無意識日記
宇多田光 word:i_
 



EVAQの賛否両論の焦点は、要するに、新劇は序破で旧劇とは異なる娯楽性と完成度の高い活劇を構築していたのにも拘わらず、旧劇でみられた概念的で不透明な部分を再び取り戻した事だった。その為賛否と言ってもシンプルなもので、要するに旧劇版のテイストを受け入れられる派は賛、序破のテイストを引き続き期待した派には否となった、という事だろう。そういう意味においては迷いというか紛らわしさはない。

しかし、したがって、EVAQは、今まで誰も観た事のない新しいストーリーを初めて最初から提示した作品だったのに、観た方に良くも悪くも「昔に戻った」と感じさせた点が、疑問といえば疑問である。それでよかったのか、という点に関しては、次作を観てから判断するしかないが、そういうモラトリアムを与えたという時点で、"ひとつの独立した作品"としては、EVAQは問題作となる。

ここらへんの評価は難しい。例えば、前回取り上げた「魔法少女まどか☆マギカ新編:叛逆の物語」は総集編前後編を予め観ておかねばどういうストーリーなのかさっぱりわからない。それを指して「叛逆の物語は独立したひとつの作品としては評価できない」のか、というと、全くとは言わないまでもやや的外れであると言わざるを得ない。というのも、逆からいえば、総集編前後編を観てさえいれば必ず「新編が何を言っているのかが明確にわかる」という事は間違いないのだから。いや多少詰め込みすぎで一度観ただけでは理解出来ないかもしれない強烈な密度の作品ではあるけれど当然乍そういう話ではなく。

EVAQに関しては、そう言い切れない。つまり、「序破さえ観ていればこれが何を言いたかった作品かは理解出来る」のか、といえば、私は無理だと思う。つまり、価値判断の保留が次作に持ち越されてしまっている為、消化不良、中途半端なのだ。その点は否めない。私はそういう中途半端さも是認できる方なのでEVAQは優れた作品として気に入ってはいるが、やはり第1作第2作第4作~の存在がなければそんな風に言えない気がする。そういう意味において独立した固有の作品として評価するのは、ちょっと難しい。

そういう映画に対して、桜流しがどう作用したのか。前フリが(毎度の事ですけど)長くなってしまったが、勿論私がいちばん興味があるのはその点だ。

結論から言ってしまえば、序破とBeautiful Worldの"二人三脚ぶり"と較べると、やや桜流しの方が"先行"してしまっている気がする。それはまるで、Qのラストでシンジがアスカとレイ(仮)に引きずられていってる様子そのまんまな気もするが、歌詞にしろサウンドにしろ、Qの世界観からはみ出しているというか、実はこのエンディング・テーマが殆ど"次回予告"のように作用しているのではないかとすら感じる。何しろ破ではQへの次回予告が(結果的に、なのかもしれないが)フェイクにすらなっていたのだからEVAの次作に対しては何らの予断も許されないが、桜流しの強烈さは、そういった"騙し討ち"を悉く凌駕する気がするのだ。つまり、EVAは最早 こ の 歌 か ら 逃 れ ら れ な い のではないだろうか。次作の劇中で桜流しが流れるかというと違うかもしれないが、この歌で描かれてい
る風景に、必ずやEVAは"辿り着いて"しまう。そんな予感がするのである。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




「魔法少女まどか☆マギカ」のテレビシリーズ終了以来、この日記でもアニメの話題が格段に増えた訳だが、この度公開された新編「叛逆の物語」の続編らしい名作ぶりをみるにつけ、まだまだ勢いは衰えそうもないなぁと痛感するに至った。

アニメについて取り上げるのは、今の勢いが誰か天才に依拠したものではなく、業界全体が文化として隆盛を誇っていると感じたからだが、ますますその感じは強くなっている。時間経過につれ確実に制作側が様々な学習をし修正を施しクォリティーを上げている。勿論粗製乱造状態なのだが、なんだかんだでこういうのは作ってみないとわからない。それを下支えするだけの支持者が居る。羨ましいものだ。

隣の芝生は青く見えるというけれど、多分そうだろうな。「叛逆の物語」を見て、しかし、「EVAQに桜流しがあって本当によかった」と思ったのも事実だ。映画を観てないと何のこっちゃわからないだろうが、全部すっ飛ばして結論だけ書けば、扱っているテーマの普遍性に関していえば、他業種といえどヒカルに敵うパターンはなかなかない。こちらは、業界の盛り上がり云々に関係なく、個人の才能によって成功を収めている。孤軍奮闘というと言い過ぎだが、庶民にとって、宇多田ヒカルは"最後の良心"のうちの1人だろう。

業界全体が文化として栄えている時には、トレンドというのも大きな意味を持つものだなぁ、と私らしくない事を感じている。何しろ、アニメーションとは制作の都合上、どうしたって数百人単位で動くプロジェクトにならざるを得ず、従ってその全体を牽引するのにトレンドは強力なグルーたりえるからだ。個々人がただバラバラに個性を発揮してもまとまらない。監督の強力なカリスマが必要なのは勿論だが、時間的制約を考えるとやはりトレンドに"頼った"方がいい。

シンガーソングライターは真逆な存在だろう。自分の書いた曲と歌詞は総て手元にあるのだから、大事なのはそのまま強烈な個性である。彼らが流行に擦り寄るのは、成功する例もあるにはあるが、やはり期待されるのは時代に左右されないその人の個性である。大規模プロジェクトにはない強みといえるだろう。

しかしHikaruは…いや、これからの事はわからないか。現に、桜流しはJ-popのトレンドとは無関係な、EVAという作品と向き合ったのみの作風だった。一方で震災という時事性も頭にあったろうから素直な判断は難しいけれど。そして、EVAというコンテンツは一昔前のトレンドを作った化け物であり、Rebuildという手法を通じて、新しい境地に足を踏み入れようとしている作品だ。そこには庵野秀明という人の作家性が強く反映されているが、と同時にアニメーションという巨大プロジェクトならではのトレンドの影響も強い。様々なバランスの中で、ヒカルの歌は鳴り響いている。正直、どこが立ち位置かわからない。尤も、私からみればそこが世界の中心なので、迷っている訳ではないのだけれど。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )