今年はばかに春の訪れが早いようで、もう桜が満開です。
私はといえば、相も変らぬ俗事にかまけ、せっかくの週末、花見に出かけることもままなりません。
来週末、花が散り乱れているであろう頃に、花見に出かけようかと愚考しています。
せめてはかねて愛吟しながらあまりこのブログで取り上げなかった詩歌でも紹介しましょうか。
あはれなり わが身のはてや あさ緑 つひには野べの霞と思へば
新古今和歌集にみられる小野小町の歌です。
野べの霞とは、一般的に火葬の際の煙がたなびく様と解されています。
絶世の美女と呼ばれた小野小町も年老いて、春愁とともに世の無常を詠みこんだものと思われます。
次はいっそ思い切り美的な西行法師の春の和歌を。
春風の 花を散らすと見る夢は さめても胸の 騒ぐなりけり
桜が散るさまの美しさを、これほどの烈しさでもって詠んだ歌も少ないでしょうねぇ。
父は西行法師に憧れていたようですが、私はその歌の烈しさと、美を追求する執念みたいなものが、なんとなく怖ろしく、単純に西行法師に憧れるような気持ちにはなれません。
歌がうま過ぎるのと烈しすぎるので、おそらく平安末期の歌詠みからは嫌われていたんじゃないでしょうか。
ちょうど、私もそうですが今は亡き尾崎豊の烈しすぎる歌を毛嫌いする人が多いように。
ぐっと時代が下って近代詩を。
人けなき公園の椅子にもたれて
われの思ふことはけふもまた烈しきなり。
いかなれば故郷のひとのわれに辛く
かなしきすももの種を噛まむとするぞ。
(中略)
さびしき椅子に「復讐」の文字を刻みたり。
萩原朔太郎の「純情小曲集」にみられる「公園の椅子」という詩です。
葉桜の頃、公園の椅子に座って、愛憎うずまく故郷への思いを烈しい言葉で書き連ねています。
青年の憂悶。
萩原朔太郎という人ほど、憂悶という言葉が似合う詩人も少ないでしょうねぇ。
私はあと一週間に迫った今年度の終わりを前にして、不思議な焦燥感にとらわれ、憂悶というほどではないにせよ、憂愁の思いを強くしています。
今度の4月で就職して22年目の春を迎えます。
37歳くらいまではバリバリ働いていたのが、精神障害を発症して、以来ずうっと慣らし運転のような感じです。
病気というのはなんでもそうでしょうが、治るというのは発症以前の状態に戻ることではなく、病気を抱えながらも通常の生活が出来るようになることなんだろうと思います。
そういう意味ではもう治っているとも言えますが、常に腹の底に抱えているどす黒い塊のようなもの、うつ状態の種のようなものが、時折大きくなったりして私を苦しめます。
春の憂鬱というのも、どす黒い塊を大きくさせる作用があるような気がしてなりません。
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