無意識日記
宇多田光 word:i_
 

1983  


今週も勿論Kuma Power Hourを聴いていたのだが、結局何も書けなかった。歌詞を覚えるかの如く「次にDJが何を言うか総てわかる」状態になっても、やっぱり聴くのが楽しい。Hikaruが楽しそうだからである。仕事なんだから楽しくなんかない、というのも勝負事ならば納得だが(福原愛が「私はここに楽しむ為に来たのではありません。勝つ為に来たのです。」とかって言ってたなぁ。)、エンターテインメントを提供するプロフェッショナルなら、偽善でもいいから満面の笑顔をこちらに見せて欲しいものだ。人はやはり、楽しそうな人を見ると楽しくなる。七森中ごらく部の定理である。なんだそのネーミングは。

ラジオから流れてくるHikaruの声は楽しげだ。何だかまるで『あなたの瞳に映る私は笑っているわ』みたいな感じだが、それだけに、来週の放送でこちらが「楽しそさ」を求めるのは酷なんだよなぁ、というずっとわかりきった結論に落ち着く。何喋ればいいんだろ。どんな顔すればいいんだろ。「笑えばいいと思うよ」だなんて、わからな委員会でもない限り言えないっすよ。直球表題ロボットアニメ面白かったなぁ。

やっぱりお母さんの思い出話を、チビチビ飲りながら語ってくれるのがいちばんなんだが、それはまだ今のHikaruには早いか。或いは、四十九日を待って、漸く気持ちを切り換えて状況を客観的にみられるようになるまで収録を待ったのかもしれない。なぁにラジオの納品なんて今の時代当日でもOKである。デジタル舐めんな。今Hikaruが頑張って収録&編集中でも全く構わない。「てさぐれ部活もの」なんて音声収録してからアニメーション作ってんだから。デジタル時代は恐ろしいのだ。それは今は関係ないか。

Hikaruの曲には、WINGSに代表されるように、時々80年代臭というか昭和臭というか、あの時代の匂いが漂ってくる。そこらへんのセンスを垣間見せたのがEpisode4の「なんとなくインディーズ特集」で、結構最近の人たちも選曲されていたのに何故かあの麗しき80年代テイストを前面に押し出した曲調が多かった。私が1人で勝手に言っている事だが、どうにも人は、その頃聴いていた訳がないにもかかわらず、「生まれた頃の音楽」に懐かしさ、居心地の良さを感じるように思う。即ちHikaruからすればそれは1983年頃…いちど、熊淡で「1983年特集」でもやってみてくんないかな。この頃のヒット曲って何があるっけ…日本だと…おぉ、「1983年のヒット曲」でググったら出てくるわいろいろと。ちょうど市場が端境期な感じで、演歌も歌謡曲もアイドルも童謡?も満遍なくヒットしている。しかし、後にJ-popと呼ばれるようになる和製ポップスに関してはまだまだだろうか。J-popといえば平成の音楽というイメージがあるが
、この頃はまさに昭和にどっぷりと浸かり込んでいる感じ。いやはや、懐かしい。

昭和臭といえば今度始まったアニメ「キルラキル」の昭和テイストが凄まじい。ど根性ガエル(うわどこんまで打ったら予測変換出やがった)のパロディとか完全に俺得じゃないか素晴らしい…


…って何で今夜は間にちょくちょくアニメネタ入れてるんですかね私。わからん。わからない人、すいませんでしたm(_ _)m

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横顔  


昨夜照實さんがUPしてくれた写真が素敵だ。颯爽とした横顔とゴリラのぬいぐるみ。スポーツカー&スカーフwith手にアンパンに通じるアンバランスさだが(?)、簡潔にこの人の人となりを表している。Hikaruが観たら泣くんじゃないかこれ。

小さい頃ゴリラのぬいぐるみと戯れていた身としてもあんまり他人事の感じがしない。6歳の頃のHikaruはドラゴンのぬいぐるみと戯れる親を見て「いい大人が」と思ったらしいが、その後は自他共に認めるように「血は争えない」状態になった。親子とは不思議なものだ。別の個体でありながら、何か繋がりがあるような、ただ似ているだけではないものもありそうな、でもやっぱり違う人のような。全く血縁関係のない親に育てられた人たちも感じる事なのか、これは実際に生む母の立場からみてみなくちゃならんのか、いろいろと考えたくなることやまほどなのだが兎に角これで四十九日が終わり、忌明けである。己の心を取り戻す時期が来た。

手作りっぽい雰囲気が漂うとはいえ、法要というからにはHikaruも参加していてよさそうなものだが、はてさて。喪主だしな。傍に居たかどうかを真っ先には言及しなかった照實さんの判断を尊重しておこうか。いつまでも引きずってはいられない、いや、違うか、ずっと引きずっていくから形だけでも区切りをつけないと、という事か。それは、まだ生きている自分の為でもあるし周囲の為でもある。しかし、形式は形式だ。我々がそれに縛られる必要もない。メディアが報じる時だけ何か言う人たちとは違い、僕らは今までもずっと彼らの事を想っていたし、これからもそうだろう。普通に、毎日々々の心の動きを丹念に辿ればいい。それをするならば、形式に囚われなくとも過ごしていける。Hikaruの癒やしのプロセスはまだ始まったばかりである。

それと同時に、今まで何度か書いてきた事であるが、今のHikaruは相当に強い。ただ癒されていくに任せず、少々強引でも前に進もうとするだろう。我々は特に何をするでもなく、普段通りに接すればいい。みんなでこうして在りし日の純子さんの横顔を見れたのだから。でもこれ、「似てるけど別の人でした」ってオチはないよね?(笑) それはそれで、楽しいけどね。

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