山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

馬骨の老世代小論(その2)

2016-01-28 06:43:00 | 宵宵妄話

<前回より>

4.生きる・生きている」とはどういうことなのか

次に、強調しておきたいことがあります。それは、この世代区分論の前提としているのは、人間らしく、人間として生きている」という状態にあるということなのです。逆にいえば、「人間らしく、人間として生きている」状態でないのであれば、この世代論は無用であるということなのです。

 老の世代では、身体的な機能の劣化や意欲の減退などに伴い、常に「病」との係わりを持たざるを得なくなります。病との係わりは老の世代に限らず個人差が大きいことですが、老の世代では、個人差はあれ誰でも「病」が何らかの形で付きまとってきます。その中でも悪質な病は、「人間らしく、人間として生きている」ことを断ってしまうものがあります。例えば認知症が悪化してしまうと、そのような状態に追い込まれてしまいます。もしそのような病に取りつかれてしまったなら、私の老の世代論は通用しないことになってしまいます。

 では、「人間らしく、人間として生きている」とは、どういう状態を言うのでしょうか。私は、それは次の二つの要件を満たすことが不可欠ではないかと考えます。

自力で脳を働かせて判断を下せること

自力で自身の身体機能の管理ができること

この二つのいずれもが不可能のレベルとなった時、人は生きているとは言えない(さりとて生物学的には死んではない)存在であると言わざるを得ない状態となってしまいます。これは、厳然たる事実です。

勿論、この二つの条件が満たされなくても、人は己が生きていることを誰からも否定されることはありません。しかし、その双方が満たされなくなった時、人は生物学的には生きていても、社会的な存在として生きているとは言い難いこととなってしまうのです。

この二つの要件を考える場合「自力」ということがキーワードとなります。どんな病に取りつかれ、厳しい状況にあるとしても、「考えること即ち脳の働きが正常」であり「動くこと即ち身体の操縦」のいずれかを自力で出来るのであれば、人は社会的にも立派に「人間らしく、人間として生きている」ことが可能であり、その世代を生きることができるのです。たとえ、我が身を自力で律することができなくても、考えることができるならば他力を活用することができるからです。病などのために身体が自力では動かず、脳の働きも途絶えてしまった状態では、人は他力を借りて生きることは出来ても社会的に生きているとは言えない状態となってしまうのです。

老を考えるに当っての最大の課題が、「病」との係わり合いとなるのは必然で、これとどう向き合って行くのかは、老の5世代に共通する最重要テーマの一つです。

 

5.老計をどのように立てて行くべきか

さて、それでは社会的責任を果たすために、すなわち、加齢につれてのそれに相応しい健康を保持し、活き活きと生きるためには、「一体どのような考え方」で、「何を行えばよいのか」ということを考えなければなりません。ただお題目を掲げただけでは、何事もどんな責任も果たすことは出来ないのです。そこで私が提言したいのは、老の世代を一からげにして捉え、考えるのではなく、還暦を過ぎたあたりから段階的に老の世代を区分し、その段階に相応しい老の捉え方をし、それに相応しい課題を見出し、生き方を考える必要があるということなのです。

現在の世の中の老の捉え方は、簡単にいえば65歳からを高齢者とし、75歳を境として後期高齢者という2段階の括り方で扱っています。これはあまりにも大雑把な捉え方であり、きめ細かな老の世代への対応を考えるには不十分過ぎると思うのです。老というのは、一気に進行するものなどではなく、個人差はあれ精神的にも身体的にも段階的に進んで行くものだからです。そこで、私は老世代を5区分して捉えることを提言したいと思います。

 

6.老人世代を5つに区分する

 その区分というのは、次のようなものです。

(1)準老世代 ‥‥ 65歳まで

(2)順老世代 ‥‥ 65歳~75歳  

(3)真老世代 ‥‥ 75歳~85歳  

(4)深老世代 ‥‥ 85歳~95歳  

(5)超老世代 ‥‥ 95歳以上 

 これらを簡単に説明すると、準老世代というのはいわゆる還暦を過ぎて高齢者と呼ばれる65歳までの世代で、老に対する準備をする、或いは老に準ずるという意味でこのように名付けました。次の順老世代は65歳から75歳までの世代で、老に対して自身がそれを認め馴れてゆく世代という意味です。更に真老世代というのは、まさに本物の老を自覚しながら生きる世代であり、この世代が本来の老の姿であり、老計実践の核となる世代だという意味です。そして深老世代は、真老が更に深まりを見せて老を味わいながら生きてゆく世代であり、最後の超老世代というのは、文字通りもはや老ということなどに捉われない、老を超越した自然体の生き方の中にある世代です。以下、これらの世代について少し詳しくその特徴や課題等について述べます。

<以下次回へ>

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