1857年から2年間、長崎海軍伝習所に滞在したオランダ人のウィレム・カッテンディーケは、『滞在日記抄』の「日本人の性癖」という一節で「日本人の悠長さといったら呆れるくらいだ」と書いている。
修理のために満潮時に届くよう注文したのに一向に届かない材木、工場に一度顔を出したきり二度と戻ってこない職人、正月の挨拶まわりだけで二日を費やす馬丁など。
カッテンディーケの悩みは幕末から明治初年に日本に到来した外国人技術者にとっての共通の悩みだった。
日本人労働者の勤務ぶりにしばしば業を煮やしたが、その主たる原因は、日本人が時間を守らないこと、まるで時計の時間とは無関係に物事が進行する日本人の仕事ぶりだった。
現在の日本人が当然のこととしている時間厳守の行動様式が、明治初期にはほど遠い状態だった。
『遅刻の誕生 近代日本における時間意識の形成』は、いつごろから、どういう経緯を経て時間規律を身につけるようになったのか、様々な論点から12人の方たちが論じています。
まずは不定時法と定時法について。
定時法とは、時計の進み方に合わせて一日を等分する。
不定時法では、昼間の時間と夜間の時間をそれぞれ等分して時間を計測した。
日の出時を明け六つ、日没を暮れ六つとし、昼と夜をそれぞれ六等分する。
季節によって昼間・夜間の長さが異なるので、一刻の長さも昼と夜とでは違ってくる。
時間の認識は、一刻、すなわち2時間を分割した30分程度がいいところだった。
ヨーロッパの広場の時計が文字盤の針の連続的な動きを見せて、民衆はいつでも時刻を知ることができたのに、日本では日に数回鳴る鐘や太鼓の音によって間欠的に知らされるだけだった。
明治以前の「刻」は、切れ目のはっきりしない、漠然とした幅のある「時間帯」として意識されていた。
だから明治の職人たちは、時計が指す7時に集合するようにと指示されても、ピンと来なかった。
日本では季節による昼夜時間差はそれほど大きくないが、ヨーロッパでは冬至と夏至には昼夜の時間差が10時間にもなるので、自然の昼夜と労働や社会活動の時間を一致させることができなくて、年中同じ時刻を用いる定時法が適していた。
西洋では機械時計が14世紀に登場し、15世紀には定時法が普及した。
18世紀には労働における時間規律が励行されるようになった。
産業革命とともに、機械の指導時間に合わせて、作業者も工場に来て仕事を開始することが強制されるようになり、さぼることや遅刻が厳しく罰せられるようになっていく。
19世紀における鉄道の普及も、定時運行のために時間規律を励行させ、各地の時間を同期させた標準時の制度を誕生させた。
では、いつから日本人は時間規律を身につけるようになったのか。
鉄道、工場、学校、軍隊において時間規律が定着した。
海軍兵器局の工場では、1875(明治8)年、午前7時30分が始業だったが、労働者は6時30分までに工場に到着することを要求されていた。
季節によって変化する一刻単位の時の鐘でしか時間を知ることができない時間感覚になれた労働者に分単位での時間厳守を期待することはできず、定時始業は労働者を待たせるということで解決された。
官の工場では、労働者が官員に迷惑をかけないように待つのが当然とされた。
1883(明治16)年には、起業時間が冬期だけ30分繰り下げられ、朝の待ち時間がなくなった。
汽笛によって時間を知らせるようになった。
しかし、起業時間までに門を通ればいいから、作業開始時間が確定できない。
1886(明治19)年には、7時の入門報鐘と同時に閉門することになったため、7時10分の起業時間に一斉に作業を開始することができた。
このころから、定刻に遅れることはいけない、という認識が生まれたということでしょうか。
1888(明治21)年に柱時計の生産が始まり、明治30年代以後はアメリカ製柱時計の輸入はほとんどなくなり、ドイツ製置時計の輸入も明治40年代には激減した。
掛時計・置時計は、1897(明治30)年には全国所帯の3分の1弱が、1907(明治40)年には7割以上の所帯に普及した。
腕時計・懐中時計は、明治末には全国民の1割、成人男子のみでは4人に1人が所有するまで普及した。
時計の普及が時間規律の定着にはたした影響は大きいでしょう。
とはいっても、庶民レベルでは時間規律の定着は遅れたそうで、鉄道は定時に運行されるはずだが、1900(明治33)年前後になっても、従業員の間で10分から20分の遅延は「一向平気」という認識が存在した。
驚いたのが、官員と労働者とでは就業時間の長さが違うということ。
1872(明治5)年、海軍省では夏季は8時から12時までの4時間勤務だった。
1873(明治6)年、海軍造船局は夏季短縮体制はとらないことになったが、それでも勤務時間は9時から15時までの6時間。
6時間は当時の中央官庁や県庁で一般的な勤務時間だった。
9時から17時までの8時間勤務になるのは、1886(明治19)年のことと思われる。
1922(大正11)年の閣令で定められた官公庁の勤務時間の規定。
4月1日から7月20日までは、午前8時から午後4時、
7月21日から8月31日までは、午前8時から正午まで、
9月1日から10月31日までは、午前8時から午後4時まで、
11月1日から3月1日までは、午前9時から午後4時まで。
土曜日は正午までの半ドン。
官庁での夏季の勤務時間短縮は昭和期までおよぶ。
公務員は遊んでいると誤解されているのはこういうところから生じたんでしょうか。
伍堂卓雄は1924(大正13)年の講演会で、よく働く者、中位の者、あまり働かない者の実働時間を調査すると、10時間制の職場において、優良者の平均実働時間は8時間14分、中位者は7時間40分、劣者の平均は6時間24分、もっとも悪かった者は3時間49分だったと披露している。
明治から大正にかけての調査によると、紡績工場での欠勤率は、4月は多くの職工が出勤し、8月が休みが多い。
その差は20~30%にもおよぶ。
工場の長時間労働が、職工が時間の規律を守らない、就業前の身支度に時間がかかる、マイペースで作業をこなす、作業中に雑談をするといった悪循環の関係になっている。
もう一つ、国民の実生活では、西欧化は遅々としていたということ。
明治・大正時代までは、和食・和装・そして日本家屋が生活の基本だった。
昼間、西洋館の中で洋服を着て働いていた役人や会社員も、家庭に帰ると着物に着替えて畳に座って、米のご飯を食べていた。
1900(明治33)年ごろまでは、都会の男子の外出着の一部が洋服になったに過ぎず、1930(昭和5)年ごろにも農村は全部和服で、都会でも洋服が優勢になったのは男と子供の外出着のみで、女は基本的に和服の生活をしていた。
では、女性の洋装化はいつごろからなのか、興味のある問題です。