命、心、自分、意識、存在、価値・・・とても大事そうな、尊厳がありそうな、そしてときどき哲学的な匂いを発するこういう言葉が指しているものは、目には見えず、手でも触れない。カメラで撮ったりデジタルデータとして記録したりすることもできない。科学の対象として実験も観察もできない。あると言っても実証できない。ないと言っても実証できない。科学が教えるところによれば、そういうものは物質の法則だけで動いているこの世界には存在できないはずです。科学が描く世界には、それらの居場所がないことがはっきりしてしまった。
それなのに、人間はそういうものが確かにあるように感じる。それらは物質よりも大事なものと思われている。私たちには、それらが間違いなくあるはずだという確信がある。しかしそれは直観で感じるもので、写真には撮れない。絵にもうまく描けない。言葉でも、比喩としてはうまく言えても、正確には説明できない。もちろん、科学では説明できない。
科学は物質しか説明できない。生物という物質は命を宿しているように見えるけれども、詳しく調べるとふつうの物質からできている。人体も含めて生物の身体はふつうの物質現象として科学で説明しつくすことができるが、その説明では幼稚園児が感じる命の意味は分からない。命は特別に私たちの感情に強く響く。また脳という物質は心と関係があるように思えるけれども、これもよく調べると、ふつうの物質からできている。脳がふつうの物質現象であることは科学として明らかになったが、そういうこととは関係なく、心の動きは特別に私たちの心を打つ。心は私たち人間そのもの、という気がする。脳の物質現象がどこまでも詳しく分かったとしても、それでは私たちが心を感じる心は分からない。
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