昨日は4週間に一度の精神科通院日でした。
最近仕事が増えて落ち込み気味で、今も多くの精神病薬を飲んでいますが、もうずいぶん前、初めて精神科で処方され、救われたと感じたドグマチールを処方してほしいと主治医にお願いし、処方してもらいました。
思えば今までたくさんの薬を試してきました。
合う物もあり、水を飲んでいるかのように効かない薬もありました。
精神病の薬というのは飲んでみなければ効果があるかどうか分からないようなところがあります。
内科の薬、例えば解熱剤などは、誰が飲んでも効くと思いますが、精神というもの、まだ得体が知れず、脳の一部に作用して薬効を得るわけですが、これがじつに難しい。
解熱剤の例でいえば、熱を測ればその効果はすぐに分かりますが、精神科の薬はあくまで患者がどう感じたかに依るところが大きく、脳内を検査して効いているはずだと推測は出来ても、患者が効果を実感できなければ意味がありません。
そういう意味では、ドグマチールは私にとってお守りみたいな物です。
ただこの薬、承認されたのが1973年と古く、その後多くの新薬が開発されたため、最近はあまり使われなくなりました。
効いてくれると良いのですが。
今夜はミステリーを読みました。
テンポが良くて物語が疾走する快感に心奪われ、400頁を一気読みしてしまいました。
読んだのは「私が先生を殺した」です。
物語の冒頭、ある私立高校の避難訓練で校庭に全校生徒が集まる中、27歳の人気教師が屋上から飛び降り自殺します。
一体何があったのか。
物語は語り手が次々と変わり、それぞれの視点から事件に関する一部が語られます。
このあたり、湊かなえの「告白」との類似を感じさせます。
語り手が変われば物語が多重的になっていくというのは、芥川龍之介の名作「藪の中」でよく示されています。
そのため、この手法は時折見かけますが、「私が先生を殺した」では、物語が多重的になるかと思いきや、最後の語り手である自殺した人気教師によって、怖ろしい真実と切ない自殺動機が語られ、一つに収斂していくという、エンターテイメントらしい分かりやすい結末が待っています。
久しぶりに平易で抜群に面白いエンターテイメントに接することが出来たのは私にとって幸いでした。
桜井美奈という作家の小説を読むのは初めてですが、またいくつか読んでみたいと思います。
今日はあまりの暑さのせいで家から一歩も出ず、冷房を効かせた自宅で快適に過ごしました。
で、珍しく短編集というか、ショート・ショートを読みました。
平山夢明という作家の「他人事」です。
私はこの作家を知らなかったのですが、本屋で偶然見つけて面白そうだと思い、購入。
しばらく前までは本はほとんどネットで購入していたのですが、本屋では新鮮な出会いがあるので、よく大型書店に出かけるようになりました。
この短編集、322頁に14のショート・ショートが収められています。
どれも奇妙な味の、残酷で滑稽な物語たちです。
短編集というもの、短い話ばかりなので、つい、もう一つだけ、もう一つだけ、なんて思いながら一気読みしてしまうことがあります。
これがそうでした。
ホラーだったりSFだったり、ブラックユーモアだったり、どれも私にとってお好みの作品でした。
幸せな気分になりました。
昨夜は珍しくノンフィクションを読みました。
読んだのは「35年目のラブレター」です。
山間部に建つ小さな小屋で炭焼きを営む西畑家。
そこの長男、西畑保の生涯に取材したもので、小説のような体裁を取っています。
小学校までは獣道みたいな未舗装の細い道を3時間も歩かなくてはなりません。
それでも同学年の友達が出来ることを楽しみに通い始めます。
しかし、草鞋履きで継接ぎだらけのボロを着た見るからに貧しい彼は、その貧しさゆえにイジメにあってしまいます。
しかも教師までが、彼を疎んじ、イジメを止めさせようとしません。
西畑少年は登校拒否になり、山間部にぽつんと建つ自宅で父親の仕事を手伝ったり、同じ山間部に住む年上の少年と唯一の友達になり、遊びまわったりします。
家庭では白飯を食うことなど出来ず、薄い粥ばかりで、いつもお腹を空かせています。
小学校もろくに通っていないのだから、当たり前ですが読み書きが出来ません。
それが西畑保を苦しめ続けることになります。
長じて町に出、食堂で下働きのようなことを始めますが、メモが取れないので注文を受けることが非常に困難です。。
出前の電話も満足にできません。
しかも周りの同僚や先輩後輩に文盲であることを隠そうとします。
そんなことは無理なのに。
しかし高度経済成長でどこも人手が足りず、仕事にあぶれるということはありません。
いくつかの飲食店を転々とし、最後は寿司職人におさまります。
この間、役所の書類などは、右手を怪我したことにして包帯でぐるぐる巻きにし、怪我で文字が書けないと嘘をついて代筆を頼んだりします。
文盲ゆえに結婚は諦めていますが、お見合い話が転がり込んで、西畑保は相手に一目惚れしてしまいます。
結婚話はトントン拍子に進み、結婚に至ります。
当初は妻にまで読み書きが出来ないことを隠し通そうとしますが、回覧板の署名までも書かないことに不審に思った妻に問われるまま、文盲であることを告白します。
彼は離婚を切り出されることを極端に怖れながら、それを受け入れざるを得ないと覚悟します。
しかし奥様は彼に深く同情し、字を教えようとします。
それでも西畑保は拒否反応を示し、字を覚えることはかなわず、妻も字を教えることを諦めてしまいます。
やがて64歳で寿司職人を引退。
悠々自適の生活に入ります。
ここまで来てやっと、彼は夜間中学に通い、読み書きを覚えることを決意。
その最大の動機は、愛する妻にラブレターを書きたかったからです。
涙無しには読めません。
知らなかったのですが、夜間中学には最長20年間在学できるそうで、その間にひらがな、かたかな、簡単な漢字覚えるのみならず、パソコンのワープロソフトを使って文章が書けるようになるまでに成長します。
二人の娘、五人の孫に恵まれ、文盲というハンディも乗り越えて、充実感を覚えます。
結婚35年、妻に初めてのラブレターを送ります。
その後も妻の誕生日にラブレターを送ったりしますが4通目のラブレターを書いている間に妻が急死。
それでもへこたれず、文盲に対する差別を無くし、文盲の人を無くそうと、様々な講演会などを精力的に行います。
88歳の今も老いてなお元気です。
この本を読んで感じたのは、人間いくつになっても物を覚え、成長することが出来るということと、なぜ64歳まで読み書きを覚えようとしなかったのかという疑問です。
現代の日本では識字率は99.96%をされているそうです。
100%ではないのは、西畑保同様、戦後の混乱期に学校に通うことが出来なかった人たちがいるからだといわれています。
この日本で読み書きが出来ないというのは想像を絶する困難がつきまとうことでしょう。
ちょっとした書類に署名することすら出来ないのですから。
貧しいというのは罪なことです。
一方、東大生の6割以上の親の年収は1,000万円を超えているそうです。
金持ちは高学歴となって益々豊かになり、貧乏人は文字を覚えるのがやっとだとしたら、日本という国は、根本的なところで教育を誤っているのかもしれません。
ノンフィクションというジャンル、あまり好みませんが、これは小説仕立てで書かれており、読みやすいながら、現実というものを突き付けられて、辛い読書体験となりました。
今日は読書をして過ごしました。
読んだのは佐藤亜紀の「吸血鬼」です。
吸血鬼とはいっても、ヴァンパイアが出てきて活躍するわけではありません。
1845年のポーランド。
その当時、ポーランドはオーストリア帝国の支配下にあります。
ポーランドの片田舎の村にオーストラリアの行政官が赴任します。
因習的で気味の悪い村です。
ここで続いて3件、不審死が起こります。
村民は動揺します。
村民の不安を鎮めるため、行政官は村に伝わる因習的な方法を採ることを決意。
それは棺を掘り起こし、遺体の首を切断するというもの。
行政官は当然そんな迷信を信じているわけではありません。
あくまで民心を安んじるための方便です。
時を同じくして、ポーランド全土でオーストリア帝国打倒のための反乱計画が密かに進められます。
この村の地主もこれに呼応するため、大量のライフルを調達して納屋の地下に隠します。
反乱と因習が結びついて、大きな事件を予感させます。
私はかつて、佐藤亜紀の小説を2冊だけ読んでいます。
日本の内乱を描いた「戦争の法」という作品がとにかく面白くて、続けて「バルタザールの遍歴」というのを読みました。
「戦争の法」は日本の話でしたが、「バルタザールの遍歴」はヨーロッパが舞台でした。
そうすると、当たり前ですが人物名も地名も横文字で、これが読みづらく、この作者の作品の多くがヨーロッパの歴史小説だと知り、その後読むことを止めてしまいましたが「吸血鬼」というタイトルに魅かれて久しぶりに読みました。
オーストリア帝国に支配されていたポーランドでは、オーストリア人がポーランド人を差別し、ポーランド人は少数派のウクライナ系住民を差別するという構図が出来上がっています。
さらには地主と農奴との関係などが描かれ、物語は重層的な趣を醸し出します。
「吸血鬼」というのは、ポーランド系やウクライナ系の農奴の血液を吸うがごとくに搾取する支配層を指しています。
石川淳を思わせるような精神上の暗闘が描かれます。
物語は非常に面白いものでしたが、やはり地名や人名がよく分からなくなるという読む上での困難を感じました。
精神の暗闘を描くことこそ、小説の醍醐味の一つです。
暗闘というのが大袈裟なら、精神の漂流と言っても良いかもしれません。
私も少年の頃から精神の漂流が始まり、50代半ばを迎えてなお、その漂流が終わることはありません。
この漂流が終わることは決して無く、それが人間というものなのだろうと思います。
普段なら日曜日の夕方はひどく落ち込みますが、今週は月曜日がお休み。
精神的にずいぶん楽です。
火曜日になればまた地獄が待っているというのに。
就職して33年目。
若い頃よりはずいぶんずうずうしくなりました。
休み明け辛いのは辛いですが、休みの最中も仕事のことを思って憂鬱になることは少なくなったような気がします。
今日は雨が降ったりやんだりで、食材の買い物と昼食に出かけた以外、家でのんびりと過ごしました。
退職すると毎日がこんな感じになるのでしょうか。
そうするとずいぶん心穏やかでいられるような気がします。
多分定年は65歳に延長されるでしょうから、そこまで勤めたらあと10年もあります。
65歳までは気力、体力ともに持たないような気がします。
そうなったら早期退職するしか無いでしょうね。
とりあえず現在の定年である60歳までは勤めたいと思っています。
今日は雨が降る予報でしたが、意外にも晴れ間ののぞく陽気となりました。
曇りがちなので、気温もそれほど上がらず、そごう千葉店にお買い物に行きました。
まずはそごう千葉店でお気に入りの椿屋茶房でビーフカレーとサラダとスープの昼食。
食後にはホットコーヒーをいただきました。
私たち夫婦は飲食店ではつい長っ尻になりがちで、1時間半もかけてゆっくり食事を楽しみました。
その後LOFTへ。
同居人が欲しがっていたちいかわのぬいぐるみを購入。
同居人、子供の頃お小遣いをもらえず、大人から見たらくだらない、しかし子供にはとても魅力的なぬいぐるみや駄菓子などを購入することが出来ず、思い残しゆえか、社会人になってからそういった物を買いあさるようにになりました。
それは就職33年目の今も続いています。
私から見たら馬鹿げているように見えますが、子供の頃の境遇というのはいくつにになっても影響を残すもののようです。
私は長袖で生地の薄いカジュアルシャツをスコッチハウスで購入。
クールビズ用のカジュアルなシャツは5枚持っていますが、1枚に朱肉が付いてしまい、しぶしぶ購入。
月火水木金で5枚は必要なのです。
職場は冷房が効いているし、車通勤なので、真夏でも長袖を着用しています。
土日は着物で過ごすことが多いので、それ以上は必要ありません。
同居人、体重も体脂肪率も人生で最大を記録し、ついにはジム通いを決意。
週2回、6週間のプログラムに申し込み、運動用にTシャツや短パンを購入。
同居人、何事も長続きしませんが、今度ばかりは本気のようです。
さらにデパ地下で今宵の夕飯を購入。
少々疲れたので喫茶店で本日2杯目の珈琲をいただき、帰宅しました。
幸いにも雨が降らず、買い物を楽しめたのは私の喜びとするところです。