早いもので今日で1年の半分が過ぎてしまうんですねぇ。
しかし半年前と今とでは、大きな違いがあり、半年という日月の長さを感じます。
私は4月に配置換えになりましたし、同居人は私と同じ機関に異動になり、朝夕一緒に車で通っています。
こういう人事は珍しいのですが、万やむを得ざる事情があったようです。
車は日産ティーダからスバルのインプレッサに買い換えました。
半年前は早朝覚醒が続き、躁状態が疑われたため、セロクエルという薬を飲んでいましたが、今は逆にぎりぎりまで寝ているようになり、セロクエルは切りました。
確実に、私自身も、私を取り巻く環境も変化しています。
過ぎてしまうと早かったように感じますが、一つ一つを思い起こしてみると、ずいぶん色々なことがあったことに気づき、愕然とします。
子供でもいれば、子供の成長に時の流れを感じるのでしょうが、私たちはおそらくどちらかが死ぬまで二人だけで暮らすのでしょう。
いつまでも若いわけではないのは分かっていますが、二人だけの生活だと、どうしてもお気楽な感じが抜けません。
いけませんねぇ。
50代が平均寿命だった時代なら、40代半ばはもう老人の類で、戦前の雑誌で48歳の谷崎潤一郎を谷崎翁と書いてあってびっくりしたことがあります。
当時の感覚だと、48歳はもう翁なのですねぇ。
私も年相応の貫録をつけたいものです。
今朝はなんだか調子が悪く、朝10時過ぎまで寝てしまいました。
起き上がって熱を測ったら微熱があり、くしゃみがとまりません。
市販の風邪薬を飲んで大人しくしていましたが、相変わらず微熱があります。
体力が落ちているようです。
午後はDVDを鑑賞しました。
1971年製作の古い映画です。
サム・ペキンパー監督、ダスティン・ホフマン主演の「わらの犬」という作品で、暴力を描いた幻の名作と言われていたものですが、最近DVDが発売され、レンタルできるようになりましたが、何百人もが予約しており、半年以上待たされました。
米国人の数学者、デヴィットは、静かに研究に没頭したいと、妻の地元である英国の片田舎に引っ越してきます。
しかし、片田舎というのはいずこも同じようで、よそ者だということで嫌がらせを受けます。
車庫を作っている職人たちに小ばかにされ、飼い猫を殺されたり。
妻は文句を言うように発破をかけますが、インテリで優男のデヴィッドは何も言えません。
さらにデヴィッドの留守中、妻は職人たちに犯されてしまうのですが、このシーンは並みのアダルト・ビデオよりもエロかったですねぇ。
妻は抵抗するのですが、なんとなく中途半端で、最後は自らレイプ犯に抱きつく始末。
女優の演技も真に迫っていました。
なんとなく好き者風の奥様で、優男の夫に不満があったのかな、と思わせます。
ある晩、知的障害がある大男が、少女に誘惑されて納屋で楽しいことをしていると、少女の兄とその仲間が少女を探しにきます。
少女が出て行くと自分が誘拐したことにされ、殴られると思った大男は少女の口をふさいで引っ張り上げるのですが、少女は呆気なく窒息死してしまいます。
大男はその場を逃げ出しますが、霧の深い夜だったため、デヴィッドが運転する車にひかれてしまいます。
デヴィッドは大男を家に運びます。
幸い軽傷ですが、田舎のこととて医者も弁護士も捕まりません。
仕方なく村で一軒しかない酒場に電話をかけるのですが、酒場では少女の父親が飲んでいたのです。
父親は仲間を引き連れ、5人でデヴィッド宅を訪れ、大男を引き渡すよう要求するのですが、デヴィットは大男が殴り殺されてしまうと考え、引渡しを拒否。
すると5人の男たちは窓を割ったりドアにショットガンを撃ち込んだりのやりたい放題。
暴力を断固否定してきたデヴィッドですが、大男と妻を守るため、そして何よりおのれのプライドを守るため、信じられないほどの暴力で5人の男たちを迎え撃つのです。
まるで人が変わったように残酷な表情を浮かべ、知恵を凝らして男たちを血祭りに上げていくその姿は、浅ましいと言おうか、何のためにそこまでするのか疑問を抱くほどで、言葉では言い表せない迫力です。
その後似たような映画がいくつも製作され、「わらの犬」症候群とまで言われたそうです。
一見の価値ありです。
ちなみにわらの犬とは、中国のことわざで、天からみれば人間なんて祭祀で使うわらの犬のようなものだ、ということのようです。
意味深長ですねぇ。
久方ぶりの強烈な映像体験でした。
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わらの犬 [DVD] |
サム・ペキンパー,ゴードン・M・ウィリアムズ,デヴィッド・Z・グッドマン | |
角川映画 |
今日は夕方、精神科の診察がありました。
もはや実感として精神病の症状を感じていませんが、精神科医は卒業をすすめることはりません。
私が患う双極性障害は、一生もののようです。
それならそれで、私は付き合うしかありますまい。
現在未開の民族の習俗と考えられている素朴な自然崇拝やシャーマニズムは、かつてどの民族でもみられたものと思います。
東洋においては仏教や儒教がおこり、それらは廃れました。
もっともわが国においては、なぜか仏教受容後も神道という形で残り、連綿と現在まで続いています。
これはわが国の人々の精神性に、寛容とバランス感覚という優れた資質を生み出す素になったことでしょう。
一方、西洋・中東ではユダヤ教・キリスト教・イスラム教という、よく似た教義を持つ三つの宗教が隆盛を極め、彼らの道徳規範となってきました。
その過程で彼らは自然崇拝やシャーマニズムを捨て去り、ために独善が生まれたものと推測します。
ナチズムはキリスト教を否定し、古代ゲルマン民族の土俗的な宗教を復活せしめようとしましたが、敗戦により頓挫。
当時、SS(親衛隊)将校のじつに99%がキリスト教を棄教したというから徹底しています。
ヤハウェの3宗教では、最後の審判ということが説かれます。
遠い将来、救世主が現れて、死者も含め、この世に存在した、あるいは存在するすべての人間は審判により天国行きか地獄行きかを決められるというのです。
いわばこれらの宗教の道徳は、最後の審判を脅迫に使って維持せしめているとも言えましょう。
イスラム過激派が自爆テロを繰り返すのも、それが善なる行為だと信じ、善を為せば天国への切符を手に入れられると考えるからで、欧米人が彼らの自爆テロをカミカゼと呼ぶのはお門違いも甚だしいというべきでしょう。
私には最後の審判ということが、どうしても理解できません。
それはほとんどお伽噺かSFと言うべきでしょう。
しかし多くの預言者が、幻視を見たのか、お告げを聞いたのか知りませんが、似たようなことを言っているところをみると、もしかしたらそういうこともあるのかな、という気分にはなります。
仏教では、地上での修行を積めば、仏となって涅槃に至る、と説きました。
チベット仏教では、輪廻転生を繰り返し、しかる後、悟りを開いて涅槃に至る、と説きました。
しかし釈迦入滅後、仏教は大きく展開し、主に中国で花開いた大乗仏教では、即身成仏(生きたまま悟りを開き、仏になること。ミイラになることではありません)、山川草木悉皆成仏(山や川、草木、あらゆる自然物には仏性があり、仏になれる)というところまで行き、わが国では大乗仏教の教えが一般的です。
そこには地獄も極楽もなく、まして救世主による最後の審判などというおどろおどろしいことは全く想定されていません。
悟りの境地とか涅槃というのは、全てを理解し、この世の苦しみ楽しみを超越した境地というべきで、いわゆる天国とは異なります。
大乗仏典には、法華経に見られる観音様の超自然的な力を称える教えや、お釈迦様が教えを説いているとそれを祝福して地中から現れた地涌の菩薩など、SF的な要素も見られますが、それは一貫したものではなく、多分に暗喩めいたもので、最後の審判のような迫力はありません。
人間が考え出すお話や宗教は、奇妙で不思議です。
私が奇妙で不思議な物語を好むというより、世の中にあふれるお話は奇妙で不思議なものばかりです。
それは一にかかって、この世が不思議で奇妙だからだろうと思います。
すると必然的に、この世の真理を求める宗教もまた、不思議で奇妙なものにならざるを得ないでしょう。
私はどの宗教も信仰していません。
強いて言えば、様々な宗教や疑似科学、さらには神秘思想などをブレンドミックスして、自分なりに咀嚼したとびお教とでも言うしかないものを信じていると言えるかもしれません。
そして当然ながら、教祖は私であり信者は私一人です。
私はすべての人々が、自ら教祖となり、自分一人が信者という、宗教というよりもおのれの信念に従って生きる社会を夢見ています。
それは自己を尊重し、自己を尊重するがゆえに他者をも尊重せずにはいられない社会であろうと思います。
しかし、世界の宗教対立を思うと、そんなことは夢のまた夢という気もしますねぇ。
日本の人口は減少しているのに、首都圏・中京圏・近畿圏の3大都市圏だけは人口が増加しているそうですね。
これは死亡数を出生数が上回る自然増ではなく、転入が転出を上回る社会増だそうです。
これはこの国の形を根本から変えてしまう、ゆゆしき問題です。
おそらくは仕事を求めて地方から大都市圏に人が移動しているということで、こんなことが続いていては、わが国の地方から人がいなくなってしまいます。
空怖ろしい事態です。
私は東京の混雑が嫌になり、就職と同時にお隣、千葉県に脱出し、今はゆったりした町でのんびり暮らしており、東京脱出は成功だったと思っています。
地方に仕事が豊富にあれば、おそらくこの問題は容易に解決するのだろうと思います。
しかし、ことはそう簡単ではありません。
わが国社会が構造的に都市部で働くようになってしまっているということでしょうから。
なんとかうまい具合に分散できれば良いと思いますが、そのための妙案が浮かびません。
ここはじっくり腰を据えて、新たな日本列島改造を進めなければなりますまい。
なんだか今日の疲労は激しいようです。
私が勤める機関が昨年度作成した法人文書ファイルはおよそ1,000冊。
それを実地検査しつつ、法人文書ファイル管理簿に登記していくのです。
同じ部署の後輩とペアを組んで、一日その作業にあたりました。
とにかく目が疲れましたねぇ。
こんな日は、一杯やって早寝するに限ります。
とらえどころのない酔生夢死の生活は、まだまだ続くようです。
もう夏至を過ぎてしまったんですねぇ。
これから少しづつ陽が短くなると思うと寂しい限りです。
五月雨に 物思ひおればほととぎす 夜ふかく鳴きて いづち行くらむ
古今和歌集にみられる 紀友則の和歌です。
五月雨は旧暦であることを考えれば梅雨時。
夏至なんて言葉はわりと新しいので、直接夏至という言葉を織り込んだ和歌なんてあり得ません。
五月雨とか短夜(みじかよ)なんかが夏至の頃を表すと言えましょう。
わが国の古典文学では、なぜか夏の詩歌が極端に少ないのですよねぇ。
わが国の夏は非常に苛烈ですから、歌心も起こらなかったのかもしれませんね。
そんな嫌な季節にも、物思いに沈み、ほととぎすがどこへ行くのかぼんやり考え、同時におのれの今後、ひいては人の一生というものの儚さを嘆いているような感じも受けます。
時の移ろいや自身の衰えを嘆いても詮無いことではありますが、それを嘆かずにはいられないというのもまた、人の性であるように思います。
だんだん陽が短くなるというのに気温はどんどん上がっていくのは奇妙なものですね。
今はまだ夕方職場を出るころ明るいですが、秋になり冬が来ると真っ暗。
あれが嫌なんですよねぇ。
精神障害発症以来、私は夕陽が大の苦手。
だんだん暗くなっていく様は、おのれの精神を暗示しているかのごとくです。
病癒え、鋼の精神を身に付けたと周りには吹聴してまわっている私ですが、じつは夏至が過ぎたことさえ嘆かわしい、か弱い心を克服し得ていないのです。
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古今和歌集 (角川ソフィア文庫―ビギナーズ・クラシックス) |
中島 輝賢 | |
角川学芸出版 |
村上春樹の新作短編集「女のいない男たち」を読みました。
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女のいない男たち |
村上 春樹 | |
文藝春秋 |
これは、生き別れや死に別れなどで大切な女性を失った男たちの喪失感を様々に描いた短編集です。
したがって、そもそも女性と付き合ったことがない、という意味での女がいない男は含まれていません。
短編集ですから、一作くらいはそういうのも入れて欲しかったですねぇ。
どれもどこかエキセントリックで、社会の枠にはまらない男たちの喪失感が、流麗に、切なく描かれ、さすが大御所と言う感じで、このところ長編ばかり物してきた作者の筆遊びのようなところもありますが、さすがに春樹節は健在でした。
恋人にふられる、あるいはふるという形で女を失うことはよくあることですし、死に別れということも、老いた夫婦では避けられないことでしょう。
そもそも恋人も妻もいたためしが無いという人も含め、すべての男は女のいない男であるか、あったと言っても良いでしょう。
また、恋愛が成就し、結婚という事態になったとしても、妻を得ることで恋人を失うわけで、その場合、女(=恋人)がいない男になり、間をおかずして女(=妻)がいる男になることで、それは本質的に女がいない状態を経験することに変わりは無いものと思います。
恋人が妻になるということは、関係性が根本から変化するもので、そこには喜びとともに喪失感が伴うものです。
私は就職してから男の友人は出来ませんでしたが、女性の友人は多く出来ました。
これはおそらく、男というのは極めて社会的な生き物で、常に上下関係などを気にするあまり、友人たり得ないのだと感じています。
私は時折女友達と酒を酌み交わしますが、みな聡明で、美しい女性です。
そのことを同居人は指摘し、「あたしが一番ブスだ」などと僻みますが、生涯のパートナーを選択するのに容貌の美醜など、さしたることではありません。
さすがに見ていると腹が立つほど醜くてはパートナーにはなり得ませんが。
精神障害発症前、私が確からしさをもって私であった頃、私は女性たちと飲む酒を心から楽しんでいました。
まさに至福の時。
彼女たちとは程度の差はあれ、淡い恋愛感情があったと確信していますが、すでに同居人と深い関係にあった私は、友人たちの誰ともことを進めようとは思いませんでした。
かなりストレートに誘いを受けたこともありますが、私は微笑んで応えず、飲み友達としての関係性を優先したのです。
それがゆえ、今も細々と友人関係が続いています。
深い関係性で結ばれた異性を失うということは、世界の終りが来たような絶望感をもたらし、例え時の経過が傷を癒したとしても、永遠に古傷は消えないものと思います。
古傷をいくつも抱えながら生きていくということが、成長なのかもしれません。
この短編集は、古傷を思い起こさせる残酷さと、繊細な美しさを兼ね備えた、誠に愛おしい小説集でありました。
6月1日に納車されたインプレッサ2.0Sですが、一ヶ月点検の一週間前に1,100キロを超えてしまい、今日、一ヶ月点検ならぬ1,000キロ点検のため、スバルの営業所に行ってきました。
スバルが力を入れる発表したばかりのレヴォーグの試乗希望者が引きもきらず、予約していない客は丁重にお断りしている模様でした。
少ない営業マンはみな忙しそうでした。
スバルは国内メーカーでは販売台数は最下位あたりをうろうろしていますが、根強いファンがいるようで、利益率は業界トップを維持しているそうです。
わずか1,000キロですから、特に悪いところはありませんでした。
安心点検パックというのに入っているため、無料でオイル交換をしてくれるところ、2,100円払えばより走りが良くなるとかいうグレードの高いオイルに交換できる、と熱心に勧めてきました。
タイヤとかならともかく、走りが良くなるオイルという意味が分からず、今までと同じオイルを無料で交換してもらいました。
私はこれまで3台続けて日産車に乗り、4台目で初めてスバル車を購入しましたが、なんだか車オタクみたいな営業マンが多いようで、やたらと走りということを強調します。
日産は普通の会社だったなぁ、と痛感します。
正直、スバルの営業マンと話すと、スバル車への愛と情熱に満ち溢れ、少々辟易しますね。
しかし、確かにガリガリと路面を掻くような感じや、ボディのわりに小さい回転半径、自然な加速などは気持ちが良いものではあります。
何年これに乗ることになるんでしょうねぇ。
そして次の買い替え時、またスバル車を選ぶんでしょうか。
当分は今の車を楽しみたいと思っています。
金が欲しさに醜いゲームにはまっていく友人同士を描いたシチュエーション・スリラーを鑑賞しました。
「ザ・スリル」です。
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パット・ヒーリー,イーサン・エンブリー,サラ・パクストン,デヴィッド・ケックナー | |
ビデオメーカー |
初めての子が生まれたばかりの作家志望の中年男。
食うために続けていた自動車整備の仕事を解雇されます。
貯金もなく家賃も払えない彼は、立退きの通知を受け、絶望のあまり独りでバーへと立ち寄ります。
そこで5年ぶりに高校時代の友人と再会し、酒を呷ります。
友人もまた、犯罪すれすれの仕事でどうにか日銭を稼ぐ貧乏人。
謎の金持ち夫婦に一緒に飲んだら奢ると言われ、ご馳走になることに。
彼らは2人にあるゲームを仕掛けるのです。
「これができたら◯◯ドル! 」
ごく簡単な内容と引き換えに現金を手にし、喜ぶ2人でしたが、ゲームの内容は次第にエスカレートし、遂には逃げ場のない究極の選択へと彼らを導いていくのです。
金が欲しさに自分の小指を切り落としたり、ついには友人と殺し合いにまで発展したり。
目の前で最初は数万円、次第に数十万、数百万、数千万の金を積まれ、貧乏な男2人は醜くもエスカレートするゲームから逃れられなくなっていきます。
そしてそれを楽しむ金持ち夫婦もまた、醜いとしか言いようがありません。
金が欲しいのは誰でもそうですが、人間、貧すりゃ鈍すの言葉どおり、どこまでも行ってしまうのですね。
金持ちではなくても日々の糧に困っていなければここまでは出来ないと思いますが、悪いことに、2人とも明日食うことにすら困っていたのですよ。
私は毎週LOTO7を購入し、そうすることで、もしかしたら若隠居できるかも、という希望を糧に日々生きている欲深な人間ですが、さすがに150万円程度の金で自分の小指を切り落とすなんてことはできませんし、2500万円積まれても友人を殺そうなんて思えません。
でもそれをしてしまう人間の業の深さに慄然とさせられました。
私と同居人が同時に解雇されたら、同じことをするかもしれませんし。
それにつけても、金の欲しさよ。
午前中、ホラーというよりダーク・ファンタジーの色が強い映画をDVDで鑑賞しました。
「ハウンター」です。
霧に閉じ込められた家族。
その家族は毎日同じ日を過ごしていることに長女のリサが気付きます。
他の家族は、朝になると前日の記憶が消え、同じ毎日を繰り返していることに気付いていないのです。
15歳最後の1日を何故半永久的に繰り返すのか、それを知るべく、リサは行動を起こします。
家には死霊ともなんとも分からぬ者が住み着いていることに気付きますが、やがて、リサたち家族こそが死者であることを確信するに到ります。
その後、リサたちよりももっと古い死霊、現代を生きる者などが錯綜し、その家を真に支配するエドガーという最も古い霊が現われます。
自分たちが生きていると信じつつ、生きている者を死霊だと信じて怯えながら、やがて真相を知る、という手法は、「アザーズ」に始り、その後も数は少ないながら同じ手法の映画が製作されています。
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アザーズ [DVD] |
ニコール・キッドマン,フィオヌラ・フラナガン,クリストファー・エクルストン,アラキナ・マン,ジェームス・ベントレー | |
ポニーキャニオン |
「アザーズ」が完璧な作品だったため、これまでこの手の作品は霞んで見えました。
残念ながら、「ハウンター」もその謗りを免れません。
ただ、死者がタイム・スリップするなど、SF的な手法を講じたことは、意欲的な冒険だったとは言えるでしょう。
しかし、総じて退屈な作品に仕上がってしまったことは残念です。
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ハウンター [DVD] |
アビゲイル・ブレスリン | |
TCエンタテインメント |
今日はお茶の水の某ホテルで会議でした。
時間帯が中途半端ということで直行直帰を許され、朝9時に出発し、17時前に帰宅することができました。
楽ちんです。
おかげでサッカー・ワールドカップの日本対ギリシャ戦を観ることができました。
日本、素晴らしいパスワークでギリシャを押しまくっていましたが、残念ながら得点を挙げることができず、引き分けに終ってしまいましたね。
いかにも得点できそうな場面がいくつもあっただけに、残念至極です。
決勝トーナメント進出に向けて、首の皮1枚残ったというところでしょうか。
会議はもめるようなものではなく、淡々と議事を進めていく類のものなので、気楽でした。
今月は都内で会議や研修が多くあったため、車の走行距離が納車から20日で1,100キロを越えてしまいました。
一ヶ月点検は走行距離が1,000キロを超えた場合、前倒しで行うことになっているため、急遽明後日の日曜日にディーラーに行くことになりました。
じつは私の職場で都内への近距離出張に自家用車で行っているのは私だけです。
なぜか千葉の人たちは都内を走ることを嫌います。
都内の複雑な道や混雑が厭なようですが、複雑だからこそ応用が利くし、都心部の混雑は朝のラッシュ時くらいで、むしろ都心より西の混雑がひどいように感じます。
都心及び東部は道幅が広くて車線が多いのに比べ、西部は昔の農道を少し広げただけみたいな感じで、しかも人口が多いため、そうなってしまうように思います。
私はむしろ田舎の一本道にストレスを感じます。
田舎の一本道というのは、混雑したら目も当てられません。
逃げ道が無いのですから。
東京東部や都心部は言われるほど混雑しないし、混んでいたら別の道に逃げることが出来るので、むしろストレスを感じません。
でも私は、それを口にせず、こっそり車で移動しています。
イメージだけで都内を走るのを避けている人々はけっこう多いので、そういう人々にはそう思わせておいて、都内に車で進入させないようにしておいたほうが良いでしょう。
その分車が減るわけですから。
私はこれからも、都内への近距離出張は自家用車で通すつもりです。
今日は太宰治の命日、桜桃忌ですね。
私もご多分にもれず、通過儀礼のようにこの作家の作品に中学生の頃心酔しました。
何しろ読みやすいのと、自己陶酔のようなセンチメンタリズムが中学生の心をとらえたのでしょうね。
高校生になると、もうそのセンチメンタリズムが鼻につき、離れて行きました。
26歳で変死した尾崎豊にも通じるような、犯罪奨励、自殺奨励めいたところがあり、18禁にしたほうが良いかもしれませんね。
そうしたら売上激減でしょうし、冗談ですが。
今も桜桃忌には、墓参りに訪れるファンが絶えないそうで、根強い人気があるんですねぇ。
何度も心中未遂を繰り返しては自分だけ生き残ったため、成功した心中では相手の女性が彼を殺害してから体を赤い紐でくくりつけ、玉川上水に飛び込んだとの俗説があります。
太宰治の遺体を調べたところ、ほとんど水を飲んでいなかったことから、そういう説が生まれたそうです。
真相は闇の中ですが、それが仮に本当であれ、そんな下世話な話には乗りたくないものです。
生きていれば今年105歳。
生きていても不思議ではありません。
あの色男がどんなおじいちゃんになったでしょうね。
ご冥福をお祈りします。
昨日、研修の帰りに夏の着物を着物の専門店で購入しました。
母からプレゼントされた秋冬の着物は、呉服屋いわく大層良い物だそうですが、私が購入したのは、半襦袢・着物・帯で総額2万円という格安の物。
しかし、かつて日本人は金持ちも貧乏人も老いも若きも普段から着物を着用して生活していたわけで、日常的にお着物生活を目論む私にそんな高級なものは必要ありません。
かつての日本の庶民が普段着にしていたものが、そんなに高価であるわけではありませんから。
よく中年を迎えると、日本回帰というか、先祖返りすると言います。
一番分かりやすいのは、食の好みが変わるということでしょうね。
ハンバーグやカレーばかりを食し、魚の煮付けなんて大嫌い、というのが子供や若者の大勢だと思います。
それが、年を重ねると、魚の煮付けもなかなか旨い、となり、和食ばかりを好むようになるというわけ。
また、欧米の文化や芸術ばかりを研究してきた学者が、突如わが国の古典に目覚めるというのも時折耳にします。
私の場合、幼いころから和食を好み、大学では国文学を学んだため、先祖返りするにも、着るものくらいしか見当たらなかったというのが真相かもしれません。
家では浴衣で過ごしています。
ちょっとした外出は着物。
さすがに宿泊を伴う旅行には洋装で出かけますが。
いつの間にやら、着物は特別な時に着るものになってしまいました。
嘆かわしいことです。
これを日常着として復権せしめねばなりません。
今日は市ヶ谷の某施設で公文書管理に関する研修を受けました。
就職して23年目。
財務会計の経験は豊富ですが、公文書管理を担当するのは今年度が初めて。
日々の仕事で疑問に思っていたことが、研修で氷解していきました。
公文書管理なんて簡単そうに思いますが、なかなか奥が深いものです。
国の行政機関が作製したファイルは全て文書ファイル管理簿に登記されます。
それには一定の基準に従った分類があり、さらには保存年限が定められます。
そして保存年限が過ぎたファイルを廃棄するか国立公文書館に移管するかを決めます。
保存年限は1年から無期限まで、そのファイルの重要度に応じて定められ、国立公文書館への移管に際しては、当該行政機関の長と国立公文書館とでやりとりがあり、内閣総理大臣の同意を得て移管が決定します。
移管されれば、それは永久保存というべきで、国立公文書館はいわば公文書の国会図書館のようなものです。
古くは古代からの行政文書が厳密に保管され、それは図書館学の分野なのか歴史学の分野なのかと思いますが、あくまで行政の書類なのです。
ただ古いというだけで。
なかなか興味深い研修でした。