今日もまた、引きもきらぬ俗物どもを相手に、つまらぬ仕事で一日を過ごしました。
連中から見れば、当然私もくだらぬ俗物ではありましょうけれど。
人が職場で過ごす一日は、言ってみれば嘘八百を並べ立て、脅してみたりすかしてみたり、誠に愚かな猿知恵で日々を暮らしているものだと実感します。
霊長類なんて偉そうに名付けてはみたものの、およそ自然界を見回して、猿とその子孫ほどくだらぬ欲望にうつつをぬかし、馬鹿げた権力闘争を繰り返している生き物もおりますまい。
はるか室町時代、「閑吟集」に見られる歌謡に、
人はうそにてくらす世に 燕子が実相を談じ顔なる
という文句が見られます。
全くそのとおり。
人が嘘八百を並べて俗界を生きているのに比べ、燕はその鳴き声でこの世の真実を語り合っているように見えるというわけです。
「閑吟集」という書物、なかなかシニカルで、この世の真実の裏の裏を突いているようで、興味深いものです。
それにしても、人はなぜこの儚い世に生まれ、限りある命を使って、出世やら、女性であれば子どもがいるかいないかとか、他人より優位に立ちたいと思うのでしょうね。
お釈迦様は己と仏法のみを光とし、犀の角の角のようにただ独り歩め、と厳しい教えを説きました。
漢語では、自灯明法灯明なんて言いますね。
おのれ独りの信念と覚悟、それに仏法のみを頼りに、つまらぬ人付き合いを避けて道を求めよというわけで、それをサラリーマンをやりながら貫こうとすれば必ず、和をもって貴しとなす、愚かな大勢と衝突します。
今の私がそうです。
和を重んじれば、犀の角のようにただ独り歩むことはできません。
しかし、サラリーマンであろうと坊主であろうと自分探しの末に初老を迎えてしまったフリーターであろうと、また、俗界で出世した俗物であろうと、人間であるかぎり、本当に知りたいことは、ただ一つしかないはずです。
それは、人はなぜ生まれ、死ぬのか、という、死と宗教の問題。
それに真正面に向き合うのは誰しも怖ろしいに違いありませんが、人間が求める最後の問いは、それに尽きると思います。
で、あるならば、2年か3年一緒に働くだけの浅はかな人々との付き合いを大切にする時間があったら、くだらぬ付き合いはすべてキャンセルし、付き合いの悪い嫌な野郎だと言われようが、ごくわずかな自由時間をおのれの心に耳を傾けるほうが、よほど人生を豊かにすると思うのです。
そういうわけで、水曜日に迫った課の送別会には欠席すると幹事に伝えた次第です。
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