湘南徒然草

湘南に生まれ、育ち、この土地を愛し、家庭を持ち、子育てに追われ、重税に耐える一人の男の呟き。

R・B・ボースのインド脱出ー中村屋のインドカリー2

2007-05-26 20:04:22 | Weblog
ハーディング総督爆殺未遂事件を起こした当時
ラース・ビハーリー・ボースはイギリス植民地政府の官吏でした

事件後、何食わぬ顔で任地デラドゥンに戻り、森林研究所の仕事を続けました
負傷した当のハーディング総督が、静養のため訪れたデラドゥンで
総督の歓迎会を開き、彼を讃える挨拶までしています

これに感激した高等警視はボースを訪れ、革命家捜索の内容を打ち明け
書類を示し、万一の場合の援助を依頼したそうです

1913年5月17日、ラホールでイギリス高官爆殺未遂事件が起きます
背後でボースが指揮した事件でした
警察によりアジトが捜索され、ついにボースの正体が明らかとなります
ラホールで休暇中だったボースは逮捕をまぬがれましたが
この時から、彼の長い逃亡生活がはじまります

この逃亡期間中、爆薬の暴発でボースは左手に大怪我を負います
やがて左手の傷跡がR・B・ボースを識別するための
重要なポイントとなってしまいます

傷のいえた頃、ボースはラホール兵営のインド人兵士の一斉蜂起を計画します
ところが情報が事前に漏れ「ラホール兵営反乱事件」は失敗します
ここに及んで、ボースはインド出国を決意します

彼が目指したのは日本でした

ナワードウィップという町に潜伏し、出国のチャンスを窺いました
そしてノーベル賞詩人のタゴールが、日本行きを計画していることを知りました
調べると、タゴールの親戚にプレオ・ナース・タゴールという人物がいます
ボースはこのP・N・タゴールになりすますことをたくらみます
タゴールの日本滞在の下準備をする親戚になりきることにより
イギリス官憲を騙せると考えたのです

ボースは、この偽名を使って、カルカッタから神戸までの旅券を購入します
1915年5月12日、ボースは日本郵船会社の讃岐丸に乗船しました
途中シンガポールと香港で警察のチェックがありましたが、無事きり抜け
1915年6月5日、R・B・ボースは神戸に上陸しました
コメント
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