三日坊主日記

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林博史『華僑虐殺』

2022年01月19日 | 戦争

1942年2月、日本軍によるシンガポール占領後、シンガポールやマライ半島で華僑(中国系住民)が虐殺されました。
シンガポールでは4~5万人、マラヤ全土では10万人が殺されたといわれています。
まったく知りませんでした。

林博史『華僑虐殺』(1992年刊)は、主に1942年3月のネグリセンビラン州での虐殺について詳しく書かれています。

非武装で無抵抗の一般住民約3千人(女性、子供、老人を含む)が殺戮された。
日本が降伏した後もマラッカなどで民間人の虐殺がなされた。
日本兵が赤ん坊を放り投げて銃剣で突き刺すのを見た人が何人もいる。
『華僑虐殺』には生き残った人たちの証言が延々と書かれていて、なんとも言えぬ気持ちになりました。

日本軍が戦争裁判対策に作成した「極秘 新嘉坡に於ける華僑処断状況調書」に、シンガポールの粛清、マレー半島での粛清について次の主張がされている。
①マレー作戦中の華僑の妨害活動
②占領後、華僑がゲリラ戦に出ようとしたことによる治安の悪化
③日本軍主力の転用による警備兵力の減少
④殺害は交戦中にやむなくおこなったもの

また、処断したのは好日義勇軍華僑連合会幹部、マラヤ共産党員の「通敵行為者を主体」とした約5000名であり、一般市民を殺害したのではないと強弁している。

しかし、マレーシアでの華僑虐殺の事実は、日本軍の公文書である陣中日誌でも、日本兵の証言によっても裏付けられている。
シンガポールでの虐殺も、将校を含めた日本軍関係者も事実そのものを認めている。

粛清をおこなった理由、その背景について林博史さんはこのように論じています。

日本の中国への侵略の延長上に東南アジアへの侵略戦争があった。
資源を求めてマラヤなど東南アジアを占領し、日本の領土にしようとした日本軍や政府には「アジアの開放」という考えはなかった。

侵略軍の常として、被占領者から反発を受けると、住民一般を敵視し、住民すべてが反対者のように見えてしまう。
マラヤの場合、とりわけ中国人がそのように見られていた。

住民の武装抵抗はゲリラという形をとる。
ゲリラは住民の支持をうけ、しばしば住民のなかにもぐりこんで活動する。
占領軍はゲリラと住民の区別がつかないため、住民はすべてゲリラの支持者・同調者に見えてくる。
その結果、ゲリラを掃蕩するという名のもとに住民を無差別に殺戮する。

日本軍による「現地処分」「厳重処分」が一般におこなわれるようになったのは、満州事変の時からである。
匪賊討伐の際にとられた方法が臨陣格殺、すなわち「討伐にあたり状況によってはその場の高級警察官の判断により即座に相手を殺害できる」というものだった。
抗日ゲリラなどの粛清にあたって、捕らえた者はその場で殺害してもよいという法律である。

ゲリラだけでなく、一般住民まで無差別に殺害していたことは日本軍が認めている。
この「厳重処分」は中国全土に適用され、当然のことと考えられるようになった。
その経験が東南アジア各地にも適用された。

マレー半島の大部分の粛清を担当した第五師団は、盧溝橋事件が勃発すると華北に派遣され、1940年末まで中国の北から南、ベトナムまで激戦地に投入された。
第五師団は占領地の警備にあたり、掃蕩戦・治安粛清作戦をくりかえし、略奪や放火は当たり前のこととしておこなわれた。
中国戦線での経験はマレー半島での粛清にも持ち込まれた。

中国本土での残虐行為、マラヤでの華僑虐殺の根底に中国人に対する差別観、蔑視観がある。
長年にわたって日本の侵略に耐え、抵抗してきた中国人の力を警戒し無視できない。
中国人を日本人より下だと見下しながら、同時に日本に対して抵抗する力を恐れた。
見下している者が逆らうからこそ、徹底的に痛めつけ、時には虐殺をおこなう。

マレー人に対する差別観はマレー人に対してだけでなく、東南アジア各地の諸民族に対して共通のものである。
徹底して蔑視し、マレー人は無気力で、日本に歯向かう意志も力もないとバカにした。

竹田光次陸軍中佐『南方の軍政』は、「南方原住民の性格」について、「本能と欲望のまにまに生活してゆくだけで、これを制する意志能力も薄弱である」などと決めつけている。

日本人の東南アジアに対する差別観は、ヨーロッパ人のアフリカ人観と共通していると思います。
『改訂新版 新書アフリカ史』に松田素二さんはこう書いています。

ヨーロッパが主導する近代世界システムにからめとられたアフリカは、ヨーロッパの帝国主義と植民地主義によって一方的に蹂躙され、深い傷を負わされた。

現代世界の精神と制度の基礎を形作った理性と啓蒙の18世紀は、人類史上最悪の奴隷売買の世紀だった。
アフリカ西海岸から送り出された奴隷の数は、18世紀だけで560万人を超える。

イギリスの王立アフリカ会社の外科医ジェイムズ・ふーとソンは1722年にシエラレオネを訪れた際の黒人の印象を、「黒人の習慣は同じこの地で仲よく暮らしている生き物にそっくりである。つまり猿である」とまとめている。

カルル・リンネは『自然の体系』(1735年)の中で、人類をホモ・サピエンスとホモ・モンストロスス(怪異なヒト)の二種に区別し、アフリカ人ら「原始的な人間」を後者に分類した。

アメリカ大統領トーマス・ジェファーソンは『バージニア覚書』(1785年)で、黒人の人種的劣等性を強調し、その劣等性ゆえに黒人は奴隷制を受容したのであり、アメリカ国民(白人)の責任ではないと述べた。

フランスの人類学者ジョゼフ・アルテュール・ド・ゴビノー伯爵(1816年~1882年)は『人種不平等論』で、アフリカ人の劣等性を直截に「黒色人種は最低であり、人種序列の階段の下に立っている。受胎したときから、動物的な特徴がニグロに刻印され、その知能は常にきわめて狭い枠の中から出ることはないだろう」と語る。

医師であり宣教師であるデイビッド・リビングストン(1813年~1873年)は「我々は、彼ら(アフリカ人)のもとへ優等人種の一員として来たのであり、人類のうちでもっとも堕落した部分を向上させようと欲している政府に対する奉仕者として来た。私は神の化身、もしくはそうなりたい。神聖で慈悲深い宗教の力で、いまだ混乱し、破滅に瀕した人種のための平和の告知者となりたい」と述べている。

松田素二さんは次のように指摘しています。

誰が見ても明らかな「人道に対する重大な罪」に対して、これまで加害者であるヨーロッパが被害者であるアフリカに「謝罪」を表明したことはない。ましてや「被害の補償」などはされていない。
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