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哲学はなぜ間違うのか

why philosophy fails?

科学が描く世界

2007年12月26日 | x4それでも科学は存在するのか

命、心、自分、意識、存在、価値・・・とても大事そうな、尊厳がありそうな、そしてときどき哲学的な匂いを発するこういう言葉が指しているものは、目には見えず、手でも触れない。カメラで撮ったりデジタルデータとして記録したりすることもできない。科学の対象として実験も観察もできない。あると言っても実証できない。ないと言っても実証できない。科学が教えるところによれば、そういうものは物質の法則だけで動いているこの世界には存在できないはずです。科学が描く世界には、それらの居場所がないことがはっきりしてしまった。

それなのに、人間はそういうものが確かにあるように感じる。それらは物質よりも大事なものと思われている。私たちには、それらが間違いなくあるはずだという確信がある。しかしそれは直観で感じるもので、写真には撮れない。絵にもうまく描けない。言葉でも、比喩としてはうまく言えても、正確には説明できない。もちろん、科学では説明できない。

科学は物質しか説明できない。生物という物質は命を宿しているように見えるけれども、詳しく調べるとふつうの物質からできている。人体も含めて生物の身体はふつうの物質現象として科学で説明しつくすことができるが、その説明では幼稚園児が感じる命の意味は分からない。命は特別に私たちの感情に強く響く。また脳という物質は心と関係があるように思えるけれども、これもよく調べると、ふつうの物質からできている。脳がふつうの物質現象であることは科学として明らかになったが、そういうこととは関係なく、心の動きは特別に私たちの心を打つ。心は私たち人間そのもの、という気がする。脳の物質現象がどこまでも詳しく分かったとしても、それでは私たちが心を感じる心は分からない。

拝読サイト:科学と定量化

拝読サイト:善悪は実在するか-アフォーダンスの倫理学(講談社選書メチエ)

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それでも科学は存在するのか?

2007年12月25日 | x4それでも科学は存在するのか

(サブテーマ それでも科学は存在するのか? begin

14  それでも科学は存在するのか?

Cranach_paris2_4 前章までの拙稿では、命の存在を疑い、心の存在を疑った。ついで、意識、欲望、意思、意図、そして苦痛の存在をも疑った。さらにそのうえ、世界を感じている私はこの世界の中には存在しないのだ、と言ってみた。そのうえ、存在は存在しない、というようなことまで言ってしまいました。

奇妙な事を言っている。筆者もそれは分かっています。多くの人がふつうに思っている常識からは、相当にずれた話をしている。言葉をもてあそんでいるのか、大事そうな言葉を次々に否定してしまう。命、心、自分・・・拙稿でその存在の確かさを否定したこれらの言葉を、とても大事なものと思っている人がたくさんいる。筆者以外の人は、だれもがそうかもしれない(実は筆者も、それらを大事だとは思っています)。筆者はそれもよく知っています。そういう人たちを怒らせるために、筆者は拙稿を書いているわけではありません。

どちらかといえば保守的な筆者は、背広にはネクタイとか、宴会を始めるにはカンパイとか、年賀状は元旦に間に合うように投函とか、理由のない世間常識が大好きです。それにもかかわらず拙稿で筆者が常識を否定するような話ばかり書く理由は、コペルニクス以来、科学のもたらす知識が、世間常識からみると、どんどん非常識な方向へ進んでいくからです。そしてその科学は正しい。これはどういうことなのか?

拝読サイト:「オトナだからさ」

拝読サイト:年賀状

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