無意識日記
宇多田光 word:i_
 



EVAでも渚カヲルが「歌はいい」と言っているし、ナウシカでも墓所の主が「人間にもっとも大切なものは音楽と詩になろう」と言っている。歌とは(理想的には)音楽と詩の結婚なのだから歌はやはり最終的には究極のものである。結局は、何を頑張っても歌い手にはかなわない。

…と私はいつも書いているが、この常套句を書く時にいつも頭を過ぎる一言がある。曰く、「耳の聞こえない人はどうするんだ?」

声が出ない、という人も何らかの楽器は演奏出来るし他人が歌うのを聞いて楽しむ事もできる。しかし、耳が聞こえない/聞こえなくなった人たちにはどうしようもない。そもそも先天的に耳が聞こえないのなら、歌はおろか、音楽、いや音という現象自体が理解不能だろう。一体それが何を意味しているかすらわからない筈だ。そんな人たちに対して「歌は究極だから」と言っても何ら響かない。

確かに、歌詞は書いて見せたり点字を触ってもらったりして伝える事は出来る。しかし、メロディーの美しさをどう説明したらいいのか全く見当がつかない。音楽って何。そういう不可思議な感覚しか残らないんじゃないか。

こんな大それた問題に一朝一夕で答が出るとは思わない…それどころか、我々の生きている間に何か進展があるかすらわからない。お手上げと言うのが正しい。

夢見物語な解決は2つある。ひとつは、医術と技術の発達によって、聴覚器官一式が人工的に用意できるようになる事。たとえ先天性であっても構わない。いつか人類がそこまで進歩するのを夢見よう。


そしてもうひとつは…歌の聞こえてくる歌詞を書く事だ。歌は究極だが、その究極さを表現した歌は歌の究極であろう。であるならば、その歌詞とメロディーはわかちがたい、もうそれしかない組み合わせである筈だ。つまり、この歌詞ならこのメロディーしかない、という場所が「行き着く場所」となる。そして、本当にそれが真実であり真理ならば、そこにメロディーが生まれてくる筈である。そのメロディーだけが生まれるのではなく、メロディーという概念自体が人の心の中に発生するのだ。であるならば、耳も聞こえず音の概念も知らない人の心の中にも、メロディーは響いてくるんじゃないか。これは「途方もない夢」である。しかし、宇多田ヒカルを語るにはこれ位でちょうどいい。

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STINGの"I Burn For You (live)"はもろブリティッシュな曲で、Hikaruがロンドンに住みたいと言い出すのもわかる気がする―ってロンドン移住"説"は公式発表なんぞされてなかったな。まぁあんまり言及しない方がいいのはマスコミさんたちの対応を見ていれば明らかなんだけど、それも少し寂しいねぇ。別に隠しているわけじゃなく言わないだけなんだが、どうもそういう理屈は通じない。ロンドンでのエピソードとか、普通に話してはくれているんだけれど。

本来ならば、「留学」という単語がよく似合う生活を送っている筈だ。虹色バスかな。しかし、ニューヨークと東京のシャトル生活の印象が強すぎて、コスモポリタンが第3の拠点を構えた、という風にしかみられていない感。それさえなければ今は留学生活と呼ぶべきなんだろう。いや、今は今はと言ってるけれど、9月で年度変わりなら、本当の今現在はまた違う生活になっているのかもだけど。

住む土地の気候風土文化、何より人。そのテイストが今後の創作活動によって我々に還元される事を期待したいが、贅沢を言うなら、その「今」を切り取ってすぐに作品をリリースするような、いわば現地の風がそのまま吹いてくるような曲も聴いてみたかったかな、とは思う。STINGや4ADなどHikaruにとって特別なアーティストたちを生み出した土壌、そこから今度はHikaruがどんな花を咲かせるか。卑近な例でいえば、桜流しはPaul Carterとの共作だったが、彼はイギリス人なのだろうか。だとすれば、でもないけれど、それならば桜流しに英国の薫りが漂っていてもおかしくはないが…桜とつくだけあってあの曲はかなり"和風"だなぁ…。

無国籍風というとちょっと違うけれども、Hikaruの作る音楽にはアイデンティティという色が薄い。Popsなんだからそれでいいのだけれど、日本以外の国で受け入れてもらうにはそこをどうクリアするのか。偏見は認知認識の第一歩である。知ってもらわなければ偏った見方すらされない。英国でどんな人脈を作ったかはわからないが、その根っこの無さを面白がってくれるコリーグが見つかっている事を祈るばかりである。

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