三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

小熊英二『日本という国』(1)

2015年10月30日 | 戦争

小熊英二『日本という国』は、明治維新以降、日本がどういう方向に進もうとしているのか、明治維新、敗戦、そして冷戦の終結が大きな転換となっていることがわかりやすく説明されています。

福沢諭吉『学問のすゝめ』は、「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」という言葉で有名だが、人間は平等だというけれど実際はそうじゃない、勉強する人は成功して金持ちになり、勉強しないと貧しい下人になる、だから勉強しなさい、と説かれている。

それまでは、武士の息子は武士、商人の息子は商人、農民の息子は農民、女の子は同じ身分の人と結婚するというふうに、親がどういう身分かで、子供の将来も決まっていた。

一般国民を無教育の状態にして、少数の支配者だけが知恵を持ち、国を治める東洋の方法は、平和で国内が安定しているときはよいかもしれない。
しかし、外国からどんどん人や物資が入ってくる時代には通用しない。
一般国民にも教育をほどこし、立身出世の欲望を刺激して、競争に負けないよう働くようになれば、経済は成長し、国も強くなる。

しかし、欲望の拡大に精神の発達が追いつかないので、欲望を刺激するだけなら不平を持つ者が出てくる。

不平不満のはけ口は国の外に求めざるを得ない。
そこで欧米諸国はアジアを植民地にするようになった。

東洋と西洋のやり方のどちらがいいか、福沢諭吉の答えは、日本が西洋になること。

西洋は東洋を植民地化しているから、日本が東洋のままなら西洋の植民地にされる、だったら東洋を侵略する側になろう。

西洋の文明を吸収し、学問をして競争に勝ち抜き、国際的には侵略する側にまわるためには、国民全員に強制的に教育を受けさせないといけない。

しかし、教育がゆきわたって知恵がつけば、貧しい状態に不満を持つ人間が増える。
そこで、政府は国に対する忠誠心を持つよう、修身を義務教育に盛り込み、忠孝を教え込んだ。

日本の近代化は、国民全体に西洋文明の教育をゆきわたらせながら、同時に政府や天皇への忠誠心を養う方向に進んだ。


西洋に追いつき追い越せということが敗戦までの日本のあり方で、敗戦後はアメリカの家来になることを選んだ。

1953年、池田勇人は「日本はアメリカの妾である」と発言している。

アメリカ占領軍の方針は日本の非武装化と民主化だった。

日本を非武装化し、民主化しようとして、戦力の放棄をうたう憲法を提示した。

ところが、アメリカとソ連の対立が激しくなり、1950年前後から対日政策が転換する。

日本を経済的に再建させ、再軍備させてアメリカの手下となって動く日本軍を作り、西側陣営の一員として協力させる方針に転じた。
サンフランシスコ講和条約と同時に日米安全保障条約を結び、アメリカ占領軍は在日米軍と名前を変えただけで、今までどおり米軍基地といっしょに残ることになった。
日本は占領軍がいるまま独立国となったのである。

アメリカは講和条約に、調印した国は日本への賠償請求権を放棄するという、日本に有利な条件を講和条約に盛り込んだ。(賠償請求権を放棄しなかった国もある)

こうして戦後の日本は、アメリカの忠実な同盟国、もっとはっきりいってしまえば〈家来〉になることを選ぶことによって、経済成長に成功したわけだ。



1950年代から60年代はじめにかけて、アメリカは反発の強い日本本土の米軍基地をほぼ4分の1に縮小し、自由になる沖縄に基地を移したので、沖縄の米軍基地は約2倍に増加した。

1968年から1974年にかけて、本土の米軍基地はさらに約3分の1に縮小したが、沖縄が日本の統治下にもどっても、沖縄の米軍基地はほんのわずかしか減らなかった。

いわば日本政府は、沖縄を「人身御供」として差し出すことで、アメリカとの関係をよくしているともいえる。
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藤原聖子『世界の教科書で読む〈宗教〉』(2)

2015年10月25日 | 

世界のニュースを見ると、原理主義が世界を覆っているように感じます。
実際のところはどうなのでしょうか。

藤原聖子『世界の教科書で読む〈宗教〉』に、世界には宗教を重視している人たちが多いのは最近の新しい現象とみるほうがあたっている、とあります。
20世紀の中ごろまでは、宗教は近代化とともに衰退する(世俗化する)と予想されていた。
ところが、1970年代から徐々に世界各地で伝統的な宗教が盛り返す現象(宗教回帰)が起きた。

なぜ伝統的な宗教に戻ろうとする人々が出るのか。

現代的価値観は、なによりも自由を重んじます。しかし、だれもが自分の好きなことや利益を求め、勝手にふるまうなら、社会は成り立たなくなります。それを止められるのは、人間の欲望を抑える、昔ながらの信仰心だと思った人たちが、宗教を見直すようになったのだと考えられます。

伝統的な道徳が失われ、秩序が乱れることに危機感を持った人たちが宗教を重視するようになったというわけです。
このことは厳罰化を求める動きと共通するように思います。

もう一つ、自由からの逃走ということがあります。
近代化がもたらした自由という状況を、夢があっていいと受けとめる人がいれば、なんでも自分で決めなくてはいけないことプレッシャーに感じる人、面倒に思う人もいる。

こうした、自由があたりまえの社会のなかに最初からいると、自由を享受するというよりも、自分はどう生きていったらいいのかと不安を覚えたり、自分らしい生きかたって何なのか(自分のアイデンティティは何か)と悩んだりということになりがちです。そんなときに、信頼できる人から、「あなたはこういった人間ですよ」「こう生きるといいですよ」と指示してもらえたら、気持ちが軽くなるのではないでしょうか。そうやって外枠を決めてもらえた方が、いいかえれば縛りをかけてもらう方が、自分の負担が減るために、逆説的にも自由な気分になれるということです。
現代社会であえて宗教を選ぶ人たちは、そのような確かな指針を求めているのだと言えるかもしれません。


ヤスミラ・ジュバニッチ『サラエボ,希望の街角』では、主人公と親しかった夫婦が原理主義に傾倒し、妻はチャドルで全身を覆っています。


これで思いだしたのが、大学では私服なので、何を着たらいいのか、ファッションに興味のない私はいつも悩み、高校のころは制服だったから楽だったと、似たもの同士で話したものです。
何らかの制約があったほうが自分で選択をせずにすむから、ある意味楽なわけです。
宗教は人生を根本的に、全面的に規定するものであり、だからこそ、社会が自由になりすぎると、その反動として宗教に向かう人々が次々と出現するのだろうと、藤原聖子氏は説明します。

「フリーダムニュース」にカツさんの話が載っています。

今までは自分の嫌なことはなにもせずに、クスリに逃げるという生活を続けていたせいで、ずっと一人で妄想の世界の中で生きてきたんで、しらふでこう、この現実にどう対応していったらいいのかわからない。自分に何ができて、何ができていないのか、わからない。

宗教も一種の依存なのかもしれません。

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藤原聖子『世界の教科書で読む〈宗教〉』(1)

2015年10月21日 | 

藤原聖子『世界の教科書で読む〈宗教〉』は、9カ国(アメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、トルコ、タイ、インドネシア、フィリピン、韓国)で使われている宗教の教科書を紹介しています。
外国では、他人の宗教を認めるような教育をしているのか、それとも否定するよう教育しているのか。

欧米はキリスト教の信者が多く(実際に教会に定期的に通う信者はそれほど多くはない)、トルコは国民の約95%がイスラム教徒、タイは約95%が仏教徒、インドネシアは90%近くがイスラム教徒、フィリピンは90%以上がキリスト教徒で、そのうちカトリックが約82%。

韓国だけが、仏教が22%、プロテスタントが18%、カトリック10%、無宗教が46%と、一つの宗教が大勢を占めているわけではない。

公立校にも宗教科の授業がある国があり、宗教科の授業には「統合型」と「分類型」の二種類ある。

統合型は、クラスの中にいろんな宗教の生徒も無宗教の生徒もいる。
分離型は、宗教別に授業が行われる。

アメリカは憲法上は政教分離制で、日本よりも厳格で、公立校ではクリスマス・パーティーはしない。


イギリスは国教制だが、公立校の宗教の授業で英国国教会の教えだけを学ぶということはなく、6つの宗教について学び、相互理解を深めようとしている。


イギリスは、キリスト教以外の宗教も等しく公教育に取り入れることで、宗教について平等であろうとするのに対し、フランスはあらゆる宗教を排除することで、平等を達成しようとする。

イスラムのスカーフを公立校内で禁止し、キリスト教の十字架のペンダント、ユダヤ教のキッパ(男性用帽子)など、あらゆる宗教のアイテムを見えるように身につけることが禁じられた。

トルコでもイスラムのことだけを学べばいいとはされていないし、インドネシアやフィリピンは多民族国家なので、多様性に気を配りつつ、多様性がバラバラを意味しないように、異なる宗教の間にも共通性があること、国民としての共通性があることも示し、「多様性と統一」の両立を目指している。


いずれの国も特定の宗教を敵視することを教えているものはなく、主流派の宗教に偏ることなく、バランスに気を配り、「お互いに認め合おう」というメッセージがみられ、他宗教への寛容や平和を説いている。

一つの宗教が圧倒的多数派の国では、いろんな宗教の共通点があることを説明し、多数派がマイナーな宗教をおしつぶさないようにという配慮が目立っている。

分離型の授業でも、自分の教派のことだけを学べばいいとはされておらず、諸宗教を受け入れ、それぞれの宗教の信者が現実にどういう生活をし、何を考えているか、相互理解を促進する授業が展開されている。


もっとも、いろんな教科書の中から、これはいい、と思ったものを選んで紹介しているのでしょうけど。


セオドア・メルフィ『ヴィンセントが教えてくれたこと』で、少年がカトリック教会が経営している小学校に転校します。

担任は神父ですが、生徒はカトリックの信者だけでなく、少年はユダヤ教だし、バプテスト、仏教、無宗教などさまざま。
カトリックの教えを押しつけるのではなく、自分にとっての聖人について発表させるなどして、キリスト教の良さを伝えようとしています。


日本の教科書(歴史、地理、倫理)の傾向です。

①現在の諸宗教の姿よりも、過去の歴史的事件や、開祖の生涯・思想を学ぶことが多い。
②キリスト教と仏教の分量が多い。
③「倫理」は「イエスやブッダという先哲に学ぼう」というスタイルをとっている。

日本では「宗教」という言葉に警戒する人がいるので、異教徒の存在を目立たせない傾向がある。

そのため、ある宗教について一方的なイメージがふくらんでいくのが、今の日本の状況である。
たとえば、唯一神教は不寛容だというもので、キリスト教とイスラム教はお互いを認め合っていないと思われている。
実際の信者と接して学ぶ機会はあまりないので、一方的なイメージの間のギャップは広がるままというのが現状である。

イギリスの教科書について藤原聖子氏はこのように書いています。

この宗教科教科書が試みているのは、信じる人と自分との間の往復運動により、自分とは違うよりどころを持つ人と、自分の間に共通性と違いの両方を見つけ出し、そこから自分の生き方についてじっくりと考える機会を与えることなのです。

藤原聖子氏のオススメ教科書じゃないかと想像します。
子供たちにこの教科書のねらいが伝わればいいなと思いました。

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デボラ・ブラム『脳に組みこまれたセックス』

2015年10月16日 | 

『脳に組みこまれたセックス』とはいやらしそうな題名ですが、ホルモンや遺伝子などの研究から知る男女の性差について書かれています。
1997年の出版ですから、現在の知見は違っているかもしれません。
へえ~と思ったことをいくつかご紹介します。

大学食堂で学生の会話をテープ録音するという研究。
女子学生の話題はほとんどがクラスメート、友人、デートの相手、家族といった自分の生活に関わる人々のことだった。
男子学生の話題は大半が、スポーツ、政治、試験、大学の勉強だった。
これには、そうだったのかと思いました。
妻と話が合わないはずです。


子供がどんなふうにお医者さんごっこをするか。

男子は全員が医者になりたがった。
医者はみんなに、ああしろ、こうしろという力を持った存在で、誰が医者になるかで長々と言い争う。
女の子は、誰が医者になりたいかをたずねる。
それから話し合って、医者、看護婦、患者の役を割り振る。
これまた納得。
長になりたがる人は結構いて、なんで面倒なことをしたがるのかと思ってましたが、権力をふるえるということなんですね。
外交は女性にまかせたほうがいいようです。


体罰をあまり与えない親に育てられた子供は、政治的態度が穏健になる。

違反すると厳しく罰せられる厳格な親(とりわけベルトや平手でしつける親)に育てられ、心理療法を受けない男性は保守派になり、死刑を擁護し、軍隊の熱烈な信奉者だった。
女性は例外なく革新派になっていた。
この違いは、女性の共感に起因し、少女時代に厳しく罰せられた女性は、罰を受ける人の身になって考えがちである。
となると、ネット右翼や厳罰化賛成の人は虐待を受けた率が高いかもしれません。


長いつきあいのカップルを対象に、頻繁で熱狂的な性関係がどれくらい持続するかの研究によると、肉体関係が情熱的な順に、同性愛の男性同士、それから異性愛の関係、最後にレズビアンとなる。

ペアを次々変えていくのもこの順番。
橋口亮輔『ハッシュ!』にも、長続きするゲイは少ないというセリフがありました。

抑ウツ状態で専門家にかかる人の男女比は、女2:男1。

自殺率は男性のほうが高いので、男のほうがウツが多いのかと思ってました。

男(雄)は遺伝子を残すために他の男(雄)と戦わなくてはいけないが、女(雌)はいい男(雄)を待っていればいいということだそうで、これもなんとなくわかります。

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大山寛人『僕の父は母を殺した』

2015年10月12日 | 死刑

少年の再非行防止活動をしている知人から、読まないかと渡されたのが大山寛人『僕の父は母を殺した』です。

大山寛人さんの父親は、1998年に自分の養父を殺し、2000年に母親(自分の妻)を殺害したことによって死刑になった。

母を失った僕は、近い将来、たった一人の父親を死刑で失うことになります。父の死刑は、僕に新たな悲しみを与えるものでしかありません。被害者遺族が望まない加害者の死刑がある――そのことを知ってもらいたくて、この本を書き始めました。

被害者遺族のことを考えると死刑は当然だとか、被害者は厳罰を求めていると主張する人が多いですが、殺人事件の4割は家族が加害者、すなわち被害者遺族=加害者家族なのです。

母親が殺害されたとき、大山寛人さんは12歳、小学6年生。
中学2年のときに父親の殺人が発覚する。
父親が逮捕されて母親の姉に引き取られたが、悪さをするようになった。

この事実を受け止めることができず、非行に走って荒れた生活を送りました。周囲からは「人殺しの息子」と白い目で見られ、心も身体も行くあてがなく、公園のベンチや公衆トイレで眠る日々でした。僕から全てを奪った父を「この手で殺してやりたい」と思うほど憎み、恨み、爆発しそうな感情を抱えながら、精神安定剤を乱用し、自殺未遂を繰り返し、心も身体もボロボロになっていました。


中学を卒業すると児童養護施設に入るが、施設を出て荒れた生活をし、何度も補導されては鑑別所、自立支援施設に入るなどする。
公園のベンチやトイレで眠るという生活が続き、自殺未遂をしては病院に運ばれることを繰り返す。
父親のことなどを隠さずに正直に話せる恋人ができたが、親の反対で別れることになる。
広島を出て、名古屋に住むが、仕事の面接を受けて合格しても、父親のことを知られ、勤務する前にクビになる。

被害者感情を声高に言う人がいますが、現実は援助の手をさしのべる人はあまりいません。
大山寛人さんは自分の名前や写真を公にしていることで、さまざまないやがらせがあるだろうと思います。
しかし、非行をし、自殺未遂をする大山寛人さんを家に泊めてくれる友達がいたそうです。
手をさしのべる人がいるということにホッとします。

父親の死刑判決(一審)をきっかけに、3年半ぶりに父親と面会したことで、何かが変わり始めた。
何度も面会し、手紙のやり取りを重ねる中で、父親を責める気持ちが薄れた。
そして、父親に生きて罪を償ってほしいと考えるようになった。

父さんが死刑になっても母さんは戻ってはこない。今まで僕は父さんを恨み、憎み続けてきた。でもその感情は僕の心を押し潰しただけだ。父さんを恨んでいる限り、僕は救われない。
許すことはできない。
でも、恨みや憎しみを心に秘めることはできる。


大山寛人さん自身は、死刑制度に反対しているわけではないそうです。

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禁じられた数字

2015年10月06日 | 問題のある考え

山田真哉『「食い逃げされてもバイトは雇うな」なんて大間違い』に、「禁じられた数字」について書かれています。
山田真哉氏の説明です。

「禁じられた数字」とは「事実だけれど正しくはない」という数字のこと。
人の判断を惑わし、人をだます武器にもなるので、社会全体のために決して使うべきではない卑怯な数字である。
「禁じられた数字」がきわめてやっかいなのは、文字ならばしっかりと考えられるのに、数字になったとたんに思考停止に陥り、騙される人がとても多い点である。

具体的に、禁じられた数字とはどういうものか、4つの代表的なパターンがあげられています。

 1 作られた数字
はじめから「こういう数字がほしい」という結果ありきで生まれた数字

Q 次の都市のなかで、いまいちばん行きたいところはどこですか?

 ロンドン
 パリ
 ローマ
 ハワイ
この設問には欠陥がある。
ヨーロッパの都市が3つあるのに対し、リゾート地はハワイひとつしかない。
そのため、ヨーロッパに行きたい人の票は分散し、リゾート地に行きたい人がハワイに集中する。
これは誘導的な設問でして、死刑の賛否を問う調査も似たようなもので、設問がおかしいです。

厚生労働白書(平成17年度版)に、3世代世帯割合の高い地域では出生率も高い傾向がややうかがえるとある。
しかし、3世代世帯だから子供が生まれるのではなく、子供が生まれるから3世代世帯になるのであり、出生率が高い地域は、必然的に3世代世帯割合も高くなる。
これは因果関係を逆転させているわけです。

「生き残りバイアス」という話がある。
「当社の10本の投資信託、そのすべてがすばらしい運用実績です」
この数字は事実であっても正しくない。
100本の投資信託を作って運用し、その成績上位10本の投資信託だけを残したにすぎない。

 2 関係のない数字

本当は関係がないのに、さも関係がありそうに思わせる数字

映画の宣伝で「構想7年 ついに映画化」というものがあるが、構想はアイデアレベルの話なので、無駄に7年も考えたのか、事情があって中断していたのか。

映画がおもしろいかとは関係のない数字。

政治家が「利用者は少ないかもしれないが、この空港を作るためにすでに800億円もかかっているのだから、いまさら中止できない」と言ったとする。
800億円と「だからもったいない」という意見とは直接的な関係はない。
建設を続行した結果、もっと損をするかもしれないし、完成しても採算が取れないかもしれない。
今後、800億円の赤字額が縮小するのか、拡大するのかという点だけが判断の基準になる。

 3 根拠のない数字

さしたる根拠がないのに、もっともらしく聞こえてしまう数字

「○○の優勝で経済効果1000億円」というのも根拠のない(弱い)数字である。
分析者によって、経済効果の対象に含める範囲が違うし、「優勝セールで買ったから、冬のバーゲンには行かない」というマイナス効果も発生するが、経済効果の金額から引き算するわけではない。

 4 机上の数字
計算上はうまくいくけれども、実際にはうまくいかない数字

こういう求人広告。
「工場勤務 時給1000円 月30万円可 寮完備」
月30万円ももらえるんだからいい仕事だと思いそうだが、月30万円を時給1000円で割ると、300時間。
休みなしで30日間、毎日10時間も働かないといけない。

「日本の中小企業の7割が赤字」と、国税庁が発表している。
しかし、中小企業には黒字だと税金をたくさんとられるので、わざと赤字にしている会社がけっこうある。

他にもいろんな例が挙げてあります。
驚いたのが、「費用対効果」は、どんな場面でも使えるオールマイティで便利な言葉だということ。
効果が意味するモノはひとつだけではないし、場面や人によって違うこともある。
たとえば、「この食器洗い乾燥機を買えば水道代が安くなります」という宣伝文句。
水道代は安くなっても、電気代がかかるので、たいした節約にならない。
前提がおかしかったり、効果の対象もあいまいだったりすることが多々ある。
費用対効果とは、使っている人の頭のなかでしか成立していない「関係のない数字」「机上の数字」だというのだから驚きです。

これらは、たぶん詐欺ではないし、悪徳商法でないけれども、人を惑わし、だますために数字を利用しているわけです。

でも、私にしたって、自説に都合のいい数字は引用しても、まずいものは無視しますから、意図的ではなくても、無意識にみんなやってることなのかもしれません。

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土井裕泰『ビリギャル』

2015年10月01日 | 映画

実話をもとにした映画を見てて、ほんまかいなと思うことがあります。
映画なのだから、事実そのままということはなく、創作の部分があるわけですが、どこまでが事実で、どこが創作か気になります。

ビル・ポーラッド『ラブ&マーシー 終わらないメロディー』は、ザ・ビーチ・ボーイズのブライアン・ウィルソンの半生を映画化したもの。
ブライアン・ウィルソンは麻薬漬けで、おまけに1963年、21歳の時から声が聞こえるというのだから、統合失調症だったらしいです。
薬物依存症と統合失調症の両方があると、薬物をやめるのは難しいと聞きます。
でも、ブライアン・ウィルソンは薬物をやめ、今も音楽活動をしているのは事実なわけで、どうやって薬物依存症と統合失調症から回復したのか、そこらを知りたいです。

バフマン・ゴバディ『サイの季節』は、イラン革命で逮捕され、30年間も刑務所に入れられ、死んだことにされて墓まで作られた詩人が主人公。

イタリア人のモニカ・ベルッチが妻役で、どうしてイラン人の役を演じているのかと思ったら、モニカ・ベルッチはペルシャ語を話せるそうで、20代でも違和感はないけれど、50歳で、これは本当の話。


土井裕泰『ビリギャル』はたしかにおもしろいけど、あれっというところがあれこれあって、後味はあまりよくない。

ネットを見ると、原作をタイトル詐欺だと批判している人もいます。

授業中にクラス全員が勝手におしゃべりをしてて、教師が怒るシーンがあり、底辺校でいちばんビリの生徒が慶応に合格したのかと思いました。

でも、私立の中高一貫校なのに授業崩壊というのはあり得ないと疑問。
高校の偏差値で一番低い高校でも37ぐらいなのに、主人公の偏差値が30というのはどういうことか。

主人公が最初に塾に行ったとき、先生からいくつか質問を受けるんですが、その答えが笑わせます。
でも、おかしい。

原作者の坪田信貴先生が書いているサイトがあり、そこから無断引用します。

聖徳太子を「せいとくたこ」と読む。
「だって、この子、きっと超デブだったからこんな名前付けられたんだよ。せいとくたこって」

「日本地図を書いてみてくれ」と言われて、円を描く。
「え?日本ってそんなたくさんあんの???」

東西南北がわからない。

「あのさ、北が↑の時、南ってどっち?」
「・・・・・・いやー、そういうの私無理だわ―」

というわけで、高校2年生で小学4年生程度の学力だと判定されます。

しかし、私立中学に合格しているのにこの程度のことも知らないのかと、坪田先生も不思議に思います。

坪田「ちょっと待て。さやかちゃんさ、君、一応私立中学受験してるんだよね? だから、今の女子高行ってるわけだろ? おかしくないか? その無知っぷり」

さやか「あー、さやかね、中学受験、国語と算数だけなんだよね。今は4教科らしいんだけどさやかのときまで2教科だったの。だから社会全然わかんないんだ。しかも、小学校の時あーちゃん(お母さん)から、さやかここで合格したらあとずーっと勉強しないで大学まで行けるんだよ? だから頑張ろう! って言われて頑張ったの。だから、中学入ってから今までの5年半、全く何もしてないから、算数も国語も全部わからないの」

この説明に納得するかどうかですが、聖徳太子を「せいとくたこ」という人名かと勘違いしたということは、「聖」と「徳」は読めたわけです。

聖は6年生、徳は5年生で、東、西、南、北は2年生で習います。
社会はわからなくても、小学2年で習う漢字の意味ぐらい知っているはずです。
映画では、strongの意味を聞かれ、「長い話」と答えます。
storyがlongというわけですが、storyとlongの字と意味を主人公は知っていることになります。

中学3年のときの成績表の写真が坪田先生のサイトに載ってて、1学期のテストではたしかに学年でビリ(197人中197位)ですが、他のテストではビリではありません。

3学期の数学は58点(学年平均60.8点)、3学期の国語の課題テストは73点(学年平均63.7点)ですから、「算数も国語も全部わからない」わけではないようです。
なぜ高校2年生の時の成績表を載せなかったのかと勘ぐりたくなります。

偏差値30がどの程度の学力なのか知りませんが、高校生でも九九ができない子、アルファベットの大文字と小文字を全部書けない生徒は珍しくないそうだし、飲み屋でバイトしている女子高生がメニューの「小イワシ」を読めなかったと聞きました。


小学4年生程度の学力でも塾に通うようになって、英語の偏差値が70になります。

そんなに簡単に偏差値が70に上がるんだったら、誰も苦労はしない(英語がさっぱりだった私のひがみです)。
塾で勉強した英語と国語と日本史の成績はぐんぐんあがっているはずだから、学校や担任も驚くと思うのですが、学校のテストの点数や順位に映画では触れません。

主人公はいつも4人でつるんで夜遊びしては朝帰りしているんですが、4人とも男友達、もしくは恋人がいないようで、これも不思議。

バイトする時間はなさそうなのに、遊ぶ金はどうしているのか。
塾に通うようになっても、夜遊びには今までどおりにつき合い、でもカラオケでノートを広げて勉強しているんだから、友達から白い目で見られないのかと思います。

もっと驚くのが、毎日のように朝帰りをしているのに、母親がそのことに何も言わないこと。

主人公の親は子供の好きにさせるという主義なのかもしれないけど、他の3人の親も気にしていないとしたらおかしい。

『ビリギャル』を見て思ったのが、持って生まれた能力ということ。

主人公の弟は小さいころから、父親にプロ野球の選手になれと言われてしごかれ、名門高校野球部に入りますが、挫折、野球をやめます。
それで思い出したのが、桑田真澄氏の講演を聴いた知人の話です。
桑田真澄氏はPL学園高校に入ると、体格も実力も自分とは桁違いのチームメイトたちに圧倒され、登板機会を与えられても、痛打を浴び、監督から外野手転向を言い渡されるので、やめたいと母に泣きつくが、母に励まされ、便器を磨いたり、草取りをするなどの努力を続けたという。
ところが、ウィキペディアの「清原和博」の項を見ると、桑田真澄氏の投球を見て驚嘆し、投手になることを断念した、とあります。

高校1年の夏には甲子園にエースとして出ていますので、桑田真澄氏が補欠だった時期はそれほど長くはなかったはずです。

主人公や桑田真澄氏はもともと能力があり、それが努力によって開花したのでしょう。

夢を持ち、努力することは大切ですが、努力すれば、必ずレギュラーになれるわけではありませんし、誰もが主人公や桑田真澄氏のような能力を持っているとは限りません。

事実なんだと言われたら否定はできません。

しかし、いくら実話を映画化するといっても、映画は事実そのものではありません。
いかにうまく脚色をするかが映画の出来を決めます。

ネットで調べたら、ブライアン・ウィルソンと主治医の関係は映画で描かれたよりもこんがらがっていますが、そこは『ラブ&マーシー』では省略しています。

『サイの季節』だと、詩人が30年間も刑務所に入れられて妻と引き離されたという事実をもとに、監督がイメージをふくらませています。
見えすいたウソでは白けてしまうので、上手に嘘をついて観客をだましてほしいと思うわけです。

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