三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

死に目に会うこと

2006年03月28日 | 映画

ジョン・ヒューズ『オジサンに気をつけろ』は、お祖父さんの急病で両親が実家に帰らなくてはいけない、だけど死にかけている人を見て子供たちがショックを受けてはいけない、だから子供たちは留守番させよう、そこで子供たちの面倒を見るために40歳の独身のおじさんがやってくる、ところがこのおじさんがとんでもない人で、というお話だった。

祖父が死にそうなのに、どうして子供たちを連れて行かないのかと、不思議に思った。
こういう設定は日本では考えられないと思う。

ジェイムズ・エイジー『家族のなかの死』は、父の死について書かれた自伝的小説である。

エイジーが7歳の時(1916年)、父親が自動車事故で死ぬ。
小説によると、祖父が心臓発作を起こし、かなり危ないというので父親だけが見舞いに行く(母親と子供二人は留守番)。
その帰りに父親は事故を起こして死んでしまう。
エイジーと妹は父親の遺体に祈りの言葉を捧げるが、葬式には参列しないで家にいて留守番をする。

デイヴィッド・ロッジ『考える…』は、意識について研究している大学教授が主人公の一人である。

妻の父親が心臓発作で入院する。
「人は死ぬとどうなるの?」と8歳の娘ホープに聞かれた主人公は、娘とこんな会話をする。

「埋められるんだ」

「ハケット先生は、シャーリーのお祖父さんは天国に行ったって言ったわ」
「そう信じてる人もいるけど、正しくないんだ。天国なんて場所はないんだ。素敵なアイディアだけど、作り事なんだ。お伽噺みたいなものさ」
「なら、お祖父さんは死んだらどこに行くの?」
「どこにも行かないのさ。お祖父さんは、ぼくらの心の中にしか存在しなくなる。ぼくらは、お祖父さんのことを考えて、お祖父さんがぼくらにしてくれたいろんな素敵なこと、ぼくらにくれた贈り物のこと、ぼくらにしてくれたいろんな話を思い出すのさ」

娘にそんなことを教えてと、妻からとがめられた主人公はこう反論する。

「死が何を意味するかってことにホープを慣れさせるいい機会に思えたんだ。子供はそういう質問をするとき、真実を知りたがっているんだ」

ところが、妻がこの8歳になる娘を見舞いに連れて行くと言うので、主人公は反対する。

「きみは幼い子供を集中治療室に連れて行き、点滴装置を付け、鼻からチューブを出している老人を見せるつもりなのかい? きみは気が変だよ!」

死んだらおしまいと考える日本人は珍しくないが、8歳の子どもにこう言う説明をする人はあまりいないと思うし、祖父が危篤になったら家族そろって見舞いに行くだろう。


あるいは、キャメロン・クロウ『エリザベスタウン』では、ケンタッキーの実家に帰っていた父親が急死し、息子だけが葬式のためにケンタッキーに行くが、母親と妹はカリフォルニアにとどまる。


フィクションなんだから、アメリカ人やイギリス人がどう考えているかはわからないが、死に目に会わないこと、葬式に出ないという話に違和感を抱かないからこそ、こういう映画が作られているんだと思う。


現代日本では死が見えなくなっていると言われている。

核家族だし、ほとんどの人が病院で死んでいく。
葬式も身内だけで、という家族葬が増えているし、葬式をしない直葬も東京では2~3割だと聞く。
しかし、家族で看取り、家族でおくる、という習慣は今も大切にされていると思う。

市川準『あおげば尊し』は介護と葬式を描いている。

末期ガンであと三ヵ月と宣告された父親を自宅で世話をする。
市川準監督は、ドキュメンタリータッチで、さりげない会話をうまくすくい取るのが、いつもながらうまい。
家族が普段の生活をしながらと看取ることで、死が日常的なものであることが伝わってくる。

しかし、きれいごとすぎると思った。

私の叔父は胃ガンになり、5ヵ月入院して死んだのだが、最後は臭かった。
体臭や薬やいろんなものの入り交じったにおいなのだろう。
そういうにおいに限らず、介護のつらさや家族の中のあれこれとか、そうしたいろんな臭さが死には生じてくる。
私の伯母は死ぬ前、早く死にたいが口癖だった。
呼吸することがしんどいし、寝ていてもしんどい。
生きていること自体がつらいのだから。
死は決してきれいごとではない。

『あおげば尊し』の最後、葬式のシーン、これはまるっきりのきれいごとだった。

父親は中学校の教師だったのだが、生徒に好かれる教師にはならないという主義を貫き通した厳しい人である。
教え子の結婚式にも同窓会にも一回も呼ばれたことがないというほど徹底している。
見舞いに来る人もほとんどいない。
なのに、なぜか葬式に教え子たちが来て、出棺の時、「先生」「先生」と声をかけ、そして「あおげば尊し」を歌う。

実は生徒たちから慕われていた、ということにして、教師としての生涯を完結させようという意図かもしれないが、私としては、媚びない人生を全うさせるラストにしたほうがよかったと思う。

参列者がいない葬式では映像にならないということもあるが。

市川監督は葬式の挨拶を母親にさせたかったのかもしれない。

というのが、挨拶がすごく上手なんで、麻生美代子という女優さん、いったい何者なんだろうと思ったら、なんと「サザエさん」でお母さんのフネの声をやってた人でした。

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斎藤信治『哲学初歩』

2006年03月21日 | 

木田元が丸谷才一との対談(『ゴシップ的日本語論』)で、斎藤信治という中央大学の哲学の先生はものすごく話がうまく、しかも難しいことを実に平易にしゃべってみせる才能のある人だった、という話をしている。

近所の床屋の親父だの洗濯屋の親父だのが斎藤さんの一般教養の哲学の講義を聴きにきて、教室の後ろのほうでうっとりして聴いていましたよ。

 

東大哲学科の同窓会みたいな集まりで喋る話と、酒田の農協の連中を相手に喋る話とまったく同じレベルの話ができるんです。東大出の哲学研究者たちがみんなうーむと唸るぐらいののみごとな話をしてみせる。それと同じレベルの話を酒田でやって、農協の連中をもはーっと感心させる。


『哲学初歩』に、農協の人相手に話したことがそっくり入っているということなので、図書館で借りました。
哲学とは何か、ということから始まり、なるほど、わかりやすくて面白い。
しかし、だんだんと難しくなるのが世の常で、カントあたりでこんがらがり、ヘーゲルではむむむとなってしまいました。
斎藤信治はこのように問う。

哲学とは究極絶対のものの探究のことにほかならないのですが、いったい哲学ははたしてその究極絶対の境地を学問的に把握しつくすことができるものなのでしょうか。


ソクラテス、カントや実存主義は究極絶対(真理)を把握できないという立場であり、ヘーゲル、マルクスは学問によって到達できると主張している。
ソクラテスによると、

哲学とは永遠にその目標に到達することのできない真理の涯しない探究だということになります。

ヘーゲルだと

絶対者についての学問的な認識、それも残るくまなき完全な学問的な認識が現実に成立しうるとする。

両者は逆の立場です。
キェルケゴールの考えです。

根本的なことはそのためになら私がいつでも生きかつ死ぬことができるような理念を見出すことである。いわゆる究極的な真理などを発見したところで、それが私にとって何の役に立つというのだろうか。

「いつでも生きかつ死ぬことができるような理念」とは「究極的な真理」と別のものだとキェルケゴール考えているわけだ。

しかし、釈尊は真理を悟って仏になったわけで、究極絶対の境地を把握したということになる。

真理に到達できないのなら仏にはなれない。
となると、仏教では真理を知ることができるという立場なのか。

さらに考えたのだが、真理には二義あるのではないか。

1,私→真理
私が真理に向かって歩む、その歩みこそ宗教だということ。
2,真理=出発点
真理をものごとを考える立脚点とし、真理を出発点として歩んでいくということ。

1,だと、真理を求める気持ちが求道心、宗教心。

2,だと、真理とは仏教では縁起だから、縁起を判断基準としながら思索していく。

もちろん縁起という真理を知識として知ったというだけでは、究極絶対の境地を把握したということにはならない。

縁起の道理が自分の身となる、すなわち「生きかつ死ぬことができる」ことにならなければ。

もう一つ、『哲学初歩』を読んでわからないことがある。

何がほんとうに真理なのかということを真剣に探究しようとすればするほど、ひとびとは深刻な懐疑に襲われざるをえないことになりましょう。

このように、斎藤信治は懐疑を重要視している。
「本当にそれは真理なのか」と疑う懐疑精神がなければ、盲信、狂信に陥ってしまう。
だからといって、縁起という事実も疑っていたのでは、よって立つべき立脚地がなくなってしまう。

で思ったのが、デイヴィッド・ロッジである。

ロッジはイギリスのカトリック作家なのだが、ロッジはカトリック教徒だからといって、神の教えに無批判だというわけではない。
ロッジの小説の主人公はぐちゃぐちゃと悩む。
たとえば『どこまで行けるか』で、イエスは神の子であること、処女懐胎、十字架上の贖いによる救い、こうしたことをまず信じるのがキリスト教徒の条件なのだが、登場人物たちは信じきれない。
あるいは、どうして避妊してはいけないのか、どうしてウエハースが聖体で、しかも神の肉体なのか、そういった疑問に悶々とする。
かといって、キリスト教から離れることもできないので、ぐちゃぐちゃと悩む。
そういうロッジのグチグチしたところが好きです。 

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音楽の世界

2006年03月19日 | 日記

バイオリンを習ってはや6年半。
子供の結婚式に弾けたらと思っていたが、下手なままで終わることになりました。

先生のバイオリンに比べて、私のバイオリンの音は明らかに悪い。

値段が高いバイオリンならそれなりの音が出るのかと、先生に尋ねたら、高いバイオリンを買ったからといっていい音が出るものではないそうだ。
バイオリンからいい音を出すためにはそれなりの腕がなければならず、仮に私がストラディバリウスを弾いても、今のバイオリンと大して変わらない音しか出ないそうだ。

また、音の違いを聞き分けることもたいていの人はできないとのこと。

大きなホールでならともかく、ストラディバリウスを練習室のような狭いところで弾いても、普通のバイオリンの音との違いは専門家でもなかなかわからないだろうとのこと。

これはわかる。

料理にしても、うまいかまずいか、私にはよくわからないから。
音を出すこと、音を聞くこと、どちらも楽器の善し悪しではなく、自分の問題だというわけで、なにやら法話に使えそうな話だと思った。
人と話していて、すぐに法話のタネにならないかと考えてしまうのは、坊さんの悪習です。

で、やめる記念として、コンサートに出ることにした。

といっても、独演ではなく、総勢39名の大オーケストラだから、私が間違おうとどうしようと、皆さんに迷惑をかけることもないし、恥をかくこともない(はず)。
私はリズムのパートだし、簡単だと思ってました。

ところが、練習に参加してみると、いつの間にか演奏が始まり、うわっと思い、今どこなんだと楽譜を見ながら呆然としているうちに終わってしまった。

唖然とした。
これではならじと気を引き締め、次こそはと集中するが、ふっと油断してよそを見ると、もうダメ。
人の音を聞こうと思えばミスってしまうし、間違えないようにしようと思えば、まわりの音は聞こえない。
私にはリズム感覚がないことはよく承知しているし、心理テストでは協調性その他が最低点だから、こんなもんかとも思うが、やはり情けない。

本番では途中で間違ったけど、まあなんとか皆さんに合わせて終わることができました。

音楽の世界を少しだけのぞいた気分がして、悪くないもんです。
私は音楽の世界の住人になることはできなかったけど、それでもやっぱり音楽の世界には憧れてしまいます。

バイオリンは私には合っていないから上達しない、今度は別の楽器を習いたい、と家族に言ったら、このバカがまた、という顔をされました。

私としてはチェロかサックスがいいのではと考えています。

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映画の中の無神論

2006年03月17日 | 映画

前にも書いたことだが、映画の登場人物が無宗教だと発言したり、もしくはキリスト教に疑いを持っていることがあり、そういうのは気になる。

ケイ・ポラック『歓びを歌にのせて』というスウェーデン映画では、牧師の妻が夫である牧師に「罪なんてない。教会が信者を脅すために作り上げたものだ。だから、許しもない」といったことを言うシーンがあった。
牧師の妻がそんなことを言うなんて、と驚いてしまった。
これは神を否定した発言ではなく、教会のあり方を問題にしていると思う。
妻が言う「罪」とは、その後の展開からして、セックスに関するものだろう。

『歓びを歌にのせて』は心臓病になって引退した世界的指揮者が、スウェーデンの故郷の村に住むところから始まる。
教会の聖歌隊を指導することになり、次第にみんなの信頼を集める。
堅物の牧師はそれが面白くなくて、非難めいたことを言う。
そこで先ほどの妻の発言になるわけだ。
牧師は主人公を聖歌隊の指導者から解任し、反発した妻は家を出る。

牧師の妻がああいったことを言ったのは、20年間性欲を抑えてきたということがあるかららしい。
また、聖歌隊のメンバーである中年の独身女性は、他の若い女性メンバーが主人公と仲良くなるのが面白くなく、男の出入りが多いその女性をみんなの前で非難する。

私が中学生のころ(35年前)、スウェーデンといえばポルノ解禁、フリーセックスの国であり、憧れてました。

フリーセックスの国であって、実際はキリスト教的道徳観が大きな影響力を持っているということなのだろうか。

ロジャー・ミッチェル『Jの悲劇』では、Jとは主人公ジョーと、主人公につきまとう男ジェッドのイニシャルだが、Jesusすなわちイエス・キリストのことでもあるそうだ。
冒頭、草原でののどかな食事が一転して、気球に乗っていた人の墜落事故と、あれよあれよという描写には圧倒される。

ジョーとジェッドがかけつけるが、落ちた男性はすでに死んでいる。
ジェッドが「神に祈ろう」と言うが、無神論者のジョーは断る。
これにもいささか驚いた。
宗教を押しつけるのではなくて、死体を前にして、ごく自然に「祈ろう」と声をかけたような感じだったのに、どうして拒んだのかと思った。
日本人だったら、無宗教の人だって、とりあえずは手を合わせて念仏でも称えるところだ。

ジョーがどう断ったか、原作のイアン・マキューアン『愛の続き』を見ると、次のような会話をかわしている。
死体を前にして、ジェッドが「ぼくらにできることがあると思うんだ。ふたりでできることは祈ることなんだけど」と言い、ジョーは「申し訳ない。そういうのは好きじゃないから」と断る。
無神論というのは宗教に無関心ということではなく、ちゃんとした主義なんだということを、あらためて知らされた。

以前、ヨーロッパでは火葬=無神論だったそうだ。
鯖田豊之『火葬の文化』にこう説明されている。 

キリスト教と火葬は教義的に矛盾はしなかったが、火葬運動推進家には無神論ないしは反カトリックのひとが多かった。(略)
ヨーロッパ近代初期には火葬を希望したひとはすべて骨つぼの地下埋葬を拒否した。(略)
火葬と土葬は二律背反で、焼骨をおさめた骨つぼは地下でなくて、火葬場内外のしかるべきところに安置されなければならなかった。

 ずいぶん徹底していると感心してしまう。

ところが、キャメロン・クロウ『エリザベスタウン』でも、父親は火葬にしてほしいと遺言し、ケンタッキーの田舎町の人たちも「カリフォルニアの人間なんだから」と反対はしない。
1999年のイギリスの火葬率は70.4%、アメリカは25.3%である。
現在では、火葬するからといって、無神論という主義を持っているわけでもないのだろう。

それにしても、無神論者は、どういう状況であろうとも、つき合いだろうがなんだろうが、あくまでも神に祈ることはしない、死後の生を認めない、という態度を貫くのは、神が気になるからだと思う。
これは、私は巨人が大嫌いなのだが、しかし巨人の成績に無関心ではいられないというアンチ巨人ファンで、同じ心理ではなかろうかと思う。

コメント (2)
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中島隆信『お寺の経済学』

2006年03月15日 | 仏教

あるお寺の寺報に中島隆信『お寺の経済学』が紹介されていて、なるほど、おもしろい。
コンビニは全国に4万軒、お寺の数は7万5千。
坊さんは約30万人、全従業者の200分の1なんだそうだ。
200人に1人が坊さんとなると、坊さんは珍しい職業ではない。

日蓮がなぜ攻撃的だったのか、説明がおもしろい。
宗教という市場において、一般庶民はすでに浄土宗と禅宗に奪われていた。
後発の参入者は既存業者から顧客を奪い取らなければならない。
しかし、信仰は商品のように簡単には取り替えられない。
したがって、信仰という市場の場合、新規参入者が顧客拡大を図るためには他宗に対して批判的にならざるをえない。
説得力があります。

中島隆信は、経済学と仏教は車の両輪だと言う。

経済学は自転車の後輪だ。ペダルをこぐと後輪が回転し、自転車は前に進む。しかし、後輪だけでは自転車は不安定で、どこへ行くかわからない。そこで必要となるのが、前輪の役割をはたす仏教だ。前輪は自転車の行先をコントロールし、私たちの社会が間違った方向に進まないように正してくれるのである。

五木寛之が、経済はアクセル、政治はハンドル、宗教はブレーキだ、と言っているが、自転車のたとえのほうがいいように思う。

寺は公益法人だが、寺にはどういう公益性があるのだろうか。
『お寺の経済学』の説明です。

商店で品物を買えば、店員が「ありがとうございました」と言う。

お金を受け取る側がお礼を言うのが普通である。
ところが、世の中には客のほうから「ありがとうございました」と言ってお金を支払う取引がある。
その相手は医師、教師、そして僧侶など。
どうしてなのか。

客のいう「ありがとうございました」は、相手に支払うお金がサービスの「対価」なのではなく、「お礼」を意味するということなのだ。教師や医師は困っている人を救う仕事だ。僧侶も同じである。人々を現世の苦しみから救う菩薩行を実践するのが僧侶の役目といえる。
本来、僧侶の仕事とはそういうものだ。対価を要求しない。誰でも困っている人がいたら救いの手を差し伸べる。そしてお礼は後から受け取る。その金額はいくらでも構わない。
私たちが心から「ありがとうございました」といって僧侶に布施をできるかどうか、これがお寺の提供しているサービスの公益性をチェックする大きなポイントなのだ。


神社の賽銭―結果(ご利益)を期待しての前払い
寺院の布施―仏の慈悲、救いへの感謝
なるほど、病気が治れば、お金では表わすことのできない感謝の気持ちを医者に持つ。
我々は教師や医者から教育や治療を与えられるという期待を持っている。
そして、成績が下がったり、病気が治らないなど、結果が思うようにいかなかった場合、感謝はしない。

では坊さんはどうか。
おそらく、人は死者の救いを坊さんに期待していると思う。
しかし、死者が救われたかどうかはわからない。
だから、寺がつぶれずにやっていけるということです。

ところが、少子高齢化や核家族化といった世の中の変化は、お寺と檀家との安定した関係を崩しつつあり、今のままではじり貧である。
地域密着型寺院の場合は今まで通りの形で存続していくだろうが、檀家制度が崩れていくと予想されるお寺にとって、今後とも生き残っていくためには基本的に三つの道があると、中島隆信は言う。
 1,葬祭全般のサービス業としての道―葬式仏教の完全なビジネス化
 2,現世利益サービス提供の道
 3,布教活動への道

企業をはじめとする一般の業者は常に世の中の変化をキャッチすべくアンテナを張り巡らしている。変化について行けなければ存続の危機に立たされるからだ。信仰の世界もそれと同じである。(略)「信仰市場」は行政の関与が少ない自由な市場である。お寺が事業者として絶えず市場に注意を配り、消費者である信者のニーズを吸い上げるために工夫することは当たり前である。

実際、葬式のビジネス化にからんでいる寺はあるし、多くの宗派はすでに現世利益のサービスを提供している。
心から「ありがとうございました」と布施をいただくような布教活動への道は困難である。

中島隆信はさらにこう言う。

お寺の再生を図る道は一つしかない。それは墓をお寺から切り離し、檀家制度を一度完全に解消することだ。現在のままでは信者はお寺を選べない。(略)
まずは信者に選択の自由を与えるべきである。そして本当にお寺に来たいと思う信者だけを改めて集めなおせばよい。そのとき、住職の真価が問われることになる。宗派の教えをわかりやすく説き、信者の心を引き付けることのできる僧侶が支持されるだろう。

これは厳しい。
もしも墓というつながりがなくなれば、寺と檀家との縁は簡単に切れてしまう。
そうなった時に、凡人住職が「信者の心を引き付ける」ことができるとは思えない。
どうしたらいいのか。 

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「バカに見える話し方」

2006年03月09日 | 

息子が樋口裕一『頭がいい人、悪い人の話し方』を買っていて、腰巻きを見るとこんなことが書いてあった。
「バカに見える話し方」の実例
・道徳的説教ばかりする
・他人の権威を笠に着る
・根拠を言わずに決めつける
・抽象的な難しい言葉を使う
・自分のことしか話さない
・ありふれたことしか言わない
・きれいごとの理想論ばかりを言う
etc
赤面してしまった。

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F・X・トゥール『ミリオンダラー・ベイビー』

2006年03月03日 | 

クリント・イーストウッド『ミリオンダラー・ベイビー』の原作。
あの映画は傑作だったとつくづく思うが、原作もスグレモノ。
読みながら涙が出た。

『ミリオンダラー・ベイビー』には6篇がおさめられている。
いずれもボクシング小説で、著者を思わせるアイルランド系のトレイナーやカットマンが主人公である。

小説そのものもさることながら、著者のF・X・トゥールの略歴がすごい。
1930年生まれ、海軍除隊後、メキシコで闘牛士をしたりして、50歳近くになってボクシングを始める。
その後、トレーナー、カットマンに転じる。
1996年に心臓発作を起こしたのをきっかけに小説を書き始め、70歳の時に本書で作家デビュー。
2002年に72歳で死去。
私もまだまだこれから、と言いたいが。

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ウェンディー・ノースカット『ダーウィン賞』

2006年03月01日 | 

ドジをしたり、アホなことをしでかして死んだ人間を笑いものにしましょうというサイトがあり、サイトの管理者ウェンディー・ノースカットが本にまとめたのが『ダーウィン賞』。

なぜ「ダーウィン賞」という名前が付いているかというと、

突飛なことをしでかして、あの世に飛んでいった人たちは、見方を変えれば、自らすすんで自分という大ばか者の遺伝子を消し去り、人類の質を高めた功労者ともいえる。人類の進化という点からみれば、見事に貢献した立役者だ。その「究極の自己犠牲」をたたえてあたえたのが、ダーウィン賞なのである。

ということで、ブラック・ユーモアなのだが、優生学的な感じがする。
コメントもきつい。

ハリケーンが来るというのに浜辺で「ハリケーン歓迎パーティー」を開く人たち、10歳の息子と口げんかして、息子に包丁を手渡し、「そんなに俺が憎けりゃ、刺してみろ」とけしかけて殺された男、気持ちいいだろうとペニスに電流を流して感電死した男など、何を考えているのやらと思う。

しかし、他の井戸と地下水路でつながった井戸に落ちたニワトリを救おうとして、農夫が井戸に飛び込んで流され、農夫を助けようとして次々と5人が井戸に入って、全員溺れ死ぬという事件を笑うのはどうか。
あるいは、ガソリンが入っている缶をライターでのぞくようなうっかりミスをしそうな人は多いのではないだろうか。
人を笑いものにすること、特に人の死を冗談のタネにすることはあまり好きではない。
死者に敬意を表せと言いたくなる。

アメリカでは強くなくてはダメということなのか、人をからかって笑いをとる映画が多い。
時には、デブ、ハゲ、チビ、あるいは身障者といった弱者をしつこくからかう。
『オースティン・パワーズ ゴールドメンバー』では、大きなほくろをほんとしつこく笑いものにしていて、アメリカ人はこの場面に大笑いしたのだろうけど、不愉快になった。
それでも本を読んでいくうちに、そういうイヤな感じはだんだんとなくなり、笑いながら「こういうバカは死んで当然だ」と思ってしまう。
慣れというのは恐ろしい。

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