ブログ うつと酒と小説な日々

躁うつ病に悩み、酒を飲みながらも、小説を読み、書く、おじさんの日記

堕落

2015年06月30日 | その他

 私の先輩に、50歳ちかくなって職場で不祥事を起こして辞職に追い込まれ、さらには奥様に逃げられるという挫折を経験した人がいます。
 さすがにその直後は落ち込んでいたようですが、ほどなくして就職活動を始め、誰もが名を知る大手商社に再就職を果たし、あまつさえ、還暦間近で5歳ほど年下の女性と再婚しました。 

 明るくてめげない性格が幸いしたようです。

 前の奥様との間には息子が二人おり、二人とももう結婚して独立しているため、二人きりの甘い新婚生活をおくっています。
 また、再就職はあくまで伝票作成のアルバイト的な仕事だったせいか、町内会の副会長職を引き受け、今は町内会の仕事が生き甲斐になっているようです。 

 まったく大したものです。

 人によってはアル中みたいになって廃人同様になったり、自殺さえしかねない状況だったというのに。 

 私は35歳で精神障害を発症し、ほぼ克服するまで5年近く、出勤したり休職したりを繰り返しました。
 今は最後の病気休職から復帰して6年目に入り、服薬は続けているもののそれは再発防止のためであり、量も一番多い時の5分の1くらいになっています。

 昇任適齢期に発症したため、同期の中では最も昇任が遅れており、今は年下の上司にお仕えしています。 

 ところが不思議なことに、それを何とも思わないのです。

 以前の私は出世頭で、その頃だったら耐えがたい屈辱と感じるような今の状況に、何の苦痛も感じないどころか、気楽でいいや程度で、平気の平左です。 

 さらには、困難な仕事や面倒な人間関係にあたっても、全然精神にダメージを受けません。
 職場にいる間は多少とも嫌な気持ちになりますが、仕事が終わって職場を出た瞬間から、きれいさっぱり忘れてしまいます。 

 これは長い間求めていた境地です。
 すっかり図々しくなりました。 

 それと、いい年をして出世しないと、周りの人が気を使って、ずいぶんと尊重されることに気づきました。
 仕事が出来ずに今の立場に留め置かれているわけではありませんから、運の悪い人だとでも思われているのでしょう。 

 客観的な状況はともかく、主観的には、今座っている席、居心地が良いと感じています。
 もちろん仕事が面白いとは思いませんし、出来れば早く退職して若隠居を決め込みたいものだとは思いますが、それこそ妄想のようなもので、現実味はありません。 

 であれば、現実の今を、とくだんの屈託もなく受け入れることが出来ていることをこそ、幸福と呼ぶべきなんでしょうね。

  人間変われば変わるものです。 

  精神障害を患って良かったとまでは思いませんが、その経験から諦めることを学び、諦めることは心地よいと知ることが出来ました。
  堕落と言えば堕落かもしれませんが、堕落もまた、快感をもたらすものです。

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新月

2015年06月30日 | 文学

 新月の夜は月が見えません。
 しかし、太陽に隠れているだけで、確かにそこに在るのです。
 それをもって、近頃では新月の願い事、というのが流行っているそうですね。

 昨夜、貫井徳郎の長編、「新月譚」を読み終わりました。

 ミステリー作家が描く、20年以上に及ぶ道ならぬ恋を描いた物語。
 殺人事件は起きません。

 女流作家、咲良玲花は、49歳で突如、筆を折ります。
 人気絶頂の最中、なぜか?

 中学生の頃から彼女の作品を愛読していた若手編集者が、誰にも明かされなかった彼女の創作の秘密と半生を聞かされます。
 彼女の長い独白が、この小説の大半を占めます。

 ブサイクで暗かった事務員が、小さな会社の社長と付き合うことにより、明るくなり、社長の気持ちを繋ぎ止めるために整形を繰り返し、この世の物とは思えない整った顔の美人に変身します。
 さらには、才能があり、上昇志向の女性が好みだと聞いて、彼女は一生懸命小説執筆に励み、ついにはベストセラー作家となるのです。

 社長が別の女と結婚しても、日陰の存在のまま、不倫関係を続けます。

 しかし、社長が49歳のとき、42歳の妻が懐妊した頃から、何かが狂い始めます。

 創作の動機が社長を繋ぎ止めるためだけだったとしたら?
 社長の妻は仕事のためのお飾りで、自分こそはナンバー1だと信じていたとしたら?

 社長に娘が生まれ、娘を溺愛するようになってから、彼女は社長も、小説も失わなければなりません。

 これは喪失の物語でもあります。

 長い道ならぬ恋を、ミステリー調で奏でる豊かな物語で、私は惹きこまれました。
 この作者の作品としては異色ですが、確かな筆力に支えられた豊穣な物語を見ることができます。

 是非、ご一読を。

新月譚 (文春文庫)
貫井 徳郎
文藝春秋

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債務不履行

2015年06月29日 | 社会・政治

 ギリシャ、やばいことになっているようですね。
 債務不履行が迫り、EUは追加融資を拒否。
 ついに銀行は休業に追い込まれました。
 債務不履行が迫っているというより、すでに始まっているかんじです。

 それなのに、いつもノーネクタイのチンピラめいたギリシャの指導者は、ヘラヘラ笑いを浮かべ、EUが求める厳しい引き締め政策を行うかどうかについて国民投票を行うとか。 

 アホですか。

 国民投票とは、これすなわち直接民主主義。
 国民はおのれの利益を求めて投票するに決まっており、天下国家を考えて引き締め政策に多数が賛成するとは思えません。

 要するに衆愚政治に陥る危険が高まるだけです。
 何のために世界の多くの国々が間接民主主義を採っているか分かっているのでしょうか。
 選挙で選ばれた選良たちに、その時々の判断を委ねようという趣旨で、だからこそ時には厳しい判断が下せるはずです。

 もちろん、憲法改正のように、国民投票が義務付けられている案件もありますが、それ以外は、基本的に政治家は国民投票の結果に頼るべきではありません。 

 特に今回の案件は、国民生活に直結する厳しいものであるだけに、EUの融資を受け続けるため、という大義よりも、目先の生活に目が行ってしまう可能性があります。 

 わが国にとっては遠い国の話ですが、G7のうち、英・仏・独・伊の4か国が、直接直面している重大事でもあります。
 今回のサミットでは、日米は中国の脅威を主要議題に取り上げたいようですが、かの4か国にとっては、遠いアジアで起きている脅威より、ギリシャのデフォルトのほうがはるかに大きな関心事でありましょう。 

 それにしてもギリシャ人はなんであんなに暢気に構えているのでしょうね。
 お金持ちのドイツがどうにかしてくれると思っているのでしょうか。
 しかしドイツがお金持ちなのは、それなりに努力したからです。
 ギリシャが努力していないとは言いませんが、端から見ていると、なんとなく、不真面目な態度に感じられます。
 ギリシャは西洋文明発祥の地のはずですが、いつからそんなに不真面目になってしまったのでしょう。

 西洋文明を立ち上げた矜持をもって、この難局にあたってほしいものです。 

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エアコン買い換え

2015年06月29日 | その他

  昨日の日曜日は、せっかくの晴れにも関わらず、エアコンの取り換え工事がちょうどお昼時にあったため、家から出られませんでした。

 寝室のエアコンを換えたのですが、このエアコン、平成9年に購入したものです。

 一人暮らしをしている時で、最初のアパートには備え付けのエアコンがあたのですが、転勤に伴い引っ越した部屋にはエアコンが備えられておらず、やむなく自腹を切ったしだい。

 以来18年、結婚して公務員宿舎に移ったときも、そこがあんまりぼろくてたえられなくなり、マンションを購入した際にも、持ってきました。
 東芝製で、よく18年も頑張ってくれました。
 最近変な匂いがして、フィルターを洗っても改善しないため、買い替えたというわけです。 

   何かと物入りですが、明日はボーナスが支給されるため、思い切って買い換えました。

 リビングのエアコンは最初ダイキンの巨大なやつを買いましたが、10年もたたずに効きが悪くなり、日立のごついやつに換えました。

 自室のエアコン・同居人の部屋のエアコン・客間としている和室のエアコン、すべて日立です。

 日立のエアコンは無骨ですが頑丈そうな感じがしたもので。 

   車を買い換えたり、家電を買い換えたり、色々と金がかかります。

   いずれはマンションのリフォームも考えなければならないでしょうね。

   稼いだ金は消費して回さなければ経済も悪くなるのでしょうから、これもごく小さな社会貢献と言えるかもしれませんね。


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休日には

2015年06月27日 | その他

  雨の土曜日。
  まずは 休日恒例の朝湯です。
  たっぷりと45分、汗を流し、石鹸で入念に体を洗いました。
  一週間の疲れと汚れが、薄皮を剥ぐように取れた気がします。

  風呂から上がって、エアコンをつけて体を冷やしました。

  そして、朝飯。
  白飯と、具がネギだけの味噌汁、おかずは納豆と塩鮭、それに大根と  キュウリの糠漬けです。

  雨ということもあって、午前中は読書です。
  ミステリー作家が紡ぐ、ミステリーならぬ恋愛小説を300頁ほど読みました。
  600頁を越える大作なので、それでもまだ半分ほどです。

  雨が止んで、近所のイタリアンの店でパスタとガーリック・トーストを頂き、ゆっくりと珈琲を飲みながらシガリロをくゆらせました。
  このお店では時折ピアノの生演奏をやっており、今日がその日でした。
  本当はうるさいからあまり好まないのですが、致し方ありません。
  同居人と、昼酒も飲まずに素面で1時間ほどかけてゆったりとした昼食を楽しみました。

  平日は15分ほどで自家製のお弁当を食し、畳の部屋に急いで午睡を取りに走るのですが、休日は優雅なものです。

  食後、そのまま近所を1時間ほど散策し、帰りに魚屋でお店特製のマグロのヅケと真鯛の刺身を購入し、八百屋で糠漬けとモロヘイヤ、それにフルーツトマトを購入しました。

  今宵はこれで一杯やろうという算段です。


  帰宅して、リビングで横になっていたら、2時間ほども昼寝してしまいました。
  全くのんびりしたものです。

  これから本日2度目の入浴をし、明るいうちにベランダでビールを飲んでから、お好みばかりのつまみで日本酒を本格的にやろうと思っています。

  梅雨時の休日としては、まずまずよろしいようです。

  私は本当に小市民ですねぇ。


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「ミノタウロス」あるいは単純な力

2015年06月26日 | 文学

 昨日、佐藤亜紀「ミノタウロス」という小説を読み終わりました。

 ロシア革命期の混乱を背景に、ウクライナ地方で殺人や盗みなど、悪の限りを尽くす少年と二人の仲間の物語です。 

 ミノタウロスとはギリシア神話に登場する、頭が牛、体が人間の怪物ですが、これは残虐と暴力の象徴と捉えるべきで、作品にそういう化け物が登場するわけではありません。 

 ミノタウロスの絵画です。

 主人公はウクライナ地方の田舎地主の次男坊として生まれ、何不自由なく育ちます。
 ドイツ語やフランス語も学び、お坊ちゃんらしく、どこかシニカルではありますが、特別乱暴な少年ではありません。

 しかし、父親が亡くなり、続いて兄も自殺するにおよび、父親代わりとなった男を殺害し、無頼の旅に出ます。 

 時あたかもロシア革命の真っただ中。 

 私はロシア革命というのは、基本的に赤軍と白軍が真っ当に戦ったのだと思っていましたが、この小説に描かれているのは、赤白どちらに属していようと、おのれの利益のためには簡単に寝返る兵士、下手をすると正規軍以上の兵器を持ったヤクザ、ごろつき、一匹狼などが暗躍する混沌とした世界。
 簡単に人を殺し、女を犯し、食糧や武器弾薬を強奪するならず者であふれた世界です。 

 ちょっと、黒澤明監督の往年の名画、「七人の侍」を連想しました。
 あれは、野盗と、農民に雇われた浪人が戦う物語でした。
 そんなことが起きるのも、世が乱れていればこそ。

七人の侍(2枚組)[東宝DVD名作セレクション]
黒澤明,橋本忍,小国英雄
東宝

   乱世が悲惨なのは、殺し合いがあちこちで行われるが故ではなく、秩序の崩壊に伴う倫理感の喪失ゆえかと、思い至りました。 

 ぼくは美しいものを目にしていたのだ。(中略)殺戮が?それも少しはある。それ以上に美しいのは、単純な力が単純に行使されることであり、それが何の制約もなしに行われることだ。 

 主人公の少年は、盗みや殺しを続けていくうちにたどり着いた狂気の果てに、上のような思いを抱くにいたります。 

 誠に怖ろしい考えです。
 しかしおそらく、人は、環境に順応しなければ生きていくことはできず、順応した環境に美を感じずにはいられないのでしょう。
 まして少年は何度も命の危険にさらされながら、その都度、うまく立ち回ってきたのですから、乱世が面白くて仕方なかったのではないでしょうか。 

 以前、同じ佐藤亜紀「戦争の法」という、近未来の日本を舞台にした作品を読んで、非常な感銘を受けたことがあります。
 冷静な筆致で、狂気の世界が描かれているからで、読んでいるうちに、平穏な世界に生きる私たちのほうが、むしろ狂気をはらんでいるのではないかという疑問を感じざるを得ませんでした。 

戦争の法 (文春文庫)
佐藤 亜紀
文藝春秋

 ただ、それ以外の作品を読もうとしなかったのは、ヨーロッパなどの外国が舞台の小説ばかりで、人名や地名がカタカナなのはかったるいと思ったからです。 

 このたび、「ミノタウロス」を読むに際して、やはりカタカナは面倒くさかったですが、それ以上に、冷静と言うより冷酷に、この上なく怖ろしい乱れた世界を描くその力技に、圧倒される思いでした。
 伊達に吉川英治新人文学賞を取ったわけではなさそうです。

ミノタウロス (講談社文庫)
佐藤 亜紀
講談社

   ミステリーやホラーを読むよりもはるかに疲労しました。
 それはひとえに、人間の一面の真実である獣性が、あまりにも明瞭に描かれていたからでありましょう。 

  次はまた、軽いミステリーでも読みましょうか。
  最近お気に入りの貫井徳郎の小説を、もう買ってあるのですよ。

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動物愛護と暴力

2015年06月25日 | 社会・政治

 昨今、動物愛護ということが叫ばれるようになりましたね。

 動物愛護の元祖は、おそらくわが国の犬公方が出した生類憐みの令ではないでしょうか。
 わが国では、天下の悪法のように言われていますが、海外ではけっこう評価されているようです。 

 生類憐みの令と言いますが、実際にはそういう名前の法律もお触れもなく、徳川綱吉がいくつも発した殺生を禁じる令を総称しているようです。 

 また、時代劇などでは犬ばかりを保護したように描かれていますが、もともとは老人や病人、子供などの人間の弱者を保護するように、というのが主眼でした。
   しかも罰則は無かったそうです。
 ところが罰則が無い故に守る者が少なかったため、しだいに罰則を設け、犬猫や家畜のみならず、ハエや蚊を殺しても罰せられるという悪法に変わっていったようです。
 しかし、巷間言われるほど厳しい取り締まりがあったわけではなく、運用は緩かったようです。

 生活保護や厚生行政が発達していない時代においては、これは画期的なもので、特に人々の意識を変えることになったようで、そのことが外国で評価される理由と言えましょう。
 それまでは、行き倒れの病人やけが人をほったらかしにするのが当たり前だったのが、他人と雖も助けるという風潮が生まれたことは喜ばしいことですねぇ。

  それはおそらく、戦国時代には考えられなかったことだろうと推測します。
   百姓ですらわずかな利益を求めて落ち武者狩りをしたり、戦場で倒れている兵隊の武器を奪ったりしたと言いますし、野盗、追いはぎ、ごろつきが半ば公然と闊歩していたことでしょう。
 戦国時代の日本は、それぞれの戦国大名が自国の領土を保護しているだけで、日本全体を統治する政府は存在せず、言わば無政府状態のようなものだったと考えれば、当たり前のことです。

 強い権力が無ければ、秩序は保たれません。 

 それを思うと、中東などの紛争地帯の秩序はどうなっているのか、庶民の日々の暮らしはどうなのか、誠に心もとないかぎりと言わざるを得ません。 

 公権力の支配が及ばない地域では、時と場所を問わず、暴力が跋扈し、人の命は軽く扱われます。 

 その点、わが国には強力な政府のもと、警察、軍隊、税務署、麻薬取締事務所、税関など、権力を行使できる組織が整えられ、犯罪とは縁の無い生活を送っていても、息苦しいような感じさえ覚えます。 

 頼もしいと思う反面、西部劇に登場するガンマンや旧満州の馬賊に憧れるような、男の子らしい心性が、自分の中に眠っていることに気づき、愕然とします。 

 世界でも高く評価される徳川綱吉の人間愛に満ちた精神を称揚し、おのれの中に眠る暴力への志向を封じ込めなければならないと、自戒を込めて痛感します。

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それにつけても金の欲しさよ

2015年06月24日 | その他

 それにつけても金のほしさよ、とはよく言ったものです。 

 お金というのは大体どんな社会にもありますね。
 物々交換では経済が発展しませんから、お金が発明されたわけですが、昔は金貨や銀貨だったものが、いつの間にやら紙切れに代わってしまいました。

 紙切れが欲しくて欲しくて仕方ないのが凡人というもの。
 しかしそれも当然で、紙切れがなければ寝るところにも食べる物にも不自由し、下手をすれば死んでしまうわけですから。 

 そういう私も平日の大半を紙切れを手に入れるために浪費し、時には宝くじなどを購入して一攫千金を夢見る守銭奴です。

 世の中には金で買えない物もある、という言い様をする人がいますが、裏を返せば金で買えない物はほとんど無い、という意味でしょうね。
 うなるほど大金を持つ必要はありませんが、まぁまぁお金の心配をしなくても人並みに暮らせるだけの収入が無ければ、人は幸福にはなれないでしょう。

 貧乏はそれだけで不幸だろうと思います。
 貧乏ながら楽しく生活、なんて言ったって、それは生活できる程度の貧乏であって、食うや食わずの極貧であれば、心は荒むに違いありません。 

 私は心が荒むほどの貧乏はさすがに経験したことがありませんが、かといって人並み外れた裕福な生活というのも経験ありません。
 どこまで行っても人並みか、ちょっとマシと言う程度ですかねぇ。

 で、私はやむなくそれで満足しているわけですが、職場には信じられないようなケチな人がいます。 

 京都に出張した際、夜行バスを使って旅費を浮かせ、浮いた分は懐に入れてしまったり、兼業農家の職員が自宅で採れた果物を格安で職場で販売したり、昼飯代を浮かすために毎日お昼は抜きだったり。
 犯罪的行為か、健康を害する行為と言わざるを得ません。

 終戦直後、闇米を食うことを断固拒否して餓死した裁判官がいたと聞きます。
 職業的倫理観は見上げたものですが、何も命まで賭けなくてもねぇ。
 裁判官ですから、闇米を買う金くらいはあったのでしょうが、倫理観がそれを許さなかったのですね。

 これはケチとかいう次元の問題ではなく、善悪の程度の問題でしょうねぇ。
 厳密に言えば犯罪なのでしょうが、職場の鉛筆を胸ポケットに入れて気付かず帰宅してしまい、そのまま家で使っている、程度のことは見逃されるのが普通でしょう。 

 闇米を食うのもその程度だと思いますが。

 私がケチれないのは、交通費ですねぇ。
 精神障害の後遺症か、狭い場所に長くいるのがどうしても苦手。
 そのため電車はグリーン車、2~3万円くらいで行ける所にはタクシーを使うのを常としています。 

 あと、飯代。
 立ち食い蕎麦とか回転ずしとかマクドナルドとかチェーンの居酒屋とかは、どうしても行く気が起きません。 

 もう少し色々な面でケチることができれば、今頃は小金がたまっていたかもしれませんねぇ。

 それにつけても金の欲しさよ。

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国家の悪

2015年06月24日 | 社会・政治

 戦後に生まれ育った圧倒的多数の現代日本人は、ともすると、大日本帝國と日本国が断絶しているかのような錯覚に陥っているかのごとくです。 

 しかし私は、このブログで何度か指摘しているとおり、戦前も戦後も、あるいは江戸時代も平安時代も、日本人の本質は全く変わっていないと思っています。 

 敗戦ショックからか、明治維新に始まった帝国主義時代の日本を、暗黒の時代のようにとらえる見方が現れ、一時それはそれなりの支持を得ていたようですが、全く馬鹿げた考えだとしか言い様がありません。
  その当時は、植民地を持つ帝国主義国家として自立するか、あるいは植民地支配を甘んじて受けるか、どちらかしかなかったわけで、賢明な国民なら、前者を目指すのが当然です。
 大日本帝國は白人の帝国主義国家群をお手本として軍備を整え、植民地獲得のための戦いを繰り広げました。

 言わば白人帝国主義国家群の優秀な生徒だったわけです。 

 そしてわが国は有色人種の国家として初めてその偉業に成功し、それかあらぬか第一次大戦後の講和会議では、人種差別撤廃の文言を入れることを主張するも、白人国家群の反対にあって断念せざるを得ませんでした。
 大日本帝國のこの正当な主張に対し、少なくとも欧米のマスコミは高く評価したと伝えられます。

  そして太平洋を挟んで反対側の大国、米国と対立することになりました。
 太平洋の利益を求める両国が対立するのは必然だったと言えましょう。

   奇しくも昨日は沖縄戦が終結した日。
 沖縄の守備隊も県民も、よく戦いましたが、日本軍守備隊8万に対し、米軍は50万以上。
 端から勝てるはずがありません。 

 しかしこの戦いで、米軍は本土決戦での米側の戦死者を100万人以上と試算。
 勇猛で鳴る米海兵隊を震え上がらせたと伝えられます。 

 大日本帝國は誠に残念ながら武運つたなく敗れましたが、その奮戦ぶりは世界に轟いたと言って良いでしょう。
 第3帝国が敗れた後は、ただ一国で、世界を相手に3か月も戦ったのですから。 

 大日本帝國の悪は、悪辣ぶりが中途半端だったことでしょう。
 より多く破壊し、より多く殺戮し、悪逆非道の限りを尽くした国が勝利するのですから。
 そして敗れた側が、いつの時代も悪の汚名を着せられるのです。 
 
   敗軍の将だから裁く、と言うのならまだ理解できます。
 しかし悪だから負けた、悪だから裁くというのは、茶番以外の何物でもありません。
 
 それは現代社会でも変わりません。

 米国をはじめとしてロシアや中国など、軍事力の強い国は、今なお自分勝手な理屈を振り回し、正義面して非道を繰り返しているのです。 

 それが猿より毛が3本多いだけのヒトという種の限界なのでしょうか? 

 現代日本人は、大日本帝國臣民として激動の時代を生きた先輩方の、きわめて近い子孫です。
 ごく近いご先祖様を、軍国主義だの野蛮だのと言って非難することは、天に唾するものだと思います。
 先輩方は時代のスタンダードにのっとって行動しただけのことです。
 後世の価値観で過去の行動を批判するのは唇寒いというものです。

 むしろ、今日の日本国を作る礎となった尊い神々であるに違いありません。 

 英霊という言葉は好みませんが、少なくとも、国の将来のために心ならずも戦火に倒れた先輩を貶めるような物言いは、私には我慢なりません。

 私はただ、自然な感情で、祖先を敬い、その子孫たる己を誇ることが当然視されるような雰囲気が、現代日本を覆ってほしいものだと思います。 

 そうでなければ、先輩方は死んでも死にきれないと思うのです。

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人工とびお

2015年06月23日 | その他

 わが国では、七つまでは神のうち、などと言って、子供は一人前の人間ではなく、神に近い存在ととらえられていたようです。
 同時に、老人、わけても男の老人もまた、もはや人ではない、神に近い存在と考えられていました。
 その尊称がであり、能楽などでは特に重要な存在とされています。

 猫も長生きすれば猫又というこの世ならぬ存在になりますし、狐もまたしかり。
 九尾の狐なんていうのも、信じられないくらい長生きし、妖狐の最終形などとも呼ばれます。

 現代においては、年をとっても若々しく活動的な老人が良しとされますが、それは自然の摂理に反するというものです。
 肉体労働などは不可能になり、頭も弱くなってくるのですから。

 尊称ではないながら、例えば90歳を過ぎて元気だった岸信介元首相は、昭和の妖怪と呼ばれました。
 さしずめ中曽根元総理などは、平成の化け物でしょうか。

 年を重ねるということが、その人を人ではない化け物もしく神に近い存在へと変貌させるのだとしたら、長く生きるということは、とてつもない偉業に思えてきます。

 先日、職場の先輩が53歳で急死しました。
 心筋梗塞だったようです。
 先輩はついにに変じることなく、この世を去りました。

 早死にすればそれだけ人生の苦労を背負わなくて良い、とうつ状態の時、私は考えていました。

 今はそうは思いません。
 いかなる困難をも克服し、に変じ、人間であった時には見えなかった景色を眺めてみたいと思っています。
 もしかしたら、単に年を取っただけで、見える景色など何も変わらないのかもしれませんが。

 そして私そっくりの思考パターンを持つ人工知能が生まれるまでも長生きし、死後はその人工知能にブログ更新を任せたいと思っています。
 そうなれば、私はこのブログ上で、私の死を知られることなく、永遠に生き続けることができるでしょう。

 大それた野望かもしれませんが、おそらく時代はその一歩手前まで来ていると思います。
 人工とびおの活躍が今から楽しみです。    

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日本的保守政治家

2015年06月22日 | 社会・政治

 今朝の新聞で、枝野民主党幹事長のインタビュー記事が目に留まりました。
 そこで枝野氏は、自身を日本的保守政治家と規定し、安倍総理はそうではない、と評していました。 

 日本的保守政治家とは聞き慣れない言葉ですが、枝野氏によれば、八百万の神々を崇め、村落共同体を中心に発展してきたわが国では、多様な価値観を認め、互いに尊重し合うという美風があり、その上に立脚した保守政治家、ということのようです。
 そしてそれはヨーロッパでいうところの社会民主主義に近いとか。

 一方安倍総理は、米国流のキリスト教的な価値観で生きており、多分に唯我独尊的で、自分と異なる考えの人々を基本的に認めない政治家だと述べています。 

 労働組合に支えられている政治家にしてはなかなかユニークな物言いだと、感心しました。

 枝野氏本人が日本的価値観に支えられているかどうかはともかく、わが国の人々の精神性をよく言い表しているように思います。

 日本人は唯一絶対の神様なんて馬鹿馬鹿しくて相手にしません。
 まして神様との契約なんて、開いた口がふさがらないくらい、理解不能です。
 ほとんど無数の神様がいて、それは山や岩や巨木に宿るのみならず、狐などの動物、天神様のような怨みを残して亡くなった人物なども神様になります。
 勃起した男性生殖器を模った金精様などのような、ユニークというかあからさまな神様も存在します。 

 余談ですが、あるテレビ番組で、井戸の横に巨大な金精様が建てられているのが紹介され、地元のおじいさんとタレントのやり取りが面白かったですねぇ。 
 
「井戸の神様は女だからよぉ、金精様を建ててんだよ」

「はぁ?」
「金精様が横にあれば涸れねぇだろ、ていうか、溢れるだろ」
「涸れたことあるんですか?」
「ねぇなぁ」 

 神様という同じ言葉を使うのが憚られるような、一神教での神概念と多神教でのそれとの違いを感じます。 

 そう考えると、枝野氏の過去の矛盾も大したことが無いように思います。
「与党がこんなに大変だとは思わなかった、うかつに政治主導なんて言わなければ良かった」とか、先の衆議院解散の前には、「今解散してくれればありがたい」みたいなことを言っておきながら、実際に解散すると、「無責任な解散だ」とかみついてみたり。 

 これは枝野氏にとって、失言とか放言ではなく、日本的正直(あるいは馬鹿正直)さの表れなんでしょうね。
 それは時に人間的魅力に見えるかもしれませんが、政治家は選挙で選ばれた選良で、しかも国民の権利を制限できる権力を握っているわけですから、日本的おおらかさもほどほどにしてもらわないと困ります。 

 ご本人曰く、東京オリンピックは民主党政権で開催したいそうですが、それはいかにも無理筋です。

 国民は3年間の悪夢のような民主党政権時代を忘れてはいませんし、いかに忘れっぽい日本人といえど、まだ5年くらいは鮮明に覚えていると思いますがねぇ。

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ちょっと今から仕事やめてくる

2015年06月21日 | 文学

 昨夜、「ちょっと今から仕事やめてくる」という小説を読みました。
 軽い読み物といった趣で、すらすら読めました。
 電撃小説大賞メディアワークス文庫賞というのを受賞したそうです。

 印刷会社に勤め、営業に精を出す新入社員の苦しみを描いた作品で、なんとなく、身につまされました。

 働く意味を考えつつも日々の激務に追われ、駅のホームから転落しそうになった主人公を助けたヤマモト。
 ヤマモトは主人公の小学生時代の同級生を名乗りますが、主人公にはヤマモトの記憶がありません。
 しかしヤマモトと酒を飲んだり休日を一緒に過ごしたりするうち、少しづつ元気を取りもどしていきます。
 ミステリアスながら底抜けに明るいヤマモト。

 それでも日々の激務や、営業同士の足の引っ張り合い、上司からのきつい叱責にしだいにおいこまれていきます。

 サラリーマンならだれもが一度は通るしんどい道。

 涙なしには読めません。


 月曜日の朝は、死にたくなる。
 火曜日の朝は、何も考えたくない。
 水曜日の朝は、一番しんどい。
 木曜日の朝は、少し楽になる。
 金曜日の朝は、少し嬉しい。
 土曜日の朝は、一番幸せ。
 日曜日の朝は、少し幸せ。でも、明日を思うと一転、憂鬱。
 以下、ループ


 主人公が作った「一週間の歌」という詩です。

 稚拙ですが、気持ちはよく分かります。
 新人ならずとも、20年以上の経験がある私にしてからが、同じような気持ちです。

 尊敬していた先輩が自分の営業の成果を横取りしようと画策していたことを知り、主人公はついに退職を決意します。

 なんだか退職または転職の勧めみたいな感じもしますが、若いうちはどうしても嫌だったら辞めるのも良いでしょう。
 無理に続けて体を壊してしまってはつまらないですから。

 しかし40代半ばまで、辞めたい辞めたいと思いながら続けてしまった私は、今の仕事にしがみつくしかありません。
 もはや転職は不可能だろうし、可能だったとしても、給料は激減するでしょうから。

 若い頃、少しの勇気があれば、また違った人生があったのかもしれませんが、それを嘆いても詮無いことです。

 やがて明らかになるヤマモトの正体。
 主人公はヤマモトに導かれるようにして、新たな道を歩き始めます。

 しんどい題材を、軽い読み物に仕上げた力量はなかなかのものです。

 ただし、本当に自分に合わないとか、ブラック企業だとかでないかぎり、1年は我慢してみたほうが良いでしょうね。
 1年経つとまた見える景色が違ってくるでしょうから。

ちょっと今から仕事やめてくる (メディアワークス文庫)
北川恵海
KADOKAWA/アスキー・メディアワークス

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ちょっと一杯

2015年06月20日 | 仕事

 昨夜は久しぶりに、同僚と3人で一杯やりました。

 昔は週に2回も3回も飲みに行ったものですが、時代が変わったのか、同僚と飲むのは忘年会や送別会くらいになってしまいました。

 薄汚い居酒屋でビールと焼酎を飲み、そのままカラオケへ。

 何が悲しくて中年のおっさん3人でそんなことをと思いましたが、行ったら行ったでそこそこ楽しめましたね。

 今朝はシャワーを浴びて朝飯を食い、近所を散歩しました。
 午後は昼寝をしたり本を読んだり。
 
 せめてお休みの日くらい楽しまなければ損というものです。


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美と恐怖

2015年06月19日 | 文学

 美と恐怖が分かちがたく結びついていることは、美の本質を探ってみれば、自明の理であろうと思います。
 だからこそ、恐怖映画とか怪奇映画は、ロマンチックで美しいものとされてきました。

 近年にいたり、即物的とも言うべき、血がドバドバ出たり、むやみに残虐シーンが多いホラー映画が生まれてから、美と恐怖の間に乖離がうまれたように誤解されるようになったように思います。

 私はそうは思いません。
 下品なホラー映画には、恐怖を感じません。
 しかし上質なホラー映画は、恐怖とともに、うっとりするような映像美を描き出します。
 つまり下品なホラー映画は美しも無ければ怖くも無いので、美と恐怖の融合など望むべくもないということです。


 「シャイニング」しかり。

シャイニング 特別版 コンチネンタル・バージョン [DVD]
ジャック・ニコルソン,シェリー・デュバル,ダニー・ロイド
ワーナー・ホーム・ビデオ


 「リング」しかり。

リング [DVD]
鈴木光司,高橋洋
角川映画


 「箪笥」しかり。

箪笥 [DVD]
イム・スジョン,ムン・グニョン,ヨム・ジョンア,キム・ガプス
アミューズソフトエンタテインメント


 「ノスフェラトゥ」しかり。

ノスフェラトゥ [DVD]
クラウス・キンスキー,イザベル・アジャーニ,ブルーノ・ガンツ
紀伊國屋書店

 どれも怪物や幽霊や、心に傷を負った存在の悲しみを感じさせ、雰囲気のある映像美とあいまって、恐怖を高めます。

 また、文学にしても、幻想文学という分野があり、わが国では古く、「竹取物語」などがあり、くだって、「雨月物語」が書かれ、近代以降は日本浪漫派と呼ばれる人々によって優れた奇妙な物語が生まれました。

竹取物語(全) (角川ソフィア文庫―ビギナーズ・クラシックス)
角川書店
角川書店

 

改訂版 雨月物語―現代語訳付き (角川ソフィア文庫)
鵜月 洋
角川学芸出版

 西洋においては、ラヴクラフトが人類誕生以前の暗黒の神話、「クトゥルー」を作り出し、幻想文学の金字塔になっています。

クトゥルー〈1〉 (暗黒神話大系シリーズ)
大滝 啓裕
青心社

 これは驚愕すべき長大な作品で、はるか古代の、何者ともつかない霊が作者に取りついたとしか思えない作品です。

 理論理屈ではなく、私がこういった美と恐怖が結びついた幻想的作品群に惹かれるのは、おそらく、私の本能が、この世の真実は理論理屈にあるのではなく、嘘八百の物語の中にしか存在しない、ということを激しく感じているからだと思われます。

 物語の中にしか真実が存在しないからこそ、古来、人間は文学研究をことさら重要視してきました。

 最近でこそ文学も哲学も流行らない学問になり、理系全盛ですが、人間の本能が、嘘八百の底の底に存在する真実を求めているに違いないと私は思っています。

 教養教育には優れた文学作品に接するのが最も効果的で、それは物語のなかに人間の本質が端的に表れているからだろうと思います。

 今こそ私たちは、理系偏重の世の中に警鐘を鳴らし、何の役にも立たない物語の復権を、わけても美しくも怖ろしい、美と恐怖が結びついた上質な幻想文学の復権をこそ、称揚せしめるべきでしょう。

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永遠

2015年06月19日 | 文学

 今日は梅雨寒。
 最高気温は20度程度と、ずいぶん涼しく感じられます。

 考えてみると、梅雨を詠んだ俳句というのは、あまり思いつきません。
 俳句というと自然美に人情などをからめて詠む短い定型詩という印象が強いのではないでしょうか。

 しかしあえて、この中途半端な梅雨の時季に、哲学的とも言うべき、永遠を感じさせる句を鑑賞してみたいと思います。

 生きかはり 死にかはりして 打つ田かな    村上鬼城

村上鬼城の世界
松本 旭
角川書店

 この句は極めて分かりやすいながら、どこか不気味な感じが漂って、この俳人の持ち味がよく出ていると思います。
 生きかはり死にかはりという句に、人間の営みの、命のサイクルとでも言うべき永遠性が感じられます。
 じつにスケールの大きな句で、俳句というもののイメージをぶち壊すような破壊力を感じます。

 百年後の 見知らぬ男 わが田打つ 齊藤美規

白壽―齊藤美規句集 (今日の俳句叢書)
斉藤美規
角川書店

 この句も、100年後という遠い未来に思いを馳せて、SF的な趣を醸し出しています。

 100年後、私の職場が存続しているのかどうかさえ分かりませんが、まだ存在していたら、相も変わらずつまらぬ事務仕事をやっているのでしょうねぇ。
 そう思うと、100年後の後輩が気の毒にすら感じられます。

 竹陰の 筍掘りは いつ消えし   飴山 實

飴山実全句集
飴山 実,大岡 信
花神社

 この句はまた、死の影を感じさせて不気味です。
 いつの間にかいなくなった筍掘りは、どこに行ったのでしょうか?
 そもそも、存命なのでしょうか。

 象は死期を悟ると、群を離れ、一人、いずこへともなく消えていくと言います。
 そしてどこか誰も知らない場所に象の墓場があるとか。
 象は誰に教わるでもなく、墓場を知っているのでしょうか。

 私は死期を悟ったなら、永久に凍り付いている極寒の地に消え去り、そのまま凍り付いて、冷たい氷の中で保存され続けたい、という昏い欲求を隠し持っています。 

 これらの句は、永遠を暗示するという、俳句が持つ無限の可能性を秘めているようで、私の胸を打つのです。

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