山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

書く力

2020-04-03 02:54:17 | 宵宵妄話

 人間は何のために生きているのか?という根源的な疑問に答えるとすれば、自分の現時点での答えは、「己を表現するためだ」ということになる。自分が自分であるということは、自分を表現した結果なのだ。その表現の仕方がどんなものであれ、人は生きている限り本人が意識していると否とに拘わらず常に自分を表現し続けているのだと思う。

 人間ほど多種多様な生きものはいないように思える。生物学的にはそうは言えないかもしれないけど、精神世界の面では無限・無数の存在ではないか。生きるということは、その精神面を表現することに尽きるのではないかと思う。

 いきなり難しげな話となったが、このところブログの方はさっぱりで、ものを書くことが少なくなってしまっていた。それを今反省している。この1年は、ものを書かなかったわけではないのだが、自分が書きたいものというよりも、自治会の仕事で必要なものを書かされるという形だった。書かされるというのは、事務的要素が多くて、自分を表現する部分は少ない。それが気になっていたのだが、責任を果たす役割を課せられた場合は、好き勝手なことを書くわけにはゆかないから、これはもう仕方がない。我慢するだけである。

 4月になってその役割から解放されて、改めて書くということについて考えてみた。人間は様々な力(=能力)をもっており、その能力を使って自分を表現しているのだと思う。その力を自分に当てはめてみると、それは書く力なのだと思っている。自分が書くことを止めるとしたら、もはやそこにいるのは自分ではない。そこにいるのは表現をしない自分であり、それは自分ではないのだ。だから、書くことは自分の証であり、これを止めるわけにはゆかない。

 ところで力というのは、使わないと落ちるものらしい。使い過ぎると劣化する場合もあるようだが、それは力を鍛え磨かなかった場合の様で、書くという場合は、使わないということだけが問題となるようだ。

 自分がなぜ書く力に拘るのかといえば、その中に自分が今考え、行動するという、生きている証の全てが含まれているからである。書くというのは文章を操(あやつ)り綴るということではない。それはほんの末端の作業に絡む技術の問題に過ぎないのであり、そこに行く前に、自分の今の暮らしや生きざまの全てが存在しているのである。目的や問題意識を持ち、それにこだわって様々な行動を起こし、己のそれらの全てを観察する中で、何か気づいたことを表現する。それが書くということなのだと思っている。

 この1年間旅を封鎖した。我が人生のライフワークはくるま旅を通して拾った宝物(発見と気づき)を書きとめ、書き残すことだと思っているので、旅を封鎖したことは痛手が大きい。つまり、書くことが減少し、書く力が衰えたのではないかという思い込みがあるからなのだ。書く力は、書くことによってのみ回復向上が図られるものであろう。だからこれからはそれを挽回すべく取り組んでゆかなければならない。

 傘寿も米寿も白寿も精神世界では皆同じようなものだとこの頃思うようになった。確かに老の世界には精神的な面でもレベルがあるのだとは思うが、身体的な影響を除外すれば、心の世界は皆同じなのではないか。自分はこの先も書く力をより強化してゆかなければならない。今年のこの4月は、新しい出発の時なのだと、少年のように今思っている。

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする