某氏から聞いた話。
刑務所へアムネスティの人たちが施設見学に行った時のこと、刑務官から説明を聞いたあと質疑応答になった。
ある人が「死刑をどう思うか」と刑務官に質問したら、「刑務官の中で死刑に賛成している人はいない」という答だったそうだ。
アムネスティを相手にしていて、つい本音が出たのかもしれない。
刑務官を募集する時には「死刑を執行することもある」と明記すべきだと思う。
『無罪』の願い届かず涙 袴田事件再審認めず
「無罪」を信じた願いは、届かなかった。静岡県清水市(現静岡市)で一家四人を殺害したとして強盗殺人罪に問われ、死刑が確定した元プロボクサー袴田巌死刑囚(72)の再審請求。最高裁は二十五日、特別抗告を棄却した。元裁判官の「冤罪」告白など異例の展開をたどったが、ずさんな捜査にまったく触れない決定に、支援者らは「大変残念」と悔しさをにじませた。(中日新聞2008年3月26日)
森達也氏の講演で、死刑が執行されたあとに冤罪だとわかった場合、国は3千万円の補償をするという話があった。
で、調べてみました。
「刑事補償法」という法律がある。
この法律の(補償の要件)に
「第一条 2 上訴権回復による上訴、再審又は非常上告の手続において無罪の裁判を受けた者が原判決によつてすでに刑の執行を受け、又は刑法第十一条第二項の規定による拘置を受けた場合には、その者は、国に対して、刑の執行又は拘置による補償を請求することができる」
とあり、そして、(補償の内容)にはこうある。
「第四条 3 死刑の執行による補償においては、三千万円以内で裁判所の相当と認める額の補償金を交付する。ただし、本人の死亡によつて生じた財産上の損失額が証明された場合には、補償金の額は、その損失額に三千万円を加算した額の範囲内とする」
いやはや驚いた。
法律には、死刑で処刑されたあと無実だとわかった人に対してはちゃんと補償をします、という条文があるわけだ。
つまり、無罪の人を死刑にするかもしれませんよ、その時は補償金を払いますから言ってくださいね、という法律である。
冤罪で死刑になる場合があることを国は認めているのである。
最高裁の裁判官たちは袴田氏が100%有罪だと確信し、もしも無罪だったら3千万円を自腹で払って補償する覚悟があるのだろうか。
もっとも処刑されたあとに、実は無実だったんですね、ごめんなさい、補償します、3千万円で勘弁してください、と国が認めることはないと思うが。
うちの伝道掲示板に
「本当の自分がわからんから、本当でないものを本当だと思っていた 安田理深」
という言葉を貼っていたことがある。
あるブログにこれが紹介されたのだが、ブログ主やコメントの感想は「わからん」「意味不明」だった。
うーん、がっかり。
「唯仏是真、世間虚仮」や、清沢満之の「自己とはなんぞや、これ人世の根本問題なり」といった言葉がすぐに連想する、ありきたりとも言える言葉なのだが。
しかし、考えてみると私自身、深く考えることもなく、なるほどねというのですっと読み飛ばしてしまっているだけなのかもしれない。
安田先生の言葉はどういう意味だろうか。
「本当の自分がわからん」から、自分探しなんてことがはやるわけだ。
じゃ、そもそも、「本当の自分」とは何か。
真宗の言葉を使えば機の深信、罪悪深重煩悩熾盛の凡夫だというのでは安易かもしれない。
「本当でない自分」ではなく「本当でないもの」となっているのはどうしてだろう。
と、あれこれ頭を悩ましてしまう。
内部だけで通じる業界用語を使っていると、もうそれだけでわかった気になってしまいがちである。
そうして、理解してくれない人に対して、物事を真剣に考えようとしていないと見下す。
そういうきらいがある。
道行く人が見る伝道掲示板なんだから、わかる言葉で伝えないと意味がない。
ではどういう言葉だと相手に届くかだが、それこそ自分でわかっていないのだからほんと難しい。
ジョン・カーニー『ONCE ダブリンの街角で』という映画の中でビッグイシューを売っている女性は住んでいる家があった。
ホームレスでなくてもビッグイシューを売れるのだろうか。
というわけではないのだが、久しぶりにビッグイシューを買う。
アフリカ社会を研究する松田素二(京都大学教員)氏のインタビュー記事が載っていた。
アフリカというと、政府は腐敗し、内戦ばかりしているどうしようもないところ、というイメージがあるが、本来のアフリカ社会は違うらしい。
「仮にもめごとが起こっても民族同士の全面対立に発展させない、どこかの民族に所属しているというだけで見ず知らずの人を殺すことを防ぐ、彼らの巧妙な仕組みとしてつくられていたんです」
と松田素二氏は言う。
実際、アフリカでは過去400年ほどの歴史を見ても民族同士の全面対立がほとんど起きていないそうだ。
しかし内戦になったら万単位で虐殺が起きるし、ルワンダでは100万人もの虐殺が行われたじゃないかと思う。
だが、それはヨーロッパの植民地時代に人為的に民族を対立させたり、資源をめぐる争いが、もめごとを解決する仕組みを壊してしまったからなんだそうだ。
「紛争や殺人事件などのもめ事を解決する際も、アフリカの伝統的な解決方法は西欧型の司法制度とは根本的に異なる。そのアフリカの紛争解決方法が象徴的に現れたのが、南アフリカでアパルトヘイトの人権侵害を裁く際にマンデラが用いた「真実和解委員会」という方式だった。この委員会では、過去30年に及ぶ約2万件の人権侵害事件について、被害者と加害者が公の場で対面して告白し合うことで真実を追究し、加害者は謝罪し、被害者が許すという和解が行われた」
松田素二氏はこう話す。
「アフリカ的な真実へのアプローチは、加害者と被害者が対話し、語りの中で交渉して討論する過程で確定していく対話型真実なんです。真実を創造すると言ってもいいかもしれません。それによって、被害者は癒され、加害者は許しを得て和解を成立させて被害者への補償を決めていく。もちろんさまざまな問題はありますが、その和解の方法は復讐の連鎖を断ち切り、社会を癒す一定の力を持っている」
これは修復的司法ではないのだろうか。
社会を再生するためには、厳罰ではなく、被害者と加害者が出会うことが必要だということなんだろう。
日本でも共同体がしっかりしていたころは、犯罪やもめ事の解決はお上の手ではなく、共同体の話し合いでなされていた。
しかし、今はこんなのんびりしたことははやらない。
裁判員制度になれば数日の審理で判決が下されるようになるらしい。
それでは被害者と加害者が分断されたままになってしまう。
「被害者は癒され、加害者は許しを得」るためにはそれなりの時間が必要だと思う。
1998年、送られてきた青酸カリを飲んだ女性が死亡、その青酸カリを売った男性(草壁竜次27歳)は女性の自殺を知り、自らも青酸カリを服毒して自殺した。
草壁竜次は「ドクター・キリコの診察室」という掲示板で知り合った自殺志望者に3万円で青酸カリを売っていた。
草壁竜次自身も鬱病に苦しみ、自殺未遂を経験している。
矢幡洋『Dr.キリコの贈り物』は、掲示板の管理人であり、草壁竜次から青酸カリを受け取った一人である木島彩子(29歳)たちを取材し、小説風に書かれた本である。
木島彩子「青酸カリはお守り」と言っている。
「(草壁竜次が青酸カリを売ったのは)飲むためにではなく、あくまでも「これがあるから、いつでも死ねる。いまである必要はない。だから、もう少し頑張ってみよう」と、自分に自殺を思いとどまらせるためであったようです」
実際、木島彩子は青酸カリのカプセルを持って富士の樹海に行くが、カプセルを眺めているうちに死ねなくなってしまう。
青酸カリを持っていると、いつでも死ねる、だから今日一日は生きていよう、という気持ちになるそうだ。
著者はこう言う。
「私たちは、たとえ耐えがたい苦痛を味わっていても、それがある段階で終了する、という確実な見通しさえあれば、なんとか耐えられるものであるが、もし、そのような確実な終結が見込めなければ、苦痛は地獄的な様相を帯びるのである。
自殺願望の前提となっているのは、苦痛がいつ終わるのかわからない、という意識状態である。そのとき、人は「一刻もはやくこの苦しみを終わらせたい」というひじょうな焦燥感のなかにおちいっている。焦燥感は視野狭さくを招き、人は「死ぬしかない」と思いつめる。だか、青酸カリを所持することによって、自分が望むときにいつでも死ぬことが可能になり、苦痛はいつでも終わらせるものとなり、状況はまったく一変する。「はやく終わらせなければ」という焦燥感が解消し、状況を客観的に眺めるゆとりが生じる」
草壁竜次は「飲んでもらうためではなく、生きてもらうために送った」「死にたくなったときに、それを引きとどめるお守りとして働きつづけるはずだ」と言っているように、自殺を肯定しているわけではない。
死よりも生を選ぼうとしたからこそ、青酸カリを持っていたのだろう。
木島彩子も自殺念慮に苦しみながら、生きるために青酸カリを手元に置いている。
著者が取材した一人は、
「青酸カリを入手して「いつでも死ねるんだから、もう一日だけ頑張ってみよう」と自分にいい聞かせることによってしか生きていけない病人がいるのだ、ということを社会にわかってほしい」
というメールを著者に送っている。
自殺念慮に苦しむ人にとって、青酸カリを手にすることはいやなことではないし、青酸カリを与えることは人からしてもらいたいことだし、青酸カリをあげることはできるかぎり他人の不幸をすくなくすることのように思う。
青酸カリを売った行為は善なのか、それとも悪なのか、簡単に判断できない。
「「肝心なのは、「ぼくがなにをなすべきか」であって、「他人がなにをなすべきか」ではない」
とコント=スポンヴィルは言うが、結局のところ善悪とは自分自身の選びなのかもしれない。
「お天道様にもうしわけない」という言葉がある。
お天道様とは太陽のことで、神のような超越的存在、あるいは世間、あるいは良心に照らして恥ずかしいという意味である。
お天道様に対してもうしわけないかどうかが善悪の基準となるわけだ。
ところが、アンドレ・コント=スポンヴィルはそうではないと言う。
「善人と悪人とを、あるいは善人と思われる人と悪人と思われる人とを分けるのは、用心深さか偽善でしかない」
「君が盗みをはたらかないのは、正直者だからではなく計算にすぎない。つまり君は、道徳的なのではなく、用心深いだけなのだ」(『哲学はこんなふうに』)
これはプラトン『国家』で論じられている問題である。
「正義を守っている人々は、自分が不正をはたらくだけの能力がないために、しぶしぶそうしているのだ」
人間は他人にばれなければ何でもするというたとえが、ギュゲスの指輪の物語である。
羊飼いのギュゲスはある指輪をはめると透明人間になれると知り、王妃と通じ、そして共謀して王を殺してしまい、王権をわがものにする。
「何びとも自発的に正しい人間である者はなく、強制されてやむをえずそうなっているのだということの、動かぬ証拠ではないか」
このたとえ話は、隠身の秘術を使って王宮に忍び込んだ若きころの龍樹のエピソードと似た話である。
私ならギュゲスの指輪を使って王妃を誘惑し、王を暗殺して権力をわがものにしようとは思わないが、王の寝室をのぞき見ぐらいはするのではないかと思う。
学会員の弁護士さんが
「死後の世界と因果応報を信じるということが、最も強力な犯罪抑止力の一つになると思っています」
と書いているが、これにしたって死後の報いを怖れて悪を作らないのは用心深いだけのことになる。
で、善とは何か、悪とは何か、である。
ユダヤの賢者ヒレルは異邦人から、「片足で立っている間に、ユダヤ教の全部を説明してください」と尋ねられ、「あなたがいやだと思うことを、あなたの友にしてはならない。これがトーラーの全てである」と答えた。
ルソーは「人からしてもらいたいと思うとおりに、他人におこなえ」、そして「できるかぎり他人の不幸をすくなくすることで、自分の幸福をはかれ」と言っているそうだ。
コント=スポンヴィルは「他人がやったなら君が非難するようなことは、自分にも禁じなければならない」と言い、西研は「人間同士の関係を気持ちよいものにする行為が「善い」と呼ばれ、不愉快にする行為が「悪い」と呼ばれる」と『哲学の練習問題』に書いている。
自分が人からしてほしいこと、人にされたくないことが善悪の基準である、つまりは善悪は他者との関係によって決まるということになるのだろうか。
でも、いろいろ疑問が浮かぶ。
たとえば、マゾの人から「ムチで打って」と頼まれてムチで打つことは善か、それとも暴力をふるうわけだから悪なのか。
私は人から暴力をふるわれたくない、だからいくら頼まれても、相手が喜ぶだろうとわかっていても、ムチで打たないことが善だということになる。
だけど、断ったら人間関係を不愉快にするかもしれない。
安楽死や尊厳死の問題はいささかやっかいである。
横山秀夫『半落ち』は、アルツハイマー病の妻から「殺してくれ」と頼まれて殺した男の物語だが、主人公を責める気持ちにはなれない。
そこにはものすごい葛藤があるからだ。
それにくらべると、家族から依頼されて安楽死させる医者はそこまで悩んでいないように思うが、どうなのだろう。
では、自殺願望の人にお金をもらって殺したという事件はどう考えたらいいのだろうか。
これをもっと複雑にした事件が、掲示板で知り合った人から青酸カリを購入した女性が自殺し、事件が明らかになると、販売した男もすぐに自殺したという事件である。
この事件を小説風に描いた矢幡洋『Dr.キリコの贈り物』を読み、善と悪とはそう簡単に分けることができないように思った。
動物受難 犬の首に針金 苦しい姿に住民ら悲しむ
福岡県鞍手町木月の住宅街に、針金が首に食い込んだままとみられる犬が出没している。子犬のころに捕獲用の針金で捕まえられた後、何らかの原因で針金が切れて逃げ出したらしい。息苦しそうにしている姿も目撃され、住民から同情の声が上がっているが、警戒心が強くてワナにもかからず、捕獲作業は難航している。(略)
成長した今は引きずっている針金はなく、うみも見られないが、不自然なくぼみが首回りに残っており、針金の一部が残っているようだ。興奮したり、激しく動いたりした後は「ハア、ハア」と体全体で激しく息をし、苦しそうなそぶりを見せるという。
性格はおとなしく、見知った人から餌をもらうこともあるが、知らない人間には近づかない。ある主婦は「暴れてかまれたらと思うと、無理に捕まえることができないが、かわいそうだ」と話す。(3月13日 毎日新聞)
この犬が捕獲されたらどういう扱いを受けるのだろうか。
野良犬だから保健所に連れて行かれるだろうし、そしたら殺されるだろう。
だったら、捕獲することがこの犬にとっていいことなのかどうか疑問に思う。
平成17年に処分された犬猫の数は、犬132,238匹、猫231,697匹、合計363,935匹である。
処分される犬猫は年々減少しているが、それでも莫大な数字だ。
ただ思うのは、犬や猫を処分しなかったら、毎年30万匹以上の野良犬や野良猫が増えていくことになるが、それを受け入れることができるのか。
引き取る人が増えたとしても、それでも何万匹かは処分されるだろう。
また、去勢や不妊手術をすることは人道的とは言いにくい。
ネットで検索すると、保健所が捕獲したり持ち込まれた犬や猫を処分しないよう訴え、そして犬や猫を引き取るなどの取り組みをしているグループがたくさんある。
犬や猫の運命に心を痛める人たちが死刑問題という人間の命にも関心を持ってくれたらありがたい。
臨済宗妙心寺派では、ご開山の650回忌遠諱大法会を機に「どう活かす わたしのいのち」をテーマとして掲げている。
東本願寺の御遠忌テーマ「今、いのちがあなたを生きている」よりずっといいと思う。
で、「生きる」と「活きる」とでは意味合いが違うのだろうか。
ある先生が、「活きる」とは食べたりすることだが、「生きる」とはそうした生命を維持することにとどまらない意味がある、というようなことを話されていた。
「人はパンのみにて生くる者に非ず」、つまり「活きる」はパンのこと、「生きる」はパンプラスαということか。
しかし、辞書を調べると「生きる」「活きる」にはそうした意味の違いはないように思う。
「生きる」の意味の中に、
「(「活きる」とも書く)そのものがもっている本来の機能・能力が発揮される。有効に働く」
とあり、また「活かす」だと、
「有効に使う。活用する」
という意味がある。
「どう有効に活用するか わたしのいのち」では功利主義的な感じがして、何だかイマイチ。
妙心寺派のテーマの「活かす」はそういうことではなく、「活発」「活き活き」というニュアンスだと思う。
言葉とは難しいものである。
改革とか言われると、誰かが儲けているのではと勘ぐりたくなる今日この頃、高岩仁『戦争案内 アジアからの報告』を読み、戦争だって儲ける人がいるからこそ行われるんだなと、おそまきながらわかった。
高岩仁氏はフリーの記録映画カメラマン。
『教えられなかった戦争』シリーズ製作のため、アジアを旅した。
戦争の起こる原因は何なのか、戦争はだれが必要として起こすのか、そのことをフィリピンの歴史学者レナト・コンスタンティーノ氏に教えられる。
「戦争を必要として計画して金で軍人や政治家を操って、莫大な利益を上げてきたのは、財閥・資本家たちですよ」
そこで高岩仁氏は、戦争によって儲かる人がいるから戦争が起こされる、では誰が儲けたのかを調べるのである。
明治以来、戦争をするたびに日本は経済発展を遂げた。
「三井物産の統計を細かく追究しているだけで戦争がなぜ起こったのかが分かりますよ」とある大学教授。
三井物産は日清、日露など、戦争のたびに利益を伸ばしている。
三井物産と軍部との関係の実例が、満州の大豆。
満州の大豆を三井物産がほとんど独占的に買い占めている。
ところが、張作霖が大豆の買い付けに手を出し始め、そのうえ満州鉄道に並行した独自の鉄道を計画し、着工を始めた。
鉄道工事が始まった直後、張作霖は爆殺されてしまう。
その翌年、1929年度から、三井物産の大豆の取扱高は倍近くに跳ね上がっている。
張作霖の息子、張学良が事業を始めようとしたら、1931年に満州事変が起こる。
「商船は軍艦を呼ぶ」の言葉通りである。
では、アジア太平洋戦争を必要としたのは誰か。
1930年代に次々と起きたクーデターやクーデター未遂事件に、企業家が資金を提供していた。
三月事件 徳川義親 50万円
十月事件 藤田勇 63万円
五・一五事件 神武会 9万円
二・二六事件 石原廣一郎 35万円
三井、三菱、日産なども資金提供していた。
つまり、二・二六事件は青年将校と右翼の思想家だけで起こしたものではないということである。
アジア太平洋戦争によって大企業は大きな利権を得た。
たとえば、マレーシアを日本軍が占領すると、イギリス系の企業が独占していた鉱山を三井鉱山、日本鉱山、古河鉱山、石原産業で分け合った。
1941年 1945年
三井系企業の資本 1億円 3億円
三菱系企業の資本 1億2千万円 2億4千万円
日産系企業の資本 5千万円 4億5千万円
石原産業の資本 150万円 9千300万円
戦後の経済侵略、公害の輸出についても詳述されているが省略。
アメリカだってあくどいことをしている。
日本が敗れたあとのフィリピンで、アメリカ軍は大地主・資本家に近い政治家に政権を作らせ、従わない人を虐殺をする。
そうして、民主勢力の圧殺し、親米独裁政権を樹立している。
とまあ、『戦争案内 アジアからの報告』は少ないページ数ながら、中身は濃い。
戦争で儲ける人がいるのは今も同じことで、小森陽一氏が講演でこういうことを言っている。
「ブッシュ政権は軍事力で中央アジアの資源を押さえようとしています。アフガニスタンからパキスタンを通ってインド洋までの石油と天然ガスのパイプラインを持っていたのが、アメリカ第9位のユノカル社です。ユノカル社の最高経営顧問をやっていたのが、チェイニー副大統領とアフガニスタンの大統領になったカイザル氏です。このカイザル氏がアメリカによって大統領として送り込まれました。石油と天然ガスのパイプラインをアメリカが押さえるための戦争だったということは明らかです。
このユノカル社を中国の企業が買収しようとしたのですが、アメリカ議会では国家安全保障上の脅威としてみなされて、結局はアメリカの企業が買収しました」
マイケル・ムーア『華氏911』は、アフガニスタンやイラクへの攻撃とブッシュ政権の人たちが関係している石油資本の利益がつながっていることを批判している。
こういう例をあげるときりがない。
『イソップ寓話集』から引用。
戦争と傲慢
神々が結婚式を挙げ、各々伴侶が決まった時、戦争の神(ポレモス)は皆に遅れて、残り籤のところに到着した。そしてこれ一人しか残っていなかったので、傲慢の神(ヒュプリス)を娶ったが、伝えによると、この奥方を恋い慕うこと一とおりではなく、この女神の行くところ、どこへでもついて行くのだ。
されば、傲慢が民衆に笑みを振りまきながら、諸国民諸都市を訪れることのないように。その後から、たちまち戦争がやって来るのだから。
シスター・プレジャンさんの講演録「宗教者と死刑廃止」に、こんなことが書いてあった。
ブッシュ大統領はテキサス州知事時代、152人の死刑執行に署名した。
そして、ブッシュ氏が大統領になり、9.11のあと、「彼らは我々を殺した。だから、彼らを探し出して、我々は彼らを殺す」と言ったそうだ。
つまり、復讐することを大統領が公言し、誓ったわけだ。
ピーター・バーグ『キングダム』という映画はテロと復讐がテーマである。
サウジアラビアで外国人居住区を狙った自爆テロが発生、FBI捜査官である主人公の友人も殺された。
主人公は首謀者をアルカイダの幹部と推定、現地捜査の許可を得て、最後には黒幕を殺す。
これだけなら、まあ、何ということもないハリウッド映画である。
ラストがひねってあることで、後味がまったく違ってくる。
映画の最初、友人が殺されて悲しむ同僚に主人公はあることをささやくのだが、それは「かならず復讐する」と誓ったことだと最後にわかる。
そしてそのシーンにかぶせるようにして、テロの黒幕は死ぬ間際に孫(12歳ぐらいか)に「かたきを討て」と言い残す。
FBI捜査官の怒り、つまりアメリカの正義がこのことによって相対化されているのである。
憎しみが暴力を生み出し、暴力が連鎖していくことを見事に表したラストだった。