山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

写真の力とカメラの話

2014-03-31 22:55:44 | 宵宵妄話

 私の普段の暮らしの中で、カメラは欠かせない必需品となっています。旅に出る時は勿論、毎日の歩きの際も、ちょっと近くに買い物などに出掛ける時も必ず携帯電話と一緒に小さいデジカメを携行することにしています。時々そのどちらかを忘れることがあるのですが、もう習慣になっているので、忘れた時は何だか落ち着かない気分になってしまいます。

 私がカメラを初めて買ったのは、会社勤めを始めてから2年目くらいだったでしょうか。昭和40年頃の、その当時の給料の2カ月分ほどを叩(はた)いて、当時は新しかったコニカのフォーカスプレーン式の、シャッターを押すと「ガシャリ!」と音のする奴を手に入れました。当時は奥多摩や秩父の山に行くことに熱中し始めていた頃で、登山での風景などをカメラに収めたいという気持ちが昂じたからでした。山の写真の多くは、リバーサルフィルムに収め、現像の後はスライドにして鑑賞するのが常でした。それから何台ものカメラを使って来ましたが、その大半は何か特別なイベントなどがあった時に使うだけで、日常的な場面で使うことは殆どありませんでした。

 それが今のように変化したのは、二つの原因があります。その一つはくるま旅を始めたことでした。旅の思い出を写真に残すというのは普通のことで、旅に出ている間はいわば毎日がイベントの連続だからです。もう一つはデジカメの出現です。デジカメの出現によって、写真というものの扱いのコンセプトが大きく変化しました。それまでの写真は、フィルムに収めた画像を、現像・焼き付け、引き延ばしなどの作業を経て初めて見ることが出来るものであり、よほど写真に興味関心のある人以外は、自分でそれらの作業をすることはなく、写真屋さんに依頼するのが普通でした。そのために時間と費用がかかり、特別な時以外は写真を撮るということは無かったわけです。ところがデジカメはこれらの面倒な作業を全てパソコンで処理することで、自在に写真をモノにすることを可能にしてくれたのです。フィルムの代わりにSDカードなどの記録メディアを用いますが、その画像データはパソコンに記録することによって、何度でも繰り返して使うことができます。最早フィルムは不要となり、1枚のSDカードがあれば、何度でも繰り返して欲しいだけの写真を手に入れることが出来るようになったのです。

くるま旅をするようになってからの最初の頃は、まだデジカメが出始めた頃で、直ぐに飛びつくよりも今までのカメラを使っての記録の撮影が殆どでした。従って、撮る枚数もフィルムの残りを数えながらであり、好き放題というわけにはゆきません。その後デジカメの普及が急速に進んで今日に至っているわけですが、最初不慣れで馴染みにくかったデジカメにも、次第にその良さを見出すようになり、今ではデジカメ以外のカメラを使うことはなくなりました。

くるま旅の写真のニーズとデジカメの持つ機能とが結びついて、現在では旅の記録だけではなく、日常の暮らしそのものまでが画像を多用しての記録となっています。私自身は「デジカメ日記」と称していますが、くるま旅を含めた1年365日の暮らしの中での出来事を、カメラの画像を用いて記録することにしています。文字による日記も欠かさず付けてはいますが、デジカメ日記の効用は文字では表現しきれない力を持っており、改めていいものに巡り会ったと感謝しています。写真の力は凄いもので、何年も前の出来事も、デジカメ日記のその年のその月日を覗けば、そこに映っている画像から、その時の出来事や思い出、感動をありありと再現することが出来るのです。デジカメ日記を始めてから未だ10年ほどですが、最初の頃はパソコンへの記録の要領が下手で、テーマごとに記録したりなどして、あとでそれを引き出すのに不便を来たしたりしていたのですが、その後改善を重ね、現在では毎日今日一番の出来事の見出しを作り、それを欠かさずパソコンの中に記録して行くようにしています。

記録というのは時系列的に整理するのが一番のようで、その日々の項目に見出しを付けておけば、あとは写真を見るだけで記憶を手繰り寄せることが出来るようです。年間に万に迫る枚数の写真を撮っていると思いますが、それら一枚一枚がしっかり意味を持っているのが、写真の力なのだと思います。

今までは小型の簡単なデジカメを用いて撮影をしてきました。写真を使うのは殆どがブログ用なので、画素数は4MB以下でなければならず、あまり高級なカメラは不要でした。いつでもポケットから取り出して、直ぐに使える事が肝要なのです。故障のことも考えて、旅に出る際には家内のお古のカメラを帯同したりしていました。我が家では、カメラは家内の方が本格写真に取り組み、私の方は日記用の気楽な撮影を楽しむといった状況にあります。

ところで、この頃は少し欲が出て来て、日記用の撮影だけではなく、多少味のある写真も撮って見たいと思うようになりました。それで、先日家内にその話をしたら、「楽しむのは生きている内だけしかないよ」との賛同を頂き、「直ぐに買ったら」と資金援助までして貰って、今使っているデジカメとはタイプの異なる一眼レフを手に入れたのでした。家内のものに比べれば子供用くらいのレベルかもしれません。それでもこれからは、撮影の楽しみが膨らむように思います。新たな写真の持つ力を確認できるかもしれません。只今その使い方について勉強中です。いろいろな機能が付き過ぎているので、それらの全てをマスターするのは超困難です。取り敢えず普通の写真を撮ることから始めたいと思います。一つ残念なのは、この新しいカメラは最小のサイズでも6MBのため、ブログに載せる際には、サイズダウンしなければならず、ちょっと扱いにくいということです。

新しいカメラが手に入ったので、今日は家内のフォークダンスクラブでの練習の送迎運転手を勤めがてら、待機時間の間に、つくば市内を歩き回り、春の花などの景色を撮って来ました。「春の花3景」と「青空を後ろの春の色どり」というテーマで、勝手に紹介します。

<春の花3景>

  ◎白モクレンの花

     

道端に一本の白モクレンの樹があり、垂らした枝の先に純白の花を咲かせていた。この花は、団体よりも一つ一つの方がその美しさが際立つように思う。かなり真面目に撮った1枚である。

 ◎ ヤブツバキ

     

椿は早春の花というか、もっと寒い時期に咲き始めるから、今や開花期の終りというところなのかもしれない。だけど、自分的にはこの時期の花が一番椿らしい様に思っている。花びらにほくろがあったのが、安堵できる美人花だなと思った。

  ◎地べたのタンポポ

     

敢えて「地べたの」と呼ぶことにした。忘れられた場所に活き活きと咲くこのような野草たちこそ、本当に春の到来に歓喜しているに違いない。

<青空を後ろの春の色どり>

  ◎柳

     

「柔らかに柳青める北上の岸辺目に見ゆ泣けとごとくに」は啄木の歌だけど、春の柳の芽吹きは、青空に映える時、その生命が一番輝くように思う。これはつくば市の洞峰公園で撮ったもの。

  ◎梨の花

     

純白の梨の花の一枝は、春の青空の深さを計るに相応しい輝きがある。生命(いのち)の躍動の喜びを感じた一瞬だった。

 ◎スオウ(蘇芳)

     

蘇芳の赤は、血に喩えられることがあるけど、それはあまり好きではない。これは未だ蕾の状態で、蘇芳の花としては本番前といったところかもしれない。青空との対比は、梨の純白とは又違った趣きがある。

 

コメント
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