ従ったのか、その理由の一つは傲慢さかなと私は考えていた。
西田公昭「オウム真理教信者被告人の心理についての法廷意見」に、
「メンバーは強烈なナルシシズムで自己集団をとらえるようになる一方で、外集団は「救済」を必要とする愚かで誤った存在としてとらえ、われわれにとってのいかなる反社会的行為に関与しても独善的に解釈するようになるのだ」
「心理学的には、これらの解脱、輪廻、シヴァ大神の意思による救済の教義は信者の人生観に深く影響して強烈なナルシシズム(自己愛観)とシニシズム(冷笑観)を与え、個人の生き方や具体的な行動体系を完全に決定づける役割を果たしている」
とあり、オウム真理教信者のナルシシズムとは、
「現代社会に生きる人々を、堕落して生きがいを見失った哀れな者とみなす信者にとってみれば、自己とはすなわち、輪廻の中で起こしてきたと言われる悪の行いの蓄積を意味するカルマ(業)にまみれたものではあるが、教団での修行によってカルマを落として魂の価値を高め、その結果、解脱して絶対的な幸福を獲得できるばかりか、他者にも幸福を分け与えられる可能性を秘めた存在である」
「解脱や高い理想の実現や神の権威によって自我が膨張し、自己やオウム真理教を、特別に非凡な存在として自覚していた」
というエリート意識であり、シニシズムとは、
「一方、オウム真理教のことを知らない、あるいは敵対する人々を愚かで哀れなる対象として皮肉り冷笑さえしていた」
という愚民意識である。
「そして教団に出家しその霊的ステージや組織での格付けが上がるごと、さらに一般には、教団に長くいた信者ほど、自我は膨張し、非信者との心理的距離は離れていったといえよう」
実際、元信徒のこういう声がカナリアの会編『オウムをやめた私たち』に載っている。
「誰に対しても優しく接しなければいけないって言うけれど、相手がオウムに入信しなければ自分とは縁のない存在になってしまう。私も、一般の人に対して、自分は修行をしているから、あなたたちよりも上なんだって感じるようになってしまったし、みんなそうでした。
上へ行くことばかりを目指して周りを見下していく…」
「ドンピシャリと教団の教えが私の心を捉えたのです。真理の教えを説く偉大なグルと、そのグルの下に集まった前生からの縁深き弟子たち。われわれが修行で培った神秘的な力によって、この意味もへったくれもない矛盾だらけの世の中をハルマゲドンでぶっつぶし、真理の世界を築くんだ!
「わたしはこーんな素晴らしい偉大な体験をしたんだ!」と思い込ませてくれる教義と修行の先達がいます。それによって、「こーんな素晴らしい体験できた私というものは実は特別な使命を持って生まれてきた選ばれた民なんだ」という気持ちにさせてくれるのです」
「オウムには「自分たちは社会の人たちよりえらい」っていう選民思想があって、中にいたときも、そんな傲慢な考えはやめようって思ったけどダメだった。でもオウムをやめてからよくわかった。自分は他の人たちよりえらいっていう考え方、実はまったく違うのよね。
私の友だちで、口を開けば男の子としか話さない人がいて、ずっと私は彼女のことバカにしていたんだけど、よく話を聞けば、家族が病気だったりとか大変な思いをしている。くだらない話ばかりしていても、陰ではつらい思いをしている人もいるのよね。(略)ああ、みんな大変だったんだ、私の見方が狭かったんだってことがよくわかったの。みんながんばって生きているんだ。自分だけがイヤな思いをしていると思っていたけれど、でも、みんな克服しようとしてがんばっている。それなのに何で私は逃げちゃったんだろうって思った…。(略)
それで、オウムをやめてからいろいろ考えた。自分が他の人と違うって思いすぎてた、バカだったなあって感じるようになった。みんないろんなことを考えているし、それを口に出さないだけってこともあるだろうし、世の中に対して疑問があっても、まずは生活をきちんとしようってことでお金を稼いでいるんだし。私なんて入信したとき学生だったから、お金も稼げないくせに、結局、親に頼っていたんじゃないのって」
あるいは、瀬口晴義『検証・オウム真理教事件』に載っている元信者の声。
「ヨーガ理論の真我(アートマン)の概念だけを取り出し追求すると、他者に対して無関心となり、教義や理念の押し付けが平気でできるようになる」
「肉体に執着しなくなり、過去、未来を見る目が備わり、宇宙の実相が瞬時に分かるような状態。そして、物事にとらわれることがなくなり、多くの人をリードできる知恵が湧き出ることが解脱だと考えていました」
こうした選民意識はニューエイジではよく見られる。
1,今の私とは違う「もう一つの私」があり、それが「本来の私」である。そして、今のこの世界とは別の「本当の世界」がある。
2,「本当に自分」「本来の世界」に目覚めることが「霊性の覚醒」「意識の覚醒」であり、そのためには、瞑想・苦行・薬物などによる神秘体験、あるいは超常体験による「自己変容」「意識の変容」が必要である。
3,「霊性の世界」にはいくつものレベル、ステージがある。生まれ変わりをくり返しながら霊的に成長し、「意識レベル」を向上させ、霊性を完成させることが人間に生まれた目的である。
4,「高次の意識」を獲得する者が増えれば、人類は「進化」する。「個人の変革」が「世界の変革」をもたらす。
一人でも多くの人の霊性が向上することで霊性の高い新人類が生まれる、ニューエイジの思想に目覚めて意識レベルが向上した私は、人類を導く指導者の一人なんだ、ということである。
オウム真理教はニューエイジ系新宗教だと私は思ってます。
諸富祥彦氏も江原啓之氏のこんな人類進化論を著書に引用している。
「私は、江原さんは、「あやしいけど、有益」なメッセージを発している方だと思います。
江原さんのメッセージは明快です。
「私たちが一番大切にしなければならないことは、『たましいの成長』です。それこそが私たちの『人生の目的』なのです」(略)
さらに、次のような壮大な展望をも語っています。
「私たちは実は人間ばかりでなく、日本、そして地球人類全体の進化・向上をも担っているからです。地球のカルマは日本のカルマでもあり、それはまた私たち個人のカルマなのです。
私たちはこの宇宙を、地球という星を浄化させるために生きているのです。私たちの究極の目的は、この星を浄化させ神の国とし、神の光の粒子となっていくことなのです」
ただの霊能者でないことは、このことばだけでもわかりますね」(『人生に意味はあるか』)
私にはただの霊能者じゃなくて、ただニューエイジャーとしか思えないのだが。
江原氏もカルマの浄化を説いていることに注意。
またまたこじつけだが、ポアと児童虐待をする心理は似ているように思う。
というのが、選ばれた私が一般人を導いてやらなければという使命感(お節介)がポアに結びついたように、子供へ虐待する親も本人のためを思ってのしつけだと言う。
どちらも相手のことを思って行なう善意の暴力である。
本人の将来のためなんだということが、手段(殺人、暴力)を正当化しているわけだ。
傲慢さ、エリート意識は暴力性に結びつきやすいのだろうか。
だけども、エリート意識、教化者根性は既成教団の聖職者や信者も持っている。
やっぱりこじつけかな、とも思ったりするわけです。
・なぜオウム真理教は事件を起こしたのか
・なぜ信者たちは指示に従ったのか
前者の答えは教祖の意思ということだろうし、後者の答えはマインド・コントロールだと、とりあえずは思う。
だけど、どうもすっきりしない。
変な教えを説いているからカルトというわけではなく、信者の心をマインド・コントロールによって縛るのがカルトである。
マインド・コントロールとは何か、某氏にいただいた「脱カルト協会報」第9号に、西田公昭「オウム真理教信者被告人の心理についての法廷意見」という論文があり、そこから引用します。
「マインド・コントロールとは、他者がみずからの組織が抱く目的成就のために、本人が他者から影響を受けていることを自覚しないあいだに、一時的あるいは永続的に、個人の精神過程や行動に影響を及ぼし操作することである」
「この影響力は、個人の意思決定をある計画に沿った方向に誘導するものであるが、それが強力に作用した場合には、自己破壊的行動や社会的規範を著しく逸脱するような判断や行動さえも辞さなくさせる」
「支配者の指示があると黙々と服従することを常とするのであって、その指示が仮に良心の呵責にふれても、あるいは、これまで説かれた教義と矛盾していると感じても、自分の判断力より遙かに優ると見なして疑わない教祖が指示する限り実は正しいことである、あるいは救済として仕方ないことであるとみなしたりして自己説得する」
マインド・コントロールによって、何が善で、何が悪か、今まで持っていた判断基準が壊され、自分では判断ができなくなり、与えられた判断基準をそのまま受け入れるようになる。
「マインド・コントロールを悪用する危険な団体(破壊的カルト)は、ある個人をメンバーに引き込むと、その人の新しい「意思決定の装置」に、われわれの社会価値では受け入れがたい信念をも盛り込む。こうした信念に基づく活動は違法であっても全面的な正当化が行なわれ、神や天才と位置づけられるリーダーへの絶対服従と自己決定の著しい制限が個人や社会の問題の究極的解決に必須の条件とされる」
面白いと思ったのが次のことである。
「もし仮に教祖の指令が本件のような凶悪な犯罪ではなく、社会的に是認されるような行動であるならば、彼らは直ちに社会的に望ましい行動もまたいつでもとることができたのである」
つまり、なぜ事件を起こしたのか、それはそれぞれの事件の実行犯の意思ではないということになる。
しかし、霊魂や死後の生を実体化したり、神秘体験を絶対化する教義を説いている教団は珍しくない。
マインド・コントロールをしているカルト集団のすべてが暴力事件を起こすわけではない。
社会から批判を受けている教団や団体がすべて暴発するわけでもない。
たとえばヤマギシ会。
ヤマギシ会も全財産を寄付して共同生活を営む閉鎖的集団という点ではオウム真理教と似かよっている。
そして、元村人・元会員のヤマギシ会実態暴露、元村人が財産返還を求めた訴訟、新聞の批判記事、弁護士会からの警告書といった、外部からの圧力も加わっている点も同じ。
だけど、ヤマギシ会の暴力性は子供への虐待など、内部に向かっていると思う。
それに米本和弘『新装版 洗脳の楽園』によれば、ヤマギシ会は以前とはすっかり様変わりしているそうだ。
子どもを預けていたヤマギシ会の会員が子どもを引き取るようになった。
99年に、売り上げが激減したためにヤマギシの村では労働の担い手がだぶつき、村人が外で生活を始める方針に変わった。
00年には中心となっていた人たちがヤマギシ会を離れて、別のところで集団生活を始めた。
94年には2,500人の大人と2,500人の子どもがヤマギシ会の実顕地で暮らしていたのが、07年には大人1,300人、子ども200人に減少しているそうだ。
たしかに「ヤマギシの卵は本物の卵です」という販売車からの声を聞かなくなった。
多くのカルト宗教・集団はそれなりに社会に適応しているというか、要領よくやっているのに、なぜオウム真理教は事件を起こしたのか、どうもわからない。
広瀬健一氏の説明によると、ポアの理屈はこういうことである。
「麻原は「ヴァジラヤーナ」の教義に基づく救済を説きはじめました。現代人は悪業を積んでおり、苦界に転生するから、「ポア」して救済すると説いたのです。「ポア」とは、対象の命を絶つことで悪業を消滅させ、高い世界に転生させる意味です。この「ポア」は、麻原に「カルマを背負う―解脱者の情報を与え、悪業を引き受ける―」能力があることを前提としています」
「麻原は仏典を引用して、「数百人の貿易商を殺して財宝を奪おうとしている悪党がいたが、釈迦牟尼の前生はどうしたか」と出家者に問いました。私は指名されたので、「だまして捕える」と答えました。ところが、釈迦牟尼の前生は、悪党を殺したのです。これは、殺されるよりも、悪業を犯して苦界に転生するほうがより苦しむので、殺してそれを防いだという意味です。それまでは、虫を殺すことさえ固く禁じられていたので、私にはこの解答は思いつきませんでした。しかし、ここで麻原は、仏典を引用して「殺人」を肯定したのです」
仏典の引用ということで思いだしたのだが、ある坊さんが釈尊は死刑を肯定しているとして、指が毒に犯されてそのままにしてたら死ぬとしたら、腕を切り落とせと釈尊は言っている、という話をした。
私は不勉強にしてこの話を知らないが、たとえというのはどういうふうにも解釈できる。
釈尊は場合によっては人を殺すこともやむを得ないと説いていると、この坊さんが主張するのなら、ポアという理屈で殺人を正当化した麻原彰晃に反論できないと私は思う。
ポアについて別の信者はこう語っている。
「論理的には簡単なんですよ。もし誰かを殺したとしても、その相手を引き上げれば、その人はこのまま生きているよりは幸福なんです。だからそのへん(の道筋)は理解できます。ただ輪廻転生を本当に見極める能力のない人がそんなことをやってはいけないと、私は思います」(村上春樹『約束された場所で』)
「彼らはカルマの法則を信じて、来世に天界にいくと信じている。ポアされたのは素晴らしい良縁なんだという幹部の話を信じている」(瀬口晴義『検証・オウム真理教事件』)
これからの人生で悪いことをして悪道に落ちるのがわかっていたら、罪を作る前に殺すことは悪道に落ちることを防ぐのだから慈悲になる、というポアの理屈は、カルマの法則を信じるならば筋が通っている。
これまた以前に書いたことなのだが、日本やチベットの仏教でも呪殺が行われていた。
羽田野伯猷『チベット人の仏教受容について』によると、11、12世紀にチベット仏教では、Vajrabhairavaというタントラが度脱に関する代表的聖典であり、呪殺による度脱を最たる目的としていた。
もっともこのタントラは、当時のチベット密教によってすらも外道の烙印を捺されていたそうだ。
Rwa翻訳官という「度脱においてはチベットにおける第一人者と称して差し支えない人物」がいて、Rwa翻訳官は多くの僧や外道たちを度脱、すなわち呪い殺していたということで有名だった。
Rwa翻訳官は「度脱、呪殺事業は利他行である。方便善巧の大悲行である。仏の大悲である」と、オウム真理教と同じことを言っている。
当時のチベットでは、Rwa翻訳官に限らず優れた僧とされていた者はこうした能力を有しているとされており、そういった呪力を持つ者が畏れられ、尊敬されていたという。
輪廻、霊魂、カルマなどの実体化は殺人を肯定する理由になるわけだ。
ただし、日本やチベット仏教の場合、直接に手を下して殺したわけではないし、呪殺できる能力を持つ者が行なっていたわけで、上の者が命令して殺させたオウム真理教とは違っているが。
殺人は罪だが、場合によっては許されるという理屈、これは脳死による臓器移植もそうだ。
脳死が人の死であることに決めて、脳死だから殺人ではないとしただけのことである。
またまた死刑だが、
・罪の償い→カルマの清算
・再犯防止→ポア
だからOK、ということになると思う。
戦争も同じ。
渡部昇一氏が南京虐殺を否定する意見の中で、便衣兵はゲリラのようなもので一般人と見分けがつかない、だから便衣兵だと間違えられて一般人が殺されるのはやむを得なかった、ということを言っていた。
こんなふうに例外をどんどん作っていけば、戦争における殺人はすべて正当化される。
カール・メニンガーという精神科医によれば、「すべての自殺は殺人だ」そうだ。
では、安楽死や尊厳死という自殺はどうか
ロバート・I・サイモン『邪悪な夢』によると、
「年配者や慢性疾患や不治の病に冒された人びとの、考え抜いた末の自殺が、理性的であるかどうかの判断は難しい」
「多くの場合、そばに付き添っていた人びとは、患者が、もう十分に長く生きたから、ここらで死のうと理性的判断を下したものと思っている。だが、そういう患者はたいてい抑鬱状態にあり、ほんとうのところは理性を失っての自殺だ」
「末期患者が治療を拒否すれば、自殺を図っていると思われがちだが、かならずしもそうではない。彼らは死にたいのではなく、苦しいだけの無意味な治療から自由になって生きたいのかもしれない」
となると、安楽死や尊厳死もそう簡単に認めるわけにはいかなくなる。
殺してもかまわない特例を認めるとして、その特例の是非を判断する人によってどのようにでも恣意的なってしまう。
安楽死・尊厳死を認め、そうして臓器移植しようとする人が出てきそうな気がする。
だから、どんな場合でも人を殺すことは認めるべきではない。
で、疑問。
ロバート・I・サイモンは「殺人が細部に至るまで緻密に計画されたものであっても、犯人がそれを悪い行為だと判断できるとはかぎらない」と言うが、これはまさにオウム真理教の事件が相当する。
広瀬氏たちオウム真理教の信者は「私はいわゆる幽体離脱体験(肉体とは別の身体が肉体から離脱するように知覚する体験)などもあったので、私たちの本質は肉体ではなく、肉体が滅んでも魂は輪廻を続けるとの教義を現実として感じていました。そのために、この世における生命よりも、よりよい転生を重視するオウムの価値観に同化していました」と地獄や来世の実在を信じ、生まれ変わるのだから死んでも死なないと考え、
「私たちは地下鉄にサリンを散布する指示を村井秀夫から受けました。麻原の意思とのことでした。その指示は、当時の私には、苦界に転生する人々の救済としか思えませんでした。一般人が抱くであろう「殺人」というイメージがわかなかったのです」
つまり殺意はなかったということになる。
ロバート・I・サイモンは「ビルから飛び下りても怪我をしないと思い込んでいる人間に、死ぬ意思はあるのか?この場合、自殺の意思はなかった、と私は考える」と問うが、同じように、死は終わりではない、来世もしくは死後の世界があると信じている人が殺人を犯し、殺意がなかったと主張したら、裁判官はちょっと困るんじゃなかろうか。
オウム真理教の信者にとっては、罪を自覚することがオウム真理教の教義を離れたということになると思う。
カルマやケガレのことなどを考えていて、ほんとたまたまなのだが、渡瀬信之『マヌ法典』(原典訳ではなく解説書)を読み、マヌ法典は日本のケガレ観にも大きな影響を与えているのか、なるほどそうだったのかでした。
マヌ法典は法律書ではない。
紀元前後に編纂された書物で、ダルマという原語から法と訳されたのであり、この場合のダルマとは、ヴァルナ体制(カースト制)という社会秩序原理の理念化、と同時に人間の正しい行動様式の確立ということである。
「人々の社会機能と日常的な行動の準則ないし規範を一体としてダルマと呼び」、「それの究極の権威、根源」がヴェーダということになる。
マヌ法典、すなわち古代インド社会においては、浄・不浄観が社会、個人の価値観の中心である。
人は常に清浄であることを求められる。
古代インドの浄・不浄観で特徴的なことは
「罪が汚れと同一視されたこと」
「汚れ・罪が実体視されていたこと」
だそうで、やっぱりそうかとムフフでした。
罪を犯す、あるいは汚れに汚染されると不浄となり、社会から排除されるし、死後にも悪影響がある。
主な不浄は誕生と死である。
古代インドでは、誕生と死は強い汚れを引き起こす出来事とされた。
汚れ=罪は実体だから、接触した他者に移動し、親族も汚される。
誕生と死の汚れは本人だけではなく、近親者をも巻き込む。
誕生に伴う汚れは生まれてくる子供に強く作用する。
「この時期(幼児期)の子供は誕生に際して父母から受け継ぐ罪のために不浄な存在であり、シュードラと同等視される」
誕生の汚れは実質上母のみが巻き込まれる。
それに対して死の汚れは、乳児の死であれ成人であれ、全親族を汚れによって汚染する。
「死が生じるとき、その汚れはかれらから葬送儀礼以外のいっさいの儀礼を行なう資格を奪い、かつかれらを不可触にしてしまう」
家族が死ぬと不浄期間が規定されていて、それを守らないといけないのだが、中国や日本の服喪期間ほど長くはない。
中国の場合、父親が死ぬと三年間(実質は一年ちょっと)喪に服さなくてはならない。
もっとも中国の服喪の意味は死のケガレを忌むということではなく、親が死んで悲しみのあまり外に出ることができないということらしいが。
で思うのが、死がケガレだから、生前にいくら浄化していても、死ぬと同時に霊魂にケガレがついてしまう。
となると、生まれ変わってから清めるかしないといけないということになる。
で、また死ぬとケガレがついてしまう。
これではいつまでたっても浄化されることはないことになる。
そこらをどのように考えたのだろうか。
それはともかく、不浄は他から移ることがあるので用心しないといけない。
たとえば、飲食物を介して汚れ、罪が移る。
「飲食物に関するタブーは、古代インド人に特徴的な浄・不浄観および罪観念と不可分であった」
バラモンは不浄な飲食物を食べてはいけないし、飲食物を供してくれる相手の人間についても慎重でなければならなかった。
「たとえ食べ物それ自体は不浄でなくてもそれを供する人間を通じて汚れや罪が移行することを恐れたのである」
不浄物と接触した飲食物の中には、月経中の女が触れたもの、鳥がついばんだもの、犬が触れたもの、頭髪や虫が混入しているもの、意図的に足が触れられたもの、産後の女に用意されたもの、死による十日の汚れが過ぎていない家の食べ物などがある。
死、生理、出産は犬や虫と同じ扱いなわけである。
飲食物の受け取りを回避すべき人間のリスト。
大工、金貸し、医者、鍛冶屋、造り酒屋、洗濯屋、役者、遊女、泥棒、屠畜者、病人、男子を持たない女、妻の言いなりになっている男、前世の罪による疾病あるいは身体的な欠陥を有している者、シュードラ、都市の長官、王etc。
贈物も汚れが移る可能性があるから、バラモンは贈り物を受け取ることに慎重でなければならない。
バラモンもなかなか大変なのである。
行為の因果作用は行為者だけではなく、祖先と子孫にまで及ぶとされる。
マヌ法典ではこのように説かれる。
「この世においてなされた不正は雌牛[が乳をだす]ように即座には結果を生まない。しかし徐々に巡り来て行為者の根を断ち切る。
[罪は]自分に[降り掛から]ないときは息子たちに[降り掛かり]、息子たちに[降り掛から]ないときは孫に[降り掛かる]。不正は一度なされれば行為者に結果を生まないことはない。
[結局は]その者は根底から破滅する」
人は先祖の罪を背負って生まれてくることになる。
だから、「子供(息子)の「家」にたいする最大の責務は、祖先と子孫を罪から解放することであった」
では、不浄だとどうなるのだろうか。
清浄であることは死後の果報を得るための不可欠の要件である。
「死後の最も好ましい在り方は、神界、太陽界、月界、天界あるいはブラフマンの世界へ到達されることであるとみなされた。(略)そこは少なくとも不滅ないし不死の、そこに到達したならば二度とこの世には戻らない世界であった。ひとは死後これらの世界に到達し、そこで栄え、幸福を手にし、そして征服することを究極の願いとした」
逆に不浄は、この世における人々の非難と社会からの排除をもたらし、あの世の果報を失わせる。
「永遠と不死を約束する天界等の世界に対置されたのは「滅亡」、「地獄」そして「再生・転生」であった」
汚れの中でも罪による汚れは最も悲惨な結果を引き起こすと考えられた。
「この世で悪行をなした者は死後地獄に落ち、罪の大小にしたがって百年、千年あるいは流れた血を吸い取る砂の数の年数を地獄で苦しみ彷徨った後、再びこの世に戻り、様ざまの獣、鳥、家畜、虫あるいは蔑視されている人間の母体に入って転生する」
「さまざまな疾病や身体の欠陥は前世において罪を犯した報いに他ならなかった」
天界に生まれるか、それとも滅亡したり地獄に落ちて転生するかは、この世においてどのような行為をするかによって決定されるとみなされた。
汚れ=罪は実体だから、除去することが可能である。
不幸にして汚れに汚染されたなら、速やかに清めを実行して汚れを消滅させ、心身の清浄を回復することが不可欠となる。
罪は汚れと同一だから、罪の清め、すなわち贖罪も他の汚れの清めと同じに取り扱われる。
では、どのようにして清めるのか。
「生まれる者自身は受胎式に始まる一連の儀礼によって清められ、一方、死者は葬送儀礼によって清められる」
幼児は受胎式、誕生式、命名式、入門式などいった、定められた一連の儀礼を受けることによって身体を徐々に清めていき、ブラフマニズム世界に加入するための準備を整える。
「これらの儀式によって幼児は徐々に父母から受け継いだ罪と汚れから清められていく」
家長になると、重大な祭式は祖霊祭である。
罪を犯した場合、この罪にはどういう苦行や清め(水をすする、沐浴、聖句を呟くなど)をするかはマヌ法典に決められている。
もっともこうした規範はバラモン、そしてせいぜいクシャトリア、ヴァイシャが守らなければいけないとされていた。
面白いのが、バラモンの正規の生計手段はヴェーダの教授、司祭職および贈物を受け取ることだったが、実際にはいろんな職業に就いていたという。
博打打ち、医者、寺僧、肉売り、高利貸し、油売り、賭場監督人、占星術師、建築士、庭師、農夫、羊飼い、歌舞芸人など。
なぜ農業がだめかというと、農業は生き物を殺すことになるから、できれば避けるべきだとされた。
自分たちは生産的なことは何一つせず、自分に代わってしてくれる人たちを差別し、汚れ=罪を作っているのだから来世にはいいとこには行けないと脅しているわけで、勝手なもんだと思う。
日本でも同じようなもので、河田光夫氏によれば、平安時代に悪人とは差別され、虐げられている下層民、のことである。
具体的には、農民・漁夫・狩人・手工業者・商人、そして屠者や癩者、さらには女性たちが悪人であり、悪人であるがゆえに死後に苦しみが待っているとされた。
日本ではもともとケガレという観念がなく、仏教伝来と一緒に日本に入ったという説があり、神道はケガレを嫌うんだからそんなことはないだろうと思っていたのだが、案外とインド渡来説は正しいかもしれない、というのが『マヌ法典』の感想でした。
臓器移植法が改正され、脳死が人の死となったので、こちらの感想を。
またまたこじつけだが、オウム真理教のポアと脳死による臓器移植は命の軽視ということでつながっているように感じる。
ポアのことはしばらくおいといて、私は臓器移植自体は賛成だが、脳死による臓器移植には反対である。
そんなことを言うと、「自分の子供が臓器移植しないと助からなくても反対なのか」と、死刑の時と同じように言われるかもしれない。
それに対しては、「だったら、自分の子供が脳死になったらどう思うのか」と聞きたい。
脳死による臓器移植にしろ死刑にしろ、人の命を軽く考え、もの扱いすることだと思う。
毎日新聞に、移植待機患者とその家族の支援活動をしている「サポートハウス親の会」代表理事のこういう意見が載っていた。
「これまで移植を受けた患者が、医療費の負担や社会復帰の困難に直面する姿を間近に見てきた。特に「大切な『命』をもらったのだから」と気兼ねする姿に歯がゆさを感じてきたという。「脳死が人の死と定義されたことで、移植を受けることの精神的負担が軽くなり、患者が生活支援の要望などで声を上げやすくなるのでは」と話した」(毎日新聞7月14日)
臓器移植を受けた方がどういう思いをされているかを私は知らないし、この方がどういう文脈で話されたかわからないので、この文章だけを取りあげてあれこれ言うべきではないのだが、しかし臓器移植しても気兼ねをしなくなるとしたら、それこそ臓器はモノだということになる。
家族が亡くなって、故人が使っていたものや服など、そう簡単には捨てられない。
まして肉体となると、死んだからといって割り切って処分できるものではないだろう。
同じく毎日新聞の記事から。
◇「これで助かる子が」…海外で移植経験
05年にドイツに渡航して心臓移植を受けた小学6年の女児(12)の父親(49)は「日本には技術があるのに、なぜ子どもの心臓移植ができないのか疑問だった。国内での移植へ向けて前進した」と成立を喜んだ。
脳死による臓器移植をするということは、どこかの誰かが死んだということである。
臓器移植を望むということは、どこかの誰かが早く死んでほしいと願うことである。
焼いてしまうんだから、どうせなら臓器は有効に利用しないと、ということである。
脳死とはいえ生きている人の臓器をもらってまで長生きしようというのは、こう言っちゃ何だが、欲だと思う。
◇「最低限のみとりを」…5歳長男が提供
「自分の子や孫が目の前で脳死になっても喜んで臓器提供するんですね、と賛成議員に一人ずつ問いたい」。25年前、5歳だった長男が心停止後に臓器提供に応じた愛知県豊橋市のタクシー運転手、吉川隆三さん(60)はA案可決を家族の電話で知り、声を震わせた。
84年、長男忠孝君が急病で脳死状態となり、心停止後に腎臓を提供した。「他人の体を借りてでも息子を生かしたい」との親心からだったが、「これで良かったのか」と悩む日々が何年も続いた。(毎日新聞7月14日)
「これで良かったのか」と悩むことが人間にとって大切なところだと思う。
たとえば、子どもが交通事故で脳死状態になり、医者から「脳死です。臓器を移植されませんか。ほかの子どもが助かるんですよ」と言われたら、冷静な判断などできないだろう。
もしも臓器移植が美談として語られるようになれば、とてもじゃないけど断れない。
臓器移植はパンドラの箱を開けたようなものだ。
病気の人間を救いたいという願いは叶うが、さらに大きな問題を背負わないといけなくなってしまった。
たとえば臓器の売買。
梁石日『闇の子供たち』は、タイでの幼児売春、そして臓器売買を描いた小説である。
これはフィクションではあるが、事実は小説よりも先に進んでいる。
「中米ホンジュラスのカジェハス大統領は16日、臓器移植を目的に幼児を誘拐しているとされる犯罪組織の本格捜査を司法機関に命じた。メキシコ、グアテマラなど中南米各国では以前から、米国、欧州での臓器移植や養子縁組を目的とする多数の幼児誘拐が発生しているが、政府が捜査に本腰を入れるのは今回が初めてとみられる。誘拐そのものは証明されていたが、移植の確証がなく、米国政府もそういった病院、組織の存在を否定してきた。
ホンジュラス国会のロサリオ・ゴドイ議員の調査では、この半年に600人の幼児が同国で行方不明となっている」(福井新聞1993年4月18日)
日本でも子供の臓器移植が行われるようになれば、臓器売買もよその国の話ではなくなる。
ホームレスが狙われるかもしれないし、認知症の人や重度の障害者だってどうなることやら。
真城義麿大谷中高校長が人材ということについて、
「人材というのは人という材料です。人間は役に立たねばならない、人材になっていかねばならんとなったら、年をとったら人材としての値打ちは下がる一方ですよ」
という話をされている。
脳死による臓器移植はまさに人間を材料と考えることなのだから。
カルマの浄化と慰霊・鎮魂と禊ぎ・祓いを日本人は同じものとして考えているのではないかということについて。
おさらいになりますが、ウパニシャッドで業思想が説かれたのは、それまでの運命論やすべては神のお考えなんだという神意説を否定し、善因善果、悪因悪果なんだからいいことをして充実した人生を送りましょうと、人間の自由意志を尊重したんだと思う(たぶん)。
たとえば、勉強しなかったのでテストで0点だった、これではいけないと思って一生懸命勉強したらいい点数を取った、というような。
ダライラマの妹ジェツン・ペマ氏の講演を聴いた。
質疑応答で「国を失うということはどういう気持ちですか」という質問があり、ジェツン・ペマ氏の答えは「チベット人は何かあると、前世のカルマでこうなったんだ、と受けとめる。そして、だったらこれからどうしたらいいのかを考えていくんだ」というようなものだった。
カルマというと何か自分を縛りつける、どうすることもできないものというイメージがあるが、本来のカルマはそんな重苦しいものではなかったのかもしれない。
それがいつの間にかカルマの法則=宿命論になったのだと思う。
で、インド人は、何らかの行為(業・カルマ)をすると、何かが残る、残ったものが後に影響を与えると考えた。
その残ったものとは実体的実在である。
たとえば、2千年以上前のハスの実から発芽して花が咲いた大賀ハスのようなもので、何かの行為をしてカルマという実体が生じてもしばらくは何の影響をもたらさず、だからといってなくなったわけではなく、ある時ひょこっと果を生じさせる。
話は飛んで、日本人はよくないことが起こる原因として、
・過去の行為(前世や先祖の行為も含む)
・霊魂のしわざ
と考えていた。(今もそう)
折口信夫は霊魂に三種あると言っている。
「純化した祖先聖霊、其にある時期において昇格飛躍して、祖霊の中に加る筈の新盆の霊魂、其に殆浮かぶことなき無縁霊」
つまり次の三種である。
1,死のケガレがついている死んで間もない霊
2,純化した先祖霊
3,ほとんど浮かぶことのない霊
死んで間もない霊には死のケガレがついているが、お祀りすることによってだんだんと清められ、そうして先祖霊と一体化し(柳田国男説)、さらに清まると氏神となる(五来重説)。
無縁霊とは「横死・不慮の死・咒われた為の死など(の不完全な死によって)迷える魂・裏づけなき魂・移動することの出来ぬ魂として、永久に残らなければならない」霊魂である。
すなわち、不完全な死、中絶した生(事故死・自殺・他殺、あるいは横死・不慮の死・呪われた死・志半ばでの死・この世に思いを残した死・怨みの残した死など、そして水子・子供)の場合は不成仏霊となる。
たとえば、菅原道真や平将門、そして戦死者などといった、思いを残して死んだ人の霊魂が無縁霊である。
水子も無縁霊なわけで、水子供養は日本の宗教観から言うと伝統的なのである。
そういう死に方だと迷える魂・移動できぬ魂になり、霊魂は死んだ場所に留まると日本では考えられた、と折口信夫は言っている。
で、霊魂も言うまでもなく実体的実在である。
こうした霊魂観は現代にも受け継がれていて、道ばたに花や飲み物が置かれていることがあるが、おそらくそこで誰かが交通事故によって亡くなったのだろう。
死んだ場所にお供えするとか、慰霊碑を建立することがごく自然な行為として受けとめられているのは、不慮の死の場合は死んだ場所に霊魂がとどまって無縁霊となり、無縁霊は他人に取りついて苦しめるので、慰霊・鎮魂しないといけないからである。
新聞の広告で「悪因縁を絶つ」とか「霊障を切る」といった、いかにもインチキだと思わせる本の題名をみるが、これらはカルマの浄化と同じ意味だと言ってもいい。
そしてケガレ。
ケガレの代表は死のケガレ、そして生理や出産の血のケガレである。
四十九日がすぎるまでは鳥居をくぐってはいけないとされ、生理中の女性は神事に参加できない。
神事があると男たちが一緒に生活することがあるが、これはしてはいけないことをしないようにするためである。
禊ぎ・祓いとはケガレや罪(ケガレが罪)を清めることである。
で思ったのが、無縁霊は不慮の死の原因となった行為(カルマ)、ケガレだとケガレとなる行為が災いをもたらすから、そうした行為によって生じたカルマを消す(浄化する)ことが供養・慰霊、もしくは禊ぎ・祓いだという解釈も成り立つと思う。
となると、稲盛和夫氏が
「大病になるとか挫折するとか、そういう災難に遭うのは、自分が過去に―先祖をも含めて―魂が積んできたカルマ、業というものが消えるときなのです」
「大地にもカルマがあります。神戸周辺は昔の源平合戦やいろんなことがあって、そこには定着したカルマがあったのでしょう。私には、そういう積み重ねられたカルマを清算するために、今度のような大震災が起きたとしか思えません」
と言っているカルマとは、無縁霊(不成仏霊)や死のケガレだと理解してもかまわないのではないだろうか。
カルマの浄化=無縁霊への供養=禊ぎ・祓いと考えてもそう見当違いではないと思う。
広瀬健一氏がどうしてオウム真理教にはまったかというと、それは神秘体験の影響が大きい。
広瀬氏の指導教授は法廷で「結局、神秘体験だと言っていた」と証言している。
広瀬氏は「私にとっては、現代人が苦界に転生することと、麻原がそれを救済できることは、宗教的経験に基づく現実でした」と、「宗教的経験」という言葉を使っている。
そもそも広瀬氏は、高校三年生のときに「生まれた意味」の問題を明確に意識するようになり、たまたま麻原彰晃の著作を読む。
「偶然、私は書店で麻原の著書を見かけたのです。昭和六十三年二月ごろ、大学院一年のときでした。その後、関連書を何冊か読みました」
「本を読み始めた一週間後くらいから、不可解なことが起こりました。修行もしていないのに、本に書かれていた、修行の過程で起こる体験が、私の身体に現れたのです。そして、約一か月後の、昭和六十三年三月八日深夜のことでした。
眠りの静寂を破り、突然、私の内部で爆発音が鳴り響きました。それは、幼いころに山奥で聞いたことのある、発破のような音でした。音は体の内部で生じた感覚があったものの、はるか遠くで鳴ったような、奇妙な立体感がありました。
「クンダリニーの覚醒―」
意識を戻した私は、直ちに事態を理解しました。爆発音と共にクンダリニーが覚醒した―読んでいたオウムの本の記述が脳裏に閃いたからです。クンダリニーとは、ヨガで「生命エネルギー」などとも呼ばれるもので、解脱するためにはこれを覚醒させる、つまり活動する状態にさせることが不可欠とされていました。
続いて、粘性のある温かい液体のようなものが尾底骨から溶け出してきました。本によると、クンダリニーは尾底骨から生じる熱いエネルギーとのことでした。そして、それはゆっくりと背骨に沿って体を上昇してきました。腰の位置までくると、体の前面の腹部にパッと広がりました。経験したことのない、この世のものとは思えない感覚でした。(略)
私はクンダリニーの動きを止めようと試みました。しかし、意思に反して、クンダリニーは上昇を続けました。
クンダリニーは、胸まで上昇すると、胸いっぱいに広がりました。ヨガでいうチャクラ(体内の霊的器官とされる)の位置にくると広がるようでした。クンダリニーが喉の下まで達すると、熱の上昇を感じなくなりました。代わりに、熱くない気体のようなものが上昇しました。これが頭頂まで達すると圧迫感が生じ、頭蓋がククッときしむ音がしました。それでも、私は身体を硬くして耐えるしかなす術がありませんでした」
本を読んだだけで神秘体験を経験するとは驚きだが、広瀬氏はそれだけ暗示にかかりやすい体質なんだろうと思う。
滝本太郎弁護士によると、中川智正被告などは子供のころから神秘体験を経験しているそうだ。
「同人に特異なことは、幼いころからさまざまな「神秘体験」をしてきており、これが不安のままに成長してきたところ、麻原彰晃に出会ってしまったということであった。被告人としては、実際に前生の自分を見ていて、日常的に物理的に麻原彰晃が光っており、麻原彰晃を見ると心臓が喜び同心円状に体に広がっていった、と言うのである。(略)法廷で麻原を見るとやはり光り輝いて見えると言うのである」(「オウム裁判10年を振り返る」)
広瀬健一氏は出家した後にこういう体験をしている。
「私は解脱・悟りのための集中修行に入りました。第一日目は、立位の姿勢から体を床に投げだしての礼拝を丸一日、食事も摂らずに不眠不休で繰り返しました。このときは、熱い気体のような麻原の「エネルギー」が頭頂から入るのを感じ、まったく疲れないで集中して修行できたので驚きました。
この集中修行において、最終的に、私は赤、白、青の三色の光をそれぞれ見て、ヨガの第一段階目の解脱・悟りを麻原から認められました。特に青い光はみごとで、自分が宇宙空間に投げ出され、一面に広がる星を見ているようでした。これらの光は、それに対する執着が生じたために、私たちが輪廻を始めたとされるものでした」
そりゃはまるわな、と思う。
こうした経験は広瀬健一氏だけではない。
「多くの信徒が教義どおりの宗教的経験をしていたのです」
「多くの信徒は教義の世界を幻覚的に経験しており、その世界を現実として認識していたのです」
信者たちはこのように神秘体験によって「オウムは真実だ」と確信したのである。
「生きる意味」を求めているうちに神秘体験をしたということでは、諸富祥彦氏(明治大学教授・日本トランスパーソナル学会会長)も広瀬氏と同じである。
すでにブログに書いたことだが、諸富氏は中2の時から7年間、「人は何のために生まれ、いかに生きていくべきか」、「人生の、ほんとうの意味と目的」という問いの答えを死に物狂いで求め、心身はボロボロになり、自殺未遂までした。
そして「七年もの間、人生の意味と目的を求め続けた結果、私は「答え」を手に入れることができた」とはっきり書いている。
その答えとは何か。
「私は、中学三年生の春から、おおよそ七年もの間、「人生の意味」を求め、いくら求めてもそれが求まらずに苦しんでいました。(略)
そんな思いで生きていたある日のこと、私はついに決意したのです。
もうこのままでは仕方がない。これから三日間、飲まず食わず寝ずで、本気で答えを求めよう。そしてそれでもダメだったら、今度こそきっぱりと死のう、と。
三日後……「答え」は見つかりませんでした。(略)
「もう、どうにでもなれ」。心身の疲労が限界にきていた私は、なかば魔が差したのも手伝って、実際に、その場に倒れこんだのです。うつぶせに。けれど、何かが、いつもと違う……。からだがとても軽いのです。不思議だな、と思って、あおむけになってみると、横たわった私の、おなかのあたりの、ちょうど一メートルほど上の位置でしょうか、そのあたりに、何かとても強烈な「エネルギーのうず」のようなものが見えたのです。
「あああぁぁ……」。言葉に、なりませんでした。
けれども、なぜだか見たとたん、わかったのです。「これが私の本体である」と。
ふだんこれが自分だと思っていた自分は、単なる仮の自分で、むしろその「エネルギーのうず」こそが、自分の本体だ。疑うことなく、そう思えたのです。
「何だ、そうだったのか」。その瞬間、すべてがわかりました。私は何であり、これから私がどうしていけばいいのか、も。(略)
その「エネルギーのうず」は、ときには私と一体化し、ときには私の頭上に場所を移して、今も私を導いてくれています」(『人生に意味はあるか』)
なんなんだこれは、という告白で、最後の段落には頭が痛くなってしまう。
どう考えてもあやしいと思う。
広瀬健一氏がオウム真理教に入信したのは、「複数のグル(修行の指導者)の指導を受けると、その異なるエネルギーの影響で精神が分裂する」との麻原の著書の記述に不安になったからである。
「クンダリニーが覚醒した以上、指導者は不可欠だったからです。私はクンダリニーをコントロールできず、頭蓋がきしんでも、なす術がなかったのです」
実際、神秘体験によって「精神が分裂」することがあるそうだ。
たとえば真光。
「霊障とは怨霊など先祖の霊が現在の自分人生の邪魔をしている現象のことです。霊動とは手が自然に震えたり、涙が出たり、自分の意志には反して身体が動く現象のことです。浮霊とはその名の通り霊が現れる現象のことです。そこで起こる体の動きを霊動と定義しております。
が、私は霊動はただ手が震えたり、涙が出てくる程度のもの全般を霊動と言っております。浮霊すると目つきや言葉遣い、体力までもおかしくなります。はっきり言ってあのような状態の人を今思い出しているだけでも恐いです」
高橋紳吾『超能力と霊能者』に、S教団の手かざし治療を受けて憑依状態になって女性(B子)のことが書かれている。
「親戚の女性に勧められて、S教団の道場へでかけ、「○○のわざ」という手かざし治療をうけた。(略)そのときはなんとなく頭が軽くなり、気分が好転した。その日いらいよく眠れるようになったので、以後、会社の帰りに何度も立ち寄り、手かざし治療をうけるようになった。
三度目に行ったところ、B子の合掌している手が震えだし、しだいに身体が前後左右に揺れるようになった。それが「浮霊」現象で、B子に憑いている霊が浮かんできたことを示していると教えられた。またB子自身も他者に「○○のわざ」を行なうことができると言われた。
あるとき、妹にこれを行なっている最中、かざしている自分の手が勝手に動きだし、止まらなくなった。そして「私は○○という武士である」と言い、顔つきがすっかりかわって、激しく身体をゆさぶり、夜の街へ裸足で飛びだしていった。驚いた妹が追いかけ自宅に連れもどしたが、それからも「私は○○(祖母)です」と言ってみたり、架空の誰かに向かって会話するなどの興奮がおさまらなくなった。親戚の女性が駆けつけたり、教団の指導者が訪れて「わざ」をかけたが効果なく、一層激しく暴れるので父親に精神科へ連れてこられた。(略)診断は祈祷性精神病。もっとも教団のその後の弁明によればこれは「神鍛え」の状態であって、もっと熟練した導士に治療をうければなにも精神科に行く必要などなかったということになるらしい」
高橋紳吾氏によれば、このような事例に遭遇する精神科医は少なくないという。
神秘体験の危険性については麻原の言うとおりなのである。
広瀬健一氏の失敗は指導者の選択を間違ったということである。
広瀬健一氏は神秘体験を絶対化することをこのように批判している。
「幻覚的な宗教的経験によっては、決して〝客観的〟な真実は検証できません。できるのは、〝主観的〟に教義を追体験することだけです。それ以上のものではありません。
ですから、宗教的経験はあくまでも〝個人的〟な真実として内界にとどめ、決して外界に適用すべきではありません。オウムはそれを外界に適用して過ちを犯したのです」
こういう認識がない諸富氏たちニューエイジャーは、神秘体験を経験させようと瞑想などを勧めているんですからね、オウム真理教やS教団と変わらない。
オウム真理教においてはカルマの浄化ということがポイントだと思う。
悪いこと(悪業を作る)をしたら地獄に落ちる。
では、地獄に落ちないためにはどうすればいいか。
・悪いことをしない。
・すでに作った悪いこと(前世のものも含む)は浄化する。
では、何か悪いことなのか。
・麻原彰晃が決める。
では、どうしたらカルマを浄化できるか。
・麻原彰晃の教えのとおり修行する。
・麻原彰晃はカルマを浄化する力を持っているから、麻原彰晃に浄化してもらう。
オウム真理教における麻原彰晃の位置を広瀬健一氏はこう書いている。
教えということでは、「信徒は煩悩を有しているために正しい判断ができず、それが可能なのは最終解脱者である麻原だけとされていました」
救いということでは、「また、オウムの教義において、麻原は「神」といえる存在でした。それは、最終解脱者であり、様ざまな「神通力」を有するとされていたからです。特に麻原は人を解脱させたり、高い世界(幸福な世界)に転生させたりする力があると主張していました。私たちに「エネルギー」を移入して最終解脱の状態の情報を与え、代わりに、苦界に転生する原因となる悪業を引き受ける―「カルマを背負う」といっていました―と説いていたのです。カルマを浄化しないと苦界に転生するのですから、カルマを背負ってくれる麻原は、まさに「救済者=神」でした。
麻原の指示が絶対だったのも、そのような「救済」の能力を有するためでした。オウムの世界観においては、苦界への転生の防止が最優先であるところ、麻原の指示の目的は、苦界へ転生する人類の救済とされていたのです」
というように、麻原彰晃は教えと救いの両方において絶対的な位置を占めているのである。
おまけに麻原彰晃はカルマを浄化する力を持っているとされた。
広瀬氏はこういう体験をしている。
「入信の一週間後に、麻原の「エネルギー」を感じる体験が現われました。麻原の「エネルギー」を込めたとされる石に触れたところ、気体のようなものが私の身体に入ってきました。そして、胸いっぱいに広がり、倒れそうになったのです。そのときは、ハッカを吸ったような感覚がして、私は自身の悪業が浄化されたと思いました。
その後も様ざまな形でこのような体験を重ねたので、私にとって、麻原が「カルマを背負う」能力を有することは現実でした」
「当時、私は街中を歩いたり、会話をするなどして非信徒の方と接したりすると、苦界に転生するカルマが移ってくるのを感じました。(略)この経験は、カルマが移り、自身が苦界に転生する状態になったことを示すとされていました。さらに、体調も悪くなるので、麻原がエネルギーを込めた石を握りながら、カルマを浄化するための修行をしなければなりませんでした」
教祖が教え主であり、同時に救い主でもあるという宗教は珍しくないし、教祖が救い主ではなくても、救い主たる神と信者とを結ぶ唯一の存在という例は多い。
そうして、カルマの浄化ということもオウム真理教の専売特許ではない。
東本願寺でもこういう記録がある。
「(文政6年)この十一月十五日、京本願寺自火にて焼亡す。近頃かの地より来し人の話を聞に、本堂に火移りしとき、宗旨のども二百余馳集りて消防せしが、火勢盛んにして防留がたく、其辺往来も協がたく成ると、半の人数は門外へ逃出たりしに、残る百人計は本堂とともに灰燼と成て失ける。その後に生残りし、又その間に合ざりし者等打こぞりて後悔し、本堂とともに焼死せし者は真に成仏して来世にを離れて平人に生れ出べしと、皆羨しとなり」(山本尚友「近世寺院の成立について」)
生き延びた「」が焼死者をうらやましがったのは、焼死者が往生できるからではなく、「平人」に生まれると思ったからということに憐れさを感じる。
本願寺のために一生懸命尽くしたら、来世では「平人」に生まれるぞと、そういうふうに坊さんは説いていたんだろう。
「」が本願寺とともに焼死したら「平人」に生まれ代わると考えたのはどうしてかというと、本願寺のために死ぬことは善業だから、あるいは「」に生まれたカルマ(悪業)が焼死することで浄化されるからだと思う。
死刑囚だった免田栄さんはこう言っている。
「浄土真宗の教誨師が来て、前世において死刑囚になる因を持っていたから現世において死刑囚になっている、故にそのままの姿で処刑されねば救われない」(免田栄『免田栄 獄中ノート』)
こういうお説教をした教誨師は、カルマの法則を信じており、処刑されることでカルマが浄化されると思っていたのだろう。
苦しみによって今まで作ってきた悪業が浄化されるということはオウム真理教でも説いている。
「たとえばなにか悪いことが起こっても「あ、カルマが落ちた。よかったね」って言って、みんなで喜んだりします。失敗しても叱られても、なんでも「これで私の汚れが落ちたんだ」になってしまう」(カナリアの会編『オウムをやめた私たち』)
このカルマ落としという珍説は、京セラ創業者の稲盛和夫氏も説いている。
自分の私塾である盛和会(塾生の多くは企業の経営者)で行なった講話。
「大病になるとか挫折するとか、そういう災難に遭うのは、自分が過去に―先祖をも含めて―魂が積んできたカルマ、業というものが消えるときなのです。私は皆さんに、災難に遭ったら喜びなさい、とよく言います。それは、自分が今まで犯した罪が消えるのだから、その程度のことで済んでよかったではないかと言いたいわけです。実際、今度の震災では不運にも亡くなられた方がたくさんいらっしゃいますが、皆さんはこうして元気に生きておられます。つまり、あなたの魂が今まで積み重ねてきた因果が災難に遭って消え、カルマが消えたのです。
大地にもカルマがあります。神戸周辺は昔の源平合戦やいろんなことがあって、そこには定着したカルマがあったのでしょう。私には、そういう積み重ねられたカルマを清算するために、今度のような大震災が起きたとしか思えません。しかし逆に考えれば、神戸周辺のカルマはいま消えたのです。ですから今後、神戸地区は大きく発展するはずです」(斉藤貴男『カルト資本主義』)
何度も引用するが、江原啓之氏の発言。
「例えば、自分は殺されたとします。自分が殺されることができるというのは、人がいるからだと。
殺してくれる人がいるから自分が殺されることができるんだと。だから、その人に対しては感謝しなきゃいけないと。それで、自分を殺すということのために、その人はその分カルマを背負ってくれる。
自分は殺されたことにより、殺された心の痛みを理解できて、二度と人を殺さない魂になれる。だから、その人のおかげで自分はそれだけ向上できるんだから、そして自分のことでカルマを背負ってくださるから、その人を愛さなきゃいけない。
ですから、世界人類みな愛さなきゃいけないにつながってくる」(佐藤愛子・江原啓之『あの世の話』)
不幸な体験はすべて前世で悪いことをした報いだ、しかし苦しい体験をすることでカルマは浄化された、というわけである。
『歎異抄』に「一念に八十億劫の重罪を滅すと信ずべし」という異義が取り上げられている。
日ごろ念仏を称えない十悪五逆の罪人が、命終のときに初めて念仏を称えたら八十億劫の罪が滅せられる、という教えである。
この称名による滅罪もカルマの浄化と考えていいと思う。
麻原彰晃のエネルギーをこめた石と南無阿弥陀仏は同じ力を持つわけだ。
この異義に対して、唯円はこのように批判している。
「業報かぎりあることなれば、いかなる不思議のことにもあい、また病悩苦痛せめて、正念に住せずしておわらん。念仏もうすことかたし。そのあいだのつみは、いかがして滅すべきや。つみきえざれば、往生はかなうべからざるか」(業縁によってはどんなことが起こるかわからないし、病苦によって心の平静を保てずに命が終わることもある。その間の罪をどのようにして滅するのか。罪が消えなければ往生できないだろうか)
何らかの方法によってカルマを浄化しても、それで終わりにはならない。
生きている限り悪業を作る可能性はあるし、他人のカルマが移ってくるかもしれない。
だから、死ぬまでカルマを浄化し続けなければならないわけで、「現役の信徒は、今も、麻原の力でカルマが浄化されると感じる体験をしている」から、麻原彰晃から離れることができないことになる。
死ぬ間際までカルマ(悪業)を作る可能性があるのだから、死ぬまで救われるかどうかわからないということでは救いにはならない。
熊谷直実が法然に入門する際にこういうことがあったという。
法然のもとを訪ねた熊谷直実が後生菩提のことを尋ねたら、法然は「ただ念仏だに申せば往生するなり、別の様なし」と答えた。
法然の言葉を聞いた熊谷直実は涙を流し、「手足をも切り、命をも捨ててこそ後生が助かる」と言われるかと思っていたらのに、念仏だけ申したら往生すると簡単におっしゃったので、あまりにうれしくて泣いてしまった、と話した。
手足を切り、命を捨てることが、今まで作ってきた悪業を消すこと(カルマの浄化)になり、それによって往生できる(オウムの場合だと解脱)できると、熊谷直実は考えたのである。
それに対して法然は「ただ念仏」と答えた。
悪業を浄化することが救いなのではなく、宿業を背負って生きる道が開けた、ということだと思う。
オウム真理教はカルマの浄化を説いていたが、本部やサティアンは乱雑で汚かったというし、信者も身なりをかまわなかったそうだ。
広瀬氏も
「(ボツリヌス菌の大量培養してた時)私は約三か月間教団の敷地に缶詰めにされ、風呂にも二度しか入れませんでした。それも、関連部品の購入のために業者を訪問するときなどに、指示されての入浴でした」
と書いている。
住まいや肉体は浄化しなくてもいいらしい。
オウム真理教では、悪業を作ると地獄に落ちるぞと脅していた。
広瀬健一氏はこのように書いている。
「オウムの教義にもまた、ある思考や行動を宗教的悪業として規定するものがありました。たとえば、私が出家した直後の平成元年四月二日、麻原は次の内容の説法をしています。
「わたしたちの修行を妨げる眠気、貪り、怒り、真理(オウムの教義と考えていただいて差しつかえありません)を否定したくなる気持ちは悪魔であり、取り返しのつかない迷いの生を繰り返す」
「現代人は快楽を追求し、真理の実践をしていないので、三悪趣(地獄・餓鬼・動物)に生まれ変わる」
「説法を復習せず、聞き流すとサマナ(出家者)をやめるという結果になり、迷いの生に入り、三悪趣に生まれ変わる」
また、クンダリニーが覚醒すると、「魔境」に入りやすくなるとされていました。これは、「これ以上ない人生の挫折」、「生まれ変わっても続いてしまう恐ろしい修行の挫折」とされる状態です。そして、「魔境」に落ちないためには、「正しいグル(解脱した指導者)を持つ」、「功徳(神とグルに対する布施と奉仕)を積む」、「強い信を持つ(グルと真理を強く信じる)」、「真理の実践をする」ことが必要と説かれていました。
この類の教義はほかにも多数ありましたが、これらは信徒にとって、麻原、教団、あるいは教義からの離脱を困難にし、そして、麻原や教義に従うよう思考や行動を統制するものでした。このような作用は、信徒が違法行為の指示に従ったり、事件が明らかになった後でも脱会しなかったりする原因の一つと思います」
悪業を作ったら地獄に落ちるのだから、悪業とされる行為はたとえ命に関わることであってもできなくなる。
「(苦界に転生する)その恐怖のために、たとえ自身の生命や健康が損われる事態に直面しても、悪業となる行為はまったくできません。私の経験としては、次のことがありました。
地下鉄サリン事件のとき、私がサリン中毒になったので、あらかじめ指示があったとおりに、送迎役の信徒が車で教団の付属病院に連れて行ってくれました。ところが、病院関係者に話が伝わっておらず、事情がわからないようでした。しかし、私はサリン中毒と伝えられませんでした。「ヴァジラヤーナの救済」の任務に関することを関係者以外に話すと悪業になったからです」
死後の生のあり方を重く考えて現在の命を軽視するということでは、エホバの証人の輸血拒否と通じる。
信者にとっては三悪趣に落ちるということは脅しやたとえではなく、具体的なイメージを持つ事実なのである。
広瀬健一氏はこういう経験をしている。
「気味悪い暗い世界のヴィジョン(非常に鮮明な、記憶に残る夢)や自分が奇妙な生物になったヴィジョン―カンガルーのような頭部で、鼻の先に目がある―などを見ました。この経験は、カルマが移り、自身が苦界に転生する状態になったことを示すとされていました」
悪業とされることは日常的なことであってもできなくなる。
「私は釣りが好きだったのですが、それは悪業になるので、クンダリニーの覚醒以来一度も行いませんでした。そのほか虫も殺せなくなるなど、恐怖のために、教義で悪業とされる行為はできなくなったのです」
虫を殺さないのは慈悲のためとかいうのではなく、堕地獄の恐怖からである。
在家で生活をしていたらどうしても悪業を作らざるを得ないので、三悪趣に落ちたくなければ出家するしかないということになってしまう。
そういうふうにして信者を縛りつけ、言いなりにさせていたのである。
でもまあ、脅して不安にさせてだますというのは悪徳商法、インチキ宗教の基本的テクニックだし、まともだとされる宗教でもその点では同じ。
ユダヤ・キリスト教でも罪を犯した者は地獄の業火に永遠に苦しむと説いていた。
「当時(イエス在世のころ)のユダヤの民衆は、到底守りきる事は不可能は六百をこすユダヤ教の厳しい戒律のもとで、地獄の恐怖にもまたおびえていた」(井上洋治『法然』)
オウム真理教の信者が感じた地獄に落ちる恐怖心は、ユダヤの民衆や平安時代、鎌倉時代の人たちと共通するものだろうと思う。
源信『往生要集』に地獄の様相が具体的に描かれているが、その描写を当時の人は文字通りに信じていたのである。
西行は次の歌を詠んでいる。
「みるもうしいかにかすべき我心 かゝるむくいのつみやありける」(地獄絵を見るだけでも心が重苦しく辛い。本当にどのようにしたらよいのだろうか、業の深い私の心を。このようなむくいを受ける罪が自分にもあったのではないだろうか)
「ここみみしつるぎのえだにのぼれとて しもとのひしをみにたつるかな」(以前に好んで見ていた剣、その剣が枝になっているその木に獄卒は、登れ、登れ、とせきたてて、笞の刺す股をこの身につきたてることだ)(井上洋治『法然』)
西行のような人でも、地獄の苦しみを自らのものとして恐れていたのである。
あるいは、高砂の老いた漁師夫婦は法然にこういう悩みを訴えている。
「わが身は、この浦のあま人なり。おさなくよりすなどりを業とし、あしたゆふべに、いろくづの命をたちて、世をわたるはかりごとゝす。ものゝ命をころすものは、地獄におちてくるしみたえがたく侍なるに、いかがしてこれをまぬかれ侍るべき。たすけさせ給へ」(私はこの浦の漁師です。幼いころより漁を仕事とし、朝に夕べに魚を捕って生活をしています。生き物の命を殺すものは地獄に堕ち、その苦しみは耐え難いと聞いています。どうして地獄の苦しみをまぬがれることができるでしょうか。どうか助けてください)
親鸞も、比叡山を下りた理由は妻の恵信尼の手紙に「ごせをいのらせ給ける」とあるように、後世(死後)の不安なのである。
地獄で脅すのは昔の話ではない。
念仏宗無量壽寺とかエホバの証人のように、○○教を信じなければ救われないと説く宗教は今でも珍しくないが、それはおいといて、毎日新聞にこういう記事があった。
「遺族同士が集まり体験や思いを語る分かち合いの会「藍の会」「自死遺族ケア団体全国ネット」の運営者によると、自殺者の遺族が通夜や葬儀の法話で僧侶から「命を粗末にした人間は浮かばれない」「自殺は許されないことだから地獄に落ちる」と言われたといった話をよく聞くという。
ある遺族は息子の位牌の戒名の最後に「自戒」という2文字を入れられた。「自戒」が自殺を意味すると知った遺族は本山に抗議したが、僧侶は戒名のつけ直しに応じたものの、さらに戒名料を請求したという。戒名に「痴」という文字を入れられた遺族もいる。
ほかに、夫の戒名料を50万円出そうとしたら「自殺だから位牌は書かない。(戒名料が)80万円なら書く」と僧侶に言われ、やむなく払った▽子どもが自殺し菩提寺に葬儀を頼んだが、断られた上に墓にも入れられないと言われた--などの例もある。仏教だけでなく、カトリックでも葬儀で「好ましくない死に方だ」と説教する神父がいるという」(毎日新聞6月4日)
今どき、「自殺したら地獄に落ちる」などと言う坊さんがいるとは信じられない話である。
広瀬健一氏は「恐怖心を喚起する思想も極めて有害です」と言っているが、恐怖心の喚起はおそらくすべての宗教に大なり小なり当てはまると思う。