本日は見事な秋晴れに恵まれました。
久しぶりに、ご近所を1時間ほど散歩。
気持ちの良い散歩となりましたが、コロナが流行する前はしょっちゅう用事もないのに都内各地に出かけ、歩き回っていたことを思うと、少し、寂しい気持ちになります。
明後日は安倍元総理の国葬とあって、きっと都内は厳重に警備を行っていることでしょう。
安倍元総理の国葬については、強硬に反対する人々がおり、それだけでも、国葬を中止したほうが良いのではないかと思います。
法的根拠が無いとか金がかかるとか、様々な理由があるのでしょうが、結局は安倍元総理が大嫌いというだけのような気がします。
お葬式というもの、多くの人が故人を悼み、静かに別れを告げるために執り行うべきと考えます。
今の状況で国葬を強行しても、安倍元総理を悼むというよりは、安倍元総理が行った政策の数々を貶めるための儀式になってしまいそうで、なんだか嫌な感じがします。
国葬にこだわる必要は無かったのではないかと思います。
国葬ではなく、吉田茂元総理を除く歴代総理と同様に、自民党と内閣が行う合同葬儀で十分でしょう。
それならば誰も文句は言いますまい。
お葬式を政争の具にされたのでは、安倍元総理も浮かばれないと思います。
秋も深まってきました。
これから昼よりも夜のほうが長くなるのですね。
正直、嫌な気分です。
過ごしやすい陽気ではあるんでしょうが、日差しが短いと、鬱々としてしまう日が増えます。
双極性障害という業病、寛解はあっても完治は無いそうですから、これからもきちんと薬を飲み続けることが重要です。
寛解にいたってもう10年以上経って、自覚的には再発なんてありえないと思っているのですが、自己判断で薬を止め、ひどく悪化させた人をたくさん見ているので、薬を飲まないなんて考えられません。
私は正常になったのではなく、大量の精神病薬により、かろうじて正気を保っているだけであって、生涯、正常になることなんて無いのだろうと思います。
しかし、一見正常に見えるゆえ、職場は復帰したばかりの頃のように甘やかしてはくれません。
当然です。
給料を貰っているのですから。
同居人は、私が躁状態の時の最大の被害者ですが、それは病ゆえと、私を許してくれています。
手こそあげませんでしたが、ひどい言葉を投げかけたこともあったし、性的逸脱行動が起きて、他の女性と遊び惚けるにいたって、たぶん離婚するんだろうなと思っていました。
しかし躁状態の真っ最中、離婚なんて怖くもなんともありませんでした。
何しろ万能感が強く、神様にでもなったような気分なのです。
その時はうつ病が治ったとしか思いませんでした。
しかし医師はすぐに私がうつ病ではなく、双極性障害であったと見抜き、躁を抑える薬が処方され、それは劇的に効きました。
夢から覚めたようで、反動か、ひどく落ち込みました。
激しい躁状態、もう二度と経験したくないという思いと、あの麻薬のような万能感をもう一度感じてみたい、という思いが交錯します。
もちろん、それでも薬は飲み続け、躁状態は今のところ人生で一度きりです。
秋、酒が旨くなって、つい飲みすぎてしまいがちです。
酔うと本性が現れると言いますが、饒舌になったり、わずかながら万能感を感じたりして、酒はキチガイ水と言いますが、本当にそうだなと思います。
そもそも私は本物のキチガイ。(差別用語ですから、この記事、gooが勝手に公表を止めるかもしれません。無粋ですね)
キチガイがキチガイ水を飲めば、2倍キチガイになるのも道理です。
名歌をたくさん残した大酒のみの歌人、若山牧水に、
朝酒は やめむ昼酒せんもなし 夕方ばかり 少し飲ましめ
という、愚かな短歌が残っています。
酒飲みというもの、まったく愚かな生き物です。
もちろん私もそこに含まれるのですが。
9月4日に近所の家具屋で購入したダイニングチェア2脚、やっと今日納品されました。
前の椅子、28年も座り続けて、ガタガタし始めたので、新たに購入したしだいです。
少々値が張ったので、座り心地も悪くありません。
私は正座も胡坐も苦手です。
着物を着て喜んだり、古典文学に親しんだり、日本文化を愛する者としては誠に格好悪いですが、苦手なものは仕方ありません。
奈良時代を舞台にしたドラマなどを見ると、結構椅子に座っています。
椅子をやめたのは平安時代の国風文化の頃からでしょうか。
椅子の方が楽なのに、なんででしょうね。
相撲観戦に何度か出かけて、桝席どころか砂被りにも座ったことがありますが、狭い所に長時間胡坐で座っているのは苦痛でした。
相撲も全て椅子席にすれば良いのにと、心から思いました。
足に悪い座り方だと思います。
最近は飲食店なんかも掘りごたつ形式になっていて楽になりました。
お寺なんかでも椅子が増え、正座なんて、茶道くらいでしょうか。
茶道も全て椅子席ならやってみたいのですが、なかなかそうもいきません。
私が子供の頃は、時折電車のベンチシートに正座しているおばあちゃんを見かけることがありましたが、そういう人もいなくなりました。
もはやわが国も、ほぼ椅子に座る生活になりました。
有難いことです。
一週間ほど前に浴室の電球が切れてしまったことは、このブログで報告したところです。
翌日には新しい電球を購入して付け替えたのですが、何度スイッチを押しても、一向に電球がつきません。
で、今日照明器具の業者を呼んで修理してもらいました。
問題は電球にあったのではなく、電球をはめ込む大元の機械が経年劣化により壊れていたことが判明。
付け替えてもらって、無事解決。
32,000円也。
このところ経年劣化による不具合が生じることが多くなって、その都度、小銭が消えていきます。
年月が経つということは怖ろしいものです。
一週間ほど、脱衣所の照明だけを頼りに入浴していました。
薄ぼんやりした灯りで、嫌なものかと思っていましたが、意外と趣があります。
薄暗いがゆえに、すべての物がぼんやりして、変な話ですが、幻想的な感じがしました。
谷崎潤一郎の随筆に、「陰影礼賛」という佳品があります
要するにびかっと明るい電灯よりも、蝋燭などの昔の灯りのほうが、ぼんやりとして、世界が美しく見える、みたいな内容だったと思います。
中学生の頃読んだので、内容はあまり覚えていませんが。
薄暗い風呂場で入浴していて、「陰影礼賛」が思い浮かびました。
昔の人は夜をこんな風に過ごしていたのかと思うと、感慨深いものがあります。
しかしそうは言っても、今日の工事で明るい浴室がよみがえり、やっぱりこっちの方が良いかと思いました。
どこまでも現代文明に毒されている、無粋な私がここにいて、陰影を礼賛することなど出来ないと気付かされました。
首都圏に大型台風が接近中。
九州あたりはすでに被害を受けているようです。
今、千葉市は昼間だと言うのに外は真っ暗で雷鳴が轟いています。
朝、まだ雨が降り出す前に買い物を済ませたので、私はただ、マンションの窓から外を見つめて慄いています。
ここ数年、台風は大型化、狂暴化の一途を辿り、異常気象はすでに異常ではなく、日常化してしまいました。
季候がおかしくなると、生活のすべてが狂っていきます。
ただでさえ人間の社会は狂っているというのに。
例えばロシアとウクライナの戦争。
ロシアが超軍事大国であると思えば、ウクライナなどひとたまりもないと思っていましたが、善戦著しく、ロシアに対して反転の勢いです。
狂った指導者、プーチンにはとてつもない誤算でしょう。
しかし、ロシアを侮ってはいけません。
ナポレオンもヒトラーも、ロシアにというよりロシアの冬にやられてしまいました。
もしかしたら、プーチンは冬の到来を待って大規模な攻勢を仕掛けるつもりかもしれません。
おそろしあ。
朝晩めっきり涼しくなりました。
もう夏も終わり、気持ちの良い秋がきて、その先には恐怖の冬が待っています。
毎日車通勤で、筋肉が落ちたのか、ここ数年冬の寒さが恐怖に感じるほど寒がりになってしまいました。
今朝は恒例の朝湯。
飯を軽めに摂って、内科にコレステロールを下げる薬をもらいに行きました。
家族性の高コレステロールで、食事療法も運動療法も気休め程度にならず、毎日薬を飲むより他仕方がないと医者に言われたのが30歳の時。
それ以来、20年以上薬を飲み続けています。
誰でも持病というのはあるものです。
その後床屋で散髪。
約80分ほどかかり、他の床屋より長いですが、大層繁盛している店で、予約をとらなければならないほどです。
昼はとろろ蕎麦を食い、昼寝してしまいました。
平日と休日の差が大きすぎて、恨めしく思うことがあります。
サラリーマンの悲哀というやつでしょうか。
今日は清掃業者に風呂掃除を頼みました。
マンション購入から約20年。
こまめに掃除はしてきたつもりですが、素人では取れない汚れがついてしまい、プロに頼んだ次第です。
9時に清掃を始めて、16時までかかりました。
こんなに長時間かかるとは思いませんでした。
おかげで新品のように奇麗になりました。
それは良いのですが、清掃も終わり、道具を片づける段になって、浴室のLED電球が切れてしまいました。
電球を外し、同じ型番の電球をアマゾンで探したのですが、みつかりません。
20年前の物だから販売が終わったのだろうと思い、パナソニックに電話して、後継の電球を聞き、早速アマゾンで購入。
しかしパナソニックのコールセンターにつながるまでじつに20分もかかってしまいました。
風呂場が奇麗になった途端、電球が切れるなんて、まるでコントですね。
今日は家から一歩も外に出ず、かえって疲れてしまいました。
LED電球は非常に長持ちすると聞いていたのですが、さすがに20年は長すぎたようです。
何にでも寿命はあるものです。
マンションも建ててから20年も経つと、色々手入れが必要であることを痛感します。
これからはこういうことが増えるのだと思います。
何かと物入りで、まいります。
. 今日は一日中曇りで湿気が少なかったゆえ、散歩がてらそごう千葉店を訪れました。
9月23日に納品予定のダイニングチェアに敷くためのダイニングチェアクッションを2つ購入。
2つで2万円弱。
明日はお掃除本舗という業者に風呂掃除を頼んでいます。
こちらが3万2千円。
ダイニングチェア2脚が20万円くらいしていますので、次のクレジットカードの明細が心配です。
さらに、煎り酒と桃源の弁当を晩飯用に買いました。
なんだか疲れしまったので、晩の支度をすることが億劫になったのです。
その後そごうのレストラン街でいつものカレーとスープとサラダ、それに珈琲がついた昼食を頂きました。
そごうに行くといつもこのメニューです。
買ったものを車に積んで、千葉市中心街を散歩。
じつに久しぶりの散歩です。
こういうことを繰り返しながら、着実に月日を重ね、死んでいくのでしょうね。
考えてみればつまらぬ人生です。
しかし多くの人がつまらぬ人生を生き、死んでいくのですから、私一人がつまらぬ人生を歩んだと言うわけではありません。
これを、平凡で地道な暮らしと呼ぶのしょう。
そしてそれこそを幸せと言うのかもしれません。
自分が幸せだと思ったことはほとんどありませんし、順風満帆であったわけではありません。
精神病による長期の病気休暇を経て復帰。
復帰しても、出世はしないし、給料は上がらないし、厳しい世の中になりました。
私が就職した頃は、職員がたくさんいて、正直、楽でした。
そのうえバブルの残滓が残っていて、目に見えて給料は上がっていきました。
良い時代だったと思います。
その後長い不況の時代に突入。
職員数は行政改革のためどんどん減らされて、ゆえに一人の仕事量が膨大になり、うつ病などの精神疾患に罹患するものが増えました。
この長い冬の時代、いつまで続くのでしょう。
今の若手職員は何も良い時代を知らず、しんどくて安月給なことを当たり前として日々努力しています。
その努力は買いますが、おじさんは若手たちにこんな仕事辞めてしまいなさいと言いたいのですが、そういうわけにもいきません
誰かがそれをやらなければいけないのですから。
それでも、久しぶりのお出かけをして、気分転換にはなりました。
良い日曜日だったと思います。
英国のエリザベス女王が亡くなられたとか。
ずいぶんな長生きで、息子の新国王はすでに御年73歳。
73歳で新国王とは驚きです。
現在、天皇陛下を含め、世界各国に王室が残存していますが、これらはいつまで続くのでしょうか。
今時天皇だの王様だの、時代錯誤な気がします。
わが国の皇室の人々、生物学的には人間ですが、社会学的には人間ではありません。
選挙権も被選挙権もなく、職業選択の自由も住居の自由も無い。
いわば現代の賎民とでもいうべき存在です。
あらゆる権利や自由を制限し、その代わりに崇め奉るとは、そしてそんな人々の存在を許すとは、私にはにわかには信じられません。
さらには宮内庁だの皇宮警察だのに莫大な税金を投入する。
そんなことまでして、誰にどんな利益があるのでしょう?
このブログで何度も書いたとおり、私は天皇制は廃止すべきものと考えています。
差別はいけないと言いながら、国家総出で皇室の人々を差別しているではないですか。
人間らしい生活をおくれるよう、差別は撤廃すべきです。
聖と賤が表裏一体であることなど、さんざん言い古された物言いです。
聖とされる人は必ず賤なのです。
そういう者の存在は、国家統治には便利かもしれません。
しかし国家統治に便利だからと言って、ごくわずかの人々を差別してよいという道理にはなりません。
どうか皇室の方々を差別にまみれた世界から救いださんことを。
今日は金曜日。
一週間で一番嬉しい夜が待っています。
しかも12日(月)は電気設備の点検のため、一斉休暇となります。
3連休です。
嬉しいかぎりです。
私の先輩は、土日祝日、それに有給休暇取得時の嬉しさを感じるために働いているのだ、と喝破しました。
その先輩も今は楽隠居の身。
ただし毎日が日曜日になってみると、お休みの日の嬉しさが感じられなくなって、休むことの有難みが無くなる、と嘆いていました。
では再び働きたいですか、と問うたところ、それだけは絶対に嫌だ、と言っていました。
なんだか矛盾しているような気もしますが、人間理屈でなんか動きません。
先輩の心の叫びとでも言うべき話です。
この先輩、じつは大層な苦労人です。
子供の頃に事故で片足を失うという悲劇に見舞われました。
職場ではちょっとした油断をして、停職6か月の処分をくらい、退職しました。
多分50歳くらいだったと思います。
しばらくはアルバイト生活を続け、再就職しますが、長続きしませんでした。
家庭では30年も連れ添った奥様が離婚届を置いて出奔。
50代後半になって婚活を始め、無事、再婚しました。
この先輩、生来明るい性格なのか、これらの試練に見舞われても、どこか明るく、日々の生活を楽しんでいます。
私だったら激しく落ち込むであろう人生の困難。
それすら乗り越えて再婚して、二人の生活を楽しんでいるご様子。
前の奥様との間には2人の息子さんがいますが、どちらも独立しているので、本当に二人きりです。
私もまた、子宝に恵まれませんでしたから、結婚して24年、ずうっと二人だけの生活で、それは結構気楽で楽しいものです。
もし、同居人が行方知れずになったら、私はどうなってしまうんでしょうか。
二人だけで24年も生きてしまって、もはや三人の生活も、一人の生活もできません。
まして婚活なんていう面倒くさいことはご免です。
いい年をして腹の探り合いから始めなければならないなんて、無理です。
若いころはそういうことを、恋の駆け引きなどと呼んで、楽しめたのでしょうけれど、そういう時代はとうに過ぎました。
私は凪のような状態で、しずかにちょろちょろ燃える火を囲んで、同居人といつまでも暮らしていきたいと思っています。
いずれどちらかが一人取り残されるわけですが、それが私でないことを、切に願います。
今日は休暇を取りました。
べつだん用事があったわけではありません。
私の職場では、年間20日の有給休暇が与えられます。
そして、5日以上取得する義務があります。
これを破ると、人事担当部署からきついお叱りを受けることになります。
昨年までは、20日すべてを使い切っていましたが、4月に異動になり、激務ゆえ、休暇をあまり取得できませんでした。
そこで、ぽっかりと空いた急な案件の無い今日、お休みを取ったのです。
暇を持て余して、DVDを借りました。
「真夜中乙女戦争」という映画ですが、その魅力的なタイトルゆえ、パッケージを読まずに借りてしまいました。
内容は中二病的な大学生たちが、チーム常連という黒服で身を包んだ秘密結社を作り、クリスマスの夜に東京中に爆弾を仕掛けて破壊する物語です。
チーム常連の草創期からのメンバーの大学生が先輩の女子大生と淡い恋に落ちたり、白け切っていた大学生がチーム常連への参加でやる気を出したり、いくつかの魅力的なエピソードが語られますが、映画全体として、その物語は破綻しています。
哲学的で幼稚な会話や、思わせぶりなセリフが多用されますが、それらはいずれも陳腐なものです。
チーム常連のリーダーは醒め切っており、狂気を帯びて突き進むような、暗闘の物語ではなく、救いようのない幼くておろかな青年たちが描かれます。
脚本が悪いのだと思います。
この題材なら、もっと面白いものができたであろうにと思うと、残念でなりません。
最近、世界が茶色っぽく見えてきました。
比喩ではありません。
茶色いサングラスをかけているわけでもありません。
なんだか、茶色いのです。
定期的に眼医者に通っていますから、特段心配することでもないのでしょうが、薄気味わるく感じます。
これも老化なのでしょうか。
茶色い世界、なかなか慣れません。
パソコンの画面が茶色い、電車が茶色い。
車を運転している時の明るいはずの晴れた街が茶色い。
戸惑っています。
こうして、失明への道を突き進むのでしょうか。
怖ろしい。
茶色い世界が怖ろしい。
しかし私は、それでも生きていかなければなりません。
茶色だろうと灰色だろうと。
生きていかなければなりません。
最近の自身の衰えは、嗤いたくなるほどです。
出来たことが出来なくなり、ついにはそれが当たり前になるであろう老い。
50代でそんなことが己に起こるなんて想像もしていませんでした。
それでも、生きなければならないとは、しんどいことです。
今日は日曜日。
一日フリーの土曜日とは大きく異なり、一週間分の洗濯、買い物、掃除と、家事に明け暮れます。
さらには月曜日への恐怖からか、沈みがちです。
サラリーマンの宿命でしょうか。
我が家から徒歩5分くらいのところに、大きな家具屋があります。
ダイニングチェアがダメになり、ガタガタ揺れるようになってしまいました。
私が独り暮らしを始める時に購入した安物で、もう28年も使いました。
ダイニングテーブルはびくともしていないので、ダイニングチェアだけを購入しに家具屋を訪れました。
一口にダイニングチェアと言っても、じつに様々で、大いに迷いました。
安いものは1万円程度、高い物は50万円もします。
良いなと思うものは軒並み10万円を超えていて、さすがに10万円使うのはもったいない気がして、悩んだ挙句、それでも一脚99,000円の椅子を2脚購入することを決定。
これがギリギリの妥協で、もっと安い椅子には何の魅力も感じませんでした。
少々脱力気味です。
考えてみれば、今使っている椅子に、よくぞ28年も座り続けたものです。
安物だったことを思えば、十分にもとは取ったと言うべきでしょう。
先般はトイレと浴室の換気扇を買い替えました。
古いやつ、異音がするようになったためです。
15万円くらいしました。
古くなった浴室の清掃に、素人では落とせないような汚れがついてしまい、清掃業者に風呂場の清掃を頼んでおり、近々、行う予定です。
こちらは4万円。
キッチンの換気扇は何年も前に替えています。
新築で入居したマンションも20年を超え、あちこち修理が必要になっています。
家も家具もしょせんは消耗品。
人間が年を取って様々な病気に罹患するのと一緒です。
これが時の流れというものでしょうか。
時が流れるのは早いと嘆く人はたくさんいますが、私はそうは思いません。
1年は永遠のように長く感じますし、10年なんてあまりにも先で、生きているのか死んでいるのかさえ危ういものです。
人生なんて宇宙の歴史から見れば一瞬なのかもしれませんが、おぎゃあと生まれて成長し、幼稚園、小学校、中学校、高校、大学と膨大な時間を費やして社会人になります。
22歳で就職すれば60歳の定年まで38年。
やっとリタイアする頃にはすっかり老けて、何をするにも億劫になっていることでしょう。
私は時折普通のサラリーマンが過ごす一生を思い、慄然とします。
食うための時間が長すぎて、いったい何のために生まれてきたのか、わけがわかりません。
働いて働いて働いて死んでいく。
年とともに勤労意欲など1ミリも無くなり、それでも食うために辞めるわけにもいかず、辞めろ圧力に耐えながら、必死で職場にしがみついているというのが私の現状です。
そうなると、1年どころか、1日がとてつもなく長く感じられます。
なすべきことをなそうと必死になっても、時の流れが速いとは感じません。
これが圧倒的多数のサラリーマンに起こる現象なのか、あるいは私が変なのか、よく分かりません。
椅子の老朽化も、私の劣化も同じこと。
あまりにも長い年月を経たことによる経年劣化です。
椅子は買い替えることが出来ても、人間を若返らせることなどできませんし、一秒でも若返りたいなんて思いません。
若い頃の馬鹿な行動や、時代の要請による長時間労働、色恋沙汰や過度の飲酒による二日酔い。
そんなことを再びやれなんて、考えるだけでぞっとします。
やっと定年まで7年と言う地点に辿り着いたのですから。
その7年の間にも、確実に経年劣化は進むでしょう。
勤労意欲を無くしたおじさんですが、働き続けるより他、生きる道はありません。
どんなに劣化しても。
9月最初の土曜日。
コロナでお出かけしない休日をどれだけ過ごしてきたでしょうか。
お出かけと言ったら、買い物か病院通いくらい。
体重は測っていませんが、だいぶ増えたような気がします。
ベルトがきつくなってきましたから。
コロナ太りでしょうか。
今日は数少ないお出かけ。
精神科への通院です。
車で15分くらいでしょうか。
精神科医は職場復帰後12年間再発せず、仕事に通っていることをもって、稀に見るサクセスストーリーと褒めてくれます。
再発の多い病気ですから、主治医の患者も多くが復帰しても長くは持たないんでしょうね。
それは有難いことですが、大量の精神病薬のせいか、毎日霞がかかったような、ぼんやりとした頭で、必死のお仕事生活をおくっています。
精神科医は、どんな状態でも毎日出勤出来ていることをもって、奇跡的なことだと感嘆してくれます。
しかし、精神病患者はデイケアなど、プールのような場所では泳げても、荒波の海で泳ぐことは至難の業です。
よくも12年間も荒波にもまれて泳ぎ続けてきたものです。
先のことを考えると暗澹たる気持ちになりますが、今日一日だけは出勤する、という一日出勤の積み重ねの結果が、ここまで泳ぎ続けてこられた理由。
よく断酒会の人が言う1日断酒と同じですね。
明日は呑むかもしれないけど、今日は絶対呑まない、という。
私もまた、明日は休むかもしれないけど今日だけは出勤するという気持ちを強く持って、これからも日々を生き続けていきたいと思っています。
9月に突入しました。
ついに来てしまったと思うのは、何も夏休みの終わりを嘆く子供たちだけではないようです。
私たちの業界も、8月の凪が嘘のように、猛烈に忙しくなります。
かつて、月曜日が待ち遠しい、というコピーのCMが流れたことがあります。
それは圧倒的多数のサラリーマンにとって、白けるCMでした。
月曜日は憂鬱なのが当たり前で、それが待ち遠しいというのは、よっぽど暇な職場か、オツムが弱い人なのでしょう。
働いて給料をもらうこと、この上なく苦痛です。
これ以上の苦痛は、他に無いのではないでしょうか。
己の時間を削り、さらには浪費し、ついにはお仕事ハイみたいになって朽ちていくのです。
それがサラリーマンの真実。
今では使ってはいけない言葉になっているようですが、現代の水呑百姓、あるいは非人。
そのような現実にあって、多くの人はよく耐えていると思います。
私はかつて精神病で長く休みましたが、それが当然の人間の暮らしだろうと思います。
その当然の人間らしい暮らしが、病まなければ達成し得ないのだとしたら、人は何のために生まれ、何のために成長し、そして老いるのでしょうね。
牛馬のように働いてわずかな禄を食み、死んでいくのが幸福だとはとても思えません。
長期病気休暇から復活して12年。
精神科医はその長い道のりを、精神病患者にあっては稀に見るサクセス・ストーリーだとほめてくれます。
しかし私は、そんなサクセス・ストーリーなど、望んではいませんでした。
精神病発症を良いことに、そのまま隠居生活に入ろうと思っていました。
それを守護霊だか狐の神様だか何だか知りませんが、私に働くという無間地獄のような苦役を課したのでした。
残酷なことです。
この残酷な暮らしから逃れたいと思っても、それは切ないことです。
食えなくなってしまいますから。
食うために生まれたか、生まれたから食うのか。
今の私は明らかに食うために生まれたとし言いようがありません。
この地獄のような苦役の毎日を耐えれば、きっと楽になれるはずだと信じて、生きていく他ありません。
就職してから30年。
私はずうっと退職する日を待ち望んできました。
その日がついにやってきたのなら、私は快哉を叫んで真に充実した日々を送れるものと思います。
他人のため、組織のための苦役ではない、自分が自分らしく生きられる時間。
それは何者にも代えがたいものだと思います。
とにかくその日までは健康でいたいと思います。
120歳までも生きて、国家の制度をしゃぶりつくして死んでいきたいと、切に願います。