50周年のせいか、1968年という年が、密かなブームになっているようです。
私が住む千葉市の、千葉市美術館では、近く、「1968年 激動の時代の芸術」という展覧会が開かれる予定。
お隣の佐倉市に在る国立歴史民俗博物館では、「1968年ー無数の問いの噴出の時代ー」という企画展示が最近終わりました。
1968年がどういう年であったのか、私はリアルタイムでは分かりません。
生まれる前の年ですから。
しかし団塊の世代の人々にとっては、青春時代真っ只中で、とても郷愁をそそるのでしょうね。
一方、「ダンシングヒーロー」が女子高生のダンス部によって再ブレイクを果たすなど、1980年代も注目を浴びています。
私は1969年生まれですので、1980年代といえば、多感な青春時代を過ごした時代で、ノスタルジックな思い出がつまっています。
結局、人は自分が青春時代を過ごした時代を最も鮮明に覚えていて、そこにノスタルジーを感じるのでしょうね。
しかし、1980年代を実際に生きていた頃、私はどこか陰鬱な気持ちでした。
時折訪れる激しい高揚感と、日頃の陰鬱な気持ちの間で、ただ、時を無為に過ごしていたように思います。
冷静に思い出せば、勉強に励んだり、友人と馬鹿騒ぎに高じたり、ちょっと年上のおねぇいさんに憧れたり、それなりに過ごしていたはずですが、今の私には、ノスタルジックでいながら、どこか暗い時代であったように思えます。
青春の憂鬱と言ってしまえばそれまでですが、今になって思えば、将来に渡って自分を支配することになる陰鬱を、象徴するような歳月でした。
私にとって陰鬱とか憂鬱は、最も近しい感情で、時にそれは心地よくさえあります。
もちろん、病的に落ち込んでいた時期はつらいだけでしたが。
今、私はメランコリーを心地よいと感じるほどに回復しました。
回復してみて思うのは、私の思い癖もそう悪くはない、ということです。
性格や思い癖は、変わりません。
三つ子の魂百まで、とはよく言ったものです。
私はこれからも、メランコリーと付き合っていかなければなりません。
それはしんどくもあり、心地よくもあり。
いつか博物館や美術館で、1980年代半ばから後半を取り上げることがあるのでしょうか。
それはきっと、バブルを思わせるものでしょうね。
もう一度バブルが来たなら、今度は思いっきり踊ってみたいものです。
貴乃花親方が相撲協会に引退届けを出したそうですね。
それで良いんでしょうか。
私は若貴フィーバーの頃からこの人を見続けてきました。
宮沢りえとの婚約会見から、ほどなくして破局。
兄、若乃花との不仲。
それでいて、一代年寄をもらえるほどの大活躍。
私は正直言って、現役時代の貴乃花関が嫌いでした。
かつての北の潮関、現在の白鳳関など、強過ぎる横綱は悪役になるものですが、この人の人気は衰えることがなく、私はそれが気に入りませんでした。
しかし、親方になってからは、一本筋の通った、骨のある人だと、尊敬するようになりました。
弟子が暴行を受けたとされる一件でも、この人は権力者と言うべき相撲協会理事長を相手に堂々と対峙し、最低ランクのヒラ年寄への降格と言う処分をも粛々と受け入れ、虎視眈々と次の一手を狙っているのだろうと、期待していました。
ところが、このたびの引退。
もう戦う気はない、と記者会見で言っていましたね。
なぜ戦わない?
自分が正しいと信じるのなら、相撲協会に残り、徹底的に戦うべきです。
尻尾を巻いて逃げ出すのですか?
弟子達が相撲に専念するにはおのれが引退するしかないみたいなことを言っていましたが、弟子に不利益があってでも、正しいものは正しいと言い続けることが、弟子への教育になるとは思わなかったのでしょうか。
私がかつて敬愛した元大横綱にして正義を求める親方は、もういません。
弟子のことばかりで、おのれを失った、もはや老人としか言いようのない、体のでかい抜け殻が存在するのみです。
今後は入門前の少年達の指導をしたい、なんて言っていました。
それは相撲協会上層部に対する敗北宣言としか思えない言葉です。
どうか、新たな相撲団体を創設して、現在の相撲協会から大量の関取を引き抜くくらいの志を見せて欲しいものです。
もう一波乱、もう一花、私を喜ばせてほしいものです。
3連休の最終日。
夕方が近づいて、気分が沈みます。
このところ仕事が立て込んでいて、明日からの出勤を思うと、どうにもやれません。
仕事というものはどういうわけか集中するもので、ばらけていればどうということも無いのですが、今は集中している感じです。
毎週LOTO7を買っています。
大きく当たれば10億円。
そうしたら仕事なんか即辞めるのですが。
うまい具合にいきません。
今日は朝から雨が降ったりやんだり。
先週末、秋刀魚を焼いた後、魚焼き器の蝶番が壊れてしまったので、魚焼き器を買いに出かけました。
新婚当時に買ったもので、もう20年経ちますから、もう十分でしょう。
近所に巨大なヤマダ電機があるのですが、折角だから歩数を稼ごうと、イオンモール幕張新都心に出かけました。
ここはなにしろ広いので、嫌でも歩くことになります。
無事、上のような、シンプルな魚焼き器を購入。
5,000円とちょっとで買えました。
その後、イオンモールのイタリアンでパスタとサラダと珈琲の昼食をとり、だだっ広い店内をふらふらしました。
大きなペットショップや犬猫病院があり、その一角に、5メートルほどのプールが設置され、犬を泳がせたり、サーフボードに乗せたり。
犬たち、あまり喜んでいる風ではなく、どちらかというとビビッている感じ。
犬には犬の悩みや苦しみがあるのかもしれませんが、幕張で飼われている犬は気楽そうです。
あぁ、私も犬に生まれたかった。
今日は出勤することはしましたが、節々が痛み、熱っぽいので午前中で早退しました。
帰宅して熱を測ったら微熱があります。
卵かけご飯の昼食をかきこんで、市販の風邪薬を飲んで眠りました。
13時から18時半まで。
だいぶすっきりしましたが、腰や肩、背中に鈍痛がある感じで、まだ微熱もあります。
何か食って、また寝ようと思います。
寝るのが一番ですから。
樹木希林さんに次いで、総合格闘技の世界で神の子とまで言われた山本KID選手が41歳の若さで亡くなりました。
お二人ともがんだった、とのこと。
身近な人や有名人が亡くなると、死について考えざるを得なくなります。
正直、死ぬのは怖いですね。
うつがひどくて希死念慮に悩まされていた時も、やっぱり死ぬのが怖くて、そのために自殺を免れたようなものです。
誰でも死ぬのは怖いでしょうけれど、死の恐怖のことばかり考えて日常生活に支障をきたすほどになると、タナトフビォアという病気とされまず。
ギリシア神話に登場する死の神、タナトス(Thanatos)に由来する言葉で、わが国では死恐怖症とか呼ばれます。
この病気になると、訃報に接するとひどく不安になる、死のことばかり考えて何も出来なくなる、パニック発作のような身体症状が現れる、といった症状が起こり、なかなか厄介なものです。
有効な薬は存在せず、カウンセリング等でゆっくりと治療していくしかないそうです。
しかし、死に恐怖を感じるのは、生きている以上仕方ないことだし、カウンセリングなんかで治るのか、疑問です。
私は病的に死を怖れるほどではありませんが、ふと、死ぬことを考えて呆然とすることがあります。
特に自分よりも若い人や、自分より年上でも、常識的に考えて死ぬには若すぎる人の訃報に接すると、そうなりがちです。
死んだら全くの無になると考えるのも怖ろしいし、地獄に落ちると考えるのも怖ろしいことです。
だからこそ宗教は、天国や極楽浄土という概念を編み出したのでしょうね。
それを頭から信じることができれば幸せなのでしょうが、現代の日本人のほとんどは、そんなもの信じていないでしょうし、私もまた然り。
強烈な宗教的カリスマが現れて、私を導いてくれたなら、こんな幸せなことはないでしょうねぇ。
3連休最後の日。
映画館に足を運びました。
土屋太鳳と芳根京子のW主演で、二人の熱演が光る「累 かさね 」を観ました。
美人ですが演技力に難がある女優を土屋太鳳が、顔に醜い傷があるが演技力抜群の女を芳根京子が演じています。
不思議な口紅を塗ってキスすると、あーら不思議。
12時間だけ、顔が入れ替わってしまうのです。
そこで、土屋太鳳の顔で芳根京子がオーディションを受け、見事合格。
その後とんとん拍子に人気が出て行くというお話。
もちろん、芳根京子と土屋太鳳の関係性は複雑で、嫉妬や欲望が渦巻く地獄図と化していきます。
いわば互いが自分の人格と相手の人格を演じあうというわけで、たいへん難しい役どころであったろうと思います。
しかし二人ともたいした芸達者。
ややもすれば破綻してしまいそうな物語を、見事に演じています。
これからが楽しみな二人です。
今日は一日雨。
涼しいのは良いですが、閉じ込められる感じが嫌です。
今日は晩飯の買い物に行った以外は、自宅でゆっくり過ごしました。
で、小説を一冊、読みました。
「侵蝕ー壊される家族の記録」、という、一種のホラー物です。
![]() |
侵蝕 壊される家族の記録 (角川ホラー文庫) |
櫛木 理宇 | |
KADOKAWA/角川書店 |
得体の知れない女がある家族に入り込み、言葉たくみに家族を支配し、家族同士を反目せしめ、あげく、殺し合いにまで発展し、というお話。
現実にあった事件とよく似ていて、新味はありませんが、ラストにちょっとした仕掛けがしてあります。
読みやすくて、文庫本で320頁ほどですが、一気に読んでしまいました。
でも、すぐ忘れそうな、軽い感じでした。
いわゆるライト・ノベルではないのですが、それい近い味わいです。
気楽に読むにはまぁまぁかなと思いました。
悲哀感、憂鬱感が強かったことから、7月にアリピプラゾール(3mm)が追加になったことは、すでにこのブログでご報告したところです。
で、この薬、よく効くのですが、早朝覚醒という副作用が出ています。
躁状態のときも早朝覚醒がありましたが、ちょっと感じが違います。
早朝というか深夜というか、3時頃目が覚めてしまうのは同じですが、躁状態の時はじっとしていられず、真っ暗な町を何時間も散歩したり、すごい勢いで書き物をしたり、とにかく活動的でした。
今は、ソファに座ってぼうっとするか、うつらうつらするかで、まったく活動的ではありません。
医師によると、稀にそういうことがあるが、体が薬に慣れると、自然と治まる、とのことでした。
医師の言葉を信じるほかありませんが、せめて5時半くらいまでは、ゆっくり眠りたいものです。
今日は9月11日。
現代社会を生きる者にとって、忘れられない日です。
2001年のこの日、悪夢の同時多発テロが起きました。
あの日、私は遅い夏休み中で、同居人が山寺に行きたいというので、山形旅行に行き、ちょうど帰った日でした。
東北はひどい台風で、山形新幹線が止まってしまい、山形からバスで仙台に向かい、仙台から東北新幹線に乗りました。
ひどく疲れてしまい、夜9時頃には、一人、床に着いたのですが、テレビを見ていた同居人から大変なことが起きていると、たたき起こされたのを思い出します。
惨劇の映像を見た時は、疲れも眠気も吹き飛びました。
旅客機が2機続けて高層ビルに突っ込むなんてあり得ないし、その後ビルが倒壊する映像も衝撃的でした。
映像は繰り返し流されましたから、多くの人の目に焼き付いたのではないでしょうか。
あれから、世界は変わりました。
国と国との戦争から、テロとの長い長い戦いが始まり、それは今も続いています。
いつ終わるのか、見当が付きません。
あるいは終わらないのかも。
それに先んじて、わが国ではオウム事件が起きており、死刑囚はすべて処刑されましたが、世界がテロとの戦いに突き進む露払いのような役割を、結果的に彼らは演じてしまったのかもしれません。
米国では銃の乱射事件が途絶えることがありません。
国家間の戦争と違い、利害を度外視しておのれの思想信条、もしくは欲望のために行う虐殺は、歯止めが効きません。
殺し合いが愚かなことだと口を酸っぱくして説いたところで、頭が凝り固まったテロリストの耳には届かないことでしょう。
また、テロリストを放っておくことは、国家として許されざる不作為になることから、国家もまた、戦いを続けざるを得ません。
永遠のループにはまってしまっているかの如くです。
私はただ、それら凄惨なニュースに接して、瞑目することしか出来ません。
私には何も出来ないし、究極のところ、米国大統領だって、根本的解決の方法など知り得ないでしょう。
いくらテロ組織を壊滅に追いやったところで、雨後の筍のごとく、奴らは生まれるのですから。
このような状況の中、私たちは生きていかなければなりません。
戦いの無い世など、所詮は絵に描いた餅なのでしょうか。
あぁ、はれ。
今日は曇り時々雨。
すっかり涼しくなりました。
お彼岸を過ぎれば本格的な秋。
お彼岸までは、まだしばらくありますが、朝夕は確実に涼しくなりました。
かたまりて 咲きて桔梗の 寂しさよ
久保田万太郎の句です。
この人の句には、メランコリーというか、どこか憂愁の味わいを感じさせられます。
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久保田万太郎全句集 |
久保田 万太郎 | |
中央公論新社 |
春愁秋思、という言葉がありますね。
三省堂四字熟語辞典には、
春の日にふと感じる物悲しさと、秋にふと感じる寂しい思い。よい気候のときに、なんとなく気がふさぐこと。また、いつも心のどこかに悲しみや悩みがあること。▽「春愁」は春の日のもの思い、春に感じる哀愁、「秋思」は秋の寂しいもの思いの意。
とあります。
もともとは、白居易(白楽天とも)の「陵園妾」という漢詩に見られる言葉です。
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白楽天 ビギナーズ・クラシックス 中国の古典 (角川ソフィア文庫) |
下定 雅弘 | |
KADOKAWA |
それにしても、過ごしやすい季節に寂しい物思いに沈むのはなぜでしょうね。
なぜかはともかく、実感として、春の憂いや秋の物思いというもの、物心ついたあ頃からなんとなく感じてはいました。
四季のある風土で生まれ育つと、自然とそういった感情が身に付くのでしょうか。
私は春愁のほうがひどくて、春はなんとも気分が沈みますが、愁思はあんまり感じません。
秋の物思いをも楽しみながら、これからの季節を過ごせたら、と思わずにはいられません。
今日は昼寝をしたり、DVDを観たりして、のんびりと過ごしました。
DVDは、「STAR SAND 星砂物語」という魅力的なタイトルの作品を観ました。
1945年4月、 戦火を逃れ、沖縄の小さな離島に移り住んでいる16歳の少女。
彼女は毎日のように、小さな浜辺に出かけては、海にもぐって星砂を取り、牛乳瓶に詰めて大切に保管しています。
沖縄本島では血で血を洗う日米の決戦が繰り広げられていますが、離島は平和そのもの。
ある時、浜辺近くの洞窟で、日本の脱走兵と米国の脱走兵と出会い、二人が奇妙な共同生活をしていることを知ります。
二人は殺し合いを否定し、ひたすら戦争が終るのを待っています。
そこへ、日本人脱走兵の兄が、負傷して合流します。
この兄は、皇軍の栄光を勝利を信じる狂気染みた男で、おそらくは当時の日本の風潮を象徴しているように思われます。
暇さえあれば座禅を組み、迷走にふける日本人脱走兵。
彼は日本軍の狂気に対し、冷静さと平和を象徴しているようです。
やがて、米国人脱走兵と恋に落ちる少女。
そして、現代の東京で卒業論文に悩む女子大生が同時並行的に描かれます。
女子大生は洞窟に残っていた少女の日記を指導教授から渡され、これで卒業論文を書こうと決意します。
1945年の沖縄の離島で繰り広げられる狂気と、現代の東京の平和な生活が対照的です。
指導教授が、日記を残した当時の少女が今も存命であることを突きとめ、女子大生に会ってみることを勧めます。
交差する1945年と現在。
ラストは凄惨なものですが、かすかな希望を感じさせます。
沖縄の美しい海、空。
米兵と少女の恋。
美しい映像のなかに、戦争の狂気が静かに映し出されます。
反戦を声高に叫ばれると白けてしまいますが、このように美しい映像のなかに、戦争の狂気が描かれると、説得力をもって、平和への希求が感じられます。
ややもすると退屈になりそうなストーリーですが、不思議な緊張感をはらんで、観る者を飽きさせません。
所々物語の破綻が見られますが、それを補ってあまりある映像美であったと思います。
![]() |
STAR SAND 星砂物語 [DVD] |
織田梨沙,満島真之介,ブランドン・マクレランド,三浦貴大,吉岡里帆 | |
ビデオメーカー |
陽射しは強いながら、風に秋を感じさせる時季となりました。
日も短くなり、季節は確実に移ろっているようです。
先月22日が私の誕生日でしたが、遅ればせながら、誕生日プレゼントを買ってもらいに、浅草の呉服屋に出かけました。
和装用の信玄袋と財布を同居人に買ってもらいました。
合計24,000円。
今まで、袋は小さな巾着袋、財布は普通の洋物を使っていましたから、大きめの信玄袋と和装用の財布が欲しかったのです。
浅草に出かけたのは、安く良い物が手に入るから。
上が信玄袋です。
下が財布です。
買い物の後、観音様にお参りし、浅草の街をふらふらと歩きました。
本当に外国人観光客が増えました。
30年前の寂れぶりが嘘のようです。
こうして、何事も変化していくのですねぇ。
昨夜はDVDを鑑賞しました。
不能犯です。
人々の闇を探る犯罪者を松桃坂李が、希望を信じる刑事を沢尻エリカが演じ、この二人の対決が圧巻です。
人の眼を覗き込むだけで、幻覚を見せ、ショック死させてしまう特殊能力を持った犯罪者。
依頼を受けて、多くの人々をショック死させます。
しかし、死因はほとんどが突然の心不全。
証拠も何もなく、犯罪は成立しません。
つまり、不能犯です。
そこに、かつて美女刑事が更正させ、今は板前として立派に働く青年が、じつは心中深く昏い欲望を抱いていたことが明らかになり、物語は重層的な趣を呈します。
美女の刑事と美青年の不能犯。
この二人の掛け合いが見事です。
さらに、刑事は、ごく稀に存在する、不能犯がコントロールすることが出来ない人間なのです。
したがって、刑事が不能犯を殺せば、ショック死事件は止まります。
不能犯は、挑発的に、「僕を止めてください」・「僕を殺してください」と不敵な笑みを浮かべながら刑事に迫ります。
苦悩する刑事。
警察官でありながら殺人を犯して事件を止めるのか。
なかなか見応えのある映画でした。
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「不能犯」BD豪華版 [Blu-ray] |
松坂桃李,沢尻エリカ,新田真剣佑,間宮祥太朗,テット・ワダ | |
エイベックス・ピクチャーズ |
![]() |
「不能犯」DVD通常版 |
松坂桃李,沢尻エリカ,新田真剣佑,間宮祥太朗,テット・ワダ | |
エイベックス・ピクチャーズ |
台風の次は地震ですか。
嫌になります。
自然災害大国で生きるのは大変です。
それはさておき。
今日は午前中、東大安田講堂で国交私立大学や研究機関などの外部資金担当者を集め、国の最大の研究助成である、科学研究費助成制度の改革に関する説明会に出席しました。
いずれも事前に入っていた情報をなぞるだけの、退屈なものでした。
午後は休暇を取って大爆睡。
気持ちの悪い夢を見て、汗びっしょりで目を覚ましました。
いずれも、幼い頃からの、私の愚行や悪行を見せ付けられるもの。
1秒たりとも過去には戻りたくない、と痛感しました。
愚行と悪行こそ、私の人生そのものですから。