三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

奥秋義信『残念な日本語』3

2012年01月13日 | 

奥秋義信『残念な日本語』を読み、テープ起こしの原稿を直すときには気をつけないとと思ったことがいくつかある。

「一ヶ月」「年令十才」は間違い。
「ヶ」は「か」や「こ」とは読めない。
なぜ「ヶ」が使われるようになったかというと、「一箇月」の「箇」の略字、俗字が「个」で、「个」をくずした字「ケ」が用いられるようになった。
「ヶ」と小字にするのは二重の誤り。
なぜなら日本語の表記では拗音(「ゃ」など)と促音(「っ」)だけ小字になるから。
それは「ヵ」も同じで、なぜ「カ」ではなくて「ヵ」を用いるかというと、「力(ちから)」と読み違えるのを避けるためだった。
だから「一ヶ月」は間違いで、「一ヵ月」も正しくはない。
今後は「一カ月」か「一か月」にしましょう。

「年令十才」だが、「令・才」は「齢・歳」の略字ではなく別の字である。
なぜ「令・才」が使われるようになったか・
最初に用いたのはNHKである。
初期のテレビ画面は解像度が不十分なために、スーパーインポーズは横に9字が限度だったので、画数の少ない文字で代用して読みやすくしたんだそうな。

熟語のどこで切るか、これも難しい。
「五里霧中」は「五里、霧中」ではなく「五里霧の中」、「一衣帯水」は「一衣、帯水」ではなく、「一衣帯の水」、「登竜門」は「登竜の門」ではなく「竜門を登る」。
「正誤表」は「正しいことと誤りの表(正字と誤字の対照表)」ではなく、「誤りを正す表」。
私は「清少納言」を「せいしょう・なごん」と発音していました。

「たり・たり」「と・と」など「並立助詞の反復」という語法がある。
「見たり聞いたら」→「見たり聞いたりしたら」
「勝つか引き分ければ優勝」→「勝つか引き分けるかすれば優勝」
「逃げないし、めげない」→「逃げないし、めげないし」
ほかにも「でも・でも」「やら・やら」「にも・にも」「しろ・しろ」「の・の」「わ・わ」などが並立助詞。
これもやってしまいがち。
だけど「たり・たり」と繰り返すのは面倒ではあります。

言葉のねじれ現象というのもある。
「押しも押されぬ」はねじれ語なんだそうだ。
「押しも押されもせぬ」「押すに押されぬ」という成語がごっちゃになっている。
「けんけんがくがく」もそうで、「侃々諤々(かんかんがくがく)」と「喧々囂々(けんけんごうごう)」をつなげた誤用。

ねじれ文は、たとえば「わたしの夢は、将来立派なアナウンサーになりたいと思います」
「夢は思います」と、主語の「夢」が「思う」という述語につながることはあり得ない。
こういう首尾一貫していない文章をねじれ文という。

テープ起こしした文章を読み直していて、なんとなくおかしいと感じる文章があって、その多くはねじれ文になっているからだと思う。
主語と述語がちぐはぐになっていることがしばしばある。
それとか、普通、話をすると、句点(。)がなくて、「~~なんですが、~~だったりして、~~と思っているんですが、~~」というふうに延々と読点(、)が続くことが多い。
あるいは、形容詞がどの言葉を形容しているかわからなかったり。

話し言葉と書き言葉は違うから、テープ起こしは編集して読みやすいものにしないといけない。
すごく面白くてわかりやすい話でも、文章にすれば意味が取れなかったり、話があちこち飛んでいたりするので、どうしても手を加える必要がある。
編集することで話し手が伝えたいこととは違ってくるかもしれないが、ある程度はやむを得ないと思う。
知人は「テープ起こしは翻訳のようなものだ」と言っていた。
話し言葉から書き言葉への翻訳である。
翻訳でも、直訳だからといって原文を正しく伝えているわけではないし、直訳では生きた日本語とはならない。
もっとも、直したつもりでも、敬語の使い方や重語など間違えて、日本語としておかしくしてしまっているかもしれないが。

曽我量深の講演録が読みづらいのは、まずは私がアホだからだが、一つにはねじれ文ということがあると思う。
文章の前半は肯定しているのに、後半では否定していたりしてる。
たぶんこれは、口述筆記した人が「曽我先生の話に手を加えて直すなんて恐れ多い」と思ったからじゃないかと想像しております。

コメント    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 奥秋義信『残念な日本語』2 | トップ | 藻谷浩介『デフレの正体』 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

」カテゴリの最新記事