一昨夜、K君と拙宅で飲み始め、昨日の朝7時まで、12時間もちびちびと飲み続けました。
高校・大学時代の思い出話、文学や芸術、映画の話、話題は尽きることなく、まだ飲んでいたかったのですが、さすがにすっかり明るくなっていることを知り、やむを得ず床に着きました。
11時半頃目覚め、近所のそば屋で朝昼兼用の昼飯を食いました。
その後江戸川区の実家の母から電話がありました。
長らくストップしていたお寺の檀家向けの便りを作成するので、例によって編集をお願いしたい、とのこと。
私に否やのあろうはずもなく、都内に住むK君を送っていきがてら、実家に寄りました。
予想はしていましたが、檀家の原稿などは相当に手ごわく、大幅に加筆修正しなければ読める代物にはならないことが分かりました。
しかしその作業も、私にとっては楽しいものです。
読めないものを読めるように改良していくわけですから。
さらに夕方には精神科の診察があり、主治医からは「復職して5年間、数々の困難を誠実に乗り越え、今日があることは本当に立派です」、と奇妙な褒められ方をしました。
昨夜は夜7時には寝てしまい、今朝はさっぱりした気分です。
それにしても昨日は忙しかったですねぇ。
でも楽しい忙しさなら、大歓迎です。
今宵は古い知り合いがわが家を訪れ、夜通し呑む予定です。
仮にK君としましょうか。
K君と初めて会ったのは、1985年4月のことです。
高校入学の日でした。
もうじきあれから30年の日月を数えるとは、まさしく光陰矢のごとし。
当時、私もK君も15歳。
紅顔の美少年でした。
その後K君とは友誼を結び、高校・大学と同じ学校に通いました。
大学生になると、K君はふらぁっとわが家を訪れては、盃をともにするようになりました。
それもたびたび。
それは私が一人暮らしを始めても、同居人と二人の暮らしを始めても、変わらず、わが新居を時折訪れては、酒を飲んで行くのでした。
また北海道や信濃路、果ては遠くタイまでも二人で旅した仲でもあります。
世間では、こういう関係を親友と呼ぶのかもしれませんね。
しかし、私もK君もそんな手垢の付いたウェットな表現は大嫌い。
私には、知り合い、という言葉しか思い浮かびません。
K君は40代半ばを迎える今も都区内で独身生活を謳歌しています。
もう誰かと暮らすなんて面倒くさいようです。
それは羨ましくさえあります。
紅顔の美少年は美中年にはならず、K君は頭髪の薄いおじさんになり、私は貧相に痩せて染みだらけのおっさんになりました。
それでも、K君とひとたび顔を合わせれば、学生時代にタイム・スリップしたかのような奇妙な感覚に襲われるから不思議です。
もう若くは無いので、昔のような無茶飲みだけはしないように気をつけなければなりませんね。
産経新聞前ソウル支局長の裁判開始さる。
支局長の乗車せし自動車の眼前に寝転ぶ者、自動車に卵を投げつける者、狼藉の数々見苦しきこと限りなし。
そも、支局長の咎とは何ぞ。
かの地の新聞から大統領に関する記事を引用し、コラムを書きたるを、名誉棄損なりと難癖をつけられたるが始めなり。
されど、かの地の新聞のみ、お咎めなしとは何の謂いぞ。
大統領府が検察に圧力をかけたるか、あるいは検察が大統領の心情を慮りたるか。
いずれにせよ、そは情に拠りたりて、法の精神、かけらも見られず。
かの国は我が邦と同様、自由民主主義を標榜せし国にあらずや。
かの国の裁判所における狼藉、嗤うべし。
前支局長の毅然たる態度のみ、輝きたるは当然か。
我が邦、泰然自若として法の精神に基づき、淡々と事にあたるほかなし。
さあらねば、我が邦もまたかの国と同様の感情論に走らざるを得ず。
隣国にかの国のごとき情を重んじ理を軽んずる者あるは、誠に不幸と言わざるを得ず。
我、沈思して隣国との友好図らむとすも、その道程険しく、容易に想像する能はず。
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風邪っぽいので午前中で早退しました。
帰宅して熱を測ったら案の定微熱があります。
飯を食って布団に入ったら、すぐに眠りにつき、16時過ぎまで目を覚ましませんでした。
熱は下がっていません。
だるいです。
イスラム国を名乗るテロ集団が、同性愛者の男性2人を投石による公開処刑により殺害したそうですね。
怖ろしや。
世界の多くの国では同性同士の結婚を認めているというのに。
わが国では婚姻は認められていませんが、養子縁組などで事実上家族として暮らすことができるし、同性愛者だからと言って犯罪行為だと見なされることはありません。
それを公開処刑だなんて。
しかも石を死ぬまで投げ続けるなんて。
こんな残酷な刑罰を行う集団が国を名乗るなんてちゃんちゃらおかしいというものです。
イスラム教徒の大多数が穏健な普通の人々であることは間違いありませんが、それにしてもイスラム教を名乗る過激派は多すぎるような気がします。
キリスト教にも仏教にも原理主義者というのは存在しますが、あんな過激な行為に出る者はまずいません。
誤解を恐れずに言えば、私はイスラム教という教えの中に、初めから過激さを志向する芽が隠されているように思います。
例えばイスラム教の創始者、ムハンマドは、有名なバドルの戦いなどで、自ら軍勢を率いて戦争をしています。
キリストにしろ釈迦にしろ、その弟子が戦争をすることはあっても、開祖自らが軍を率いて戦ったことなどありません。
この1点を見ても、イスラム教が持つ過激さを想像できます。
さらに、豚食っちゃいけないとか、酒飲んじゃいけないとか、女は顔を隠せだとか、どうにも人間に厳しい教えであるように感じます。
私はイスラム教に詳しくありませんので、あるいは間違ったことを述べているのかもしれません。
ただ、異教徒の一人が素朴にそう感じたということは間違いないところです。
午前中、職場のトップと面談しました。
職員の希望や不満を直接トップが聞こうという趣旨で、常勤の職員全員と15分づつ面談するものです。
やや心外だったのは、もう最後(今のところ)の病気休暇から5年ちかくもきちんと出勤しているにも関わらず、私の体調を心配していたこと。
私は、「医者が言うには、がん患者の場合5年生存率という言葉があるように、精神障害の場合も5年再発しなければほぼ完治したと言える、と言われており、自覚的には症状は無い」と述べました。
それを聞いたトップは大層喜び、私の次に面談した直接の上司に、「とびおさんが元気になって良かった」と言ったそうです。
裏を返せば、精神障害で長期の病気休暇を取った場合、5年経ってもそれが問題視されるということ。
私の職場には、20年ちかく、数か月出勤しては1年くらい休むことを続けている者がおり、それと同類と思われているのかもしれません。
しかし1年続けて出勤したことが無い人と5年続けて出勤している私とでは、明らかに違うと思うのですがねぇ。
もちろん、同病相哀れむで、その人の心中を思うと同情に耐えないことは事実ですが、職場は仕事をして給料をもらうところで、リハビリや生活保護のためにあるのではありません。
まともに働けないのであれば、障害者年金をもらうなり生活保護を受けるなりして、無理に職場復帰をしてはまた倒れるを繰り返すべきではありません。
気の毒ではありますが、病状に合った生き方を模索したほうがよろしいでしょう。
厳しいことを言うようですが、実社会は荒波ゆれる海のようなもの。
プールでしか泳げない人が渡っていけるほど甘いものではありますまい。
心身の故障により職務に耐えられないとトップが判断すれば、解雇することができる規則になっています。
今までこの規則が使われたことはありません。
なぜならそのような人がいた場合、勧奨退職ということにすれば退職金が跳ね上がるので、自発的は退職を勧奨し、自ら辞めるように画策してきたからです。
しかしその人はそれに応じません。
ここは伝家の宝刀を抜くべきではないかと、同じ病に苦しみ、復活した者としては、切実に願います。
今朝、新聞のコラムで他者実現という言葉を知りました。
自己実現という言葉は、現代日本社会では人生の最終的な目標のように考えられ、これは留保なく良いこととされているようです。
![]() |
至高体験―自己実現のための心理学 (河出文庫) |
Colin Wilson,由良 君美,四方田 犬彦 | |
河出書房新社 |
しかしコラムでは、自己実現は戦後民主主義が作り出した偽の偶像ともいうべきで、おのれの欲望を満たそうとする営為に他ならない、と切り捨てられていました。
欲望である以上際限が無いのは当たり前で、ある段階を実現できればさらに次の段階と、まるで過食症の患者が大飯を喰らっては嘔吐し、さらに大飯を食い続けるという、永遠に終わらない欲望の連鎖だと言うのです。
これに対し、他者実現というのは、分かりやすく言えば他人の自己実現を第一に考えることで、愛の行為とされているとか。
早くも昭和18年には、波多野精一という哲学者の「時と永遠」に提唱されているそうです。
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時と永遠 他八篇 (岩波文庫) |
波多野 精一 | |
岩波書店 |
これは個人主義から派生した自己実現とは対極にあるもので、東洋哲学を倫理のバック・ボーンに持つ私たち日本人には、素直に腹に落ちる考えのように思われ、なんとなく安心感を覚えます。
コラムでは、朝日新聞の凋落に象徴される、戦後わが国に入ってきた考え方、戦後民主主義という言葉に象徴されるものどもの崩壊により、日本人が日本人たる所以のものが、表に現れてきたのではないか、と推論していました。
個人主義及び自己実現という概念にどっぷり浸かり、ゆえに私たちはどこか居心地の悪い感じというか、不安感を持ち続けてきたように思います。
ここはひとつ、異国の長所を採ることよりも、わが国の美点に立ち返る必要があるように思えてなりません。
横綱、白鵬が29歳にして大鵬の優勝回数32回に並びましたね。
これは驚くべきことです。
私が直接観戦した大横綱としては、時代順に、北の湖の24回、千代の富士の31回、朝青龍の25回などが記憶にあります。
どの横綱も、無敵に感じられたものです。
それでも、32回も優勝する力士はもう出ないだろうと思っていました。
昨日の鶴竜戦にしても、横綱同士の取組とは思えないほど、白鵬関の速攻相撲が冴え渡っていました。
これだけ優勝を重ねた大横綱ですが、さすがに過去最多に並ぶ今回は格別の感慨があったようで、「この国の魂と相撲の神様が認めてくれた」と、涙ぐんでいましたね。
見ているほうは白けました。
朝青龍や北の湖のように、どこまでもふてぶてしくいて欲しいと思いました。
涙は部屋に帰って親方や家族の前だけで見せればよろしいでしょう。
文学や美術など、モノが残る場合はともかく、スポーツや芝居など、パフォーマンスを見せるものは、例え映像が残っていたとしても、その素晴らしさは直接見なければ堪能できません。
そのためには、すぐれた役者やアスリートと同時代を生きなければなりません。
そういう意味で、私は白鵬という大横綱と同時代を生きていることが、嬉しく感じられます。
何度か国技館で直接観戦しましたが、その存在感は圧倒的でした。
早くその存在を脅かす力士が育って欲しいものです。
夏目漱石でしたか、柳家小さん(先々代です)と同時代に生きられて幸せだ、と言っていたことを思い出します。
落語もライブ感が重要ですからねぇ。
いずれにしりろ、大記録に並んだ横綱に敬意を表するとともに、さらなる高みを目指して欲しいと願わずにいられません。
午前中、スバル・インプレッサ2.0Sの六ヶ月点検に行ってきました。
悪いところはありませんでしたが、なんとタイヤにねじが刺さっていたとのこと。
メカニックが言うには、ねじの状態が新しく、空気も抜けていないことから、ここ数日の間に刺さったと思われる、とのこと。
私が思わず、「いったいどこで?」と絶句すると、メカニックは何事も無かったかのように、「路上には色々なものが落ちていますから」と、涼しい顔です。
そこで私は不思議な感覚に捕らわれました。
高校生の頃読んだ漫画、つげ義春の「ねじ式」の世界に飛んだのです。
![]() |
ねじ式 (小学館文庫) |
つげ 義春 | |
小学館 |
ちょっとしたことをきっかけに、連想ゲームのように奇妙な世界に飛んでしまうのは私の悪い癖で、しかしほんの数秒で元に戻るからこれまで事なきを得ています。
いつか長時間飛んでしまうのではないかと心配です。
つげ義春の漫画の常で、「ねじ式」も極私的で、不条理で、どこか切ない、漫画というより詩編に近いものです。
久しぶりにつげ義春の作品群に接してみたくなりました。
昨日は千葉市郊外の泉自然公園に紅葉を観に行きました。
千葉市は紅葉壊滅都市だと思い込んでいましたが、あにはからんや。
自然公園の名前のとおり、かなりワイルドな紅葉が楽しめました。
登山靴を履いていって正解でした。
神宮外苑の銀杏祭りや六義園など、都内の紅葉スポットばかり行っていた去年までの私が呪わしく感じられます。
まずは真っ赤に色づいた紅葉がお出迎え。
テンション上がりまくりの愚かな中年の私。
印象的だったのは、いくつか池があり、紅葉が池の面に映って、逆さ富士ならぬ逆さもみじになっていること。
これだけ見事な紅葉が楽しめて、駐車料金は一日400円で、都心から1時間ちょっとで来られるのに、人出は少なかったですねぇ。
今日、紅葉まつりだそうなので、今日は多くの人が訪れるんでしょうか。
紅葉の時季に駐車場が満車にならないのでは、冬の平日なんて、怖いくらい人がいないんでしょうねぇ。
でも私にはそのほうが良いのです。
いくらイメージが良くても、横浜のように東京以上の人混みに苦しめられるよりは、なんとなく田舎臭くて滑稽な感じが漂いながら、適度な人混みの衛星都市でい続けるほうが、暮らしやすいですから。
衆議院が解散と相成りました。
大義が無いとか有るとか、争点はアベノミクスだとか、色々言っていますが、解散しちゃった以上、選挙をしなければならないので、グダグダ言わず、よりマシな候補に投票するしかありません。
それにしても自民党、圧倒的多数の議席を持ちながら、なんだって解散するのでしょうねぇ。
解せません。
解せないと言えば、衆議院議長が解散を宣言すると、ヤケクソ気味に万歳三唱をするのはなぜなんでしょうね。
未だに定説が無いようですが、子どもの頃から解せませんでした。
しかも今回はフライングで議長が詔書を朗読し終わる前に万歳三唱が巻き起こったとかで、議長にとがめられて万歳をやり直すというマンガっぽい落ちもついています。
安倍総理、勝敗ラインを過半数に置いているようですが、それだと大幅に議席を減らしても大丈夫ということになります。
常識的に考えて、自民党が過半数割れするとは思えないので、ずいぶん志が低いと感じました。
いっそ憲法改正を発議できる三分の二を目指すとでも言って大風呂敷を広げれば面白かったでしょうに。
師走の選挙、どうなりますことやら。
昨日参加した的財産セミナーでは、福井健策というスキンヘッドの講師士が著作権や肖像権について熱く語っていました。
東大法学部を出た弁護士先生だそうで、著作も多く出しています。
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誰が「知」を独占するのか-デジタルアーカイブ戦争 (集英社新書) |
福井 健策 | |
集英社 |
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「ネットの自由」vs.著作権: TPPは、終わりの始まりなのか (光文社新書) |
福井 健策 | |
光文社 |
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著作権の世紀―変わる「情報の独占制度」 (集英社新書 527A) |
福井 健策 | |
集英社 |
聞いたことの無い横文字がたくさん出てきましたが、強調していたのは、リスク・テイク(risk taking)の力をつけることが、これから重要になる、ということ。
どういうことかというと、その組織が持つ様々な情報のうち、利益とリスクを秤にかけて、その情報をえいやっと、公開するか、あるいは非公開とするか、判断する力をつけろ、ということ。
私が勤務してきた様々な学術研究機関では、個人情報から、研究上機密性の高いもの、あるいは公開して世に問うべきものなど、じつに多くの情報を持っていることが常でした。
かつては深く考えずに公開することが多かったわけですが、昨今は慎重にならざるをえません。
卑近な例では、職員名簿。
つい10年ほど前までは、どこの機関でも自宅住所や電話番号が入った職員名簿を作成するのが当たり前でしたが、これが名簿屋の手に渡り、固い商売だということで、様々なセールスに使われたりして、近頃では個人情報保護の観点から、名簿を作成していません。
しかし、人事担当部署は当然知っているわけで、これを売りさばくことが不可能とは言えませんし、売った場合、どんな犯罪になるか、現在でははっきりしません。
職務上知り得た秘密をばらしたということで、職場の規則には抵触するのでしょうが、入札の際の予定価格のように、ばらしたら直ちに犯罪行為として逮捕されるということは無いでしょう。
著作権と肖像権とか、グレーゾーンの分野が多く、知的財産に関しては、常にリスク・テイクを勘案して公開の適否を判断する必要があるというわけです。
もちろん私のような下っ端に任された裁量の範囲は極めて限定的ですから、あんまり気にしなくても良いのかもしれませんが、機関のトップがおかしげな判断を下さぬよう、目を光らせなくてはなりませんねぇ。
今日は午後から六本木で知的財産に関するセミナーに参加しなければなりません。
本当は直行直帰したかったのですが、締切間近の調書があるので、やむを得ず午前中は出勤しました。
六本木へは一気に車で行こうと思っています。
セミナー会場には300台分の駐車場があるということですし、もし満車でも、付近にはコイン・パークがたくさん有るようですから。
なんだか面倒くさいですねぇ。
しかし昨今、知的財産権はホットな話題。
特に教育研究機関では重要視されています。
まぁ、せいぜいしっかり学んでくるといたしましょう。
午前中、所属する部署の責任者から、今後のキャリア形成に関する面談がありました。
精神障害者の私には、もはやキャリア・アップなど望むべくもなく、定年までの15年を無事に通えればそれで良いのですが、あんまり馬鹿正直にそう言うのも妙なので、それらしいことを言ってお茶を濁しておきました。
責任者からは、とびおさんの知識の豊富さと集中力、仕事の速さは高く評価しています、とおだてられました。
おだてと分かっていても嫌な気はしません。
来週にはトップと面談します。
トップが面談するというのは初めてで、もしかしたらリストラだか人事上の危機があるのかもしれません。
私のような下っ端には分かりませんが。
バブル崩壊後、もう20年もの長きにわたり、わが国を経済的に暗い雰囲気が漂っていますね。
それが給料は低いながら安定感抜群と思われた役人の世界にも及んでいます。
私たち40代は給料が毎年目に見えて上がっていった時代を知っていますが、今は年に数千円くらいしか上がりません。
若い世代は車を持つ者も稀です。
私は23歳の時に即金で250万円の車を購入し、遊んで回ったものですが。
アベノミクスなんてもてはやされていますが、庶民の多くはその恩恵を実感できずにいます。
バブルは必ずはじける悪者だとは知っていますが、バブルよもう一度、と思わずにいられません。
昨夜はホラーDVDを鑑賞しました。
原題は「TORMENT」なのですが、邦題は「そのネズミ、凶暴につき」という、なんだかすごいことになっちゃってます。
7歳の息子と父親、それと父親の後妻で息子から見ると継母にあたる女性が新しい家族を築こうと奮闘するものの、7歳の複雑な少年の心は継母を受け入れられず、悩むという構図になっています。
父と息子の物語と言ってもいいでしょう。
そこに、ネズミのかぶり物や猿のかぶり物を被った殺人一家が現れ、襲いかかると言うわけですが、殺人一家もまた、家族の結束を求めているという点で、被害者家族と不思議なシンクロをするという、凝った造り込みです。
単に残酷なだけではない、どこか切ないホラー映画に仕上がっています。
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そのネズミ、凶暴につき [DVD] |
キャサリン・イザベル | |
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