昨夜、ジョルジュ・バタイユの「文学と悪」を読みました。
この作者にしてはわりあい分かりやすかったですね。
ブロンテ、ボードレール、ミシュレ、ブレイク、サド、プルースト、カフカ、ジュネの8人の作家を論じてエキサイティングです。
文学における悪とは何か、を追究します。
それは善を善として認めたうえで悪を志向しようとする嗜好、それは行動に対する文学の態度、神に対する悪魔の態度、大人に対する子供の態度としても捉えられる、とバタイユは論を進めます。
それには善悪を分ける倫理観が生まれていなければなりませんが、はるか古代、善悪が明瞭に分かれておらず、しかし本能的にこれは悪だというイメージだけがあった時、悪は強烈な魅力を放っていたと想像します。
「行動=神=大人」を断念することによって可能となる生き方・在り方、それが完全に正当化されることは、原理的には、生きているうちにはありえないことですが、正当化されえない生を自覚して生きること、これが文学における悪だと言うのです。
そうすると、大抵の文学者は子ども=悪で在り続けることになりますね。
これはかなりしんどいことです。
人間は自然に成長していくものですから。
例えばサド侯爵の「悪徳の栄え」などは、延々と幻想的ともいえる残虐描写が続きます。
これに付いていくのは苦痛さえ伴います。
残酷な性描写と、間アンチ・キリストの悪の哲学がこれまた延々と語られます。
しかしバタイユの論では、サド侯爵の文学は悪の哲学を語るから悪なのではなく、子どもじみた自分の性的妄想を延々と書き連ねる、その大人ではない態度が、まさに悪だということになりましょう。
そういう意味では、太宰治も悪でしょうし、尾崎豊も悪でしょう。
種田山頭火も尾崎放哉も西行法師も悪でなければなりません。
そして不思議なことに、腹の底に悪の塊のような物を抱えた私は、大人として行動し、日々職務に精励していることから、善になってしまいます。
そうだったのですね。
私は本質的にはともかく、表面的には善人だったのですね。
そうじゃないかと思っていました。
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