無意識日記
宇多田光 word:i_
 



もう先々週になるのかな、最速の地域だと。春夏2クールに渡って放送されたテレビアニメ「進撃の巨人」全25話が終了した。好き嫌いは抜きにすれば、漫画・アニメ両分野で今年2013年の顔といえばこの作品、と言い切るのに異論は少ないと思う。漫画の売上はONE PIECE等に、円盤の売上は物語シリーズ等には、数字の上では及ばないが、その話題性とインパクトは格別のものがあった。

テレビアニメの成功の理由は色々ある、というか総てが理由、総合力の勝利としかいえない(レコード会社の担当さんが図抜けて優れていたのがいちばん大きいかな、ここだけの話)のだが、いちばんの売りのひとつは「立体機動」と呼ばれる兵士たちのアクロバティックな動きをアニメーションで表現してしまった事だろう。いやはや、あの多彩なアングルとスピード感は、アニメーションならではの魅力といえる。原作を読んでストーリーを知っている人間も、あれ見たさに毎週チャンネルを合わせていたのではないか。ここまで漫画原作でアニメ化の意義があった作品も珍しい。ONE PIECEなんてアニメが完全に原作の迫力に負けてるもんね。まぁありゃしゃあないけど。

で。ふと考える。我々は立体機動をテレビの平らな画面でみる。あれが3Dの"体験"になったらもっと凄いんじゃなかろうか。いや、今巷にある「飛び出す絵本が動くヤツ」ではない。本当に周囲360°(というか立体角4πか)全部があの映像になったり、いやもっといえば、あの巨人が実物大で闊歩するアトラクションの中で、あのカメラワークの動きそのものに帯同できたらスリル満点ではなかろうか。いや勿論危険だし巨人あのサイズで走らせる技術も実際に立体機動を操る技術も現実にあるけれど、もしそんな"体験"が出来たら、テレビアニメで観た時の興奮の比ではないだろう。宙を舞うようなジェットコースター。あれ怖い。(←うちのおばあちゃんの口癖(でした))

という訳で。アニメーションというのはどこまで行っても"疑似体験"であり、そういった"よりリアルな体験"には及ばない代替手段でしかない。つまり、空を飛べたらこんな景色が見れるだろうなぁ、とか宇宙に行ってみたいなぁ、とか、まさに"こんなこといいな・できたらいいな"こそアニメーションの一つの真髄であり魅力である。早い話がこのジャンルの表現とは"夢"なのだ。

前置きが長くなった。本文は短く纏めよう。一方、音楽という娯楽は突き詰めればただの現実である。我々は普段インターネットや配信やCDやTVやラジオや何やかんやで音楽に親しんでいる。それらは大体が「録音」であり、どこかで鳴らされた音の記録だ。つまり、突き詰めればその録音場所、録音時間に辿り着く。その時その場に居合わせる事が出来たなら、我々は最上の、というか"それ以上ない"体験をする事になる。上記の例でいえば、家でCDを再生するのはアニメーションで立体機動を観るようなもの、生演奏を観るのは、巨人が闊歩する世界で実際に立体機動を操った時の視界を体験するようなもんだ。かなり、いや途轍もなく違う。

しかし、そこまでの"違い"を生み出せる音楽家は非常に少ない。それは別に音楽家達の怠慢ではなく、録音と編集と再生の技術が極端に上がった為だ。「家でCD聴いてた方がまし」状態である。特に、マイクロフォンとスピーカーに頼った音響の場合、生演奏の凄みを伝えるにはかなりのPA技術が要る。

その点、クラシックの演奏会は凄い。オペラ等をスタジアムで演ずる際は流石にマイクロフォンとアンプとスピーカーのお世話になるが、基本的には数千人規模の聴衆を相手に、電気の力は使わず(といっても大抵室内なので空調と照明で電気のお世話になるのだが)、総て人力で音を出して聴衆を魅了する。特に歌手の皆さんは驚異的で、道具(楽器)すら使わない。あの声量は間近で聴くと本当に吃驚である。

どうしてもクラシックというと堅苦しく、親しみにくい音楽性で、なかなか演奏会に足を運ぼうという気にはならないかもしれないが、何かの機会があれば一度行ってみる事をお勧めしておく。本当に凄いんだから。

さて、ではマイクロフォンを手放せないUtada Hikaruは…という話の枕のつもりだったんだが、流石に長くなり過ぎたのでまた次回。

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KUMA POWER HOUR with Utada Hikaru まであと一週間少しだが、えぇっと、納品報告はまだだな。残念だが今回飛ばしてしまうとファンの間ですら不信感が広がってしまうから、なんとか踏ん張って放送して欲しい。Twitterは照實さんが隙間をキッチリ埋めてくれているので、寂しくはない。(?) 「笑っていいとも」みたいなもんだろうかね。

光も随分落ち着いたとは思うが、深い哀しみはある時不意を突いて襲ってくる。その時は膝から崩れ落ちてしまうかもしれない。それは、時といえどなかなか癒せるものではない。心理構造自体が母の死を受け入れるまでには、なんだろうな、やっぱり時間はかかるけれど、それ以上に、自分の中に母とか親とかを育む心意気が芽生える必要がある。生きてりゃ得るもんばっかりだが、彼女はもう何も得られない。


朝からしんみりしとるな。テレビの改変期のお陰か3ヶ月ごとに生活のサイクル…とまで言うと言い過ぎかもしれないが、かなりのものが入れ替わる感覚がある。あれだけ毎日タイムラインを賑わせてくれた#あまちゃんタグも、すっかり影を潜めてしまった。放送終わったんだから当たり前なんだけど、こういう切り替え、入れ替わりの時期に乗っかっておかないと、11月から復帰ではちょっと敷居が高いかもしれない。月イチだと余計にね。

確かに、どんなトーンで入ればいいかわからないかもしれないが、それはこっちだっておんなじだ。いや、こっちがHikaruの出方を窺っているというか。だから、そういうトーンなんだ、とこっちに知らせてくれるだけでよい。あとは、なんとかなるだろう。

プロデュースと演出というのは、そういう捉えどころの薄い、あやふやな感覚から出発する。後から、それをどう具体的に落とし込むかというプロセスに入る。Hikaruは番組制作を通じて、今の自分の心理状態を客観的に見つめ直す機会を得るだろう。前も言ったように、それはセラピーになるかもしれないし、新しく傷をつける事になるかもしれない。しかしいずれにせよそれは社会的人格の話である。プライベートはまた―全く、というほどじゃあないにしろ―別である。その線引きと、ロールプレイによって、両輪がしっかり回っていくように、祈っている。無理に明るくしていたり、ひたすら暗かったり、また無表情だったり、どれがいいかな…普通に楽しくやるのがいちばんだろうな。Hikaruのラジオを聴くのはいつだって楽しいから。そうならなかったら、そうなのねと言うだけの話だ。案外すんなりである。そこらへんのことは。

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