山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

敬老会を警老会へ

2019-09-22 04:23:55 | 宵宵妄話

 9月には敬老の日というのがあり、国民の祝祭日の一つとなっている。文字通りに解釈すれば、この日は老人を敬うという美しい心づかいの日となるのだけど、さて本当のところはどうなのだろうか?今は、老人が溢れる世の中になっている。団塊世代といわれる人々が老人の仲間入りをし始めてから、数年が経って間もなく後期高齢者とやらの世界を膨らませ始めることになる。

  65歳以上を高齢者と呼ぶとすれば、2016年の国勢調査では全人口の27.3%を占めており、2019年の現在では28%を超えて30%に近付いているのではないか。国の年金制度や雇用に係わる政策を見ると、65歳というのは最早老人ではなく、生産年齢人口の中に含まれつつあるように思われ、やがては健康であると否とに拘わらず75歳まで働くのが普通になるような世の中がやって来る感じがする。国の人口推計によれば、10年後の2029年には総人口が1億人を切ることになるというから、老齢人口比率が益々高まってゆくのは確実である。

 さて、このような複雑性を孕んだ高齢者の世界において、果たして「敬老の日」というのはそのまま成り立つのだろうか? 最早65歳が敬老の対象となるとは誰も思っていないし、70歳を超えたってそう思う人は少ないのではないか。75歳を超えた後期高齢者になって初めて敬老の資格ができるというのが、今の世の現状のように思う。

 敬老の日に因んで、各地で敬老会という類の行事が執り行われて来たが、我が守谷市では、数年前までは対象者全員を市の体育館に集めて開催していたのが、その急増に耐えきれず、現在は市内を6つに区分したまちづくり協議会なる不可解で怪しげな行政単位(?)を設けて、こちらの方に敬老会の開催を委任している形となっている。まちづくり協議会というのは、行政の地域分権に似たようなものなのだが、形式は整ってもそれを実行する力が無いため、予算が配分されても名ばかりのまちづくりであって、殆ど意味のある実績は上がってはいない。そのように思えるのは、実際にまちづくりの企画立案を行い実践できるのは、高齢者世代しかいないからである。現役世代は各人の暮らしの経営で精一杯なのだから、まちづくりなどに係わっている余裕などないからである。

 敬老会(北守谷地区では「敬老の集い」)の企画は、したがって敬老されるべき側の老人が立案し、実行しているというのが現状なのだ。しかもその内容ときたら、数年前まで市が行ってきた老人を慰労するという形式のもので、市の議員などのお偉いさんの祝辞攻めと三流芸人の芸能と趣味の何とかクラブの踊りや唄の発表会のような催し、それに赤飯や饅頭などの配付といったお決まりのスタイルを真似たもので、その既成のコンセプトを破る発想など皆無の状態なのである。辛うじて対象者を75歳以上とはしているものの、驚いたことに今年のまちづくり協議会の敬老の集いは、何と敬老される側と敬老する側と、つまり後期高齢者の人だけではなくそれ以外の誰でも参加して良いというスタイルで、従来とあまり変わらぬ内容の催しを行ったのだから、呆れるとしか言いようがない。

 自分は来年傘寿を迎える歳回りなのだが、古希を迎えた時に興味本位で一度だけ市の敬老会とやらに出掛けたのだが、前述のような未だ元気な老人を愚弄するような内容の催しに怒りを覚えて以来、二度とこのようなものには出ないことにしており、今回の敬老の集いにも出掛ける意思は全く持ち合わせていない。基本的に敬老というコンセプトは、今の世には不要なのではないかと思っている。今の世に必要なのは、敬老ではなく警老なのではないか。

 警老というのは文字通り老を警戒せよということである。これには二つの側面がある。一つは社会サイドからの捉え方で、世の中全体として老人には気をつけろ!ということだ。老が引き起こしている様々な社会問題がある。社会保障、医療、交通事故等々連日世の中を騒がせている。もう一つは老人となった個人サイドからの捉え方だ。己の健康を初めとする生き方の確立ということだ。「自立して老を生きているか?」の問いに自信を以て応えられる老人が、どれだけいるのだろうか。

自分は老人の社会的責任とは、健康で他に依存しない生き方を死の直前まで維持することだ、と思っている。医療に依存し、妻や子に依存し、介護等の社会保障制度に安易に甘える。そのような状態をつくらないように、陥らないように老人としての己の生き方を確立しておくことが社会的責任なのだ。

 この二つの警老の側面をしっかり自認することこそが老を生きてゆく基盤となるのではないか。現在の敬老会の催しの中には、あやふやな楽しみの付与というような考え方しか無く、老を自覚させ警老の大切さに気付かせるようなものが何もない。国も県も市もそしてまちづくりなどという曖昧なコンセプトの中にも、老世代に対する最も必要な警老の発想が欠けているのではないか。そう思えてならない。

又また、偉そうなことを書いてしまったけど、本当のところこれは自戒の思いなのである。警老ということをここ数年来特に強く思うようになっている。少なくとも今のところは、他にそれほど依存しない暮らしができていると思っているけど、明日突然何が起こるか分からないのだから、この緊張感は弛めるわけにはゆかないのだと思う。

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