無意識日記
宇多田光 word:i_
 



もう発売されて一年近く経つというのに桜流しが相変わらず素晴らしい。最初っから高いハードルを掲げて耳を傾けていたからよかったようなものの、これが全くの新人の作った曲で不意打ちとかだったら発狂してたな。Beautiful Worldの時は「よくもまぁこんなEVAにピッタリの曲を」と感動したものだが、桜流しまで至ってしまっては「EVAもうちょっと頑張れよ…」と6年前からは考えられない台詞を口走ってしまう。破もQも素晴らしいクォリティーだと思うのだが、如何せんHikaruのレベルが上がりすぎた。酷なものだ。このままだと次作は「誰叶と華奢」みたいな事になってしまうかもしれない。主に俺の中で。

前も書いたと思うが、桜流しによって作曲家Utada Hikaruは、人類史上最高レベルのフィールドに辿り着いたと感じる。所謂、大バッハやモーツァルトや、20世紀でいえばThe Beatlesのような、LegendaryとかHistoricalといったレベルの事だ。それ以上上には誰も居ない。勿論、まだまだ彼らより優れているとはいえないが、取り敢えず同じ土俵で論評してよいだろう、という感じはしている。あれだけ高く掲げていたハードルを更に天井(天上?)に押し付ける感じである。

楽曲の出来、注ぎ込まれるエモーションは確かに最高にやってきているが、しかし、Hikaruには相変わらず弱点がある。型がない。逆にいえばよく型無しで今までこれだけ良質な楽曲を作り続けてこれたなぁと不思議がるしか出来ないのだが、何が困るって「他の音楽への影響度で歴史的価値を測る事が出来ない」のだ、これでは。

The Beatlesの偉大さは、その消費されたレコードの枚数(確か10億枚とかなんだよね。キ○ガイか。)だけでなく、供給側、即ち後進のミュージシャンに与えた影響度からも伺い知る事が出来る。型がないHikaruにはこれがない。勿論The Beatlesも自らの型に固執する事なく、特に後期末期には本当に何でもありになっていったが、それでもやはり我々は、彼ら以外のミュージシャンから「ビートルズっぽさ」を感じれる機会が山ほどある。Hikaruには、これがない。まだ現役だからってのもあるんだろうけどね。

こと消費活動に関してはHikaruは母と共に、日本でぶっちぎりの記録を持っている。Fisrt Loveは永遠のNo.1だろうし、世界一にはなれなかったがFlavor Of Lifeも凄まじかった。年間No.1アルバムも4枚かな?持っている。とんでもない親子である。しかし、後続に与えた影響という点では、例えばThe Blue Heartsの足元にも及ばないだろう。彼らの登場以降日本のパンクバンドは総て彼らの通った道を辿るか避けるかしなければならなかったのだから。それもこれも、彼らはパンクサウンドにどう日本語の歌詞を乗せ、どんなメロディーにすればいいかという具体的な方法論を確立したからである。誰でも模倣出来るという意味においてこれはコロンブスの卵なのだが、だからこそ影響力を発揮したのだ。

翻ってHikaruは一世一代のミュージシャンで、毎度異なった方法論で名曲を作る。過去の自分の方法論すら模倣しない。ちょっとストイック過ぎるんじゃないかとは思うが、その結果があの水も漏らさぬ名曲の嵐なのだからぐぅの音も出ない。


ここが、これからの時代に気掛かりな点である。インターネット時代では、如何に供給側を刺激するかもまた1つ大きな価値判断だからだ。それは度々、市場主義や商業主義と相反する。一言でいえば、どれだけ二次創作を刺激出来ているか、である。ここが、(根っこは古いが規模としては)新しい価値基準として台頭してきている点を見逃したくない。次回はここらへんの話から。一応前回から続いてるんですよ~。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




前回までは音楽を"消費"する立場から語っていたが、"供給"側からみた場合、宇多田ヒカルはどの位置に居ただろうか。

インターネットの登場によって、音楽に限らず、ソフト関連の供給はほぼゼロコストとなった。また、計算機の発達に伴いソフトの制作費用も劇的に下がった。勿論、それなりのクォリティーにする為には結局人力が必要なので人件費はかかるのだが、"市場"の低迷とは裏腹に、今は世界中に音楽が溢れ返るようになった。日本とて例外ではない。

若い世代にボカロ曲がウケるのは、特に音楽的にどうのではなく、タダで聴けるからである。ソーシャルゲーム、ブラウザゲームの人気でもわかる通り、まずは無料面で人を集め、課金はその後というのが今の流れだ。実際、ビッグタイトルはないものの、フィジカルのCDでさえボカロ作品が売上を牽引するケースも今は日常化している。まずは無料で人を集めないと話が始まらない。

尤も、これは今に始まった事ではない。ラジオにしろテレビにしろ、今のインターネットと同じようにタダで幾らでも観れる、聴けるという状況から種々の経済効果を生み出していた。変わったのは、冒頭に述べた通りの供給過剰状態の出現だ。ラジオテレビ時代は送信と受信は非対称な存在だったが、今や送受信は渾然一体である。

その相対化された中で商業的な消費を喚起するのは並大抵の事ではない。難しいのは、世代的に、宇多田ヒカルはラジオとテレビという非対称なメディアから生まれてきたスターである、という点だ。早くからインターネットを活用してきたヒカルだが、インターネットという環境に生み出されたスターではない。インターネットを場というよりツールとしてみる世代、といえばいいか、その世代からの"支持"によってビッグネームを保ってきた。そういう意味においては"旧時代的な"アーティストであるともいえる。

その、昔ながらの体制をこれからどう捉えていくのか。次回はそこらへんから。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )