8月で47歳になります。
体力、気力とも衰えてきて、残業なんて疲れちゃってとてもできません。
体重は20歳の頃と変わりませんが、腹回りは20歳の頃よりだいぶ太いのが面白いですねぇ。
髪は黒々ふさふさですが、小じわやシミが増えました。
何を美しいと感じるかは人それぞれだと思いますが、大方の人は老人や中年よりも若い人を美しいと感じるようです。
男でも女でも、若いほうが肉体も引き締まり、肌艶も綺麗ですからねぇ。
多分人間は、滅びや死を連想させるものを醜いと感じ、生命力を感じさせるものを美しいと感じるのでしょうね。
だからこそ、若者は美しく、赤子や幼児はきらめいて見えるのでしょう。
そう考えると、私が目指す美しい老人となるのは、なかなか難しいことのようです。
わが国のお役所は、ボトムアップを旨としています。
この制度、下々までが意思決定の一端を担えるため、意欲がわくと言う面がある一方、上の者が下の者に責任を押し付けやすいという負の側面を持っています。
まさに今日、そういう目にあいました。
まさか私より下の者にさらに責任を押し付けるわけにもいかず、私かぎりでかぶりましたが、全くいやぁな気分です。
組織で働くというのは理不尽なものです。
25年ちかくも働いて、そんなことは知り尽くしているつもりでいましたが、へこみますねぇ。
私は毎日車で通勤しています。
朝夕、車の中でラジオを聞いて過ごしています。
ラジオではよく商品の売り込みのコーナーがありますが、ほとんど毎日、手を変え品を変え登場するのが、ダイエット商品と若返りのサプリメントです。
両者は同じ根っ子を持っているに違いありません。
要するに、いつまでも若々しくいたい、という欲望。
この欲望を持つのは人間の、いや生物の本能とも言うべきなのかもしれません。
しかし、絶対に叶えられない欲望でもあります。
大体いくつ若く見られたら良いのでしょうね。
100歳が90歳に見えたところでどうということもありますまい。
60歳が20歳に見られるわけもないし。
で、この願いが行き着く先は不老不死ということになるでしょうね。
死にたくない、いつまでも若々しく健康でありたいと願うのは、気持ちは分かりますが、あまりにも切ないことです。
叶えられない願いを持ち続けることほど切ないことはないでしょう。
古くは秦の始皇帝が探させたという不老不死の妙薬。
くだって、「銀河鉄道999」の機械の体、「火の鳥」などの漫画。
誰も叶えたことが無く、物語の世界でそれを得た例があっても、必ず不幸になっています。
最近お気に入りのSEKAI NO OWARIは、名曲「不死鳥」で、死を、今を大切にすることが出来る魔法、と歌って見せました。
全くそのとおりだと思います。
私たちの遺伝子は有性生殖を選択し、それがゆえ、死は必然となりました。
親から子へ、子から孫へと、遺伝子は乗り物を新しく代えながら生きていきます。
まるで車を新車へ買い換えるようです。
であるからこそ、赤子の誕生は祝福されるのでしょうし、大人は赤子を見て可愛く感じるのでしょう。
己の遺伝子を縦につないだということは喜ばしいに違いありません。
私たち夫婦は不妊治療まで施しながら、結局、子宝に恵まれませんでした。
同居人、とっくに諦めているはずなのに、今でも子を授かることが出来なかったと、時折嘆いています。
ことほど左様に、人は自ら先祖の一人になる権利を得たいのでしょうね。
私はと言えば、男と女の違いもあるのでしょうか、心底子供が欲しいと思ったことはありませんし、むしろ気楽に生きるうえでは弊害だというのが本音です。
お釈迦様は出家前、子供ができ、ラゴラと名付けました。
後の羅睺羅尊者ですが、その意味するところは障碍、要するに邪魔者だと言う説があります。
出家の邪魔になると考えたのでしょうか。
それはさておき。
永遠の若さを求めることほど無意味で切ないことはありますまい。
それよりも、美しく老いることを目指すべきです。
それは肌艶の美しさなどではもちろんありません。
生きてきた軌跡を顔に刻んだがゆえの美しさこそ、真に美しいと言えるでしょう。
私が憧れる生き方は、働かないで遊んで暮らすことです。
多分多くの人がそんな願いを持っているのではないでしょうか。
ヒモでも良いし生活保護でも良いし。
できればロト7で8億円当たって遊んで暮らすというのが良いですねぇ。
ヒモは捨てられるかもしれないし、生活保護は打ち切られるかもしれませんから。
良いなぁ、と思ってうっとりと観たのは、父親が作曲家で、その印税で暮らすプレイ・ボーイを描いたヒュー・グラント主演の「アバウト・ア・ボーイ」。
主人公はいい年をして働いたことがありません。
それかあらぬか、若い主婦を狙うために、育児教室に通ったりする悪者です。
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これを観た時、これこそ私が求めている生活だと思ってため息がでました。
ヒュー・グラントという役者、腐った二枚目を演じたら右に出る者がいません。
素顔もシニカルな英国人そのもの。
大真面目に演技の苦労などを語り合う米国のテレビ番組に出て、役者を目指す若者たちに、「おかしくも無いのに笑ったり、悲しくもないのに泣いたり、君らも大変だね」と語って、米国人司会者は目を白黒させていましたっけ。
かつてお山に籠って世を捨てた人々は、今、都会の人混みに紛れて生活しているような気がします。
都会ほど、身を隠すのに適した環境はありませんから。
「それから」の先生も良いですねぇ。
何の先生だか知りませんが、書生を雇って日がな一日ぷらぷらして、芝居を観たり人妻と恋愛ごっこを楽しんだり。
この人の収入は裕福な実家からの仕送りでした。
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でも実家から見捨てられたら生きていけませんから、やっぱり死んだ父親の印税のほうがよろしいかと思います。
絶対にかなわないのは、くされ公家ですかねぇ。
下々から搾取して遊んで暮らすのは、洋の東西を問わず、腐った貴族たちです。
うらやましい。
私もはるか昔にくされ公家として出生したかったものです。
そんな切ない、かなはずも無い夢を抱いて、毎日を乗り切っています。
木端役人なんて、現代の水呑百姓と言ってよい、最下層民でしょうねぇ。
あ、でもそんなこと言ったら怒られちゃいますね。
非正規雇用の問題がかまびすしいですからねぇ。
私は安月給とはいえ、正規雇用ですから。
でも実感としては、私は社会の最下層にいるような気がしてなりません。
食うに困ることはないですが、逆に言えば食うに困らない程度ということです。
なんで私はこんなに強欲で、怠け者に生まれついてしまったのでしょうか。
勤勉で真面目で身の丈に合った欲しか持たない、真っ当な人間になりたいものです。
今日は一日ごろごろしていました。
朝は7時半に起きて風呂。
たっぷりとつかり、一週間の疲れを癒しました。
朝飯は納豆とハムエッグで、茶碗に1膳の白飯。
これで腹いっぱいです。
その後リビングでまた小一時間ほど眠り、先週購入し、裾丈の直しが終わった夏物のスラックスを取りに千葉三越へ。
10時半には帰宅して、小説を読んだりして午前中を過ごしました。
昼は近所のイタリアンでパスタセット。
その後またもやリビングで昼寝。
いくらでも眠れる感じです。
今宵は中トロとヒラメの刺身を購入したので、それで一杯やる予定です。
明日はお祝い事で実家に行く予定。
クールビズのこの時季、スーツにネクタイとは冴えませんが、お目出度い席のこととて、少々の窮屈は我慢しましょう。
英国から衝撃的なニュースが飛び込んできました。
EU離脱派が勝利確実になったとか。
驚きです。
40年以上、EUの主要国として生きてきた英国。
どうしても名誉ある孤立が欲しかったのでしょうか?
離脱して、英国はやっていけるのでしょうか?
ポンドは?
そして円は?
どうなるのでしょう。
わが国で言えばに米安保をやめるような話ではないのでしょうか。
しかし決まってしまったものは仕方ありません。
英国の今後を見守りたいと思います。
月曜日は休んでしまいましたが、火水とどうにか通うことが出来ました。
相撲取りの白星ではないですが、出勤してきちんと仕事をこなすことが一番の良薬のようです。
良薬は口に苦しと言いますし。
サラリーマン生活も25年目に入りますが、そんなことに今頃気付くとは、私も間抜けです。
明日も出勤できますように。
今朝、どうしても起き上がることができす、休んでしまいました。
最近どうも朝が弱いようです。
朝飯も食わず、ひたすら眠っていました。
昼ごろおきて、納豆とご飯だけの簡単な昼飯を食いました。
朝がダメで昼過ぎに元気になるというのは、典型的なうつの症状です。
軽いうつ状態が続いているようです。
こんなときは、早いうちに休んで脳を休めるに限ります。
私はどうも周期的に軽うつに襲われるようです。
明日は出勤したいものです。
英国の老執事を描いたカズオ・イソグロの小説「日の名残り」を読み終わりました。
![]() |
日の名残り (ハヤカワepi文庫) |
Kazuo Ishiguro,土屋 政雄 | |
早川書房 |
スティーブンスはダーリントン・ホールと呼ばれる大きなお屋敷に仕える執事。
時代は1956年の7月。
何十年もこのお屋敷の主、ダーリントン卿に仕えてきた名執事です。
ダーリントン卿が亡くなり、屋敷は執事込みで売りにだされ、米国の実業家によって買い取られます。
米国人は英国貴族と違って気さくな人柄で、屋敷を留守にする間、スティーブンスに車を貸すから旅行に行って来いと勧めます。
スティーブンスは旅行などしたことがなく、戸惑いますが、新しい主の勧めにしたがって、一週間ほどの自動車旅行へと出かけます。
旅行の様子が描かれるとともに、1920年代から1956年の現在までの様々な思い出が語られます。
第一次大戦、第二次大戦、二つの世界大戦を経て、かつての日の沈まない帝国は、すっかり落ちぶれてしまいます。
女中頭がスティーブンスに寄せる密かな思い、若い女中と召使の駆け落ち、ナチ高官と英国政府高官の深夜の密談など、お屋敷では様々なことが起こり、それを職業的倫理と技術で見事に切り抜けてきたことを、スティーブンスは誇りにしています。
自動車旅行の最後、スティーブンスは20年前に結婚のために屋敷を去った女中頭、ケントンと再会を果たします。
じつは彼女との再会こそ、この旅の目的とも言えるものです。
ケントンが密かにスティーブンスとの暮らしを夢想し続けた事実を知り、物語の最後、スティーブンスは海辺で夕陽を眺めながら、静かに涙を流すのです。
この物語は、過去の出来事と自動車旅行中のことが複雑に絡み合って語られながら、物語として決して破綻しない、精緻なものです。
そしておそらくは、悲劇を、ユーモラスに描いたものでしょう。
大英帝国の衰退と、それに伴う英国貴族の斜陽、戦前、戦争を回避するために親ナチ的な態度を取ったがゆえに、戦後、マスコミから叩かれ、無念のうちに亡くなった主、ダーリントン卿の悲劇、そしてダーリントン卿に心酔し、長年仕えながら、卿を失い、また、ケントンとの生活を実現できなかったスティーブンスの悲劇。
時代と、貴族と、庶民と、それぞれが悲劇を生きています。
後悔の無い人生というものは、おそらくは存在しないか、存在するとしても奇跡的な例外だけだろうと思います。
あの時ああしていれば、とか、こちらの道ではなく、あちらの道を選んでいれば、と思うことは、誰にでもあるでしょう。
そういう意味では、人は皆、喜劇的な悲劇を生きていると言っても過言ではないと思います。
であるからこそ、悲劇を喜劇的に描いたこの小説は、静かな筆致ながら、深く胸に刺さるのだと思います。
なんでも英国最高の文学賞であるブッカー賞を受賞したんだとか。
生粋の英国人ではなく、日系英国人だからこそ、英国貴族や執事の生態を冷静に描けたのかもしれませんね。
ご一読をお勧めします。
今週も一週間が終わりました。
金曜日の終業後ほど気分の良いものはありません。
この瞬間のために、5日間働いていると言っても過言ではありません。
これはサラリーマンなら大抵の人がそうでしょう。
昔、「月曜日が、待ち遠しい」というコピーのCMがありましたが、それはワーカホリックの変態というべきで、貴重種でしょうね。
私たち事務職は組織で動いており、我々という意識が強烈です。
それは業務を遂行するうえで必要な意識だと思いますが、それも過ぎれば全体主義みたいな、連帯責任みたいな、我=個を殺す考えにつながってしまいますので、さじ加減が難しいところです。
私はエキセントリックな性格にみられることが多く、我々を否定するような言動をして、叱られたり嫌味を言われたりすること度々です。
しかし私はそんなことは気にしません。
面と向かって言われれば反論すれば良いし、陰口ならば放っておけば良いだけですから。
しかし私は、我々を完全に否定したことなどありはしません。
我々を意識することは、倫理観の維持につながるでしょうし、共同体や組織の繁栄に必須です。
ただ、我々意識にも限度があるし、我という意識も我々以上に大切であると考えているに過ぎません。
そんなことを考えながら、根源的な疑問を持つことがあります。
じつは全生物は根本的に繋がっており、厳密な意味での我など存在せず、ただ我々だけが在るのではないかと。
集合無意識や仏教の唯識を持ち出すまでもありません。
例えば自己犠牲。
集団のために己を犠牲にすることはいつの時代、どの場所でも称賛されるべきことでした。
行き過ぎれば特攻隊みたいなものなってしまいますが、特攻隊の場合必ずしも一人の意志ではなく、周囲からの露骨な圧力があったやに聞き及びます。
特攻隊の英霊を誹謗するつもりはありませんが、我々の押しつけという感じは否めません。
それはそれとして、自己犠牲を美しいものととらえる考え方は普遍的な価値をもつものと思われます。
我を殺して我々のために、という。
ゆとり教育華やかなりし頃、個性が大切で、個性を伸ばす教育を求める風潮が見られました。
馬鹿げたことです。
個性を伸ばしたければ、逆説的ですが、個性を殺す教育を施すのが最も効果的だと思います。
殺しても殺しても飛び出してくるものこそ、個性であろうからです。
しかし個性なるものも、共同体のなかである一定の割合の人に出現する必要なものだとしたら、結局我は無く、ただ我々だけが存在するような気がします。
私は長いこと我ばかりを求めてきましたが、今に至って、ついに我々に埋没するほかないようです。
そしてそれは、もしかしたらとても心地よい、甘美な境地であるのかもしれません。
せこすぎる都知事の辞職だの、IS支持者による同性愛者が集まるクラブでの銃乱射だの、ニュースを見ているといやになってきます。
また、職場では、外部資金獲得の算段だの、つまらぬ資料作成だの、くだらなすぎていやになります。
そんなとき、私の頭はどういうわけか、世の中で不思議と言われる現象を思い浮かべてしまいます。
不思議なことはたくさんあり、というか私がここにこうして存在していることが一番の不思議ですが、電卓をたたきながら、頭は宇宙の不思議に飛んでいました。
宇宙人の存在は間違いないところです。
宇宙に飛び立った我々地球人こそ、他の星の住民から見れば宇宙人であるに違いないからです。
この広い宇宙には無数の星があり、地球にしか生命が存在しないと考えるのは無理があるでしょう。
しかし、宇宙はあまりにも広いので、知的生命が他に存在していても、地球人と接触できるほどの能力を持っているかどうかはわかりません。
また、地球人が誕生し、しかも文明を築いたのは宇宙の歴史からみればごく最近のことなので、異星人の文明はすでに滅んでしまっているかもしれず、逆にまだ単細胞生物段階なのかもしれません。
時代が一致しないと異星人と接触することは不可能です。
また、人間の五感で感知できないような形状の生物であった場合、接触していても気づきません。
地球外知的生命との接触は、限りなく不可能のような気がしてきます。
SFでは、異星人が地球に攻めて来たり、逆に地球人を導いたり、ロマンティックな物語があまた作られてきました。
ことほどさように、私たち地球人は異星人との接触を求めています。
しかし、もしかしたら、異星人はもっとナイーブで、他の星との交流をあえて避けている可能性もあります。
昔から、じつは米国政府などの高官は異星人と接触している、という噂が絶えません。
何らかの取引をしたとか、あるいは地球にやってきた異星人を捕まえた、とか。
私はキリスト教やイスラム教など、ヤハウェの3宗教に詳しくありませんからよく分かりませんが、神様が宇宙を創造したとするなら、異星人も創造したことになり、異星人との邂逅はかの宗教関係者には都合が悪いような気がします。
逆に、神様とは人間よりもはるかに進んだ文明を持つ異星人だとする説もあり、甚だしきに至っては、異星人が実験場として地球を作った、という珍説すらあるようです。
分からないことに対しては、色々な想像が浮かぶようです。
ガリレオが地動説を唱えてローマ教皇庁から異端の罪で有罪判決をくらってからまだ380年ちょっと。
わずか380年前までは、地球が宇宙の中心に存在し、その周りを星々が回っていたわけです。
また、ライト兄弟が初めて空を飛んでからわずかに113年しか経っていません。
その後66年後には人類は月に降り立っています。
科学の常識も、科学技術も、日進月歩どころか秒進分歩の様相を呈しています。
それを思えば、100年後には、異星人と握手を交わしているかもしれませんね。
そんな夢想にひたることは、楽しいものです。
あ、でもいけません。
電卓を叩く指がお留守になってしまいます。
追わば逃げ、逃げれば追うというのは、本来男女の仲を表した言い方です。
しかし私は、最近事務仕事と労働者も似た関係にあるような気がしています。
積極的に、早め早めに仕事を進めていると、なんだか逃げるように仕事が減っていき、仕事がたまって停滞し、仕事から逃げたいと思っている時にかぎって次から次に仕事が降ってくるような。
特にパソコンが普及して、連絡はほとんどメール、仕事はシステム上で、となってから、仕事が明らかに増えているような気がします。
あんまり関係の無い人にでもとりあえずCCやBCCを付けて情報共有した気分に陥るCC合戦は、もはや白兵戦のごとく、乱れ撃ちです。
私自身はあんまりCCやBCCを多用しませんが、それでも知っておいてもらいたいと思う人には、保険のように付けています。
送ったんだから知ってんだろ、みたいな。
道具が便利になったことは確かでしょうが、それを使う人間の側に問題があるんでしょうね。
私も含めて。
おそらく自動車にしろ飛行機にしろ、新しい道具が出来るというのは、人間にとってストレスでもあるんでしょうね。
新しい事態に順応するのは面倒くさいですから。
で、コンピュータはその最たるものというわけです。
コンピュータはまだまだ発達途上。
この世界に付いていくのは、中年のオヤジにとってなかなかにしんどいものです。
わが国は先進国のなかで、最も幸福度が低いそうです。
幸福度はGDPが高いほど上がるという俗説があるそうですが、米中に続く高いGDPを誇るわが国ですが、その俗説を見事に粉砕してくれちゃっています。
お金がなければ幸福度が上がるはずがありませんし、ある程度の収入は幸福感の最低の条件だろうと思います。
お金で幸せは買えない、と言う人がいて、一面の真実であろうとは思いますが、おそらくそういうことを言う人は既にお金持ちなんだろうと思います。
お金持ちによる、お金があるからって幸せなわけじゃない、という率直な感想でしょうね。
しかし私たち一般庶民は、大金が入れば嬉しいし幸せだろうなと、空想してしまいます。
お金が手に入ったら、次に欲しいものは時間でしょうねぇ。
自由になる時間というのは、何事にも代えがたいもので、もしかしたら最低限生きていけるだけの収入があれば、それ以上のお金よりも、時間が欲しいかもしれません。
仕事が暇な時でも一日8時間、お昼休みや通勤時間も含めると、毎日10時間以上拘束されているサラリーマンには、たっぷり時間があるというのは、とても贅沢な感じがします。
9か月もの長期病気休暇を取ったとき、朝ゆっくりできることや、本を読んだりDVDを観たりして一日を過ごせることはなんと素晴らしいことかと思いつつ、そこは精神障害ですので、復帰への焦りとか不安が押し寄せてきて、結局毎日憂鬱でした。
それに自由時間と言ったって、特に病気休暇の初期はひたすら眠ってばかりで、楽しいわけではありませんでした。
やっぱり健康で、お金があって、時間を自由に使えるというのが、最高に幸せなんでしょうね。
普通のサラリーマンがそういう状態になれるのは、65歳までしっかり働いて、年金を満額もらえるようになって、リタイアしてからのことでしょう。
但し、今の年金制度が破たんしなければ、という条件付きです。
年金制度が破たんして、死ぬまで働かなければ生きられないとなったら、絶望的な気持ちになるでしょう。
きちんと勤め上げて長生きすれば夢のような時が待っていると、嘘でも良いから思い込むことは、将来への希望につながり、今現在の精神衛生にも良い影響を与えるに違いありません。
それには一にも二にも健康が大切。
65歳まで働いて税金や保険料を納め、もらう側になった途端に亡くなってしまうというのが、きっとお国のためにはなるんでしょうけれど、それではまるで奴隷の一生。
何が何でも長生きして、貰えるものを貰いたいと切に願います。
今年も千葉公園に大賀ハスが咲きました。
桜と同様、この花を観ると、あぁ、一年が過ぎたんだなぁと、無事生きられたんだなぁと、感慨に浸ることを、千葉市に引っ越して以来の習いとしています。
来年もまた元気で大賀ハスを観たいものです。