2014年も今日で終りですねぇ。
なんだか無為に日を暮らしてしまいました。
増えたのは皺としみだけで、貯金はいっこうに増えません。
昔の人はお金のことをお足と呼びました。
足が生えているようにどっかに行ってしまうからでしょう。
で、百足の帯留めなんかを使っていたそうです。
百足のようにお足がたくさん集まるように、との願いを込めて。
ここ数年、かつては初詣に行っていた東京大神宮へ、年末にお参りするようになりました。
パワー・スポットブームだかであまりに込むからです。
パワー・スポットと言えば大昔からそうだったんですがねぇ。
東京大神宮隣のマツヤ・サロンには、恒例の花が活けられ、鏡餅が飾られていました。
豪勢なものです。
平成10年に東京大神宮で同居のための儀式を執り行い、ここ、マツヤ・サロンでお披露目の宴を催したのでした。
来年は平成27年ですから、もう17年目に入るのですねぇ。
わがままでエキセントリックな私とよくもこんなに長く暮らしちゃってくれたものです。
同居人の忍耐力は驚嘆に値します。
来年以降も、私は私であり続けるしかないわけで、同居人には苦労をかけます。
まぁ、耐えられなくなったら離れていくでしょうから、放っておくつもりです。
そしてまた、今年も多くの方が亡くなりました。
いつかは私も旅立つわけですが、それが明日なのか、50年後なのか、誰にもわかりません。
それはすべての生命が宿命的に持つ、生命の本質とも言うべきものです。
であればこそ、私たち全生命は最終的には同じ運命を辿る同志とも言うべき存在です。
つまらぬことで争うのは馬鹿げています。
違いを認めて、お互いその違いを笑い話の種にすれば良いものを。
このブログをご笑読いただいた皆様、本年はありがとうございました。
来年が皆様にとって良いお年でありますことを祈念申し上げます。
にほんブログ村
人気ブログランキングへ
今日は昨日とは打って変わって穏やかに晴れて暖かい一日でした。
で、近年になく入念に年末の大掃除を行いました。
さして広くも無い4LDKの我が家ですが、掃除に丸1日かかりました。
朝9時から夕方4時まで。
掃除機かけから始まって、窓拭き、キッチンや風呂、トイレ磨き。
さらに同居人との生活を始めて17年の間になんとなく捨てずにいた不要な物を思いきって大量に処分し、ずいぶんすっきりしました。
作業中は夢中でしたが、終わってみるとひどく疲れていることに気付き、普段まったく口にしない甘い物を少量いただきました。
疲れた時には糖分が欲しくなるというのは本当だったのですねぇ。
明日の大晦日にはもうなすべき仕事はありません。
のんびり過ごすか、年末恒例の初詣ならぬ詣で納めをするか、明日の気分に任せましょう。
冷たい雨が降り続いています。
ぼんやりと、外の雨を眺めていたら、早くも夕刻を迎えてしまいました。
天候が人の体調や心の状態に影響することは確かなようで、神経痛持ちの老人などが、雨が近づくだけで痛む、という話を聞くだけで、それは明らかです。
精神障害をほぼ克服した今も、冬の雨は私にとって大敵です。
いっそ雪になってしまえば、テンションが上がるのですが。
年末年始休暇中の今なら、出勤の足を心配する必要もありませんし。
明日は晴れるそうですから、掃除でもしましょうか。
面倒ではありますが、正月を清々しい気分で迎えるために。
今日は朝から底冷えがする日でした。
しかし午後からは陽射しのせいか、だいぶ暖かくなり、なんとなく、近所を散策しました。
そこで気付いたのが、ずいぶん車が少ないこと。
日曜日であることを差し引いても、道が空いているようでした。
途中、立ち寄った魚屋では、カニやイクラ、鮭に蒲鉾などが並び、様相を一変させていました。
いよいよ年も押し詰まってきたことを厭でも実感させられます。
小さなパック入りの鏡餅と、玄関にぶら下げるしめ飾りを購入しました。
なんでもしめ飾りを飾ると、玄関から先の家の中は清浄な空間だという意味になるんだとか。
およそ清浄とは言いがたい我が家ですが、気は心と申します。
清浄を願う気分がわずかでもあれば、それは本心というわけで、我が家も清浄の気が満ちたのだとおもうことにいたしましょう。
掃除は明日以降ではありますが。
9連休という滅多にない長い年末年始のお休み。
2日目はのんびりと時を過ごすことができました。
年末年始の9連休初日。
平日と同様、6時に布団から出ました。
ペースを乱すと休み明けが辛いので、起きる時刻と寝る時刻は普段と変えないように心がけています。
違うのは、朝風呂にゆっくりとつかってから朝食をとること。
風呂に入ると食欲が違います。
朝飯は白飯と葱の味噌汁、大根ときゅうりのぬか漬け、おかずは生卵と納豆、それにボイルしたソーセージです。
しっかりと食いました。
午前中は自室の机周りや押入れの整理。
けっこう不要な物が出てきます。
押入れの中を入念にチェックしたのは何年ぶりでしょうねぇ。
これも9連休ならではの贅沢でしょうか。
少し疲れて、昼はマンションの向かいにあるイタリアンでピッツァとサラダを食し、濃い珈琲を2杯飲んで買い物に出かけました。
キッチン・マットがすっかり汚れてしまったので、ニトリで買い物です。
ニトリまでは、車でわずか5~6分。
他に、鍋を焦がしてしまったので鍋を購入。
さらにバス・マットも。
大荷物を降ろしてからスーパーに行き、酒や肴を購入しました。
夕方16時半には今年最後の精神科を予約しています。
ゆるりと、しかしきっちりと、初日が過ぎていって、私は幸福を覚えているところです。
今日でいよいよ仕事納め。
今年の仕事は全て終了です。
お昼は職場の同僚と蕎麦を食しました。
4月に部署が異動になり、変な上司に悩まされましたが、仕事量は前より少なくなりました。
それは楽でしたね。
ただ、異動後1年目は大抵そうですが、右も左も分からない不安はつきまといました。
でも今は、9か月が経過し、その不安もだいぶ無くなりました。
まずは1年間無事に働けたことに感謝しましょう。
来年以降、まだ定年まで15年と3カ月あります。
すでに就職して23年目になりますが、残りの現役生活の長さを思うと、呆然とします。
すでに体力衰えているというのに、そんなにもつんでしょうかねぇ。
もたないと言ったって、生活を維持するためには働かざるを得ないわけですが。
病気休暇から復帰して後、私はその日一日と、せいぜい翌日のことまでしか考えない、その日暮らしをモットーとしてきました。
もちろん、本来の言葉の意味とは異なりますが、それはそれ。
その日暮らしを積み重ねる以外、定年というゴールにたどり着く道は無いのですから。
はるか遠いゴールを見たら嫌になってしまいますから、とりあえずは今日と、翌日のことだけを考えて、手抜きできるところは手を抜いて、なるべく疲労せずにフルタイムの仕事に耐えていくことを心がけたいものです。
今日は珍しく仕事がはかどりました。
多分、明日出勤したら9連休ということで、お尻に火がついたためと思われます。
何事も計画的に進めているつもりが、いつの間にか遅れをとっていたのですね。
お恥ずかしいかぎりです。
で、明日は多分、特になすべき仕事はなかろうと思います。
机まわりの掃除や、引き出し・キャビネットの整理などをしてのんびり過ごしたいと思っています。
10年くらい前までは、仕事納めの日は、お昼から大会議室に集まって酒を飲んだものですが、勤務時間中に公的機関の職員が酒を飲むとは何事かということで、仕事納めも仕事始めもみっちり仕事をする日になりました。
その昔は仕事始めの日と言えば、若い女性職員は晴れ着姿、男でも着物姿の者が散見されたものですが、それというのも、その日は仕事なんかせず、賀詞交歓会で一日が終わっていたからです。
世知辛い世の中になったものです。
昔は官官接待も盛んでしたが、今ではすっかり廃れ、私の職場近くの料亭はばたばたと廃業していきました。
これも時の流れというものでしょうか。
感慨に耽りつつ、今日の仕事をきっちりこなした自分にうっとりする私なのです。
今日は午前中、虎ノ門で会議でした。
午後は職場に戻りましたが、なんとなく勤労意欲がわきません。
もうお正月モードなんでしょうか。
そういえば、今日はクリスマス・イブですね。
寺で生まれ育った私が、異教の祭りに与するのを潔しとするわけにはいきません。
ただし、同居人の手前、クリスマスとは関係なく、三つの儀式を行います。
一つに、シャンパン飲むの儀。
二つに、ロースト・チキン食すの儀。
最後がケーキ食すの儀。
やってることはクリスマス・イブの恒例行事と一緒ですが、精神性が異なります。
異教のお祝いは関係なく、私の意志で、これら儀式を行うのです。
ちょっとひねくれ者の感じもしますけれど。
まぁ、固いこと言うなや、ということです。
本日は今上陛下ご誕生の記念日。
81歳におなりとは、おめでたいかぎりです。
しかし私たち庶民にとっては、仕事がお休みできるあまたの祝日と変わるところはありません。
週の途中にお休みがあるとぐっと楽です。
明日は都内で会議。
その後2日出勤すれば、年末年始のお休みです。
今年はカレンダーの並びの関係から、9連休となりました。
今日は晴れていたものの、底冷えがして北風強く、家で年賀状作りに精を出しました。
とはいっても、文面はいつも同じデザインで干支を変えるだけですし、宛名は引っ越した人の分のデータを修正するだけで、パソコンがやってくれちゃいます。
唯一、年賀状の仁義とも言うべき手書きの一言も、ほとんど同じ。
お気楽なものです。
昔、何から何まで手書きだった頃はさぞかし面倒くさかったでしょうね。
かの夏目漱石も、虚礼廃止を唱え、年賀状撲滅を図ったと聞きますが、結局浮世の義理には逆らえず、年賀状を出し続けたそうです。
面倒事を一つ終えて、とりあえずはほっとしました。
今日は冬至ですね。
一年で最も日が短い日。
逆に言えば、明日から少しづつお日様が長く拝めるようになるというわけで、それは嬉しいですねぇ。
でも本当に寒いのは年が明けてから。
1月・2月は首都圏でも尋常ならざる寒さになります。
それなのに、正月を新春と言うのはおかしなことです。
旧暦と新暦ではざっくり一か月半程度ずれています。
すると旧暦の正月は2月の後半になるわけで、その頃なら気温は低いながらも陽射しが強くなり始め、新春というのもうなづけます。
それは大寒にしても立春にしてもみなそうです。
石原慎太郎はかねてから、旧暦の日付に合うように新暦の日付を読み替え、例えば旧正月を新春と呼ぶなど、季節の実感に合った暦に直すべきだと主張しています。
全くそのとおりだと思います。
そうでなければ、季節感を大切にしてきたわが国の伝統文化が、おかしなことになってしまいます。
何も旧暦に戻せと言うつもりはありません。
グローバル化が進んだ世界をわが国も生きているわけですから、そんな時代に逆行するようなことが出来ようはずもありませんし。
ただ二十四節季などの暦を、日付の字面に捉われることなく、本来の日付に合うように読み替えてほしいと願うばかりです。
例えば冬至や夏至など、日の長さによって決めているものは、本来の日付で行っているわけです。
一方大寒や大暑など、気温によるものは、旧暦の日付を新暦に勘案することなく、ただあてはめています。
これはよろしくないでしょう。
古典文学などを読む際に、混乱すること必定です。
でもこんなこと、国会で議論するのも馬鹿馬鹿しいんでしょうか。
今となっては季節感と合わないため、「暦のうえでは」という枕詞がつくのが当たり前になり、新暦の二十四節季などは、その間抜けぶりを楽しむためにあるとしか思えません。
浅草には男物専門の呉服店や古着屋が数軒あります。
陽気も良いので、それらを冷やかしつつ、散歩がてら浅草に行ってきました。
幸いにも、朝早くでかけたおかげで、都営雷門前地下駐車場に車を停めることができました。
民間のコインパークなどより割安なので助かります。
それにしても浅草は変わりました。
外国人観光客が増え、20年前には見かけることのなかった観光用の人力車が溢れかえっています。
煮込み横丁なるものが新設され、昼酒を楽しむよそ者が大勢います。
たいへん結構。
で、男着物の店を冷やかすと、同好の士がけっこういます。
平たく言えば、着物姿の男です。
明らかに落研と思われる学生の集団が格安のポリエステルの着物を求めたりなどしていました。
今、首都圏で最も多くの着物姿を見かける町かもしれません。
観光用の着物体験で着ている人はなんか変なのですぐ分かりますが、それを除いても。
私ももちろん着物姿。
ただし、正絹の品以外には興味ありません。
ましてポリエステルなんて。
冷やかすだけのつもりでしたが、気に入った物があったので、角帯と羽織り紐を一つづつ購入しました。
それと、今まで使ったことが無かったので、試しに褌も購入。
使い心地がよければ洋装の時でもしめられます。
あ、でもいざという時困るかな?
まぁ、もはや私にいざという時なんてないんでしょうけれど。
それと、ちんどん屋がいたのですが、なんと、パチンコやキャバクラの宣伝ではなく、消費増税反対を唱えて練り歩いていました。
20年くらい前までは、地元、江戸川区の商店街でも毎日のようにちんどん屋を見かけましたが、政治的宣伝をしているのは初めて見ました。
雇い主の要求であればどんな宣伝でもするのですねぇ。
商魂たくましいと言いましょうか。
なかなか楽しい浅草散歩でした。
冷たく、細かい雨が断続的に降り続く土曜日。
お昼を食べに近所のイタリアンに行ったほかは、家で一日大人しくしていました。
昼寝をしたり、ネットで遊んだり。
たまにはこういう土曜日があっても良いでしょう。
同居人は昨夜職場の忘年会で飲みすぎたようで、これ幸いと寝てばかりいました。
こんな日は、あまり良い考えが浮かびません。
過去のものとなった精神障害のこと。
今も根強く職場に残る病気差別。
普段はそんなこと気にしない、と強がって日を暮らしている私ですが、弱気の虫が頭をもたげます。
このまま寛解の状態で生きていけるのか、職場はいつまで私を病人扱いするのか?
また、人生も折り返しを過ぎて、老後のことは大丈夫か?、といったことどもです。
いわば生きている以上永遠につきまとう不安の種ですね。
不安の種を心中深く宿しながら、それでもその日その日を暮らしていかなければなりません。
それは60億の人間がいれば、60億とおりの不安であることでしょう。
私は60億分の1として、お釈迦様が言うとおり、己と仏法だけを頼りに犀の角のようにただ独り、歩まねばなりません。
それが人の常なのだとしたら、人間はまさしく群集の中の孤独を生きる乳飲み子のようです。
昨夜は衝撃のミステリー、「渇き。」を鑑賞しました。
渇き。 プレミアム・エディション(2枚組+サントラCD付)[数量限定] [Blu-ray] | |
役所広司,小松菜奈,妻夫木聡,清水尋也,二階堂ふみ | |
ギャガ |
渇き。 プレミアム・エディション(2枚組+サントラCD付)[数量限定] [DVD] | |
役所広司,小松菜奈,妻夫木聡,清水尋也,二階堂ふみ | |
ギャガ |
妻の不倫相手を殺害したことから、警察を追われた元刑事。
この役を役所広司が演じてあまりの狂的な暴力ぶりにまず気圧されます。
離婚した妻から、高校生の娘が失踪したとの報せを受け、元刑事は娘を捜索し始めます。
その手法がまた乱暴というか、滅茶苦茶です。
そして娘、カナコを追ううち、カナコが禁止薬物に手を出していたり、男女問わず、取り巻きの少年少女を操って、言葉巧みに売春をさせていたり、カナコの裏の部分が見えてきます。
父親は、カナコは誰にでも優しく、魅力的で、それでいて凶暴で残酷な悪魔のような一面を持っていたことを知るのです。
アニメを挿入したり、暴力シーンにはおよそ不似合いな甘ったるいバラードを流したり、かなり斬新な映像で、観る者の心を掴みます。
悪魔のようなカナコに、まわりの少年少女は夢中になるのです。
そして、私も。
カナコは「不思議の国のアリス」を愛読する文学少女でもあります。
不思議の国のアリス (角川文庫) | |
河合 祥一郎 | |
角川書店(角川グループパブリッシング) |
単なる少女が持つ悪魔性・残虐性を超えた、神あるいは悪魔の領域とでもいうべき場所にカナコは住んでいます。
カナコ本人も、取り巻きの少年少女も、ひたすら落ち、破滅への道を突き進むのです。
全く内容は異なりますが、倉橋由美子の名作「聖少女」を想起させます。
聖少女 (新潮文庫) | |
倉橋 由美子 | |
新潮社 |
そして、救いの無い結末。
原作は、「果てしなき渇き」と言うそうです。
果てしなき渇き | |
深町 秋生 | |
宝島社 |
読んでみたくなりました。
自らの存在を空っぽと呼ぶ悪魔のようなカナコ。
親の役に感情移入すべき年なのでしょうが、私はなぜか、カナコと、その取り巻きの少年少女たちに心惹かれました。
私は永遠の中二病なのかもしれません。
後味の悪い映画ですが、一見の価値あり、です。
理化学研究所、STAP細胞の再現実験の結果、作れなかったため、STAP細胞は現時点では存在し得ないという結論にいたりました。
予想どおりですが、ずいぶん発表を急いだ感があります。
年内に決着をつけたかったんでしょうか。
来年度の予算は、ざっくり5億円程度減額されるそうで、小保方氏という人、大したものです。
その小保方氏は理化学研究所を退職するそうです。
この一連の経過を聞いて、明治時代に大きな話題をさらった千里眼事件を思い出します。
千里眼事件―科学とオカルトの明治日本 (平凡社新書) | |
長山 靖生 | |
平凡社 |
透視も念写も事実である ――福来友吉と千里眼事件 | |
寺沢 龍 | |
草思社 |
東京帝国大学の福来友吉博士が、超能力者と思われる女性を調査して、念写・千里眼などが存在すると主張。
その主張に懐疑的な学者やマスコミが集まり、公開で実験を行いましたが、女性曰く、極めてナイーブな状況で行われ、その場に否定的な空気が流れると、精神上の力が発揮できなかったとのことで、実験は失敗。
福来博士はアカデミズムの世界から追放され、手弁当で研究所を作り、生涯、孤独に研究を続けたそうです。
心理実験のようなものは、安定した結果を得られないのが当たり前で、福来博士の主張が正しかったのか、今となってはわかりません。
しかしSTAP細胞は心理実験とは違います。
純粋に自然科学の問題です。
そうであるなら、一定の条件下で一定の方法である物質が得られるのが真ならば、それを監視されようが、否定的な雰囲気のなかで行われようが、同じ結果を得られなければ、それは真実だと見なされません。
そういう意味で、小保方氏本人が自分の妄執に捕われ、STAP細胞の存在を固く信じているおバカさんか、あるいは稀代の詐欺師か、どちらかでしょうねぇ。
いずれにしろ後味の悪い事件でした。
小保方氏はまだ若く、将来のある身です。
このまま研究者として生き続けるのは難しいでしょうが、人間至る所青山あり、と申します。
人間、どこにだって骨を埋める場所はある、ということです。
新しい活躍の場所を求め、成功されることを祈ります。
職員厚生用の経費が余ったのか、職員全員に手ピカジェルという、手の消毒用アルコールジェルが配布されました。
これからインフルエンザの流行も懸念されるなか、衛生には気をつけろ、ということでしょうか。
英国では、石鹸をプレゼントするのはご法度だそうです。
なんでも石鹸を贈るという行為は、臭いから洗え、という意味になるんだとか。
わが国でも結婚祝いに包丁などの切れるものはご法度ですね。
どちらも生活必需品ですが。
京都では「ぶぶ漬け食うて行きなはれ」と言われたら帰らなければいけないんだとか。
もし「ありがとう」なんて言って素直のご馳走になったら、「ほんまに食うて行きよった」と、百年以上後、孫子の代まで馬鹿にされるそうです。
怖ろしいですねぇ。
贈り物もよくお土地柄を考えて選ばないといけませんねぇ。