今日は昭和の日の日で仕事はお休み。
お休みの日によく昼飯を食いに行くイタリア料理店を訪れました。
もちもちのパスタが売りの、小さな店です。
ここに来ると、ちょっとした肉料理とサラダで食前の生ビールを楽しみ、しかる後、パスタを食すのが恒例です。
しかし、今日は違いました。
いつものように生ビールを頼んだら、馴染みのお姉さんが、昨日から酒類を出すことが禁じられた、というのです。
お姉さん、申し訳なさそうな表情を浮かべています。
やむを得ず、水を飲みながらいつものように肉料理とサラダ、それにジェノベーゼを頼みました。
っそれぞれ美味なのおですが、生ビールがないと、なんだか物足りません。
コロナ禍では致し方ないのかもしれませんが、ささやかな贅沢さえも許されない時代なのですね。
禁酒法という愚かな法律を発したかつての米国のようです。
違うのは、家で呑む分にはお咎めなしということ。
それにしても禁酒令などが発せられたら、世間にあまたある居酒屋やバー、鮨屋は上がったりでしょうね。
上がったりどころか、店を畳まなければならないという事態も続出するでしょう。
行きつけの鮨屋や居酒屋、バーが軒並みなくなったのでは、楽しみがなくなるというものです。
嫌な時代です。
千葉県勝浦産の新鮮な鰹と、蛸ぶつを仕入れたので、昼間の恨みを晴らすごとく、今夜は呑んでしまいそうです。
私が住むマンションの真ん前に、蕎麦屋とイタリア料理店があります。
休日の昼は、どちらかで食べています。
で、近頃気づいたことですが、コロナが流行して以来、イタリア料理店は明らかに客が減り、今や閑古鳥となり、その営業は風前の灯火と思われるのにたいして、蕎麦屋は今も以前と変わらず、繁盛しています。
これは不思議な現象です。
どちらも安価で美味なのですから。
世の中、不思議な現象に満ちています。
初めて会うのに、昔から、いや前世からの知り合いのごとく、初めて会った気がせず、最初から親近感を覚える、あの現象も、考えてみれば不思議な話です。
これは、大抵の場合、男女の浪漫的な恋愛譚に現れるものです。
女は待ち続けていた男に出会ったと喜び、男は探し求めていた女に出会った、と言うような。
恋愛というのは脳が一部馬鹿になった状態でしょうから、恋愛感情によって破壊された脳が、初めての相手なのに既視感を覚えさせ、それを運命的出会いと呼び、二人は恋に落ちていくというわけです。
しかし多くの場合、その感情は長続きせず、別れてしまうか、別れるのも面倒くさいから惰性で一緒にいるか、どちらかにならざるを得ません。
切ないことに。
私も初めて会う女性に既視感を覚えたことが、何度かあります。
それは、世界中で生きる人間が、私とその女性だけであるような、陶酔を覚えさせる、麻薬のような状態でした。
しかしながら、少し付き合うと、陶酔感は醒め、恋愛感情を失い、別れるか、飲み友達になるか、という結末が待っていました。
あの不思議な既視感は、なぜ起こるのでしょうね。
生殖のため?
人間ならだれもが持つ根源的な孤独感を減じせしめるため?
どちらも違うような気がします。
おそらくは、時間の無い世界を求めているのだろうと思います。
時間に拘束され、死に向かって突き進んでいくしかない人間にとって、時間の概念を錯綜させ、あるいは時間から自由になって、理想的な世界を築き上げたいという欲求が、好みの異性との出会いを、時間を超越した、ロマンティックなものだと錯覚させているように感じます。
しかし、えてしてロマンティックな始まり方をした恋愛は、最初の一瞬こそが最高の時であり、後は醒めていく過程でしかなく、時間を超越させるどころか、退屈な時間に囚われるおのれを省みて、恋の切なさを痛感させられるのではないでしょうか。
私は平凡な職場結婚をしました。
それは時間を超越させるようなロマンティックな始まり方をしたのではなく、一緒に働いているうちに、少しづつ魅かれあうようになった、という俗っぽいものです。
俗っぽく、相手に過剰に期待しませんから、別れる理由がなく、別れる理由が無いから一緒にいるという、燃えるような恋の延長としての結婚を夢見る少年少女からは、つまらぬ結婚生活に感じられるでしょうね。
しかし平凡というのは強いものです。
平凡であるということは、大多数に属しているということで、それは精神の安寧を感じさせるに十分なものです。
私にはかつて、強烈な既視感を覚えて、激しく求めた女性がいました。
しかし彼女は、私との短い恋愛の後、私に別れを告げ、行方知れずになりました。
もう30年以上昔の話です。
生きているのか死んでいるのかも分かりません。
時折、彼女のことを思い出し、彼女は私と別れ、身を隠すことによって、永遠に私を支配しようとしたのではあるまいか、という感慨に囚われます。
もしそうなら、その試みは半分くらい成功しているように思います。
こんな記事を書いていること自体が、その証拠ではないでしょうか。
もう私には、時間を超越させるような、激しい既視感を持たされるような、そんな出会いは無いでしょうね。
多くの人がそのような体験をする若い時代を、輝かしい時代だと考えるならば、私たち中年世代は、ただメランコリーに沈むだけです。
そのメランコリーから脱することが出来た時、初めて人生の真実に気づくのかもしれません。
今の私には分かりませんが。
東京等の都市部に、またもや緊急事態宣言が発出されました。
最初の時は職場も大騒ぎで、仕事は全部自宅で、リモートワークでやれというお達しが出て、原則出勤を禁じられました。
しかし2回目の時も今回も、またか、という程度の認識で、出勤禁止というお触れもでていません。
普通に出勤して普通に働いて良い、ということのようです。
コロナ疲れというべきか、あるいはコロナ慣れというべきか。
ワクチンが出たということですが、コロナ終息にどれだけの効果を発揮するのやら。
私は懐疑的に見ています。
飲食店や観光業などは商売あがったりでしょうけれど、一方、アクリル板の会社などは大儲けしているんではないでしょうか。
実態は知りませんが。
私が生きるお役所の世界は、コロナにより左前になるということはまずありません。
そこらへんのぬるさが、よろしくないことでしょうね。
もっとも、コロナ対策を行う省庁に出向でもしていたら、これは大変なことになったでしょう。
今の私にできることは、マスク着用を守り、手指の消毒をし、あとはひたすら眺める人になるだけです。
この世界がどう変わるのか、変わらないのか、それを観察したいと思います。
でも変わらないということはないでしょうね。
オンラインの会議やイベントが当たり前の世界になってしまった以上、無理やり対面で、ということにはならないでしょう。
急激に普及したオンライン会議のシステム。
ZOOMだとかWEBexだとか。
これらは非常に便利で、会議のために出社するとか出張するとかいうことがなくなりました。
しかし慣れない者には、操作が難しく、ストレスであることも事実。
どうにかこうにか付いて行っているつもりですが、これ以上難しいシステムが標準になったら、もうダメなような気がします。
3月末に58歳で早期退職した職場の先輩、彼も新しい技術の導入には苦しめられているようでした。
先輩の家は土地持ちだかなんだか知りませんが、完全引退して一切働くつもりはない、と言い切っていました。
完全引退して食っていけるのなら、私も明日には退職しているでしょう。
労働という苦役をせざるを得ないのは、日々の糧を手に入れるため。
なかには自己実現だとか、仕事が好きとか、社会とのつながりのため、なんていうことを言う人がいますが、それは二番目か三番目の理由に過ぎない筈。
金を貰えて、ついでに自己実現なんてほざいているだけです。
でなければ、ボランティアでもすればよいのです。
今も厳しいコロナ禍の最中にいるのは自明のことです。
しかし、私たちはコロナに慣れ、飽きてしまいました。
この人間の態度というか心境こそが、真に怖ろしいと言えるような気がします。
今日、千葉市はひどい南風が吹き荒れて、お昼に近所の蕎麦屋に行っただけで、終始、家に籠っていました。
大雨だとか、雪だとかで籠り居するのは、どこか気持ちが良いものです。
埋火や 我がかくれ家も 雪の中
という与謝蕪村の浪漫的な俳句を思い出させるような、心地よさを感じます。
しかし、ピーカンに晴れているのに、家に籠らなければならないというのは、なんとも無粋な感じがします。
晴耕雨読とか申しますが、こう風が強くては、畑を耕すこともままならないでしょう。
私はただ、煌めくお日様を眺めては、南風を呪うばかりです。
今日は同居人が老いて独り暮らしをする義母を見舞に行ったため、独り、のんびり過ごしました。
ゴロゴロしていて、散歩する気も起きません。
コロナで好きな週末お上りさんもできなくなり、歩くと言ってもご近所ぐらい。
健康を意識して歩くのならば、同じところを毎日でも良いのでしょうけれど、私の場合、色々な、違った場所を歩きたいという欲求があるため、ご近所散歩ばかりでは物足りなく感じます。
今年は花見にも行きませんでした。
例年であれば、上野に行ったり、靖国神社に行ったり、目黒川のあたりを歩いたりするんですけれど。
家にいるからといって、ホラー映画を観るでもなし、小説を読むでもなし。
ぼんやり過ごすことが多くなりました。
よく昔のお父さんが、休みの日というとテレビを見ながら横になっている、という図がありました。
昔は週休2日が定着しておらず、土曜日は半ドンだとしても、朝から1日休めるのは日曜日だけ。
それでは出かける気も起きないでしょうし、体を休める必要があったのでしょうね。
世間の中年男性の多くがそうであるような、ステレオタイプのおじさんに、私もなっているような気がします。
我が家は子宝に恵まれず、大人二人の生活を続けてきましたが、娘でもいたなら、さぞかし嫌われたんではないかと思います。
くたびれた中年男、若い娘に好かれるはずがありません。
人に起きることは大抵自分にも起こるもの。
私にも年齢相応の衰えがきているのでしょうね。
目は緑内障になるし、精神科にはもう20年も通っているし、肝臓の数値が悪化して、内科医からは呑む量を半分に減らせと言われているし、右耳は35歳で患った突発性難聴の後遺症でよく聞こえないし。
ただ、なぜか歯だけは良いんですよねぇ。
虫歯になったこともないし、固いものでも平気です。
以前、しじみの身を取り出すのが面倒くさいからと、殻ごとバリバリ齧ったことがあって、私は平気だったのですが、歯が悪い先輩から、嫌味だから止めてくれと言われたことがあります。
美食はこれからも楽しめそうです。
そうかと思えば同世代で総入れ歯という人もいます。
老いの出方は色々です。
氷をガリガリ齧りながら、そんなことを考えて、ソファでくつろぎました。
SEKAI NO OWARIというバンドがありますね。
中二病を地で行くような名前です。
縁起でもないと言えばそのとおりです。
しかし、全世界が破滅する、という観念には、どこか人を浮かれさせる作用があるように思います。
滅ぶということ。
誰でしたか、自滅を美とせず、と書いた小説家がいました。
それは自滅を美と感じる人が多いからこそでた言葉。
自滅を美としない人が圧倒的に多かったならば、わざわざ書くこともありますまい。
三島由紀夫は、破滅に向かってまっしぐらに突き進む姿こそ美しい、という意味の言葉を残しました。
私もまた、破滅ということに、どこか浪漫的な美を感じてしまう不届者の一人です。
しかしそれは、観念の遊びに過ぎません。
やったことはともかく、ナチのファッションや深夜の集会などは、美的であったと感じます。
そしてまた、ヒトラーは、我々は世界を焼き尽くす、と、中二病のようなことを言っています。
世界の終わりという観念が人を浮かれさせたとしても、それが現実のものになろうとした時、人々は全力でそれを阻止しようとするでしょう。
多くの国がナチの滑稽とも言うべき野望を打ち砕いたように。
今、中国と米国の間にきな臭い雰囲気が漂っています。
新しい冷戦だと言う人もいます。
米国は太平洋の支配を誰にも渡さない、という強い意志があるようで、それが証拠に、我が国は太平洋に進出したとき、ほとんど難癖のようなハル・ノートを突き付けられます。
どこの国もとても飲めないような内容。
あれは事実上の宣戦布告でしょうねえ。
当時列強の一角を担っていたわが国は、当然、米国と戦うことを選びます。
そして当然、敗れます。
かくて太平洋は米国の海である、という米国の意志は守られます。
今、中国が、当時の大日本帝国のような立ち位置に置かれているように思います。
実際に戦争になある可能性は低いと思っていますが、こればっかりは分かりません。
どうか中国には野望を捨てることを、米国には自重を促したいと思っています。
そうでなければ、単なる観念の遊びであったはずの滅びの美学が現実のものになっていまいます。
新年度が始まりました。
今の部署は2年目。
丸1年経ちますが、なかなか慣れるということがありません。
そんなものでしょうかねぇ。
私の職場では在宅勤務があまり進んでいません。
自己申告制なので、堂々と在宅勤務を言いだせません。
いっそ何曜日は来るなとか言ってほしいのですが。
でも職場に行っているほうが気分的には楽です。
過去の書類なども見られるので、仕事もはかどります。
明日はちょっとしたイベントがありますが、それもオンラインで行います。
オンラインでの会議やイベントにも慣れてきたとは言うものの、50過ぎのおっさんは、覚えが悪く、若い部下に頼ってばかり。
不甲斐ないですが、やむを得ません。
コロナで、私はンパソコンが苦手だったのだと、初めて気づきました。
今はパソコンの知らなった機能を学ぶのがストレスです。