花見というほど大げさなものではありませんが、午後、少しだけ桜がある近所の公園を散策しました。
どんよりと曇って寒々しく、人もまばらでしたが、桜はまさに今が見ごろ。
見事に咲き誇っていました。
私は毎年満開の頃、ワンカップやビールを買い込んで花見を楽しんでいますが、今日はなんだかそんな気になれません。
例年だと4月の上旬、新年度を迎えて多少の高揚感をもって花見を楽しんでいたところ、今年は年度末に重なり、いつもそうなのですが、年度末というのは精神が不安定になり、花の下で酒を飲もうという気持ちになりません。
今年の早すぎる桜の開花が恨めしく思えます。
桜といのは不思議なもので、わが国では桜は死の観念と結びついているせいか、桜を観るたび、来年もまた桜を観られるだろうか、もしかしたら不慮の事故にでも会い、これが今生最後の桜になるかもしれない、という不吉な思いに駆られます。
とくにうつ状態が激しく、希死念慮に悩まされていた時はそうでした。
桜を観たから、そろそろいいだろう、と考えてしまうのです。
それでもやっぱり死ぬのが怖くて、生きながらえてしまいました。
でも精神障害に対する差別や偏見は今も根強く残っており、最近職場ではメンタルヘルスの重要性が叫ばれてはいますが、それも研修の時などだけで、実際に発病すると、心が弱いやつ、いつ休み始めるか分からない危ないやつ、という目で見られます。
私自身、自分が発病するまではそういう目で精神障害者を見ていたように思います。
いっそ障害者手帳がもらえて、障害者年金がもらえるほど症状が重ければ、いやな仕事にしがみつかなくて済むのに、とよく思います。
しかし主治医は、「そんなことは考えず、出勤を続けることを第一に考えてください」と言って、障害者手帳を取得するための診断書を書いてくれません。
だから私は、障害者手帳を持っていません。
まぁ、多くの患者を診ている主治医からすれば、私なんかは軽いほうで、現にここ三年は休まず通っているわけですから、仕事を続けて社会貢献したほうが良いと思っているのでしょうね。
現にこの三年、最初はごく軽い仕事だったのが、だんだん仕事を増やされ、今では課内で一番ヘヴィな仕事を担当させられています。
リワークプログラムでは、SSTという寸劇で、仕事を断る練習を何度もしましたが、職場ではなかなかできないものです。
苦労している職員、特に職階が下の者が苦しんでいる場合、つい自分がやってやる、という禁句を吐いてしまい、自分の首を絞めてしまいますが、苦しんでいた若い職員が晴れやかな表情に変わるのを見ると、苦労は自分が引き受ける、と思ってしまう悪い癖があり、これが発症の一番の理由かもしれません。
しかも見栄っ張りのせいか、本当は辛いのに、「大したことないよ、簡単な仕事だ」などと格好をつけてますます自分の首を絞めてしまいます。
損な性分です。
今年はばかに春の訪れが早いようで、もう桜が満開です。
私はといえば、相も変らぬ俗事にかまけ、せっかくの週末、花見に出かけることもままなりません。
来週末、花が散り乱れているであろう頃に、花見に出かけようかと愚考しています。
せめてはかねて愛吟しながらあまりこのブログで取り上げなかった詩歌でも紹介しましょうか。
あはれなり わが身のはてや あさ緑 つひには野べの霞と思へば
新古今和歌集にみられる小野小町の歌です。
野べの霞とは、一般的に火葬の際の煙がたなびく様と解されています。
絶世の美女と呼ばれた小野小町も年老いて、春愁とともに世の無常を詠みこんだものと思われます。
次はいっそ思い切り美的な西行法師の春の和歌を。
春風の 花を散らすと見る夢は さめても胸の 騒ぐなりけり
桜が散るさまの美しさを、これほどの烈しさでもって詠んだ歌も少ないでしょうねぇ。
父は西行法師に憧れていたようですが、私はその歌の烈しさと、美を追求する執念みたいなものが、なんとなく怖ろしく、単純に西行法師に憧れるような気持ちにはなれません。
歌がうま過ぎるのと烈しすぎるので、おそらく平安末期の歌詠みからは嫌われていたんじゃないでしょうか。
ちょうど、私もそうですが今は亡き尾崎豊の烈しすぎる歌を毛嫌いする人が多いように。
ぐっと時代が下って近代詩を。
人けなき公園の椅子にもたれて
われの思ふことはけふもまた烈しきなり。
いかなれば故郷のひとのわれに辛く
かなしきすももの種を噛まむとするぞ。
(中略)
さびしき椅子に「復讐」の文字を刻みたり。
萩原朔太郎の「純情小曲集」にみられる「公園の椅子」という詩です。
葉桜の頃、公園の椅子に座って、愛憎うずまく故郷への思いを烈しい言葉で書き連ねています。
青年の憂悶。
萩原朔太郎という人ほど、憂悶という言葉が似合う詩人も少ないでしょうねぇ。
私はあと一週間に迫った今年度の終わりを前にして、不思議な焦燥感にとらわれ、憂悶というほどではないにせよ、憂愁の思いを強くしています。
今度の4月で就職して22年目の春を迎えます。
37歳くらいまではバリバリ働いていたのが、精神障害を発症して、以来ずうっと慣らし運転のような感じです。
病気というのはなんでもそうでしょうが、治るというのは発症以前の状態に戻ることではなく、病気を抱えながらも通常の生活が出来るようになることなんだろうと思います。
そういう意味ではもう治っているとも言えますが、常に腹の底に抱えているどす黒い塊のようなもの、うつ状態の種のようなものが、時折大きくなったりして私を苦しめます。
春の憂鬱というのも、どす黒い塊を大きくさせる作用があるような気がしてなりません。
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