④成長の糧論「悪の存在は人間の成長の糧となり、人間を完成に導くために不可欠である。(イレナエウスの立場)」
本多峰子「悪の問題にむかう」に、イレナエウス(130年頃~202年)の見解が述べられています。(イレナエウスはラテン語、ギリシャ語だとエイレナイオス)
アウグスティヌスが堕罪前の人間は完全であったと考えたのに対し、イレナエウスは人間は不完全であり、善と悪とを両方とも体験することによって、善をよりよく理解するようになり、成長し完成に至る、と見る。
本多峰子「悪の問題にむかう」に、イレナエウス(130年頃~202年)の見解が述べられています。(イレナエウスはラテン語、ギリシャ語だとエイレナイオス)
アウグスティヌスが堕罪前の人間は完全であったと考えたのに対し、イレナエウスは人間は不完全であり、善と悪とを両方とも体験することによって、善をよりよく理解するようになり、成長し完成に至る、と見る。
ジョン・ヒックはアウグスティヌスの自由意志論の立場に異議を唱え、イレナエウスの立場をとって、二段階創造説を提唱しました。
二段階創造説を三宅威仁「神義論の諸相」にこのように説明します。
人間はまず神の「形」に造られ、次第に「似姿」になっていく。
第1段階 進化の過程の末にこの世界にホモ・サピエンスが登場した。これが人類創造の第1段階であり、人間が神の「形」として創造された。
第2段階 神の「似姿」になったときに神を知り、常に善を行う可能性を現実化できるようになる。
ジョン・ヒック「エイレナイオス型神義論」(『神は悪の問題に答えられるか』)はこのように説明しています。
なぜ神は人間を善で自由な存在として創らなかったのか。
なぜ人類は最初からすべての徳をもって創らなかったのか。
不完全でまだ発達途上の被造物として創らねばならなかったか。
それは、苦難を経験することで完全な存在になるから。
人生を未完成な人間が成熟した成人に仕上げられる神が用意した場と見る。
神の目的が最も価値のある種類の道徳的善を具現する有限な人間を創造することだとすれば、困難と誘惑を努力で克服して正しい決断を積み上げた結果、形成された徳は、苦労せずに得られた徳よりも価値がある。
悪は、困難に耐え、立ち向かい、打ち勝ち、克服することによって人間の成長を促すために不可欠とされる。
自然悪は、互いに助け合い、思いやり愛し合うことを求める世界には欠かせない。
危害を加えられたり、痛みや苦しみを受けたりすることのない状況では、善い行為と悪い行為の区別は存在しない。
世界に避けるべき危険もなく、勝ち得るべき報いもなければ、人間の知性や想像力の進歩も全くなく、科学も芸術も、文明も文化もなかっただろう。
つまりは、神はこの世界は試練の中で人格を鍛え上げていく場にしたから、困難や危険、悩みや苦しみがなければならない。
人間は誤った行為をして、人や自分を傷つける経験をして、人格的に成長する。
だから、神は悪の存在を認めた、ということです。
本多峰子「悪の問題にむかう」に、ジョン・ヒックへの批判がまとめられています。
ⅰ この理論は、生まれてすぐに殺されてしまった赤ん坊や幼児の苦難を正当化できない。魂を成長させるどころか逆に精神的に人間を立ち直れなくするほどの苦痛にも何ら答えとならない。精神障害を伴う病気などはどう考えればよいのか。
ⅱ なぜ、神は何億年もかけて人間を完成に導かねばならなかったのか。その何億年の間には、おそらく全く不必要な苦難がたくさんあったのではないか。
ⅲ ⅰと関連して、世界には、人間の精神的成長のためならば、これほどの量の、しかも、これほどひどい、人間の人間性を破壊するほどの苦痛は必要だろうか。
これらの批判にジョン・ヒックは、エイレナイオス型神義論が前提とする神の目的の実現は、人が死後も生存し、最終的な状態に向かって成長することを想定しており、終末の成就なしにはこの神義論は成り立たないと、天国を持ち出す。
人間は成長するために生まれてきたのであり、苦難は成長するための糧であるというジョン・ヒックの考えにいくつかの疑問を持ちます。
『ソフィーの選択』のソフィーは、ガス室に送る子供を選択し、そうして自殺することで成長したのでしょうか。
もしもそうだったら、子供たちはソフィーが成長するための手段になります。
成長を促すものだと悪の正当化をしているとしか思えません。
「創世記」にある神の創造説と、生命が十数億年をかけて進化したという進化論の両立は困難だと思います。
神がホモ・サピエンスを創造したのなら、どうしてアウストラロピテクスやホモ・エレクトス、ネアンデルタール人などをわざわざ創造したのでしょう。
ジョン・ヒックは個人の成長と人類の完成をごっちゃにしていると思います。
キリスト教は生まれ変わりを説かないので、せいぜい百年という一回限りの人生で完全に成長することはあり得ません。
死んだ時点で完成していないのに、終末で急に完成するというのも変な話です。
生まれてすぐに死んだ赤ん坊はどういう経験を学ぶのでしょう。
虐待されて育つより、もっといい経験のほうが成長を促すと思います。
二段階創造説は、生まれ変わりをくり返しながら霊性の向上させ、最終的に完成するというニューエイジやスピリチュアルと似ています。
人類が成長するとしても、アブラハムから何千年か経ってるのに、現在の状況を見ると、人類が完全な存在になるまでには無限の時間がかかりそうです。
そもそも、人間は成長するものでしょうか。
終末とは最後の審判です。
ユダヤ教の天国とキリスト教の天国は同じか、異なるか。
あるいは両方が併存しているか、どちらか一つだけか。
もしもキリスト教の天国しかないとしたら、アウシュビッツで殺されたユダヤ人は地獄へ堕ちるのか。
キリスト教でも、カトリックとプロテスタントと東方教会の天国は別々に存在しているのか。
プロテスタントには多くの宗派があるが、それぞれの教えに合った天国があるのか。
創造説を信じるキリスト教徒と、進化論を信じるキリスト教徒、どちらも天国に行けるのか。
聖書に書かれていることはすべて歴史上の事実であるとは信じる聖書根本主義のキリスト教徒と、そのようには考えないキリスト教徒は天国に生まれることができるのか。